インド、その他地域の民族運動で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
インドの民族運動
・第一次世界大戦期の1917年、イギリスはインド相
モンターギュを通じて、戦後のインド自治を約束した。しかし、1919年には
ローラット法が発布され、令状なしでインド人の逮捕・裁判抜きの投獄が認められるなど、イギリスによるインド人弾圧がはじまった。こうした中、独立の約束を無視し、ローラット法を発布したイギリスに対し、パンジャーブ地方のアムリットサルで抗議集会が開かれた。この集会に対しイギリス軍が発泡し、1000人以上の死傷者を出した。この
アムリットサル事件と、1921年の
インド統治法が施行され、重要な権限はイギリスが持ち続けることが決定したため、インドの反英運動は激化していった。
・1885年に、イギリスがインド人の不満をそらすために結成させた
国民会議派は、はじめイギリスに協力的だったものの、次第にイギリスと対決姿勢を取るようになり、ヒンドゥー教徒の独立運動の中心となっていった。
・インドの裕福な家庭に生まれ、ロンドンで弁護士となった
マハトマ=ガンディーは、南アフリカの人種差別と対峙したあと、1915年にインドに帰国した。1919年のローラット法・インド統治法の発布以降、ガンディーは国民会議派の指導者となり、反英運動の先頭にたった。
・ガンディーは非暴力・不服従の
サティヤーグラハ(真理の把持)をうったえ、
非暴力抵抗を続けた。1929年、
ラホールで
国民会議派大会が開かれ、
完全独立(プールナ=スワラージ)の宣言、円卓会議のボイコットと不服従運動の突入が決議された。1930年、塩の専売法に反対したガンディーは、アフマダーバードからダンディの海岸までの360kmを80人で塩を作りながら行進した。この
塩の行進は人々に熱狂的に支持され、その後の反英運動を更に高めた。
・インド独立運動は、ガンディー以外にさまざまな識者が活躍した。インドの文学者・思想家の
ダゴールは、アジア人初のノーベル賞を受賞し、インドの思想会に大きな影響を与えた。宗教家・政治家
アンベードカルは反カースト運動に貢献し、独立後のインド憲法早期委員長となった。ケンブリッジ大学を卒業した
ネルーは、国民会議派左派としてガンディーに協力し、その後国民会議派議長として反英運動を指導した。1948年のガンディー暗殺後もリーダーシップを発揮し、インド独立後に初代首相となった。
・独立運動を抑えこもうとしたイギリスは、憲政改革調査委員会を組織したが、委員のすべてが白人で占められていたため、反英運動が再度激化した。また、イギリスは独立運動を抑えるため、
英印円卓会議を三回にわたって開催したが、いずれも失敗した。1935年には、
新インド統治法が制定されたが、インド総督・州知事らの任免権はイギリスが握る完全独立とは程遠い内容であった。一方、1906年にイギリスの指導で結成された
全インド=ムスリム連盟も、第一次世界大戦前後に反英化し、1947年に指導者
ジンナーが
パキスタン自治領の初代総督となった。
東南アジアの民族運動
・ビルマでは、インドからの独立を求め、1935年の新インド統治法により分離した。
サヤ=サンなど民族運動指導者は処刑されたが、1937年の
ビルマ統治法によりインドからの完全分離が決まり、
タキン党が活躍し、そのご指導者
アウン=サンの指導のもと独自の国づくりを行った。
・タイでは立憲革命が起こり、軍人
ピブンが首相となったがその後クーデターで日本に亡命した。1939年
シャムから
タイに国名が改称された。
・インドネシアでは、オランダの支配に対抗し、
サレカット=イスラームや
インドネシア共産党が独立運動を展開した。独立運動を指導したスカルノはインドネシア国民党を組織し、
ムルデカ(愛国)運動を行った。
・ベトナムでは、
ホー=チ=ミンが
ベトナム青年革命同志会を結成し、反仏運動を推進した。ベトナム国民党、インドシナ共産党なども組織され、独立闘争を展開した。
・フィリピンは、
フランクリン=ローズヴェルト在職中の1934年に自治を承認され、その後1946年に独立した。
トルコ・イスラーム諸国の動向
・1919年から、トルコでは軍人
ムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)により
トルコ革命がおこった。第一次世界大戦後の1919年から1922年にかけて、連合国の支援を受けた
ギリシア軍が
イズミル地方に侵入すると、アンカラで
トルコ大国民会議が開かれ、
アンカラ政府が成立した。トルコ領内に入ったギリシア軍に対し、ケマル率いるトルコ国民党が反撃し、これを撃退した。1920年に連合国とオスマン帝国の間で
セーヴル条約が締結され、領土削減、軍備縮小、治外法権を認めさせるなどの内容が課せられ、トルコの愛国運動が活発化した。
・1922年に、ケマルは
スルタン制廃止を宣言し、オスマン帝国のスルタン
メフメト6世がマルタに亡命したため、オスマン帝国が滅亡した。1923年には、
ローザンヌ会議(条約)で屈辱的なセーヴル条約の改定に成功し、イズミル・イスタンブル周辺・東トラキアを回復し、軍備制限や治外法権撤廃など、トルコの独立は維持された。
・1923年、ケマルが初代大統領に就任し、
トルコ共和国が成立した。首都はイスタンブルから
アンカラに移り、トルコ共和国憲法の制定、カリフ制の廃止、女性解放、文字改革など様々な改革が行われ、トルコの近代化・西欧化が進められた。
・エジプトでは、
ワフド党が政権を握り、反英独立運動が進められた。1922年には、イギリスの保護国から離れ、エジプト王国が成立したが、イギリスは防衛権、スエズ運河地帯駐屯権、スーダン領有権を持ち続けた。1929年には、イスラーム国家の建設を目指し、
ムスリム同胞団が結成された。
・1936年、
エジプト=イギリス同盟条約が結ばれ、スーダンとスエズ運河地帯にイギリス軍が駐留する以外に、エジプトの主権が認められた。
・地中海東岸のパレスチナを巡って、アラブ側との
フサイン(フセイン)=マクマホン協定(書簡)、ユダヤ側との
バルフォア宣言、ソ連との
サイクス=ピコ協定など、イギリスの三枚舌外交により
パレスチナ問題が発生した。
・フセイン(フサイン)は大戦後
ヒジャーズ王国を建国したが、その後
イブン=サウード(アブド=アルアジーズ)に敗れヒジャーズ=ネジド王国に併合された。1932年、ヒジャーズ=ネジド王国のイブン=サウードは、首都を
リヤドに定め、
サウジアラビア王国を建国した。
・1918年には
イエメンが、1932年には
イラク王国が、1944年には
シリア共和国、1946年には
ヨルダン王国、1941年(1943年共和国)には
レバノンがそれぞれ独立した。
・イスラーム教内部では
イスマーイール派や
ドルーズ派など様々な宗派が分立した。イラン・イラク・トルコなどの
クルド人は、その後も分断され続けた。
・イランでは
カージャール朝が
レザー=ハーンによって倒され、
パフレヴィー朝が建てられた。1935年、旧名
ペルシアから
イランに改称した。
・アフガニスタンは、1919年独立を宣言し、第3次アフガン戦争の結果、
ラワルピンディー条約でイギリスが独立を承認した。
アフリカの民族主義
・南アフリカでは、人種差別の
アパルトヘイト政策が続き、1912年に
アフリカ民族会議(ANC)が創設され、人種差別撤廃運動を展開した。
・欧米のアフリカ系知識人は
パン=アフリカニズムを唱え、1900年ロンドンで
パン=アフリカ会議が開かれた。また、1920年にはイギリス領ガーナで西アフリカ国民会議が開かれ、その後1957年に黒人アフリカ初の
独立国ガーナが誕生した。