蜻蛉日記
時はいとあはれなるほどなり
時はいとあはれなるほどなり。人はまだ見なるといふべきほどにもあらず、見ゆるごとにたださしぐめるにのみあり。いと心細くかなしきこと、ものに似ず。見る人もいとあはれに、忘るまじきさまにのみ語らふめれど、人のこころはそれにしたがふべきかはと思へば、ただひとへにかなしう心ぼそきことをのみ思う。いまはとてみな出で立つ日になりて、ゆく人もせきあへぬまであり、とまる人、はたまいていふかたなくかなしきに、
「時たがひぬる」
といふまでもえ出でやらず、又、ここなる硯に文(ふみ)をおしまきてうちいれて、又ほろほろとうち泣きて出でぬ。しばしは見む心もなし。見出ではてぬるに、ためらひて、寄りてなにごとぞと見れば、
きみをのみたのむたびなる心には ゆくすゑとほくおもほゆるかな
とぞある。見るべき人見よとなめりとさへ思ふに、いみじうかなしうて、ありつるやうにおきて、とばかりあるほどにものしためり。目も見あはせず思ひいりてあれば
「などか、世のつねのことにこそあれ。いとかうしもあるは、われをたのまぬなめり」
などもあへしらひ、硯なる文を見つけて、
「あはれ」
といひて、門出のところに、
われをのみたのむといへばゆくすゑの まつのちぎりもきてこそはみめ
となん。かくて日のふるままに旅のそらをおもひやる心地、いとあはれなるに、人の心もいとたのもしげには見えずなんありける。