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枕草子 原文全集「心にくきもの」

著者名: 古典愛好家
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心にくきもの

心にくきもの。ものへだてて聞くに、女房とはおぼえぬ手の、しのびやかにをかしげに聞こえたるに、こたへ若やかにして、うちそよめきてまゐるけはひ。もののうしろ、障子などへだてて聞くに、御物まゐるほどにや、箸、匙(かひ)などとりまぜて鳴りたる、をかし。ひさげの柄のたうれふすも、耳こそとまれ。


よう打ちたる衣のうへに、さはがしうはあらで、髪のふりやられたる、長さおしはからる。いみじうしつらひたる所の、大殿油(おほとのあぶら)はまゐらで、炭櫃などにいとおほくおこしたる火の光ばかり照りみちたるに、御帳の紐などのつややかにうち見えたる、いとめでたし。御簾の帽額(もかう)、総角(あげまさ)などにあげたる鉤(こ)の、きはやかなるも、けざやかにみゆ。よく調じたる火桶の、灰の際きよげにておこしたる火に、内にかきたる絵などの見えたる、いとをかし。箸の、いときはやかにつやめきて、すぢかひたてるもいとをかし。
 

夜いたくふけて、御前にも大殿籠(おほとのこも)り、人々みな寝ぬるのち、外のかたに殿上人などのものなどいふ。奥に碁石(じいし)の笥(け)に入るる音あまたたび聞こゆる、いと心にくし。火箸をしのびやかについ立つるも、まだおきたりけりと聞くも、いとをかし。


なほいねぬ人は心にくし。人のふしたるに、物へだてて聞くに、夜中ばかりなど、うちおどろきて聞けば、おきたるななりと聞こえて、いふことは聞こえず、男もしのびやかにうちわらひたるこそ、何事ならむとゆかしけれ。
 

またおはしまし、女房などさぶらふに、上人、内侍のすけなど、はづかしげなる、まゐりたる時、御前近く御物語などあるほどは、大殿油も消ちたるに、長炭櫃の火に、もののあやめもよく見ゆ。殿ばらなどには、心にくきいままゐりの、いと御覧ずる際にはあらぬほど、やや更かしてまうのぼりたるに、うちそよめく衣のおとなひなつかしう、ゐざり出でて御前にさぶらへば、ものなどほのかに仰せられ、子めかしうつつましげに、声のありさま聞こゆべうだにあらぬほどに、いとしづかなり。女房ここかしこにむれゐつつ、物語うちし、おりのぼる衣のおとなひなど、おどろおどろしからねど、さななりと聞こえたる、いと心にくし。
 

内裏の局などに、うちとくまじき人のあれば、こなたの火は消ちたるに、かたはらの光の、ものの上などよりとほりたれば、さすがにもののあやめはほのかに見ゆるに、みじかきき丁ひきよせて、いと昼はさしもむかはぬ人なれば、き丁のかたにそひふして、うちかたぶきたる頭つきの、よさあしさはかくれざめり。直衣、指貫など、き丁にうちかけたり。六位の蔵人の青色もあへなむ、緑衫(ろうそう)はしも、あとのかたにかいわぐみて、暁にも、えさぐりつけで、まどはせこそせめ。夏も冬も、き丁の片つ方にうちかけて人のふしたるを、奥のかたよりやをらのぞいたるもいとをかし。
 

たきものの香、いと心にくし。五月の長雨のころ、上の御局の小戸の簾に、斉信の中将の寄りゐ給へりし香は、まことにをかしうもありしかな。そのものの香ともおぼえず、おほかた雨にもしめりて、艶(えん)なるけしきの、めづらしげなきことなれど、いかでかいはではあらむ。またの日まで、御簾にしみかへりたりしを、わかき人などの世にしらず思へる、ことわりなりや。


ことにきらきらしからぬ男の、たかきみじかき、あまたつれだちたるよりも、すこしのりならしたる車の、いとつややかなるに、牛飼童なりいとつきづきしうて、牛のいたうはやりたるを、童はをくるるやうに綱ひかれて遣る。ほそやかなる男の、裾濃(すそご)だちたる袴、二藍(ふたあゐ)かなにぞ、髪はいかにもいかにも、掻練(かひねり)、山吹など着たるが、沓(くつ)のいとつややかなる、筒のもとちかう走りたるは、なかなか心にくくみゆ。



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・枕草子 原文全集「心にくきもの」

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萩谷朴 1977年「新潮日本古典集成 枕草子 下」 新潮社
松尾聰,永井和子 1989年「完訳 日本の古典 枕草子」小学館
渡辺実 1991年「新日本古典文学大系 枕草子・方丈記」岩波書店

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