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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

王党(宮廷)派とは わかりやすい世界史用語2691

著者名: ピアソラ
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王党(宮廷)派とは

ピューリタン革命、あるいはイングランド内戦として知られる17世紀半ばの激動は、イングランドの歴史における画期的な出来事でした。それは国王と議会の間の権力闘争、宗教的な対立、そして社会構造の変革が複雑に絡み合った、国家の魂をめぐる戦いでした。この壮大なドラマの一方の主役が「王党派」、またの名を「キャヴァリア」です。彼らは国王チャールズ1世を支持し、神授の王権と既存の教会制度を守るために武器を取りました。しかし、王党派を単なる国王への盲目的な支持者の集団として捉えるのは、歴史の複雑さをあまりにも単純化しすぎています。彼らの動機は多様であり、その構成員はイングランド社会の様々な階層から集まっていました。彼らは、議会派が推し進めようとしていた急進的な宗教的・政治的変革に対し、伝統、秩序、そして慣れ親しんだ生活様式を守ろうとした人々でした。



対立の起源

イングランド内戦の火種は、チャールズ1世が即位した1625年よりもずっと以前から燻っていました。それは、テューダー朝からスチュアート朝へと続くイングランドの政治、宗教、社会の構造的変化の中に根差しています。王党派が何を「守ろう」としたのかを理解するためには、彼らが危機に瀕していると感じたその「秩序」が、どのようにして形成され、そして揺らいでいったのかを見ていく必要があります。
王権神授説

1603年、エリザベス1世の死によりテューダー朝が断絶し、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位、スチュアート朝が始まりました。ジェームズ1世は、すでにスコットランドで確立していた「王権神授説」という政治思想をイングランドに持ち込みました。これは、国王の権威は神から直接与えられたものであり、国王は神に対してのみ責任を負い、地上のいかなる権力、すなわち議会や法によっても拘束されない、という考え方です。
この思想は、イングランドの伝統的な政治観とは相容れないものでした。イングランドには中世以来、「国王は法の下にある」というコモン・ローの伝統があり、国王の権力は法と慣習によって制限されると考えられていました。また、特に課税に関しては、議会の同意を得るのが慣例となっていました。ジェームズ1世とその後継者であるチャールズ1世が、この王権神授説を振りかざし、議会を軽視する姿勢を見せたことは、議会、特にその中核をなすジェントリ(郷紳)や商人階級との間に、深刻な緊張関係を生み出しました。彼らにとって、国王の絶対主義的な傾向は、自分たちの財産権と自由に対する脅威と映ったのです。王党派の多くは、この国王の「神聖な特権」を、国家の秩序と安定の礎として擁護する立場を取りました。
宗教問題

政治的な対立と並行して、あるいはそれ以上に深刻だったのが宗教問題です。エリザベス1世は、カトリックとプロテスタントの間の妥協の産物として、監督制(主教制)を維持しつつも、プロテスタント的な教義を持つイングランド国教会を設立しました。しかし、この「中道」的な教会に満足しない人々がいました。それがピューリタンです。
ピューリタンは、イングランド国教会に残るカトリック的な要素、例えば華美な祭服、祭壇、儀式などを「偶像崇拝」として徹底的に排除し、より純粋なカルヴァン主義に基づく教会改革を求めるプロテスタント急進派でした。彼らは、個人の聖書研究と道徳的な生活を重んじ、教会組織としては、主教の権威を否定し、長老による運営(長老制)や、各個教会の独立を主張する会衆制(独立派)などを理想としました。
ジェームズ1世とチャールズ1世は、このピューリタンの動きを、国王が首長である国教会の権威、ひいては王権そのものへの挑戦と見なし、弾圧しました。特にチャールズ1世は、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードを重用し、国教会にアルミニウス主義(人間の自由意志を認め、儀式や秘跡の重要性を強調する神学)に基づいた改革を強行しました。これは、ピューリタンから見れば、カトリックへの回帰に他ならず、彼らの宗教的良心を著しく傷つけるものでした。
この宗教的対立は、議会内の政治対立と完全に連動していました。議会の多くの議員、特に下院議員はピューリタンの思想に共鳴しており、ロードの教会改革を「ポープリー(教皇主義)への陰謀」として激しく非難しました。一方、王党派となる人々の多くは、この国教会の伝統的な祈祷書や儀式、そして主教による階層的な秩序を、信仰と社会の安定に不可欠なものとして擁護しました。彼らにとって、ピューリタンの急進主義は、教会だけでなく、社会全体の秩序を破壊する危険な思想と映ったのです。
個人統治

議会との対立を深めたチャールズ1世は、1629年、ついに議会を解散し、その後11年間にわたって議会を開かない「個人統治」を開始しました。この間、彼は議会の承認を得ずに、様々な手段で資金を調達しようと試みます。その代表例が「船税」の徴収です。もともと沿岸部の都市にのみ、海軍の維持費として課されていたこの税を、チャールズは全国の内陸部にまで拡大しました。これは、議会の同意なき課税を禁じた古来の原則を破るものとして、ジョン・ハムデンをはじめとする多くのジェントリの激しい抵抗に遭いました。
また、ロード大主教は、星室庁裁判所や高等宗務官裁判所といった国王大権に属する裁判所を用いて、ピューリタンのパンフレット作者や説教師を厳しく罰しました。これらの政策は、国王が法と議会を無視して専制政治を行っているという印象を国民に与え、不満を鬱積させていきました。王党派の中にも、国王のこうした強硬な手法に懸念を抱く者はいましたが、彼らはそれでもなお、議会の急進派がもたらすであろう混乱よりは、国王による統治の方がましだと考えていたのです。
二つの戦争と二つの議会

個人統治の破綻の直接的なきっかけは、スコットランドでの宗教政策の失敗でした。1637年、チャールズとロードは、イングランド国教会の祈祷書を、長老制が根付いていたスコットランドに強制しようとしました。これに激しく反発したスコットランド人は「国民盟約」を結んで団結し、武装蜂起しました。これが二度にわたる「主教戦争」(1639年、1640年)です。
軍事費の調達に窮したチャールズは、11年ぶりに議会を召集せざるを得なくなりました(1640年4月、短期議会)。しかし、議員たちは資金提供の前に、まず個人統治時代の不満の解消を要求したため、チャールズはわずか3週間で議会を解散してしまいます。しかし、スコットランド軍がイングランド北部に侵攻し、賠償金の支払いを余儀なくされるに至り、チャールズは再び議会を召集するしかありませんでした。
1640年11月に召集されたこの議会は、その後20年近く断続的に続くことになる「長期議会」です。ジョン・ピムやジョン・ハムデンといった指導者に率いられた議会は、もはや国王に妥協するつもりはありませんでした。彼らは、国王の側近であったストラフォード伯爵とロード大主教を弾劾し、処刑に追い込みました。さらに、船税などの国王による恣意的な課税を違法とし、星室庁裁判所などの大権裁判所を廃止。そして、議会が自らの同意なしに解散されることのないように定める法律を可決させました。これらの改革は、当初、国王の行き過ぎを是正するものとして、多くの穏健派からも支持されていました。しかし、議会の要求は次第にエスカレートしていきます。
決裂

決定的な分裂をもたらしたのが、1641年11月に議会で提出された「大諫議書」です。これは、チャールズ1世の治世における失政を200以上の項目にわたって列挙し、非難するものでした。さらに重要なのは、国王の大臣の任命に議会の承認を必要とすることや、教会の改革を議会が主導することなどを要求した点です。これは、国王の伝統的な大権を根本から覆すものであり、国王の権威を擁護する議員たちにとっては到底受け入れられるものではありませんでした。
大諫議書の採決は、わずか11票差という僅差で可決されました。この採決は、それまで国王の政策に批判的だった穏健派を、国王支持へと向かわせる大きな転換点となりました。エドワード・ハイド(後のクラレンドン伯)やフォークランド子爵といった人々は、議会の要求はもはや改革の域を超え、国家の根幹である君主制そのものを破壊する革命的なものであると見なしました。彼らは、これ以上の譲歩は無秩序を招くだけだと考え、国王の側に立って議会の急進派と対決することを選びました。こうして、後の王党派の中核となる「立憲王党派」が形成されたのです。
対立はもはや修復不可能な段階に達していました。1642年1月、チャールズは、ピムら5人の主要な下院議員を反逆罪で逮捕しようと、自ら兵を率いて議会に乗り込むという前代未聞の行動に出ます。しかし、議員たちは事前に情報を得て逃亡しており、国王の試みは失敗に終わりました。この国王による議会特権の蹂躙は、ロンドン市民を激怒させ、国王は身の危険を感じて首都を脱出。国王と議会は、それぞれが軍隊の編成を開始し、内戦への道が不可避となったのです。1642年8月22日、チャールズ1世がノッティンガムで王旗を掲げた時、イングランドは二つに分かれ、血で血を洗う内戦へと突入しました。
構成

イングランド内戦における王党派は、決して一枚岩の均質な集団ではありませんでした。その旗の下には、様々な動機、社会的背景、そして宗教的信条を持つ人々が集まっていました。彼らを結びつけていたのは、国王チャールズ1世への忠誠という共通の目的でしたが、その忠誠の理由は人それぞれでした。王党派の構成を理解することは、この内戦が単なる国王対議会の政治闘争ではなく、イングランド社会全体を巻き込んだ複雑な対立であったことを示しています。
貴族とジェントリ

王党派の中核をなしていたのは、伝統的なエリート層である貴族と、より裕福な上流ジェントリでした。イングランドの貴族の大部分は、内戦が始まると国王の側に立ちました。彼らにとって、国王は「名誉の源泉」であり、自らの社会的地位と特権の保証者でした。国王の宮廷は、彼らの社会的・政治的活動の中心であり、国王への奉仕を通じて官職や恩恵を得ることが、彼らの生活の一部となっていました。議会派が推し進める急進的な改革は、国王の権威だけでなく、貴族を中心とする既存の社会階層そのものを脅かすものと映りました。ニューカッスル公ウィリアム・キャヴェンディッシュなど、多くの大貴族が私財を投じて国王のために軍隊を組織しました。
同様に、各州の有力なジェントリの多くも王党派に加わりました。彼らは地方社会の名士であり、治安判事や州長官といった役職を通じて、国王の地方統治を支える役割を担っていました。彼らにとって、国王への忠誠は、地域社会の秩序と安定を維持するための責務でもありました。彼らの多くは、議会のピューリタンたちが扇動する民衆の動きに強い警戒感を抱いており、社会の下層階級が政治に口を出すようになれば、財産と秩序が脅かされると考えていました。
立憲王党派

王党派の中には、国王の絶対主義的な統治に必ずしも賛成していたわけではない、穏健な改革派も含まれていました。彼らは「立憲王党派」と呼ばれ、エドワード・ハイドやフォークランド子爵といった人々がその代表です。彼らは、長期議会の初期においては、国王の行き過ぎを是正する改革を支持していました。彼らが目指していたのは、国王と議会がそれぞれの権利と特権を尊重しあう、バランスの取れた「古来の国制」の回復でした。
しかし、議会の要求が次第にエスカレートし、大諫議書で国王の任命権や軍の統帥権までをも議会の管理下に置こうとするに至り、彼らは危機感を募らせます。彼らにとって、これはもはや改革ではなく、君主制の根幹を破壊する革命でした。議会の急進主義がもたらすであろう無秩序と専制を恐れた彼らは、不本意ながらも国王の側に立ち、法と秩序の最後の砦として国王を守ることを選びました。彼らの存在は、王党派の動機が単なる盲目的な忠誠心だけでなく、法と秩序に基づく政治的信念にも根差していたことを示しています。
国教会支持者とカトリック

宗教は、内戦における人々の立場を決定する上で極めて重要な要素でした。王党派の支持者の多くは、イングランド国教会の熱心な信者でした。彼らは、主教制と、共通祈祷書に基づく礼拝を、イングランドの信仰生活の根幹であると考えていました。彼らにとって、ピューリタンによる教会改革の要求は、神聖な儀式を破壊し、教会の美しい伝統を汚す冒涜的な行為でした。彼らは、国王を国教会の「守護者」と見なし、教会を守るために国王と共に戦うことを選びました。
また、イングランド国内で少数派として差別されていたカトリック教徒も、そのほとんどが王党派を支持しました。彼らは、ピューリタンが支配する議会よりも、比較的寛容な国王の統治を好みました。チャールズ1世の妃であるヘンリエッタ・マリアがカトリック教徒であったことも、彼らが国王に親近感を抱く一因でした。カトリック教徒の貴族やジェントリは、国王に多額の資金を提供し、自らも兵を率いて戦いました。しかし、彼らの存在は、王党派にとって両刃の剣でもありました。議会派は、王党派を「ポープリー(教皇主義)の軍隊」と非難するプロパガンダに、この事実を大いに利用したのです。
一般庶民

内戦はエリート層だけの戦いではありませんでした。王党派の軍隊には、貴族やジェントリに従う多くのテナント(借地農)や使用人、そして一般の庶民も兵士として参加していました。彼らの多くは、自らの領主である貴族やジェントリに対する伝統的な忠誠心から、あるいは徴兵によって軍に加わりました。当時の地方社会では、領主とテナントの関係は単なる経済的な契約だけでなく、保護と奉仕に基づく人格的な結びつきでもありました。
また、イングランドの北部や西部、ウェールズといった、経済的に比較的後進的で、ピューリタニズムの影響が少なかった地域は、伝統的な社会構造が根強く残っており、王党派の強力な基盤となりました。これらの地域の人々にとって、国王は遠い存在でありながらも、古くからの正当な支配者であり、ロンドンの議会やピューリタンの商人たちは、自分たちの生活を脅かすよそ者と見なされていました。彼らの王党主義は、しばしば素朴な忠誠心と、変化を嫌う保守的な気風に根差していました。
文化

「キャヴァリア」という言葉は、もともと議会派が王党派を揶揄するために用いた蔑称でした。それは、傲慢で向こう見ずな、大陸風の伊達男といったニュアンスを含んでいました。しかし、王党派は逆にこの呼称を誇りを持って受け入れ、自らのアイデンティティの象徴としました。キャヴァリアのイメージは、議会派の「円頂党員(ラウンドヘッド)」の禁欲的で厳格なイメージとは対照的に、陽気で、洗練され、そして芸術を愛する文化と結びついています。
ライフスタイル

キャヴァリアの典型的な肖像画には、彼らの特徴的なスタイルが描かれています。長くカールした髪を肩まで垂らし、つばの広い帽子にはダチョウの羽飾りをつけていました。服装は、サテンやベルベットといった豪華な生地で作られ、レースの大きな襟や袖口で飾られていました。鮮やかな色彩を好み、優雅な身のこなしを重視するその姿は、国王チャールズ1世自身の洗練された宮廷文化を反映したものでした。
彼らのライフスタイルは、ピューリタンが罪深いと見なした楽しみ、すなわち演劇、詩、音楽、ダンス、そして酒宴などを謳歌するものでした。王党派の兵士たちは、戦いの合間に歌を歌い、酒を酌み交わし、その陽気さと時には無軌道な振る舞いで知られていました。この態度は、人生を神への奉仕と捉え、厳格な道徳律を自らに課したピューリタンとは正反対でした。キャヴァリアにとって、これらの楽しみは、人生を豊かにする人間的な営みであり、ピューリタンの狭量な道徳観に対する文化的な抵抗でもあったのです。
キャヴァリア詩人

このキャヴァリアの精神を最もよく体現しているのが、「キャヴァリア詩人」と呼ばれる一群の詩人たちです。ロバート・ヘリック、リチャード・ラヴレース、サー・ジョン・サックリングといった人々は、いずれも国王の宮廷と深く関わり、内戦では王党派として活動しました。
彼らの詩は、ベン・ジョンソンの影響を受け、古典的な形式美と明晰さを特徴としています。主題は、恋愛の喜び、友情、酒、そして国王への忠誠といった世俗的なものが中心でした。彼らは、ピューリタンが重視した宗教的な内省や魂の救済といったテーマよりも、現世における美や名誉、そして「カルペ・ディエム(その日を摘め)」という刹那的な生き方を賛美しました。
リチャード・ラヴレースの詩の一節は、キャヴァリアの不屈の精神を象徴しています。「石の壁は牢獄を作らず、鉄の格子は籠を作らない」。たとえ肉体は囚われても、精神の自由と名誉は誰にも奪うことはできない、というこの思想は、敗北と苦難の中にある王党派にとって大きな慰めとなりました。彼らの詩は、単なる娯楽ではなく、自らの信念と価値観を表現し、仲間との連帯感を確認するための重要な手段だったのです。
プロパガンダ

内戦は、武器による戦いであると同時に、言葉とイメージによるプロパガンダ戦争でもありました。王党派は、パンフレットや新聞、風刺画などを通じて、自らの正当性を訴え、議会派を非難しました。彼らは、議会派を、社会秩序を破壊し、国王を殺害しようと企む、偽善的で強欲な反逆者の集団として描きました。
特に、チャールズ1世の裁判と処刑(1649年)の後、王党派のプロパガンダは新たな段階に入ります。彼らは、チャールズを、自らの民の罪のために命を捧げた、キリストになぞらえられる「殉教者王」として描き出しました。処刑直後に出版された『エイコーン・バシilikē(国王の肖像)』という本は、チャールズが処刑前に書いたとされる祈りと瞑想録であり、国王を敬虔で思慮深い、悲劇の君主として描写しました。この本はベストセラーとなり、国民の間に深い同情を呼び起こし、チャールズの殉教者としてのイメージを決定づける上で絶大な効果を発揮しました。
この殉教者王のイメージは、王政復古までの空白期間において、王党派の抵抗運動の精神的な支柱となりました。それは、単なる政治的な敗北を、聖なる犠牲の物語へと昇華させ、未来の王政復古への希望をつなぎとめる役割を果たしたのです。
軍事

イングランド内戦は、約9年間にわたり、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドを巻き込んで戦われました。王党派の軍事的な運命は、初期の優勢から、次第に劣勢へと転じ、最終的な敗北に至るまで、劇的な変転を遂げました。その過程は、指導者の能力、戦略、兵站、そして兵士の質といった、様々な要因によって左右されました。
組織と指導者

内戦開始時、両軍ともに常備軍と呼べるものはほとんど存在しませんでした。軍隊は、主に各州の民兵隊と、貴族やジェントリが私的に募集した義勇兵によって構成されていました。
王党派の大きな利点の一つは、経験豊富な指揮官を多く擁していたことでした。その代表格が、国王の甥であるカンバーランド公ルパートです。彼は、騎兵の指揮官として天才的な才能を発揮し、その大胆不敵な突撃は議会派に恐れられました。彼の騎兵隊は、戦場で敵の騎兵を打ち破った後、しばしば統制を失い、敵陣の略奪に走ってしまうという欠点がありましたが、その破壊力は絶大でした。
国王チャールズ1世自身が最高司令官でしたが、彼は優柔不断で、一貫した戦略を欠いていました。王党派の軍事指導部は、しばしばルパートのような若い職業軍人と、ハイドのような文官の顧問との間の対立に悩まされ、意思決定の遅れや混乱を招きました。
初期の戦い

1642年10月、内戦最初の本格的な会戦であるエッジヒルの戦いが起こりました。この戦いは引き分けに終わりましたが、その後、王党派はロンドンへの進軍を試み、失敗に終わります。ロンドン攻略を断念した国王は、大学都市オックスフォードに拠点を置き、ここを戦時首都としました。
1643年は、王党派にとって最も成功した年でした。西部ではサー・ラルフ・ホプトンが、北部ではニューカッスル公が勝利を重ね、夏にはルパートがイングランド第二の港であるブリストルを攻略し、王党派の勢いは頂点に達しました。この時点で、議会派はロンドンと東部、そしていくつかの港湾都市に追い詰められていました。
マーストン・ムーア

王党派の優勢を覆したのが、スコットランドの介入でした。1643年末、議会派はスコットランドと「厳粛な同盟と契約」を結び、軍事援助を取り付けました。1644年7月2日、ヨーク郊外のマーストン・ムーアで、王党派軍と、議会軍=スコットランド連合軍が激突しました。これは内戦中最大の会戦でした。
この戦いで、オリバー・クロムウェルが率いる「鉄騎隊」が決定的な役割を果たしました。クロムウェルの騎兵隊は、規律の取れた見事な反撃で王党派の騎兵を打ち破り、さらに統制を失わずに王党派の歩兵を攻撃しました。挟み撃ちにされた王党派は壊滅し、大敗を喫しました。この敗北により、王党派はイングランド北部全域の支配権を失い、クロムウェルという卓越した軍事指導者が台頭しました。
ニューモデル軍とネイズビー

マーストン・ムーアの勝利にもかかわらず、議会派の戦争指導は依然として停滞していました。この状況を打破するため、クロムウェルらは軍制改革を断行し、1645年、規律の取れた常備軍「ニューモデル軍」を創設しました。サー・トマス・フェアファクスが総司令官に、クロムウェルが騎兵隊司令官に任命されました。
1645年6月14日、ニューモデル軍と王党派の主力軍が、ネイズビーの戦いで激突しました。この戦いは、マーストン・ムーアの再現のようでした。クロムウェルの騎兵が王党派の歩兵を壊滅させ、王党派にとって致命的な敗北となりました。国王の主力歩兵部隊は事実上全滅し、さらに重要なことに、国王がアイルランドのカトリック教徒に軍事援助を求めていた書簡が鹵獲され、公表されると、国王の信頼性は完全に失墜しました。
敗北

ネイズビーの後、王党派の組織的な抵抗は急速に終焉を迎えました。ニューモデル軍は、残存する王党派の拠点を次々と攻略していきました。1646年6月、王党派の首都であったオックスフォードも降伏。チャールズ1世は、変装して脱出し、スコットランド軍に身を投じましたが、身柄をイングランド議会に引き渡されました。第一次イングランド内戦は、王党派の完全な敗北に終わったのです。
その後

第一次内戦の敗北は、王党派にとって軍事的な終焉を意味しましたが、彼らの政治的な活動が終わったわけではありませんでした。国王の存在そのものが、依然として政治的な切り札であり続け、彼らは敗北の中から再起の機会をうかがっていました。しかし、その試みはさらなる悲劇を招き、王党派は長い冬の時代を迎えることになります。
第二次内戦と国王処刑

国王チャールズ1世は、囚われの身となっても、自らの敗北を認めていませんでした。彼は、勝利者である議会派、ニューモデル軍、そしてスコットランドの間の対立を利用し、権力回復を画策しました。1647年末、チャールズはスコットランドと密約を結び、自らを助けるためにイングランドに侵攻する見返りに、イングランドで長老制を試験的に導入することを約束しました。これに呼応して、1648年、ウェールズやケントなどで王党派の反乱が相次ぎ、第二次イングランド内戦が勃発しました。
しかし、これらの反乱は連携を欠いており、クロムウェル率いるニューモデル軍によって迅速に鎮圧されました。二度にわたる内戦を引き起こした国王に対し、ニューモデル軍の怒りは頂点に達しました。彼らは、チャールズを「血にまみれた男」と断じ、神の裁きにかけることを決意します。軍は、議会から国王との和解を望む議員を追放し(プライドのパージ)、残った議員(ランプ議会)に国王を裁くための高等裁判所を設置させました。
1649年1月、チャールズ1世は反逆罪で裁判にかけられました。国王は法廷の権威を認めず、弁護を拒否しましたが、判決はすでに決まっていました。1月30日、チャールズ1世はホワイトホール宮殿の前で、大観衆が見守る中、斬首されました。君主の処刑という前代未聞の出来事は、イングランドだけでなく、ヨーロッパ全土に衝撃を与えました。
亡命と抵抗

国王の処刑後、イングランドは共和政(コモンウェルス)となり、後にクロムウェルの護国卿政へと移行しました。多くの有力な王党派は、財産を没収され、罰金を科せられました。彼らは「悪性腫瘍」と呼ばれ、公職から追放されました。リチャード・ラヴレースのように投獄される者もいれば、ニューカッスル公やエドワード・ハイドのように、大陸へ亡命する者もいました。
亡命した王党派は、処刑された国王の息子である若きチャールズ(後のチャールズ2世)を中心に、フランスやネーデルラントで亡命宮廷を形成しました。彼らは貧困と内部対立に苦しみながらも、イングランドでの王党派のネットワーク(シールド・ノットなど)を通じて、反乱の機会をうかがい続けました。1651年、チャールズ2世はスコットランドの支持を得てイングランドに侵攻しますが、ウスターの戦いでクロムウェルに完敗し、九死に一生を得て再び大陸へ逃亡しました。これが内戦における最後の本格的な戦闘となりました。
王政復古

1658年にオリバー・クロムウェルが死去すると、護国卿政は急速に不安定化しました。彼の息子リチャードには国を統治する能力がなく、軍の指導者たちの間で権力闘争が始まり、イングランドは無政府状態に陥る寸前でした。
この混乱の中、国民の間で、平和と秩序を回復するためには、伝統的な君主制に戻るしかない、という気運が高まっていきました。この好機を捉えたのが、スコットランド駐留軍の司令官であったジョージ・マンク将軍です。彼は、かつて王党派として戦った経験もありましたが、内戦中は議会派として行動していました。マンクは、軍を率いてロンドンに進駐し、プライドのパージで追放された議員を呼び戻して長期議会を再開させました。
そして、亡命中のチャールズ2世と交渉を開始します。1660年4月、チャールズは「ブレダ宣言」を発表し、国王に復帰した暁には、内戦中の行為に対する恩赦、信仰の自由、軍隊への未払い給与の支払い、そして土地所有権の安定を約束しました。この寛大な宣言は、国民に広く受け入れられました。新しく召集された仮議会は、満場一致で国王の帰還を議決。1660年5月29日、チャールズ2世はロンドンに凱旋し、熱狂的な歓迎の中で王位に就きました。11年間の共和政時代は終わりを告げ、王政復古が実現したのです。
王政復古により、生き残っていた王党派は名誉を回復し、その多くが官職や称号を与えられました。エドワード・ハイドはクラレンドン伯となり、大法官として絶大な権力を握りました。国王の処刑に署名した裁判官(レジサイド)は、反逆者として処刑されるか、終身刑となりました。イングランド国教会も主教制と共に復活し、共通祈祷書が再び導入されました。ピューリタン革命によって目指された多くの改革は覆され、イングランドは再び君主制と国教会の秩序の下に戻ったかのように見えました。しかし、内戦の経験は、国王の権力が絶対ではないことを証明し、議会の権利を恒久的に確立しました。王党派は戦いには敗れましたが、彼らが守ろうとした君主制という制度は、形を変えながらも生き残り、後の立憲君主制へと繋がっていくことになるのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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