東アジアの民族運動で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
第一次世界大戦と東アジア
・1915年、日本の
大隈内閣が中国の
袁世凱政権に提出した
二十一カ条要求により、中国の
反日運動が激化した。1917年以降、
白話運動を中心として
文学革命がはじまった。この文化革命は、雑誌『
新青年』を舞台に、
陳独秀・李大釗・胡適・魯迅などの活躍で広まった。啓蒙運動として
新文化運動も起こり、
1912年に
北京大学が創設され、
蔡元培を学長に、陳独秀・李大釗・胡適らが教鞭をとった。魯迅は中華民国初期の文学者で、『
狂人日記』や『
阿Q正伝』を書いた。
・モンゴルでは、
スへ=バートル・チョイバルサンらが
モンゴル人民革命党を組織し、赤軍の援助を受け独立戦争を戦った。
1924年
モンゴル人民共和国が成立し、ソ連に続く世界で2番目の社会主義国となった。
・朝鮮では
朝鮮総督府が置かれ、日本による
韓国併合後、憲兵や軍隊による
武断政治が行われた。力による韓国支配は人々の民族意識を高め、1919年、
三・一運動がおこり、日本からの独立を求めた。三・一運動は軍隊・警察により弾圧されたが、上海で
大韓民国臨時政府が成立し、運動を継承しようとした。日本は朝鮮統治策を武断政治から
文化政治へ変えたが、朝鮮文化を抑圧した。
・日本では、
大正デモクラシーにより自由主義・民主主義が高揚した。1918年には対外的に
シベリア出兵を行ったものの成果がなく、国内では
米騒動や1923年に
関東大震災が発生し、社会が混乱した。1925年に
普通選挙法が改正され、その後
治安維持法が発布された。1927年には金融恐慌が起き
若槻内閣が倒れ、
田中義一内閣が成立した。この内閣の時代、日本は
山東出兵・張作霖爆殺事件・済南事件を起こし、中国人の対日感情が悪化した。
中国における国民党と共産党
・中国では、1919年
五・四運動がおこり、
ヴェルサイユ条約調印に反対し、
反帝国主義・軍閥打倒・反封建主義・排日運動など民主主義革命のはじまりとなった。
・1914年に
孫文が組織した
中華革命党は、1919年の五・四運動影響下で
中国国民党に改称した。同年ロシアが
カラハン宣言を出し、帝政ロシア時代の対中国不平等条約の無償廃棄を決めた。
・
1921年、
陳独秀を初代委員長として上海で
中国共産党が結成された。1924年、
中国国民党1全大会が開かれ、
国共合作を成立させ、「
連ソ・容共・扶助工農」などの方針が固まった。
・
1925年に孫文が死去すると、
五・三〇運動が起こり
反帝国主義運動が全国に拡大した。孫文の後継者となった国民党の
蒋介石は、
広州(広東)国民政府(中華民国国民政府)を成立させ、1926年から
北伐を開始した。北伐は国民革命軍が北方の諸軍閥を打倒し中国統一を目指して行われた戦いであった。
・1927年4月12日には、
上海クーデターが起き、蒋介石は
浙江財閥の支援を受け、多数の共産党員や労働者を殺害した。その後蒋介石は国民党右派を集め
南京国民政府を成立させ、帝国主義列強の支持を受けた。国民党左派の
汪兆銘と共産党は
武漢(国民)政府を成立させたが、その後内部対立がおこったため南京国民政府と合流した。
・
北洋軍閥は
段祺瑞の
安徽派と
馮国璋の
直隷派が対立し、1920年に
安直戦争が起きた。また、東三省に拠点を置く
奉天軍閥(東北軍閥)も強力となった。安直戦争では直隷派が勝利し、その後奉天軍閥との奉直戦争にも一度勝利したが、その後の第2次奉直戦争で奉天軍閥が勝利した。しかし、奉天軍閥は1928年に北伐軍に敗れ、首長
張作霖は、日本軍の
奉天事件(張作霖爆殺事件)により殺害され軍閥は消滅した。張作霖の息子
張学良は、日本に対抗しつつ蒋介石の国民党に忠誠を誓い、
1926年12月末に北伐が完成した。