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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

統治二論とは わかりやすい世界史用語2725

著者名: ピアソラ
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統治二論とは
ジョン=ロックが著した『統治二論』は、政治哲学の歴史において一つの大きな転換点を示す著作として位置づけられています。1689年に匿名で出版されたこの書物は二つの論文から構成されており、それぞれが当時の政治的言説に対して鋭い批判と新たな理論的枠組みを提示しました。第一論文は当時広く受け入れられていた王権神授説、特にロバート=フィルマーがその著書『パトリアーカ、あるいは王の自然権』で展開した理論に対する徹底的な論駁に捧げられています。一方、第二論文ではフィルマーの理論を否定した上で、ロック自身の政治社会の起源・正当性・目的についての理論が体系的に展開されます。自然状態・自然法・社会契約・そして抵抗権といった、後世の政治思想に絶大な影響を与えることになる概念が、この第二論文において精緻に論じられているのです。



この著作が生まれた17世紀後半のイングランドは、激しい政治的・宗教的対立の時代でした。チャールズ2世、そしてその弟であるジェームズ2世のカトリックへの傾倒と専制的な統治は、プロテスタントが多数を占める議会との間に深刻な対立を生み出していました。この対立は王位継承問題をめぐって頂点に達し、後の名誉革命へとつながる「王位排除危機」として知られる政治的危機を引き起こします。ロック自身もこの政治的闘争に深く関与しており、彼のパトロンであったシャフツベリ伯爵アントニー=アシュリー=クーパーと共に王権に対する議会の権利を擁護する側に立っていました。『統治二論』は単なる抽象的な哲学の産物ではなく、このような緊迫した政治状況の中で特定の政治的立場を正当化し擁護するために書かれた、極めて実践的な意図を持つ文書であったと考えられます。

しかしその執筆の直接的な動機が特定の歴史的文脈にあったとしても、『統治二論』が提示した原理は時代と場所をはるかに超えて普遍的な射程を持つものでした。ロックが描いた、自由で平等な個人が自らの生命・自由・財産を守るために合意に基づいて政府を設立するという構想は、近代的な立憲主義と代議制民主主義の理論的基礎を築きました。政府の権力は人民の信託に基づくものであり、その信託に反する行為は人民による抵抗、さらには革命さえも正当化しうるというロックの思想は、絶対王政のイデオロギーを根底から覆すまさに革命的なものでした。

この著作の影響はイギリス国内にとどまらず、大西洋を越えて広がっていきました。18世紀のアメリカ植民地ではイギリス本国による課税や統治への不満が高まる中で、ロックの思想が独立の精神的支柱となります。トマス=ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言に見られる「生命、自由、そして幸福の追求」という有名な一節は、ロックが掲げた「生命、自由、財産」という自然権の思想を色濃く反映していることで広く知られています。同様にフランス革命においても、ロックの社会契約論や主権在民の思想は、アンシャン=レジームを打倒し新たな市民社会を構想する上で、ジャン=ジャック=ルソーらの思想と共に重要な知的資源となりました。

このように『統治二論』は、近代西欧の政治思想の形成過程において決定的な役割を果たした著作です。それは個人の権利を国家の権力に優先させ、政府の正当性を人民の同意に求めるという近代自由主義の核心的な理念を明確に打ち立てました。この書物で展開される議論の数々は、その後何世紀にもわたって政治哲学者や思想家、革命家たちによって繰り返し参照・解釈・批判されてきました。それゆえに『統治二論』を深く理解することは、私たちが今日生きる社会の政治的・法的枠組みがどのような思想的基盤の上に成り立っているのかを理解する上で避けては通れない道程であると言えるでしょう。

第一論文
フィルマー批判
ジョン=ロックの『統治二論』における第一論文は、その大部分が同時代の王党派の思想家サー=ロバート=フィルマーの著作『パトリアーカ、あるいは王の自然権』に対する詳細かつ徹底的な批判に費やされています。この論文の目的は、フィルマーが擁護した王権神授説、すなわち王の権力は神から直接与えられたものであり人民はそれに絶対的に服従する義務があるという思想の理論的根拠を根底から覆すことにありました。ロックにとってフィルマーの理論を論破することは、自らが第二論文で展開する新たな政治理論、すなわち人民の同意に基づく政府という理論の土台を築くために不可欠な準備作業だったのです。

フィルマーの理論の核心は、極めてシンプルな類推に基づいています。それは国家における王の権力は家族における父親の権力と同じ性質のものであり、その起源は神が人類の最初の父であるアダムに与えた絶対的な支配権にまで遡るというものです。フィルマーによればアダムは神からその子孫および全世界に対する父権的かつ王的な権力を授けられました。そしてこの権力はアダムからその長子へと代々受け継がれ、現在の王たちはその正統な継承者であると主張されます。したがって臣民が王に服従するのは、子供が父親に服従するのが自然な義務であるのと同様に、神によって定められた自然な秩序であるというのがフィルマーの論理でした。この理論は王の権力を人民の同意や法律といった人間的な取り決めから切り離し、神聖で不可侵なものとして正当化する強力なイデオロギーでした。

ロックはこのフィルマーの議論を、聖書と理性の両面から一つ一つ丹念に解体していきます。まずロックが取り組むのは、フィルマー理論の出発点である「アダムの主権」という概念そのものです。ロックはフィルマーがその根拠とする聖書の記述を詳細に検討し、神がアダムに何らかの政治的な支配権を与えたという証拠は聖書のどこにも見当たらないと主張します。フィルマーが引用する創世記の一節、「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのものを支配せよ」という神の言葉は、アダム個人に与えられたものではなく、アダムとイブすなわち全人類に与えられた自然界に対する共同の支配権を意味するに過ぎないとロックは解釈します。ここにはアダムが他の人間を支配する権利、ましてやその子孫を奴隷とするような絶対的な権力が含まれているとは到底考えられないのです。

さらにロックは、たとえ仮にアダムが何らかの父権的な権力を持っていたとしても、それが政治的な権力と同一視できるというフィルマーの主張に疑問を呈します。父親が子供に対して持つ権力は子供を養育し保護するという目的のための、一時的かつ限定的なものです。子供が成長し自らの理性を働かせることができるようになれば、父親の権力は自然に消滅します。これに対して政治的な権力は、成熟した理性的存在である市民たちの間で、生命・自由・財産を保護するという共通の目的のために合意によって設立されるものです。両者はその起源も目的も性質も全く異なるものであり、家族という小規模な共同体のアナロジーを国家という大規模で複雑な政治社会に安易に適用することは、深刻な誤謬であるとロックは批判します。

次にロックが攻撃の矛先を向けるのは、フィルマー理論のもう一つの柱である権力の継承の問題です。ロックは、たとえアダムが神から絶対的な支配権を与えられたと百歩譲って認めたとしても、その権力がどのようにして現代の王たちにまで受け継がれてきたのかを証明することは不可能であると論じます。フィルマーは権力が長子相続によって受け継がれると主張しますが、聖書の中にはそのような継承のルールを神が定めたという記述は存在しません。むしろ聖書の物語には、ヤコブが兄エサウから長子の権利を買い取ったり、ダビデが末子でありながら王に選ばれたりと、長子相続の原則から外れる例が数多く見られます。

さらに、もしアダムの権力が分割不可能な単一のものであるならば、アダムの死後その権力は一人の相続人にのみ受け継がれなければなりません。しかしノアの時代には彼の三人の息子が世界を分割して支配したとされています。これはアダムの単一の主権が分割されたことを意味し、フィルマーの理論と矛盾します。また何世紀にもわたる歴史の中で王位の継承は、戦争・簒奪・革命・選挙など様々な要因によって行われてきました。アダムからの正統な血統を現代の無数の王たちの中から特定することなど誰にもできはしないのです。ロックは、この継承の系譜を証明できない以上、フィルマーの理論はいかなる統治者にも正当性を与えることができず、むしろあらゆる政府を無効化し無政府状態を招くだけの空虚な理論に過ぎないと結論づけます。

ロックによるフィルマー批判は、単に論理的な矛盾を指摘するだけにとどまりません。彼はフィルマーの理論がもたらす倫理的・政治的な帰結の危険性を鋭く告発します。もし王の権力が絶対的で人民がそれに無抵抗で服従するしかないとすれば、それは人民を王の私有財産、すなわち奴隷の地位に貶めることに他なりません。ロックにとって人間は生まれながらにして自由であり、他人の恣意的な意志に隷属させられるべき存在ではありません。フィルマーの理論は、この人間の基本的な尊厳と自由を否定し、専制と圧政を正当化する奴隷の神学であるとロックは断じます。

このように第一論文は、一見すると特定の時代遅れの理論に対するやや冗長とも思える批判に終始しているように見えるかもしれません。しかしその緻密で執拗な論駁を通して、ロックは政治権力の正当性に関する全く新しい問いの立て方を準備しています。権力の源泉は神話的な過去や血統に求められるべきではなく、理性的で自由な個人たちの間に求められなければならない。政府は支配者の利益のために存在するのではなく、治められる者たちの利益、すなわち彼らの生命・自由・財産の保護のために存在する。この第一論文における破壊作業を通じて、ロックは第二論文で展開される近代的で革命的な政治理論のための整地を完了させたのです。

第二論文
自然状態
『統治二論』の第二論文は、第一論文で王権神授説という古い建物を解体した後、新たな政治社会の基礎を築くための設計図を提示します。その議論の出発点となるのが「自然状態」という概念です。これは政府や法といった人為的な社会制度が存在する以前の、人間が本来置かれている状態を理論的に想定したものです。ロックにとって政治権力の起源と目的を正しく理解するためには、まずこの原初的な状態において人間がどのような権利を持ち、どのような義務を負っているのかを明らかにすることが不可欠でした。

ロックが描く自然状態は、トマス=ホッブズが『リヴァイアサン』で描いたような「万人の万人に対する闘争」という絶え間ない恐怖と暴力に満ちた無秩序な状態ではありません。むしろロックの自然状態は理性によって支配される比較的平和で秩序ある状態として構想されます。この状態を支配する基本的な法は「自然法」と呼ばれます。自然法は神によって定められた人間の理性が発見しうる普遍的な道徳法則であり、すべての人間を等しく拘束します。

自然法の最も根源的な内容は「何人も他人の生命、健康、自由、または財産を害してはならない」というものです。なぜならすべての人間は唯一全能の神によって創造された被造物であり神の所有物だからです。私たちは自分自身を含め他人の生命を恣意的に奪う権利を持っていません。私たちは皆、神の目的のためにこの世に生かされており、神が望む限りにおいて生存するべき存在なのです。この神学的な前提から、ロックはすべての人間が生まれながらにして自由かつ平等であるという彼の政治哲学の核心的な理念を導き出します。

自然状態における「自由」とは、何でも好きなことができるという放縦な自由ではありません。それは自然法の範囲内において他人の意志に束縛されることなく、自己の身体と財産を自らの判断で自由に処分できる権利を意味します。つまりロックの言う自由は法の下の自由であり、理性によって導かれる自由なのです。同様に自然状態における「平等」とは、すべての人間が同じ能力や美徳を持っているという意味ではありません。それは誰もが生まれながらにして他人に従属したり支配されたりすることなく、同等の権利と管轄権を持つという意味での法的な平等を指します。父親が子供に対して持つ一時的な権威や年齢・徳による差異は存在しますが、政治的な支配・被支配の関係は自然状態には存在しないのです。

しかし自然状態が平和な状態であるとはいえ、そこには紛争や権利侵害の可能性が常に存在します。もし誰かが自然法を破り他人の生命や財産を脅かしたとしたら、どうなるのでしょうか。政府や警察が存在しない自然状態において、この問題を解決するのは誰なのでしょうか。ここでロックはもう一つの重要な権利を導入します。それは「自然法の執行権」です。ロックによれば自然状態においてはすべての人が自然法を執行する権利を持っています。つまり、もし誰かが犯罪を犯した場合、被害者だけでなく他の誰もがその犯罪者を処罰し、将来の同様の犯罪を抑止するために必要な措置をとる権利があるのです。

この処罰の権利は二つの部分から成り立っています。一つは犯罪を抑止し公共の安全を守るための「処罰権」であり、これはすべての人が持ちます。もう一つは受けた損害に対する「賠償請求権」であり、これは被害者本人だけが持つ権利です。処罰の程度はその犯罪がもたらした害悪に比例したものでなければならず、冷静な理性と良心によって判断されるべきだとロックは述べます。この自然法の執行権という考え方はロックの自然状態論の独創的な点であり、ホッブズとは対照的に自然状態にも一種の正義と秩序が存在することを示唆しています。

しかしロック自身も、この自然状態の仕組みが抱える大きな欠点を認めています。最大の問題は、すべての人が自分自身の事件の裁判官になってしまうことです。人々は自分や友人が関わる事件では自己愛や偏見、復讐心から公平な判断を下すことができず、処罰が過剰になったり逆に不当に甘くなったりする危険性が常にあります。また自然法の内容は理性によって理解できるとされますが、利害や情念に目がくらんだ人々はそれを正しく解釈できないかもしれません。さらにたとえ正しい判決が下されたとしても、犯罪者が強力な場合それを執行するための十分な力がないかもしれません。

これらの欠陥、すなわち(1)確立され知られ受け入れられた法が存在しないこと、(2)公平で中立な裁判官が存在しないこと、(3)判決を執行する権力が存在しないこと、が自然状態を不便で不安定なものにしています。人々は自然状態が持つ自由と平等を享受している一方で、常に自分の生命や財産が脅かされる不安に晒されています。この「不都合」こそが、人々が自然状態を離れ共通の権威の下に結集して政治社会すなわち国家を形成する動機となるのです。ロックの自然状態論は、このようにして社会契約への移行を論理的に準備する役割を果たしています。

財産権
ジョン=ロックの政治哲学において「財産」という概念は中心的な位置を占めています。第二論文の第五章「財産について」は、彼の著作の中でも特に有名で後世の思想に大きな影響を与えた部分です。ロックにとって財産権は政府が設立される以前の自然状態においてすでに存在する基本的な自然権の一つでした。そして政府の主要な目的とは、まさにこの財産の権利を保護することにあるのです。

ロックの財産論の独創性は、私有財産の起源を神が人類に共同で与えたものの中からどのようにして個人が正当に獲得できるのかを説明しようとした点にあります。聖書の創世記によれば、神は地球とその上にあるすべてのものを人類の共有財産として与えました。では、この共有物の中からどのようにして特定の個人が他の人々の同意なしに、何かを自分のものとして排他的に所有することが可能になるのでしょうか。これがロックが自らに課した問いでした。

この問いに対するロックの答えは「労働」という概念に集約されます。彼はすべての人間が自分自身の「身体」に対する所有権を持っていると主張します。そしてその身体が行う「労働」と、その労働が生み出した「成果」もまたその人自身のものとなるのです。この自己所有権という考え方がロックの財産論の出発点です。

この原理を共有物である土地やその産物に適用すると次のようになります。例えば森に生えているドングリやリンゴはもともとは全人類の共有物です。しかしある人が自分の身体を使ってそれを拾い集めるという労働をそれに加えた瞬間、そのドングリやリンゴは共有の状態から取り出されその人の私有財産となります。なぜなら彼はもともと自然のものであったものに自分自身の所有物である労働を「混ぜ合わせた」からです。この労働の付加こそが共有物の中から私的所有権を生み出す根源的なメカニズムであるとロックは考えました。このプロセスにおいて他の人々の同意を得る必要はありません。もしすべての共有物を取得するのに全人類の同意が必要だとしたら、人々は共有の富のただ中で餓死してしまうでしょう。

しかしこの労働による財産の獲得には重要な制限が課せられています。ロックは二つの「ただし書き」を設けることで無制限の富の蓄積を防ごうとしました。第一の制限は「腐敗の制限」です。個人は自分が消費し腐らせて無駄にしない範囲でしか、自然の恵みを自分のものにすることはできません。神は人類がそれを享受し生活の糧とするために自然を与えたのであり、それを腐らせて台無しにすることは自然法に反する行為なのです。例えば必要以上に多くのプラムを摘み取り、それが腐ってしまった場合、その人は他の人々が利用できたはずの共有財産を侵害したことになります。

第二の制限は「十分性の制限」です。個人が土地や資源を私有化する際には、他の人々のために「十分かつ同等に良質なもの」が残されていなければなりません。ある人が土地を囲い込んで耕作したとしても、他の人々が利用できる土地がまだ十分にあり、誰もそれによって不利益を被らない限りにおいてその所有は正当化される、というものです。ロックは当時のアメリカ大陸などを念頭に、土地はまだ豊富に存在すると考えていたようです。

これらの制限の下では自然状態における財産の不平等はそれほど大きなものにはなりません。人々は自分の家族が消費できる分だけを労働によって獲得し、それ以上のものを蓄積する動機はほとんどありません。しかし、この牧歌的な状況を劇的に変化させるものが登場します。それが「貨幣」の発明です。

金や銀といった貴金属は腐ることがなく、小さくて持ち運びが容易です。人々は暗黙の合意によって、これらの本来はあまり役に立たない金属に価値を認め、腐りやすい生産物との交換手段として用いるようになりました。貨幣の登場は先ほどの「腐敗の制限」を事実上無効化します。人々は自分が消費しきれないほどの余剰生産物を貨幣と交換することで、腐らせることなく富を蓄積できるようになりました。これにより、より多くの土地を耕作しより多くの商品を生産するインセンティブが生まれ、人々の間の貧富の差は飛躍的に拡大していきます。

ロックは、この貨幣の導入とそれに伴う不平等の拡大を人々が自然状態において合意した結果であると見なしており、それを道徳的に非難しているわけではありません。むしろ彼は労働と産業を奨励し土地の生産性を高めることは社会全体の富を増大させる望ましいことだと考えていたようです。耕作された一エーカーの土地は、手つかずのまま放置された広大な土地よりもはるかに多くの生活必需品を人類にもたらすと彼は述べています。

このようにしてロックの理論では私有財産権、そしてそれに基づく経済的な不平等さえもが、政府が存在する以前の自然状態において人々の労働と合意によって正当に成立するものとされます。そして人々が政治社会を結成する最大の動機は、この不安定な状態にある自らの財産(ロックの言う「財産」は土地や金銭だけでなく生命や自由をも含む広い意味で使われることが多い)をより確実に保護するためなのです。政府の役割は財産を創造することではなく、すでに存在する財産権を共通の法と権威によって守ることにある。この思想は後の古典的自由主義やリバタリアニズムの経済思想に計り知れない影響を与えることになりました。

政治社会と政府
自然状態が抱える様々な不都合、特に財産権の不安定さから逃れるため、人々は自発的に集まり一つの政治的な共同体を形成することに合意します。これがロックの理論における「社会契約」の核心です。この契約を通じて、人々は自然状態において各自が持っていた二つの重要な権利を共同体に委ねます。

第一に委ねられるのは、自分自身と他者の生命・自由・財産を守るために自らが適切と判断することを行う権利です。政治社会に参加することで個人はこの権利の行使を社会が制定する法律に委ねることになります。第二に、そしてより重要なこととして委ねられるのは、自然法に対する犯罪を処罰する権利、すなわち「自然法の執行権」です。この個人的な処罰権を完全に放棄し、それを共同体全体すなわち政府に委託することによって初めて政治社会は成立します。共通の法を制定し、その法に基づいて人々の間の紛争を裁き、違反者を処罰するための公的な権威、すなわち裁判官と執行権力を持つ共同体こそがロックの定義する政治社会なのです。

この社会契約はそれに参加する個人の「同意」に基づかなければなりません。ロックは人間は生まれながらにして自由であるため、本人の同意なしにいかなる地上の権力にも服従させられることはないと強調します。この同意には二つの種類があるとされます。一つは「明示的な同意」であり、これは個人がはっきりと口頭または書面で、ある政治社会の成員になることを表明する場合です。もう一つは「暗黙の同意」です。これはある政府の統治する領域内に居住し、その土地や財産を所有したりその国の道路を利用したりするなどして政府が提供する保護や利益を享受している場合に、その人は暗黙のうちにその政府の法律に従うことに同意していると見なされるというものです。ただしこの暗黙の同意による服従の義務は、その人がその土地や財産を放棄してその国を去れば消滅するとロックは考えていたようです。

社会契約によって設立された政治社会において、人々の多数派はその共同体の統治形態を決定する権利を持ちます。彼らは立法権を誰にどのような形で委ねるかを決定することができます。もし立法権を人民自身が定期的に集まって行使するならば、それは完全な民主政となります。もし選ばれた少数の人々とその継承者に委ねるならば、それは寡頭政となります。そしてもし一人の人間に委ねるならば、それは君主政となります。ロック自身は立法権を人民によって選ばれた代表者からなる議会に、そして執行権を君主またはそれに類する機関に委ねる、混合政体、特に立憲君主政を念頭に置いていたと考えられます。

ロックは政府の権力を機能的に分離することの重要性を説きました。彼が区別したのは主に三つの権力です。

第一は「立法権」です。これは共同体の成員の生命・自由・財産を保護するために、どのように国家の力を用いるべきかを指示する権利、すなわち法を制定する権力です。ロックは立法権を国家の「最高権力」と位置づけ、他のすべての権力はこれに従属すると考えました。しかしその権力は絶対的なものではなくいくつかの重要な制限の下に置かれます。第一に立法権は人民の生命と財産に対して絶対的で恣意的な権力を持つことはできません。それは社会契約によって人々が共同体に委ねた権力以上のものを持つことはできず、その目的は公共の福祉の実現に限られます。第二に立法権はその場しのぎの恣意的な命令によって統治するのではなく、公布され確立された恒久的な法律によって統治しなければなりません。これにより法の支配が確保され、支配者の恣意から人民は守られます。第三に最高権力は人民の同意なしにその財産のいかなる部分も奪うことはできません。課税は人民自身またはその代表者の同意に基づいてのみ正当化されます。第四に立法権は法を制定する権力を他のいかなる機関や個人にも譲渡することはできません。それは人民から直接委託されたものだからです。

第二の権力は「執行権」です。法律は一度制定されれば常にその効力を持ち続け、継続的に執行される必要があります。立法府が常に開かれている必要はないのに対し、法を執行する権力は恒常的に存在しなければなりません。この執行権は国内法を共同体の内部で適用する役割を担います。ロックは効率性の観点から、この執行権を立法権とは別の機関、通常は君主が担うのが望ましいと考えました。

第三の権力は「連合権」または「外交権」です。これは戦争・平和・同盟など、他の国家や共同体との関係を処理する権力です。執行権が国内の市民に対する法の執行に関わるのに対し、連合権は共同体全体の対外的な安全保障に関わります。ロックは、この連合権もまた執行権と同じ機関によって担われるのが実際的であると述べています。

これらの権力分立の構想においてロックが最も重視したのは、立法権の優位性とそれが人民の信託に基づくという原則です。政府のすべての権力は究極的には人民が自らの財産を保護するために設立したという目的に由来し、その目的に拘束されます。もし政府、特に立法府や執行府がこの信託に背き人民の財産を保護するのではなく、それを侵害し破壊しようとするならば、政府は自らその正当性を失うことになります。そしてそのような事態に陥ったとき、人民には最後の手段として抵抗しその政府を解体する権利が留保されているのです。

抵抗権
ロックの政治理論において、おそらく最も革命的で影響力の大きかった部分が政府に対する人民の「抵抗権」の理論です。第二論文の最終章で展開されるこの議論は、政府の権力が絶対ではなく人民の信託に基づくものであるという彼の基本原則の論理的な帰結でした。もし政府がその信託を裏切り人民の権利を組織的に侵害する専制的な存在と化したならば、人民はもはやその政府に従う義務はなく、実力をもってそれに抵抗し新たな政府を樹立する権利を持つとロックは主張したのです。

ロックは政府の「解体」について二つの異なるケースを区別します。第一は外部からの侵略による社会の解体です。外国の軍隊によって征服された場合、その共同体はもはや一つの独立した全体として存続できなくなり、政府もまた消滅します。この場合、人々は自然状態に戻り、それぞれが自らの安全を確保するために行動することになります。

より重要でロックが詳細に論じるのは第二のケース、すなわち政府の内部からの解体です。これは社会そのものが解体するのではなく、政府という統治機構がその正当性を失い機能しなくなる状態を指します。ロックによれば、このような政府の解体は主に二つの仕方で起こりえます。

一つ目は「立法府の変更」によるものです。立法府は政治社会の魂であり、共同体を一つにまとめ方向づける核心的な機関です。したがって、この立法府が破壊されたりその構成や機能が根本的に変更されたりした場合、政府は解体されたと見なされます。ロックは、このような立法府の変更を引き起こす具体的な行為としていくつかの例を挙げています。例えば君主(執行権の担い手)が自らの恣意的な意志を法律に代えて強制する場合、あるいは君主が立法府の召集を妨害したりその議事を不当に妨げたりする場合。また君主が人民の同意なしに選挙の方法を変更し、自らに都合の良い人物を議員に送り込むような場合も立法府の変更に当たります。さらに君主または立法府が人民を外国の権力に売り渡すような行為も政府の解体を意味します。これらの行為はすべて人民が信託した本来の立法府を破壊し人民の同意に基づかない新たな権力を不法に樹立する試みであり、一種のクーデターに他なりません。

二つ目の政府解体の原因は、立法府または君主が「その信託に反して行動する」場合です。政府の設立目的は人民の財産(生命、自由、資産)を保護することにありました。したがって、もし立法府や君主がこの目的を忘れ、逆に人民の財産を侵害し奪い取ろうとするならば、彼らは人民に対して戦争状態に入ったことになります。例えば人民の代表者の同意なしに恣意的に課税したり人民を奴隷的な状態に置こうとしたりする試みは、信託に対する明白な違反行為です。

このような状況、すなわち政府が解体され専制状態に陥ったとき人民はどうすべきなのでしょうか。ロックの答えは明確です。権力はそれを委託した人民の手に戻るのです。そして人民は自らの安全と福祉を確保するために、最も適切と考える新しい立法府を設立する権利を持ちます。この権利は単なる消極的な不服従にとどまらず、必要であれば暴力を用いて専制的な支配者を打倒することをも含みます。これが「抵抗権」です。

この抵抗権の理論に対しては当然ながら、それが社会の混乱や内乱、無政府状態を助長するのではないかという批判が予想されます。ロック自身もこの点を意識しており、いくつかの反論を試みています。

第一に彼は、人民は軽々しい理由で革命に訴えるようなことはしないと主張します。一部の不満分子による扇動や統治における些細な過ち程度では、人民は長年の習慣を変えようとはしません。彼らが立ち上がるのは、長く続く一連の権力乱用によって政府の意図が人民の自由を根本から覆そうとするものであることが誰の目にも明らかになったときだけです。

第二にロックは、反乱や内乱の真の原因は抵抗する人民にあるのではなく、信託を裏切って権力を乱用する支配者の方にあると論点を転換します。法と秩序を破壊し平和な状態を戦争状態に変えるのは専制君主の方なのです。人民の抵抗は、この不法な暴力に対する正当な自己防衛に他なりません。真の反逆者とは人民ではなく、憲法と法を破壊する為政者なのです。

第三にロックは、抵抗権の存在を認めることこそが実は反乱を防ぐ最善の方法であるとさえ主張します。もし為政者が自分たちの権力乱用に対して人民が抵抗する権利を持っていることを知っていれば、彼らは人民の権利を侵害することにより慎重になるでしょう。抵抗権の理論は為政者に対する強力な抑止力として機能し、彼らが法と信託の範囲内にとどまることを促すのです。

このようにロックの抵抗権の理論は彼の社会契約論の論理的な頂点をなすものです。それは人民主権の原則を最も力強く表明したものであり、政府の権力に対する究極的なチェック機能を人民の手に留保するものです。この思想がアメリカ独立革命やフランス革命をはじめとする後世の市民革命に理論的な正当化と強力なインスピレーションを与えたことは言うまでもありません。それは政治的な服従が決して無条件のものではなく、政府がその正当性を保つためには常に治められる者たちの権利と自由を尊重しなければならないという、近代立憲主義の根本原則を確立したのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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