ロックとは
ジョン=ロックは17世紀のイングランドに生きた哲学者であり、政治思想家です。彼の思想は啓蒙主義の時代を開き、近代的な自己、意識、そして政治的正当性の概念を根底から形作りました。経験論の父として、人間の知識がどのように形成されるかを探求し、政治思想家としては個人の自然権、社会契約、そして権力分立といった理念を提唱しました。その影響は、アメリカ独立宣言やフランス革命をはじめ、世界中の近代民主主義国家の形成に深く及んでいます。彼の生涯はイングランド内戦から名誉革命に至る激動の政治的混乱と密接に絡み合っており、その思想は単なる書斎での思索の産物ではなく、時代の要請に応えようとする実践的な営みの中から生まれてきたものでした。
青年期と教育
ジョン=ロックは1632年8月29日、サマセット州の小さな村リントンで、質素な茅葺き屋根の家で生まれました。彼の両親はピューリタンの傾向を持つ、比較的裕福ではない田舎のジェントリ階級に属していました。父のジョン=ロック(同名)は地方の弁護士であり、治安判事の書記を務める傍ら、小さな土地を管理していました。父はイングランド内戦が勃発すると議会派の騎兵隊長として戦った人物であり、その経験は幼いロックの心に、国王の専制に対する抵抗という考え方を植え付けた可能性があります。母のアグネス=キーンは皮なめし職人の娘で、敬虔な女性であったと伝えられています。ロックは両親から厳格でありながらも愛情深い教育を受け、特に父からは理性を重んじ、権威を鵜呑みにしない姿勢を学んだと言われています。
ウェストミンスター校時代
ロックの人生における最初の大きな転機は15歳の時に訪れます。父のかつての上官であったアレクサンダー=ポパムの推薦により、彼はロンドンにある名門パブリックスクール、ウェストミンスター校への入学を許可されました。この学校は当時の学問の中心であり、多くのエリートを輩出していました。校長は厳格な規律で知られるリチャード=バスビー博士でした。 ウェストミンスターでの教育は徹底した古典中心主義でした。ロックはラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語を学び、アリストテレスをはじめとする古代の哲学者たちの著作を暗記するまで読み込まされました。しかしロックは後に、このスコラ学的な教育法、すなわち権威あるテキストの文言を暗記し形式的な論争に終始するやり方に、強い不満を抱くようになります。彼はこのような教育が真の知識や独立した思考力を育むのではなく、むしろ阻害するものであると感じていました。この経験が、後に彼が『人間知性論』で展開する、生得観念を否定し経験を知識の唯一の源泉とする経験論哲学の萌芽となったことは想像に難くありません。 学校生活はイングランド内戦の動乱と重なっていました。1649年1月、ロックが16歳の時、彼は歴史的な事件を間近で目撃します。国王チャールズ1世がウェストミンスター=ホールのすぐ近くで処刑されたのです。生徒たちは処刑の日に学校に留め置かれ、国王のために祈るよう命じられたと伝えられています。君主が法の名の下に裁かれ処刑されるという前代未聞の出来事は、若きロックの心に、政治権力の正当性や統治者と被治者の関係について深い問いを刻み付けたことでしょう。
オックスフォード大学時代
1652年、ロックは20歳でオックスフォード大学のクライスト=チャーチ学寮に入学します。クライスト=チャーチは大学内で最も権威のある学寮の一つでした。しかしオックスフォードでの学問もまた、ウェストミンスターと同様に中世以来のスコラ学的な伝統に支配されていました。カリキュラムは論理学、形而上学、古典語が中心であり、学生たちはアリストテレスの著作を研究し、形式的な討論の技術を磨くことが求められました。 ロックはここでもまた、旧態依然とした学問に失望します。彼は友人への手紙の中で、大学で教えられている哲学が「不可解な用語で満たされ、無駄で混乱した議論」に過ぎないと不満を漏らしています。彼は公式のカリキュラムにはほとんど興味を示さず、むしろ図書館にこもり、大学ではあまり重視されていなかった新しい学問、特に医学と実験科学の分野に没頭していきました。 この時期、ロックはルネ=デカルトの著作に出会います。デカルトの哲学はスコラ学の権威を退け、理性を出発点として知識体系を再構築しようとするものでした。ロックはデカルトの結論の全てに同意したわけではありませんが、その明晰な文体と、伝統にとらわれずに問題を根本から問い直す姿勢に大きな感銘を受けました。デカルトを読むことで、彼は初めて哲学の面白さに目覚めたと後に語っています。 ロックの知的好奇心をさらに刺激したのは、オックスフォードに集まっていた一群の自然哲学者たちとの交流でした。ジョン=ウィルキンズ、ロバート=ボイル、ロバート=フックといった、後の王立協会の中核をなす科学者たちが非公式な集まり(「オックスフォード実験哲学クラブ」)を開き、実験や観察を通じて自然界を探求していました。ロックはこのグループに積極的に参加し、特に「近代化学の父」と称されるロバート=ボイルと親交を深め、彼の実験を手伝うなどしました。ボイルの原子論的な物質観や、観察と実験を重んじる科学的方法論は、ロックの哲学、特に物質の一次性質と二次性質の区別といった考え方に直接的な影響を与えることになります。 1656年に学士号、1658年に修士号を取得した後も、ロックはオックスフォードに留まり、学寮の特別研究員(シニア=スチューデント)としてギリシャ語や修辞学、道徳哲学を教える職に就きました。彼は聖職者になる道も考えましたが、最終的にはその道を選びませんでした。彼の関心はもはや神学や古典ではなく、医学と自然哲学、そして政治の世界へと向かっていたのです。彼は医学の学位取得を目指して研究を続け、1675年には医学士の学位を取得します。この医学の知識は、後に彼の人生を大きく変える出会いをもたらすことになります。 ロックの青年期は、古いスコラ学的な権威への幻滅と、デカルトの合理主義や新しい実験科学との出会いによって特徴づけられます。それは彼が伝統的な知識のあり方に疑問を抱き、経験と理性を土台として人間と世界を理解し直そうとする、独自の哲学的探求を開始する準備期間であったと言えるでしょう。
シャフツベリ伯との出会い
1666年、ジョン=ロックの人生は一つの偶然の出会いによって劇的に変わります。この年、彼はオックスフォードで、当時のイングランド政界で最も影響力のある人物の一人、アントニー=アシュリー=クーパー卿(後の初代シャフツベリ伯)と知り合いました。この出会いはロックを学究の世界から、激動する政治の渦中へと引き入れることになります。
運命的な出会い
シャフツベリ伯は肝臓の病の治療のためにオックスフォードを訪れていました。彼は薬効があるとされる鉱泉水を飲む予定でしたが、手違いで水が届きませんでした。その仲介役を任されていたのがシャフツベリ伯の知人であったデイヴィッド=トーマス博士であり、ロックはそのトーマス博士の代理として、シャフツベリ伯に事情を説明し謝罪するために派遣されたのです。 ロックの知性と魅力的な人柄は、すぐにシャフツベリ伯を惹きつけました。二人は政治、宗教、科学といった幅広いテーマについて語り合い、意気投合しました。シャフツベリ伯はロックの医学に関する深い知識と、新しい科学に対する鋭い洞察力に特に感銘を受けました。彼はロックにロンドンへ来て、自分の個人秘書兼侍医になるよう説得します。 1667年、ロックはオックスフォードでの安定した地位を離れ、ロンドンのエクセター=ハウスにあるシャフツベリ伯の邸宅に移り住みました。これは彼の人生における大きな決断でした。彼は静かな学者の生活から、イングランド政治の中心で繰り広げられる権力闘争の最前線へと足を踏み入れたのです。
シャフツベリ伯の侍医として
ロックの最初の、そして最も劇的な仕事は、シャフツベリ伯の命を救うことでした。シャフツベリ伯は肝臓の嚢胞による感染症で重篤な状態に陥っていました。当時の医学では、このような症状はほとんど死を意味しました。しかしロックは大胆な決断を下します。彼は数人の著名な医師たちを説得し、当時としては極めて危険な外科手術を行うことを決意したのです。 手術は成功し、シャフツベリ伯は奇跡的に回復しました。この手術の際、ロックは腹部にチューブを埋め込み、嚢胞から定期的に液体を排出させるという当時としては画期的な処置を施しました。シャフツベリ伯は生涯このチューブを身につけていたと言われ、人々は彼を「タップ卿」とあだ名しました。この一件により、ロックはシャフツベリ伯から絶対的な信頼を得ることになります。彼は単なる侍医ではなく、最も信頼できる相談相手、そして腹心の友となったのです。
政治的キャリアの始まり
シャフツベリ伯の庇護の下で、ロックの役割は医学の分野にとどまらず、急速に政治的なものへと拡大していきました。シャフツベリ伯はチャールズ2世の治世下で大法官などの要職を歴任した有力な政治家であり、ホイッグ党の創設者の一人として、議会の権利とプロテスタントの擁護を強く主張していました。 ロックはシャフツベリ伯の政治活動に深く関与するようになります。彼は、植民地貿易を管轄する通商植民地委員会の書記官に任命され、カロライナ植民地の統治に関わりました。彼はシャフツベリ伯らカロライナの領主たちのために「カロライナ基本憲法」の起草を手伝ったと考えられています。この憲法草案には貴族制的な要素が含まれている一方で、信教の自由や代議制といった後のロックの政治思想を彷彿とさせる条項も見られます。 またロックはシャフツベリ伯の経済顧問としても活動しました。彼は通貨の価値、金利、貿易政策などに関する論文を執筆し、重商主義的な政策に影響を与えました。この時期の経験を通じてロックは、統治の理論だけでなくその実践的な側面についても、深い知識と洞察を得ていきました。 シャフツベリ伯の邸宅は当時のイングランドの政治家、思想家、科学者が集まるサロンのような場所でした。ロックはここで多くの重要人物と交流し、政治の裏側で交わされる情報や陰謀に触れる機会を得ました。この経験は彼の政治思想に、現実的な深みと複雑さを与えることになります。
『人間知性論』の着想
シャフツベリ伯の邸宅での知的な交流の中で、ロックの最も重要な哲学的著作である『人間知性論』の着想が生まれました。ロック自身の記述によれば、1671年頃、彼と数人の友人たちが集まり道徳と啓示宗教に関する問題を議論していた時のことでした。しかし議論はすぐに行き詰まり、解決不可能な困難に直面してしまいます。 その時、ロックは、このような問題に取り組む前にまず「我々自身の知性を吟味し、我々の知性がどのような対象を扱うのに適しており、どのような対象を扱うのに適していないのかを調べる」必要がある、という考えに至りました。つまり物事の真理を探求する前に、まず人間の認識能力そのものの範囲と限界を明らかにしなければならないと考えたのです。 この着想が、その後20年近くにわたる思索と執筆を経て1689年に出版される『人間知性論』へと結実します。この著作は、人間の心は生まれた時には何も書かれていない白紙(タブラ=ラサ)のようなものであり、全ての知識は感覚的な経験と、その経験に対する心の反省作用から生まれると主張するものでした。シャフツベリ伯との出会いがなければ、ロックはオックスフォードの一学者として生涯を終え、この近代認識論の金字塔が生まれることはなかったかもしれません。シャフツベリ伯はロックに実践的な活動の場を与えただけでなく、彼の哲学が芽生えるための知的な土壌をも提供したのです。
亡命と革命
1670年代後半から1680年代にかけて、イングランドの政治情勢は再び激動の時代を迎えます。カトリック教徒であるヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の王位継承問題を巡り国論は二分され、内戦の危機さえ囁かれるようになりました。この「王位継承排除法危機」の渦中で、ジョン=ロックのパトロンであったシャフツベリ伯は、反ジェームズ派すなわちホイッグ党の指導者として、激しい政治闘争の先頭に立ちました。そしてロックの運命もまた、この闘争と分かちがたく結びついていくことになります。
王位継承排除法危機
1678年、「ポピッシュ=プロット(教皇派の陰謀)」として知られる、カトリック教徒がチャールズ2世を暗殺しヨーク公ジェームズを王位に就けようとしているという、捏造された陰謀事件が発覚します。この事件はイングランド全土に反カトリックのヒステリーを巻き起こし、シャフツベリ伯率いるホイッグ党はこの機運を利用して、ジェームズを王位継承から排除するための法案を議会に提出しました。 1679年から1681年にかけて、この王位継承排除法案を巡り3つの議会が立て続けに召集されては解散されるという、激しい政治的対立が繰り広げられました。シャフツベリ伯は大衆を動員し巧みなプロパガンダを駆使して、排除法案の可決を目指しました。ロックもまたシャフツベリ伯の腹心として、この政治闘争の背後で活動していたと考えられています。彼の最も有名な政治的著作である『統治二論』の主要部分は、この時期に王権神授説を論駁し、シャフツベリ伯の政治的立場を理論的に正当化するために執筆されたと推測されています。 しかしチャールズ2世はフランスからの資金援助を得て議会から財政的に独立すると、断固として弟의継承権を守り抜きました。彼は1681年にオックスフォードで議会を解散させ、その後は議会を開くことなく統治を行いました。シャフツベリ伯の政治的目論見は失敗に終わり、ホイッグ党は弾圧の対象となります。
オランダへの亡命
議会闘争に敗れたシャフツベリ伯は、武装蜂起による政権転覆を計画しますが、これも失敗に終わります。1682年、彼は反逆罪で告発され、オランダへの亡命を余儀なくされました。そして翌年、アムステルダムで失意のうちに客死します。 パトロンを失い自身も反政府活動への関与を疑われたロックは、イングランドに留まることが危険であると判断しました。政府のスパイが彼を監視し、彼の友人たちが次々と逮捕されていました。特に1683年に発覚した、チャールズ2世とヨーク公ジェームズの暗殺を狙った「ライハウス陰謀事件」に関与したとしてホイッグ党の指導者たちが処刑されるに至り、ロックの身辺にも危険が迫ります。 1683年9月、ロックはイングランドを脱出し、シャフツベリ伯と同じくオランダへと亡命しました。彼はその後5年以上にわたる亡命生活を送ることになります。オランダは当時ヨーロッパで最も宗教的に寛容で、知的に自由な雰囲気を持つ国でした。ロックはここで多くの亡命イングランド人や、ジャン=ルクレールのようなヨーロッパの著名な知識人たちと交流しました。 亡命生活はロックにとって困難な時期であると同時に、彼の思想を深化させ体系化するための貴重な時間となりました。彼は政治の喧騒から離れ、アムステルダムやロッテルダムの静かな書斎で長年温めてきた著作の執筆に集中しました。この時期に『人間知性論』の最終的な推敲が行われ、『寛容に関する書簡』が執筆され、『統治二論』が完成されたと考えられています。特に『寛容に関する書簡』は、オランダの比較的寛容な社会を目の当たりにした経験と、フランスにおけるルイ14世によるプロテスタント(ユグノー)弾圧(1685年のナントの勅令の廃止)というニュースに触発されて書かれたものであり、国家と教会の分離、そして良心の自由を力強く論じています。
名誉革命と帰国
一方イングランドでは、1685年にチャールズ2世が亡くなり、ヨーク公ジェームズがジェームズ2世として即位していました。彼のカトリック優遇政策と専制的な統治は、イングランドのプロテスタントたちの間に広範な不満と恐怖を引き起こしました。 1688年、ジェームズ2世にカトリックの王子が誕生しカトリック王朝の永続が現実味を帯びると、イングランドのホイッグ、トーリー両党の有力者たちはオランダ総督オラニエ公ウィリアムに介入を要請します。ウィリアムはジェームズ2世の娘メアリの夫であり、プロテスタントの擁護者として知られていました。 ウィリアムは軍を率いてイングランドに上陸し、ジェームズ2世は戦わずしてフランスへ亡命しました。この無血革命、すなわち「名誉革命」によって、イングランドの政治体制は根本的に変わることになります。 この報を受けたロックは、ついに故国へ帰る時が来たと判断しました。1689年2月、彼はオラニエ公ウィリアムの妃でありイングランドの次期女王となるメアリ(後のメアリ2世)が乗る船に同乗して、イングランドに帰国しました。5年半にわたる亡命生活の終わりであり、彼の思想が世に出る時代の幕開けでした。 帰国後のロックは、もはや政府から追われる危険な思想家ではなく、新しい体制の理論的支柱として、名誉ある人物として迎えられました。彼は新政府から外交官のポストを提示されますが、健康上の理由からこれを辞退し、比較的閑職である控訴委員の職に就きました。彼の真の関心はもはや政治の実務ではなく、亡命中に完成させた自らの著作を公にすることにあったのです。
晩年と著作の出版
1689年の名誉革命による帰国後、ジョン=ロックはその生涯の最後の15年間を比較的穏やかな環境の中で過ごしました。この時期は彼にとって、長年にわたる思索と執筆の成果を結実させ、公にするための収穫の時でした。亡命中に書き溜められた彼の主著が次々と出版され、その思想はイングランドだけでなくヨーロッパ全土に大きな影響を与え始めます。
主著の出版ラッシュ
帰国後わずか1年の間に、ロックの思想の根幹をなす3つの重要な著作が相次いで世に出ました。 1689年、まず『寛容に関する書簡』がラテン語で、匿名で出版され、すぐに英語にも翻訳されました。この著作は、国家の権限は個人の生命、自由、財産といった市民的利益の保護に限定されるべきであり、魂の救済といった宗教的な事柄に介入すべきではないと主張しました。信仰は内面的な確信の問題であり強制によっては成り立たないと説き、良心の自由と政教分離の原則を力強く擁護しました。これは名誉革命後に制定された「寛容法」の理論的根拠を提供するものとなりました。 続いて同年末、ロックの政治思想の集大成である『統治二論』がやはり匿名で出版されました。この著作の序文でロックは、この本がウィリアム3世の王位を正当化し「国民の同意」に基づいた統治の正統性を確立することを目的としていると述べています。第一論では、当時王党派の理論的支柱であったロバート=フィルマーの『パトリアーカ(家父長論)』を徹底的に論駁し、アダムから代々の国王へと受け継がれる神授の権力という考えを否定しました。第二論ではロック自身の政治理論が展開されます。人間は自然状態において生命、自由、財産に対する不可侵の自然権を持つと主張し、人々がその権利をよりよく保障するために、相互の同意に基づいて社会契約を結び政府を設立すると説きました。そして、もし政府がその契約に違反し国民の権利を侵害する暴政と化した場合には、国民はそれに抵抗し新たな政府を樹立する権利(抵抗権、革命権)を持つと論じました。この思想は名誉革命を正当化するだけでなく、後のアメリカ独立革命やフランス革命の指導者たちに理論的な武器を提供することになります。 そして1690年(ただし奥付は1689年)、ロックの哲学体系の基礎をなす大著『人間知性論』が出版されました。これは彼の名をヨーロッパ中に轟かせることになる著作です。この中でロックは、人間の心には生まれつきの観念(生得観念)は存在せず、心は「白紙(タブラ=ラサ)」のようなものであると主張しました。全ての観念の起源は外部の世界に対する「感覚」と、心自身の働きに対する「反省」という二つの経験にあると説き、複雑な観念がどのようにして単純な観念から組み立てられるかを詳細に分析しました。この徹底した経験論はデカルト的な大陸合理論と対峙し、イギリス経験論の伝統を確立する画期的なものでした。
オーツでの穏やかな日々
ロンドンの空気は長年の喘息に悩まされていたロックの健康には合いませんでした。彼は、友人であったフランシス=マシャム卿とその妻デイマリス=マシャム(著名な哲学者ラルフ=カドワースの娘)の招きを受け、1691年からエセックス州にある彼らのカントリーハウス、オーツで暮らすようになります。 オーツでの生活はロックにとって安息の場所となりました。彼はマシャム夫妻の温かいもてなしと知的な刺激に満ちた家庭環境の中で、心穏やかな日々を送りました。特に、自身も優れた哲学的素養を持つデイマリス夫人とは深い知的な友情で結ばれました。ロックはオーツの書斎で読書や執筆に没頭する一方、デイマリス夫人の子供たちの教育にも関わりました。 この穏やかな環境の中から、さらにいくつかの重要な著作が生まれます。1693年に出版された『教育に関する考察』は、友人のエドワード=クラークに宛てた手紙を元にしたもので、紳士の子弟をいかに育てるべきかを論じています。ロックは詰め込み式の知識教育よりも、健全な身体、徳高い人格、そして実践的な知恵を育むことの重要性を強調しました。彼の教育論はルソーをはじめとする後の教育思想家たちに大きな影響を与えました。 1695年には『キリスト教の合理性』を出版します。この著作でロックは聖書の教えを理性的に解釈しようと試み、キリスト教の核心は、イエスがメシアであると信じ聖書に示された道徳律に従って生きることにあると主張しました。この理神論的なアプローチは一部の正統派神学者から激しい批判を浴び、長い論争を引き起こすることになりました。 晩年のロックは高名な哲学者として、アイザック=ニュートンやジョン=ドライデンといった当代一流の知識人たちとも親しく交流しました。彼はまた、1696年から1700年まで新設された通商植民地委員会の委員として再び政府の仕事にも関わり、通貨問題などに関して重要な役割を果たしました。 しかし彼の健康は次第に衰えていきました。1704年10月28日、ロックはデイマリス夫人が詩篇を読み聞かせる中、オーツの安楽椅子に座ったまま静かに息を引き取りました。72年の生涯でした。彼の墓はオーツの近くのハイ・レイヴァー教会の墓地にあり、彼自身が起草したラテン語の墓碑銘には彼の謙虚な人柄が偲ばれます。「立ち止まれ、旅人よ。ここにはジョン=ロックが眠る。彼がどのような人物であったかを知りたければ、彼が自らの著作の中にそれを記していると答えよう…」 ロックの晩年は、彼の思想が結実し世界へと広まっていく時代でした。彼の著作は人間の知性、政治、宗教、教育といった幅広い分野にわたって近代的な思考の枠組みを提示し、啓蒙の時代の扉を開いたのです。
思想の核心
ジョン=ロックの思想は多岐にわたりますが、その根底には人間の理性を信頼し個人の自由と権利を尊重するという一貫した精神が流れています。彼の哲学は認識論、政治思想、宗教思想、教育思想という、相互に関連しあういくつかの主要な領域から成り立っています。
認識論=経験論とタブラ=ラサ
ロック哲学の出発点であり、その最も独創的な貢献は『人間知性論』で展開された認識論にあります。彼は当時の哲学界で広く受け入れられていた「生得観念」の説を根本から否定することから始めました。生得観念説とは神の観念や道徳原理といった特定の観念や知識が、生まれつき人間の心に備わっているとする考え方です。 ロックは、もし生得観念が存在するならば、それは子供や未開人を含め全ての人間に共通して見出されるはずだと論じます。しかし現実にはそのような普遍的な同意は存在しないと指摘し、生得観念説を退けました。そしてそれに代わるものとして、有名な「タブラ=ラサ(白紙)」の比喩を提示します。すなわち人間の心は生まれた時には何も書かれていない白い紙のようなものであり、そこに文字が書き込まれていくのは全て経験を通じてであると主張したのです。 ロックによれば、全ての観念の源泉は「経験」にあります。そして経験には二つの種類があります。一つは五感を通じて外部の物理的世界から得られる「感覚」です。色、音、硬さといった観念はこの感覚を通じて心にもたらされます。もう一つは心自身の働き、すなわち知覚、思考、疑い、信念といった精神活動を対象とする「反省」です。 これらの感覚と反省から得られる、それ以上分解できない基本的な観念を、ロックは「単純観念」と呼びました。そして心は、これらの単純観念を素材として結合、比較、抽象といった能動的な働きによって、より複雑な観念すなわち「複合観念」を形成すると考えました。例えば「リンゴ」という複合観念は「赤い」「丸い」「甘い」といった単純観念の組み合わせから成り立っています。 さらにロックは物質が持つ性質を「一次性質」と「二次性質」に区別しました。一次性質とは物体の側に客観的に実在する性質であり、固性、延長、形状、運動、数などがこれにあたります。これらは我々が知覚しようとしまいと、物体そのものに備わっている性質です。一方、二次性質とは色、音、味、匂いといった性質であり、これらは物体そのものに実在するのではなく、物体の一次性質が我々の感覚器官に作用することによって心の中に引き起こされる観念に過ぎない、とロックは考えました。この区別は近代科学の勃興期において、世界の客観的な姿と我々の主観的な経験とを区別するための重要な哲学的基礎を提供しました。 ロックの経験論は知識の源泉を人間の経験に限定することで、形而上学的な独断論や根拠のない権威主義に厳しい批判の目を向けました。知識とは我々の観念が互いに一致するか、あるいは実在と一致するかを理性によって知覚することであると定義し、人間の知識の確実性の範囲と限界を明らかにしようと努めたのです。この思想はバークリー、ヒュームといった後のイギリス経験論者たちに受け継がれると共にカントの批判哲学にも大きな影響を与え、近代認識論の発展における画期的な一歩となりました。
政治思想=自然権と社会契約
ロックの政治思想は『統治二論』、特にその第二論において体系的に展開されています。彼の理論の出発点は「自然状態」という概念です。これは政府が存在しない、人間が本来置かれている状態を想定する思考実験です。トマス=ホッブズが自然状態を「万人の万人に対する闘争」という悲惨な状態として描いたのに対し、ロックの自然状態はそれなりに平和で、人々が理性に従って生きる状態として描かれます。 ロックによれば、自然状態は神が定めた「自然法」によって支配されています。自然法は全ての人間が理性によって認識できる道徳法則であり、その核心は「何人も、他人の生命、健康、自由、または財産を侵害してはならない」というものです。なぜなら全ての人間は神によって創造された平等で独立した存在であり、互いに他者を支配する権利を持たないからです。 この自然法から、人間が生まれながらにして持つ譲り渡すことのできない権利、すなわち「自然権」が導き出されます。ロックはこれを「生命、自由、そして財産」の権利として要約しました。特に「財産権」の理論はロックの独創的な貢献です。彼は、神は土地を人類に共有の財産として与えたが、人間が自らの「労働」をそれに加えることによって私有財産が正当に発生すると論じました。例えば、共有の土地からリンゴを摘み取るという労働が、そのリンゴを摘み取った人の所有物にするというわけです。この労働価値説は後の古典派経済学にも影響を与えました。 しかし自然状態にはいくつかの不都合な点があります。第一に自然法の内容を解釈し争いを裁くための、公平で確立された法が存在しません。第二にその法に基づいて紛争を裁定する中立的な裁判官がいません。第三に正しい判決を執行するための公的な権力が存在しません。自然状態では誰もが自然法の執行者であるため、自己の事件の裁判官となり復讐が際限なく続く恐れがあります。 このような不都合を避けるため、人々は自らの自然権(特に違反者を処罰する権利)の一部を共同体に委ね、相互の「同意」に基づいて政治社会すなわち国家を設立します。これが「社会契約」です。政府の目的は契約を結んだ人々の生命、自由、財産といった自然権をより確実に保護すること以外にはありません。政府の権力は国民からの信託に基づくものであり、その目的によって厳しく制限されます。 そしてロックは政府の権力を立法権、執行権、そして外交権(連合権)に分け、権力が単一の機関に集中することを防ぐべきだと主張しました。立法権は社会の公的な力がいかに用いられるべきかを指示する最高の権力であり、議会に属します。執行権は制定された法を恒常的に執行する権力であり、国王に属します。この「権力分立」の思想はモンテスキューに受け継がれ、近代憲法の基本原則となりました。 ロックの政治思想の最も革命的な側面は「抵抗権」の理論です。もし政府が国民から信託された目的を逸脱し国民の財産を侵害し、彼らを奴隷にしようとする暴政と化したならば、その政府は国民との契約を破ったことになります。その場合、国民はその政府に対する服従の義務から解放され、暴力を用いてでもそれに抵抗し新たな政府を樹立する権利を持つ、とロックは断言しました。この理論は1688年の名誉革命を雄弁に正当化し、後のアメリカ独立宣言における「生命、自由、そして幸福の追求」という有名な一節に直接的な霊感を与えたのです。