フランスとの対立
オーストリアとの普墺戦争を、7日間という期間で圧勝したプロイセンは、勢力を拡大していきました。
このプロイセンの動きに不快感を示していたのが、隣国フランスの
ナポレオン3世でした。
ナポレオン3世は、プロイセンの増長を抑えようとし、一方のビスマルクもプロイセンとフランスの戦争が不可避だと考え、軍備の拡張を急ぎました。
このような緊張が続く中、
スペインの王位継承権問題が起こります。
スペインで起こった革命によって、当時の女王
イザベル2世はフランスに亡命し、スペインの王位が空位になってしまったのです。
この継承権は、プロイセンの王族
レオポルトにあったのですが、スペインとプロイセンに挟まれる危険性を感じたフランスのナポレオン3世が猛烈に反対し、白紙に戻りました。
普仏戦争
この時、ナポレオン3世はプロイセンの国王
ヴィルヘルム1世に大使を派遣してこの交渉を行ったのですが、ビスマルクの一計によって、ナポレオン3世がプロイセン王を脅迫したように文章を改ざんした電報が発表され(
エムス電報事件)、このことにプロイセンの世論は対フランス開戦へと傾き、また改ざんの処置にフランス側も反発した結果、1870年に普仏戦争が開始されます。
普仏戦争でも、対デンマークや対オーストリアで数々の実践を経験した軍人が多かったプロイセンは、戦いを有利に進めました。
1970年の9月2日、フランスのナポレオン3世が
セダンの戦いでプロイセン軍の捕虜となり、フランスの第二帝政は崩壊することになります。
(ナポレオン3世:左とビスマルク:右)
その後、プロイセン軍はフランスの首都パリを包囲し、1871年に仮講和条約が結ばれました。