おくのほそ道(奥の細道) 冒頭『漂白の思い(漂泊の思ひ)』現代語訳と解説
ここでは、江戸時代に
松尾芭蕉が東北・北陸を旅したときに記した紀行文『
奥の細道』の中の「漂白の思い(漂泊の思ひ)」を現代語訳しています。「旅立ち」や「旅こそ栖」というタイトルで書かれていることもあります。
『奥の細道』は、元禄時代に活躍した俳人松尾芭蕉による紀行文と俳句の集成です。芭蕉は、1689年(元禄2年)に平安時代の歌人西行の五百回忌を迎えた年に、江戸を出発し、奥州や北陸道を旅しました。この旅の様子や感想を詳細に記録したのが『奥の細道』です。
芭蕉は、作品冒頭で「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。」と述べ、旅人としての人間の移り変わりを表現しています。彼は江戸から日光、松島、平泉、象潟など、多くの名所や古跡を訪れました。その風景や出会った人々、自然の美しさに触発され、俳句として独特な感性を込めて数多くの作品を残しました。『奥の細道』は、芭蕉の旅の記録と俳句の融合が素晴らしく表現された文学的な傑作として評価されています。
【原文】
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂白の思ひやまず、
海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをづづり、笠の緒付けかへて、
三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、
杉風が別所に移るに、
草の戸も住み替はる代ぞ雛の家
表八句を庵の柱に掛け置く。
弥生も末の七日、
あけぼのの空瓏々として、月は
有り明けにて光をさまれるものから、不二の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢またいつかはと心細し。
むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗りて送る。千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ胸にふさがりて、
幻のちまたに離別の涙をそそぐ。
行く春や 鳥啼き魚の 目は涙
これを矢立の初めとして行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆる間ではと見送るなるべし。
【現代語訳】
月日は永遠に終わることのない旅人のようなものであって、来ては去り、去っては新しくやってくる年もまた旅人である。船頭として船の上で生涯を過ごす人や、馬引として年をとっていく人にとっては毎日が旅であって旅を住処としているのだ。昔の人も、多くの人が旅をしながら亡くなっている。
私もいつの頃からか、ちぎれ雲が風に誘われて行くように流浪の旅をしたいという気持ちがおさまらずに、最近は海辺をさすらってはいた。去年の秋に川のほとりの古びた家に戻って、(留守にしておいた間にできていた)蜘蛛の巣をはらい腰を落ち着けた。年もだんだんとくれてきて春になったが、霞だちたる空を見ると、「今度は白河の関を超えたい」と、そぞろの神が私の心に取り憑いてそわそわさせ、しかも道祖神が私を招いているような気がした。股引(ももひき)の破れているのを繕って、笠の緒を付け替えて、三里(膝のつぼ)にお灸をしたところ、松島の月はどのようになっているのだろうとまず気になったので、住んでいた家は人に譲って、杉風の別荘にうつると、次のような句を詠んだ。
このわびしい芭蕉庵(江上の破屋)も住人が変わることになって、雛人形が飾られる家になることであろうよ。
この句を芭蕉庵の柱に掛けておいた。
三月二十七日(末の七日)のこと、夜明けの空はぼんやりとかすみ、まだ空に残っている月の光は消えかけているが、富士の峰がかすかに見える。上野や谷中のサクラの梢を次はいつ見られるのだろうかと心細くなる。
親しい人々は宵のうちから集まって船に乗って見送ってくれる。千住というところで船をおりると、「これから三千里の旅が始まるのか」という思いで胸がいっぱいになり、幻のようにはかないこの世の分かれ道での別れに涙を流す。
もう春は過ぎようとしている。その別れを思い鳥は鳴き、魚の目には涙が浮かんでいるように見える。
この句を最初の句として旅を始めたが、足が進まない。私たちを見送ってくれている人たちは、私たちの後姿が見えなくなるまでは見送ってくれていることだろう。
【単語説明】
古人 | ここでいう古人とは、不特定多数ではなく、芭蕉が尊敬していた日本の西行や宗祇、中国の李白や杜甫のことを指します。 |
海浜にさすらへ | 奥の細道の旅に出かける前に行った旅のことを指します。 |
三里 | 膝のツボのことです。ここにお灸をすると、足が丈夫になると考えられています。 |
杉風 | 芭蕉の後援者 |
弥生 | 3月 |
あけぼの | 明け方 |
有明の月 | 夜が明けかけても、空に残っている月 |
むつまじき | 親しい |
幻のちまた | 幻のようにはかないこの世の分かれ道 |