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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)

東方問題 1 ~ロシアの南下政策と列強の動き~

著者名: ピアソラ
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はじめに

東方問題というのは、ヨーロッパとオスマン帝国の領土問題のことですが、これがわかりにくい。

このテキストでは、後の第1次世界大戦にもつながる東方問題を説明します。

ロシアの南下政策

まず、ロシアの南下政策から見て行きましょう。

18世紀以降、帝政ロシアは南下政策をとり続けます。南下政策というのは、文字通り南に向かう政策のことです。

なんで、ロシアは南を目指したのか。

ロシアは広大な領土を持つ国ですが、領土内にある港が全て冬の時期に凍って使えないんです。港が凍ると船で穀物を輸出できないので、一年中凍らない港、つまり、不凍港を求めて、黒海バルト海に進出しようとしたんですね。

そんななか、1821年からギリシア独立戦争が起こります。これはギリシア人がオスマン帝国からの独立を求めて始まった戦争です。

この独立戦争には、イギリス・フランス・ロシアが介入し、ロシアは1828年から単独でオスマン帝国に参戦して、ロシア・トルコ戦争(露土戦争)を起こし、戦後アドリアノープル条約を結びます。この条約でギリシアの自治を承認、黒海沿岸地域(ドナウ河口、カフカース地方内)をロシアへ割譲、モルダヴィア・ワラキア・セルビアの自治を承認、ボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡をロシア船舶が自由に通行することなどをトルコに認めさせます。

1830年にロンドン議定書が締結され、ギリシアは独立を果たします。

これに危機感を覚えたのが、海洋覇権国家イギリスです。
ロシアが南下政策で黒海地域を抑えた場合、イギリスの最重要植民地インドとの経路を遮断される恐れがあると考えたためです。

この時イギリスとロシアの対立が生じます。

エジプト=トルコ戦争(エジプト事件)

1931年には、オスマン帝国のエジプト総督だったムハンマド=アリーが、エジプトの独立を目指してオスマン帝国と戦争を始めます(第一次エジプト=トルコ戦争)。

この時、ロシアはオスマン帝国側につき、フランス・オーストリア・イギリスはエジプト側につきました。

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(第一次エジプト=トルコ戦争)

ロシアは、オスマン帝国に恩を売りたかったんですね。

第一次エジプト=トルコ戦争は、その後クタヒア条約が結ばれ、エジプトはシリアを獲得します。ロシアは協力の見返りにウンキャル=スケレッシ条約締結をオスマン帝国に求めました。

この条約の内容は、ロシアがオスマン帝国を援助する代わりに、ロシア艦隊にダーダネルス海峡およびボスポラス海峡の独占的航海権を与えさせるというものでした。

この条約の内容、特に海峡の独占的航海権がイギリスにとって脅威になったんです。黒海はイギリスとインドを結ぶ重要な地域ですからね。

1839年に第二次エジプト=トルコ戦争が始まると、状況が一変します。
なんとイギリスは、ロシア・オーストリア・プロイセン四国同盟を結び、オスマン帝国側についたんです。

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(第二次エジプト=トルコ戦争)

こうなると、エジプト支援のフランスは孤立化しますよね。

1840年にロンドン会議が開かれ、イギリス主導のもとムハンマド=アリーの世襲のみを認め、エジプトにシリアを放棄させます。

また、翌年にはフランスを含めてボスフォラス・ダーダネルス両海峡を外国軍艦が航行するのを禁止する協定が結ばれます。

こうしてイギリスは、ロシアのウンキャル=スケレッシ条約を破棄させ、ロシアの南下政策を防ぎ、フランスのエジプト進出も抑えるというとんでもない外交をやってのけました。これを当時の外相の名前にちなんで、パーマストン外交の勝利と言います。

パーマストンはホイッグ党の政治家で、アヘン戦争の時の外相でもあります。

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・東方問題 1 ~ロシアの南下政策と列強の動き~

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『世界史B 用語集』 山川出版社
『詳説世界史研究』 山川出版社

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