ジェームズ1世とは
ジェームズという人物の生涯は、二つの異なる王冠を一つの頭に戴いた、類いまれな君主の物語です。彼はまず、スコットランド王ジェームズ6世として、陰謀と裏切りが渦巻く激動の貴族社会の中で育ち、その国を巧みに統治しました。そして後年、イングランド王ジェームズ1世として、全く異なる政治文化を持つ国の舵取りを担うことになります。彼の治世は、ステュアート朝の幕開けを告げ、イングランドとスコットランドが同じ君主を戴く「同君連合」という新たな時代を切り開きました。
彼の人生は、その誕生の瞬間から波乱に満ちていました。スコットランド女王メアリーとダーンリー卿ヘンリー=ステュアートの間に生まれた彼は、生後わずか1歳で父を謎の死で失い、母が王位を追われるという混乱の中で、スコットランド王として即位させられます。幼少期は、力ある貴族たちが摂政の座を巡って争う、絶え間ない権力闘争の渦中にありました。彼は、書物と学者に囲まれた厳格なプロテスタント教育を受けながら、現実の政治の非情さを肌で学んでいきます。
青年期に達したジェームズは、自らの手で統治権を確立し、派閥に分かれて争う貴族たちを巧みに手なずけ、スコットランド教会を王権のコントロール下に置くことに成功します。彼は単なる統治者ではなく、博識な学者でもありました。王権神授説を説く政治論文や、魔術を非難する著作、さらには詩作に至るまで、多岐にわたる執筆活動を行い、「キリスト教世界で最も賢い愚か者」という、後世の矛盾に満ちた評価の源泉を自ら作り出しました。
1603年、子供のいなかったイングランド女王エリザベス1世が亡くなると、血縁の上で最も近い相続人であったジェームズは、長年の夢であったイングランド王位を継承します。40年近く統治したスコットランドとは全く異なる、より豊かで、より複雑な議会制度を持つイングランドの統治は、彼にとって新たな挑戦でした。彼は、二つの王国を「グレートブリテン」という一つの統一国家へと統合する壮大なビジョンを抱いていましたが、その理想は、根深い相互不信と文化の違いの前に、容易には実現しませんでした。
イングランドでの彼の治世は、宗教的な緊張、議会との財政を巡る対立、そしてヨーロッパ全土を巻き込んだ三十年戦争への対応といった、数々の難問に彩られています。彼は、カトリック教徒による火薬陰謀事件という国家転覆の危機を乗り越え、欽定訳聖書の編纂という文化的な偉業を成し遂げました。一方で、寵臣への過度な依存や、議会を軽視するかのような言動は、後のチャールズ1世の治世に深刻な対立の火種を残すことにもなります。
スコットランド王ジェームズ6世
ジェームズがイングランド王ジェームズ1世となる以前、彼の人生の大部分は、スコットランド王ジェームズ6世として過ごされました。彼の性格、政治思想、そして統治スタイルは、このスコットランド時代に経験した、極めて困難で危険に満ちた環境の中で形成されたと言っても過言ではありません。生後わずかで王位に就き、有力貴族たちの権力闘争の駒として扱われた幼少期から、自らの手で王権を確立していく青年期まで、彼のスコットランドでの治世は、後のイングランド統治を理解する上で不可欠な前史となります。
悲劇的な出自と幼年期
ジェームズは1566年6月19日、エディンバラ城で、スコットランド女王メアリーと、その二番目の夫であるダーンリー卿ヘンリー=ステュアートの間に生まれました。彼の誕生は、ステュアート家の血筋を確かなものにする待望の出来事でしたが、その家庭環境はすでに崩壊寸前でした。女王メアリーとダーンリー卿の関係は、政治的な野心と個人的な嫉妬が絡み合い、修復不可能なほどに冷え切っていたのです。ダーンリー卿は、メアリーの寵臣であったデイヴィッド=リッチオの殺害に関与するなど、その行動は常軌を逸していました。
ジェームズが生後わずか8ヶ月の1567年2月、父ダーンリー卿は、滞在していたエディンバラ郊外のカーク=オ=フィールドの家で、爆殺という謎に満ちた死を遂げます。この事件の黒幕として広く疑われたのが、ボスウェル伯ジェームズ=ヘップバーンであり、そして女王メアリー自身も、その共謀を疑われることになりました。事態はさらに悪化し、メアリーが事件からわずか3ヶ月後にそのボスウェル伯と結婚したことで、スコットランド貴族たちの怒りは頂点に達します。
プロテスタント派の貴族たちは兵を挙げ、メアリー女王を捕らえてロッホ=リーヴン城に幽閉し、王位からの退位を強制しました。その結果、1567年7月24日、生後13ヶ月の赤子であったジェームズが、スコットランド王ジェームズ6世として即位することになったのです。彼の戴冠式は、スターリングの教会で、プロテスタントの改革者ジョン=ノックスの説教のもと、厳かに行われました。しかし、それは輝かしい王の誕生というよりは、母親から引き離され、政治的な道具として祭り上げられた、一人の子供の孤独な人生の始まりを告げる儀式でした。
幼い王の治世は、摂政政治の時代として始まります。最初の摂政には、ジェームズの叔父にあたるマリ伯ジェームズ=ステュアートが就任しました。しかし、スコットランドはメアリー女王を支持する王党派と、幼いジェームズを担ぐ国王派に分裂し、内戦状態に陥ります。1570年、摂政マリ伯が暗殺されると、その後も祖父のレノックス伯、マー伯と、摂政たちは次々と交代し、その多くが暴力的な死を遂げました。ジェームズは、スターリング城で厳重に保護されながら、こうした血なまぐさい権力闘争の報を、遠くから聞かされる日々を送ります。
この間、彼の教育は、高名な人文主義者であり、厳格なカルヴァン主義者でもあったジョージ=ブキャナンに委ねられました。ブキャナンは、ジェームズにラテン語、ギリシャ語、フランス語、神学、歴史といった幅広い学問を徹底的に叩き込みました。その教育は極めて厳しく、時には体罰も伴ったと言われます。ブキャナンは、自らの著作『スコットランド王国の法について』で、王は法の下にあり、暴君は人民によって放伐されうると説きました。彼は、ジェームズをプロテスタントの模範的な君主に育て上げようとしましたが、その急進的な政治思想は、後にジェームズが信奉する王権神授説とは全く相容れないものでした。しかし、このブキャナンによる英才教育が、ジェームズをヨーロッパでも屈指の学識を持つ君主へと育て上げたことは間違いありません。彼は、書物の中に安らぎを見出し、複雑な神学論争や古典の世界に没頭することで、現実の政治の過酷さから逃避していたのかもしれません。
青年王の親政と権力闘争
1570年代後半になると、ジェームズは思春期を迎え、自らの意志で政治に関与しようとし始めます。1581年、彼は15歳で親政を宣言し、長きにわたる摂政政治に終止符を打ちました。しかし、それは彼が真の権力を掌握したことを意味しませんでした。彼の周囲には、依然として影響力を行使しようとする有力貴族たちが群がっていました。
この時期、ジェームズの宮廷で急速に台頭したのが、フランスからやってきた従兄弟のエズメ=ステュアートでした。ジェームズは、洗練されたマナーを持つ年上のエズメに深く心酔し、彼をレノックス公に叙して絶大な信頼を寄せました。しかし、カトリック教徒であったレノックス公の存在は、スコットランドのプロテスタント貴族(カーク)たちの強い警戒心を引き起こします。彼らは、レノックス公がジェームズをカトリックに改宗させ、フランスやスペインといったカトリック勢力と結びつこうとしていると疑いました。
この緊張は、1582年8月の「ルースヴェン襲撃事件」として爆発します。ゴウリー伯ウィリアム=ルースヴェンを中心とするプロテスタント貴族の一派が、狩りの途中のジェームズをルースヴェン城に誘い込み、そこで彼を拉致監禁したのです。彼らは、ジェームズにレノックス公の追放を強制しました。寵愛する人物を失い、臣下によって囚われの身となったこの経験は、ジェームズに深い精神的トラウマと、貴族たちへの根深い不信感を植え付けました。彼は、王権がいかに脆弱であり、力によって容易に覆されうるものであるかを痛感したのです。
約10ヶ月後、ジェームズは巧みに監禁状態から脱出することに成功します。そして、彼は報復を開始しました。彼は、自らを拉致した貴族たちを反逆者として断罪し、権力の奪還を宣言します。この経験を経て、ジェームズの統治スタイルは、より狡猾で現実的なものへと変化していきました。彼は、もはや特定の派閥に依存するのではなく、対立する貴族たちの間を巧みに立ち回り、彼らを互いに競わせることで、王権の優位を確立しようと試みます。
この時期、彼の新たな側近として権勢を振るったのが、アラン伯ジェームズ=ステュアートでした。アラン伯の助力を得て、ジェームズは1584年に「黒色諸法」として知られる一連の法律を制定します。これは、スコットランド長老派教会(カーク)の権限を大幅に制限し、教会の組織と人事を王権の管理下に置こうとするものでした。これにより、王が教会の首長であるとする監督制(エピスコパル制)が強化され、カークの独立性を主張する長老派(プレスビテリアン)の指導者たちとの対立が激化します。ジェームズにとって、王の権威に服さない教会の存在は、国家の統一を妨げる許しがたい脅威でした。この教会をいかにコントロールするかという問題は、彼のスコットランド治世における中心的な課題であり続けました。
イングランド王位継承への道
スコットランドの国内政治と並行して、ジェームズの外交政策の最大の関心事は、イングランドの王位継承権を確実にすることでした。彼は、テューダー朝の始祖ヘンリー7世の血を引いており、子供のいないエリザベス1世の最も有力な後継者候補でした。しかし、その地位は決して安泰ではありませんでした。
その道を複雑にしたのが、彼の母、メアリーの存在でした。1568年にスコットランドからイングランドへ逃亡したメアリーは、エリザベスによって19年近くにもわたって軟禁されていました。カトリック教徒であるメアリーは、イングランド国内のカトリック教徒たちにとって、エリザベスに代わる正統な君主と見なされており、彼女を王位に就けようとする陰謀が絶えませんでした。
ジェームズは、母との関係において、極めて難しい立場に置かれました。彼は、母の解放を求める一方で、メアリーの存在が自らのイングランド王位継承の障害となることを恐れていました。もし彼が母と強く結びつきすぎれば、イングランドのプロテスタント勢力から警戒され、エリザベスの不興を買うことになります。
1586年、メアリーがエリザベス暗殺計画(バビントン事件)に関与していたことが発覚し、彼女に死刑判決が下されると、ジェームズのジレンマは頂点に達します。彼は、母の処刑に公式に抗議しましたが、その行動は形式的なものにとどまりました。彼は、母の命を救うためにイングランドとの同盟を犠牲にするという選択はしませんでした。1587年2月、メアリーが処刑されると、ジェームズは激怒を表明しましたが、最終的にはそれを受け入れ、エリザベスとの関係修復を優先します。この冷徹ともいえる現実主義的な判断によって、彼のイングランド王位への道から最大の障害が取り除かれたのです。
彼は、1586年にイングランドとの間にベリック条約を締結し、エリザベスから年金を受け取る見返りに、相互防衛を約束しました。1588年にスペインの無敵艦隊がイングランドに侵攻した際には、彼は条約を遵守し、スコットランドがスペインに協力しないことを保証しました。こうした一連の行動を通じて、彼はエリザベスとその側近たちに、自分が信頼できるプロテスタントの後継者であることを示していったのです。
結婚と宮廷文化
国内の権力基盤を固め、イングランドとの関係を安定させたジェームズは、自らの王朝の将来を確実にするため、結婚に踏み切ります。1589年、彼はプロテスタント国であるデンマークの王女、アン=オブ=デンマークと結婚しました。悪天候でアンのスコットランドへの渡航が妨げられると、ジェームズは自ら船団を率いてノルウェーへ彼女を迎えに行くという、ロマンティックな一面も見せました。二人はデンマークで冬を過ごし、翌年スコットランドに帰国しました。
アン王妃は、陽気で浪費家な性格であり、仮面劇(マスク)や華やかな宮廷行事を好みました。彼女の存在は、それまで厳格で学問的な雰囲気が強かったジェームズの宮廷に、華やかさと洗練された文化をもたらしました。ジェームズ自身も、詩作を好み、自ら「カースタリカ団」と名付けた詩人たちのサークルを主宰するなど、文芸のパトロンとしての一面を持っていました。
この結婚は、ステュアート朝の存続にとって決定的に重要でした。1594年には待望の長男ヘンリー=フレデリックが誕生し、その後、エリザベス(後のボヘミア王妃)、そしてチャールズ(後のチャールズ1世)と、次々と子供たちが生まれました。これにより、ジェームズの血筋は確固たるものとなり、彼の王としての地位はさらに安定しました。
しかし、ジェームズの治世は決して平穏ではありませんでした。1590年代には、カトリック貴族であるハントリー伯らによる反乱や、フランシス=ステュアート(ボスウェル伯)による執拗な宮廷襲撃など、依然として王権への挑戦は続きました。また、1600年には、ゴウリー伯とその弟によってジェームズが誘拐・暗殺されそうになる「ゴウリー陰謀事件」が発生します。この事件の真相は謎に包まれていますが、ジェームズが常に身の危険と隣り合わせであったことを示しています。
こうした絶え間ない緊張と闘争を通じて、ジェームズは、君主として生き残るための術を身につけていきました。彼は、派閥を操り、敵を許し、時には冷酷に罰することで、スコットランドという荒々しい王国を、一人の君主の下にまとめ上げることに成功したのです。彼が1603年にイングランド王位を継承するために南下した時、彼はもはや無力な幼君ではなく、40年近い統治経験を持つ、老練で自信に満ちた君主となっていました。
イングランド王ジェームズ1世
1603年3月24日、イングランドの偉大な女王エリザベス1世が、後継者を指名することなくこの世を去りました。しかし、彼女の死は、多くの人々が恐れていたような王位継承争いを引き起こしませんでした。エリザベスの側近であったロバート=セシルらによって周到に準備が進められており、スコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として平和裏に王位を継承することが宣言されたのです。この瞬間、ステュアート朝が始まり、イングランドとスコットランドは歴史上初めて同じ君主を戴くことになりました。
平和的な王位継承とイングランドへの旅
ジェームズにとって、イングランド王位の継承は、長年にわたる彼の外交努力と忍耐が結実した瞬間でした。彼は、母メアリーの処刑という悲劇を乗り越え、エリザベス女王との友好関係を維持し続けることで、自らがプロテスタントの後継者として最もふさわしい候補であることを示し続けてきました。エディンバラで即位の報せを受け取ったジェームズは、4月5日に愛するスコットランドを後にして、新たな王国であるイングランドへと向かう壮大な旅に出発しました。
この南下する旅は、ジェームズにとって、そして彼を迎え入れるイングランドの民衆にとって、互いを初めて知るための重要な機会となりました。彼が通る町々では、熱狂的な歓迎式典が催され、貴族たちはこぞって自らの邸宅に王を招き、豪華な饗宴を開きました。ジェームズは、スコットランドとは比較にならないイングランドの豊かさと、民衆の歓迎ぶりに深い感銘を受けました。彼は、この新しい王国を「約束の地」と呼び、その未来に大きな期待を寄せたと言われます。
しかし、この旅の途中から、ジェームズの統治スタイルとイングランドの法慣習との間の最初の摩擦が生じ始めます。ニューアークの町で、彼は裁判にかけることなく窃盗犯を処刑するよう命じました。これは、スコットランドでは王が持つ当然の権限でしたが、イングランドの法体系では、国王と言えども法の手続き(デュー=プロセス)を無視することは許されませんでした。この一件は、ジェームズがイングランドの法と政治文化に疎いことを示す、些細ながらも象徴的な出来事でした。
1603年5月7日、ジェームズはロンドンに到着します。彼は、エリザベス政権の重鎮であったロバート=セシルを首席秘書官に留任させ、政権の継続性を確保しました。セシルは後にソールズベリー伯に叙され、ジェームズの治世前半において、財政と外交の分野で不可欠な役割を果たし続けます。ジェームズは、スコットランドから連れてきた寵臣たちも政府の要職に就けましたが、イングランドの既存の統治機構を尊重する姿勢を見せたことで、政権移行はスムーズに進みました。7月25日、彼はウェストミンスター寺院で、妻のアンと共に正式に戴冠し、イングランド王ジェームズ1世としての治世を名実ともに開始したのです。
宗教問題=ハンプトン=コート会議と火薬陰謀事件
ジェームズがイングランドで最初に取り組まなければならなかった大きな課題は、宗教問題でした。エリザベス朝のイングランド国教会は、プロテスタントの教義とカトリック的な儀式や組織(監督制)を組み合わせた、一種の妥協の産物でした。しかし、そのあり方に対しては、国内の二つの勢力から不満が表明されていました。一つは、国教会からカトリック的な要素を一層し、より純粋なプロテスタント改革を求めるピューリタン(純化派)たち。もう一つは、エリザベス朝の下で厳しい弾圧に耐えてきたカトリック教徒たちです。
即位直後、ジェームズはピューリタンの聖職者たちから「千人請願」として知られる請願書を受け取ります。彼らは、国教会の礼拝や儀式に関する様々な改革を求めました。これに応える形で、ジェームズは1604年1月にハンプトン=コート宮殿で宗教会議を招集します。このハンプトン=コート会議で、ジェームズは国教会の主教たちとピューリタンの代表者たちの双方の意見を聞きました。
ジェームズ自身は、スコットランドで王権に反抗的な長老派教会に散々苦しめられてきた経験から、王が任命する主教が教会を統治する監督制を強く支持していました。「主教なくして王なし」という彼の言葉は、教会の階層秩序が王国の政治的秩序と不可分であるという、彼の固い信念を表しています。彼は、ピューリタンたちの要求のほとんどを退けましたが、一つだけ、歴史的に重要な譲歩をしました。それは、聖書の新しい英訳版を作成するプロジェクトを承認したことです。この事業は、数十人の学者たちの努力の末、1611年に『欽定訳聖書』として結実します。この聖書は、その格調高い英語と文学的な美しさで、その後数世紀にわたって英語圏の文化と宗教に絶大な影響を与え続けることになります。
一方、カトリック教徒たちは、スコットランド女王メアリーの息子であるジェームズが即位すれば、自分たちへの弾圧が緩和されるのではないかと淡い期待を抱いていました。ジェームズ自身も、当初はカトリック教徒に対する罰金を停止するなど、寛容な姿勢を見せました。しかし、彼は公然とカトリックを容認することはできず、また、カトリック勢力が外国(特にスペイン)と結びつくことを強く警戒していました。期待を裏切られたカトリック教徒の一部は、過激な行動へと走ります。
その最たるものが、1605年11月5日に発覚した「火薬陰謀事件」です。ロバート=ケイツビーを中心とするカトリック過激派の一団が、議会の開会式に出席するジェームズ1世と王族、そして政府高官や議員たちを、ウェストミンスター宮殿の地下に仕掛けた大量の火薬で一挙に爆殺しようと計画したのです。この計画は、直前に当局に密告され、実行犯の一人であるガイ=フォークスが地下室で逮捕されたことで、未遂に終わりました。
この事件は、イングランド社会に巨大な衝撃と、カトリック教徒に対する根深い恐怖と憎悪を植え付けました。ジェームズは、この危機を乗り越えたことで、神に守られた王としての権威を高めました。議会は、王への忠誠を再確認し、反カトリック法を大幅に強化しました。毎年11月5日には、陰謀の発覚を祝ってかがり火が焚かれ、ガイ=フォークスの人形が焼かれるという習慣(ガイ=フォークス=ナイト)が生まれ、長く続くことになります。この事件以降、ジェームズの治世において、カトリック教徒への寛容政策は完全に影を潜めました。
王権と議会の対立
ジェームズのイングランド統治におけるもう一つの大きな課題は、議会との関係でした。特に、財政問題を巡って、王と議会はしばしば対立しました。
ジェームズは、エリザベス女王から、インフレと長年の戦争によって疲弊し、多額の負債を抱えた財政を引き継ぎました。それに加え、ジェームズ自身の浪費癖が問題をさらに深刻化させました。彼は、スコットランド時代とは比べ物にならないイングランドの富に目がくらみ、寵臣たちに気前よく金品や称号を与え、豪華な宮廷生活を送りました。アン王妃もまた、仮面劇や贅沢な衣装に莫大な費用を費やしました。その結果、王室の負債は雪だるま式に膨れ上がっていきました。
この財政赤字を埋め合わせるため、ジェームズは新たな収入源を求めざるを得ませんでした。しかし、イングランドでは、国王が新たな税を課すには、議会の承認を得るのが慣例でした。ジェームズは、議会を召集して補助金を要求しますが、議会側は、王の浪費を批判し、税の承認と引き換えに、様々な政治的な不満(独占権の乱発など)の是正を求めました。
ジェームズは、自らが信奉する「王権神授説」に基づき、王の持つ特権(ロイヤル=プリロガティブ)を議会が侵害することに強い不快感を示しました。彼は、王は神に対してのみ責任を負うのであり、臣民や議会に縛られる存在ではないと考えていました。彼は、議会を、自らの政策を説明し、必要な資金を得るための場としか見ておらず、議会が王の統治に口を挟むことを「不遜な行い」と見なしました。
一方、イングランド議会、特に下院(庶民院)には、自分たちが「国民の自由と権利」を守る代表であるという強い自負がありました。彼らは、王の権力もまた、イングランドの古来からの法(コモン=ロー)によって制限されるべきだと考えていました。この王権神授説とコモン=ローの思想の対立が、ジェームズの治世を通じて、王と議会の間の緊張の根底に流れ続けることになります。
1610年、首席秘書官のロバート=セシル(ソールズベリー伯)は、この財政危機を打開するため、「大契約」と呼ばれる妥協案を議会に提示します。これは、王が封建的な税収(後見権や徴発権など)を放棄する見返りに、議会が王に毎年安定した歳入を保証するという画期的な提案でした。しかし、この交渉は、双方の不信感から最終的に決裂してしまいます。
1614年に召集された議会は、何の成果も法案も生み出さないまま解散させられたため、「混乱議会」と呼ばれました。ジェームズは、その後7年間にわたって議会を召集せず、強制借用金や独占権の売却、称号の創設(特に1611年に創設された準男爵=バロネットの称号は、金で買える世襲の栄誉として財政に貢献した)といった、議会の承認を必要としない手段で歳入を確保しようと試みます。しかし、これらの方法は場当たり的なものであり、根本的な財政再建には至らず、国民の不満を募らせる結果となりました。
グレートブリテン構想
ジェームズがイングランド王として抱いた最も壮大な政治的ビジョンは、彼が統治するイングランドとスコットランドという二つの王国を、法、制度、そして教会において一つに統合し、「グレートブリテン」という名の統一国家を創設することでした。彼は、自らを二つの国を娶った夫にたとえ、「一つの島、一つの王、一つの法」というスローガンを掲げました。
1604年、彼は自らの称号を「グレートブリテン王」と改め、新しい硬貨や国旗(ユニオン=フラッグの原型)を制定するなど、統合の象徴的なジェスチャーを次々と打ち出しました。彼は、イングランドとスコットランドの議会に、合同委員会を設置して、完全な統合に向けた具体的な交渉を行うよう求めました。
しかし、この壮大な構想は、双方の根強い抵抗に遭いました。イングランド議会は、貧しいスコットランド人が南に流入し、イングランドの富と職を奪うのではないかと警戒しました。彼らは、スコットランドの法体系がイングランドのコモン=ローとは全く異なることを問題視し、統合によって自分たちの法と自由が損なわれることを恐れました。一方、スコットランド側も、より大きく豊かなイングランドに吸収され、自らの国家的アイデンティティと独立性が失われることを懸念しました。
結局、ジェームズのグレートブリテン構想は、両国民の相互不信と偏見の壁を乗り越えることができず、国境間の自由交易の実現や、両国民が互いの国で財産を所有する権利を認めるという、ごく限定的な成果しか生みませんでした。ジェームズの理想は、時代をあまりにも先取りしすぎていたのです。イングランドとスコットランドが正式に合同してグレートブリテン王国となるのは、それから約1世紀後の1707年のことでした。
治世後半と晩年
ジェームズ1世の治世後半は、寵臣の台頭による宮廷内の対立、ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争への対応、そして息子チャールズの結婚問題を巡る外交政策の迷走といった、一連の困難な課題によって特徴づけられます。これらの問題は、彼の晩年に重くのしかかり、その死後、イングランドが内戦へと向かう遠因を形成していくことになります。
寵臣政治
ジェームズは、その生涯を通じて、魅力的で才能のある若い男性を寵愛し、彼らに政治的な権力と富を与える傾向がありました。スコットランド時代のレノックス公に始まり、イングランドに来てからは、ロバート=カーのような人物が彼の寵愛を受けました。しかし、彼の治世後半において、他の誰をも凌駕する圧倒的な影響力を持ったのが、ジョージ=ヴィリアーズでした。
ヴィリアーズは、1614年に宮廷に紹介された、身分の低いジェントリ出身の美しい青年でした。ジェームズは彼の容姿と魅力にたちまち夢中になり、驚くべき速さで彼を引き立てていきました。ヴィリアーズは、子爵、伯爵、侯爵と昇進を重ね、最終的には1623年にバッキンガム公という、王族以外では最高位の貴族の称号を与えられます。
バッキンガムは、単なる王のお気に入りにとどまりませんでした。彼は、王の寵愛を背景に、絶大な政治的権力をその手に集中させていきます。彼は、官職の任命や恩恵の分配を独占し、自らの一族や支持者たちを要職に就けました。彼の意に沿わない者は、たとえどれほど有能な人物であっても、宮廷から排除されました。フランシス=ベーコンのような高官でさえ、バッキンガムの不興を買ったことが失脚の一因となったと言われます。
このバッキンガムによる権力の独占は、多くの古い貴族たちの反感を買い、宮廷内に深刻な派閥対立を生み出しました。彼らは、成り上がりの寵臣が国政を壟断している状況を憤り、バッキンガムを排除しようと画策しました。
さらに、バッキンガムは、王太子であったチャールズとも親密な関係を築きました。当初、内気な性格のチャールズはバッキンガムを警戒していましたが、やがて彼の魅力と自信に惹かれ、二人は兄と弟のような、あるいはそれ以上の深い絆で結ばれるようになります。ジェームズの晩年には、このジェームズ、チャールズ、バッキンガムの三人が、イングランドの政治を動かす中心的なトライアングルを形成しました。王の政策決定は、しばしばバッキンガムとチャールズの意向に強く影響されるようになり、ジェームズ自身の判断力は衰えていったと見なされています。バッキンガムの存在は、ジェームズの治世における安定を損ない、その後のチャールズ1世の治世にまで続く、深刻な政治的対立の火種を残しました。
三十年戦争と外交政策
1618年、ヨーロッパ大陸で三十年戦争が勃発すると、ジェームズは極めて困難な外交的立場に立たされます。この戦争は、ボヘミアのプロテスタント貴族が、カトリックであるハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に反旗を翻したことから始まりましたが、やがてヨーロッパのプロテスタント勢力とカトリック勢力が激突する、全面的な宗教戦争へと発展していきました。
問題をさらに複雑にしたのは、ボヘミアの反乱貴族たちが、ジェームズの娘婿であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を、新たなボヘミア王として選出したことでした。フリードリヒは、イングランド国内の好戦的なプロテスタント派の支持を背景に、この危険な王位を受け入れてしまいます。
ジェームズは、自らを「平和の王」と任じており、ヨーロッパの紛争に武力で介入することには極めて消極的でした。彼は、戦争ではなく、外交交渉を通じて、対立するカトリックとプロテスタントの仲介役を果たそうとしました。しかし、イングランド国内の世論は、プロテスタントの大義のために、そして王の娘婿を救うために、大陸へ派兵することを強く求めていました。
1620年、白山の戦いでフリードリヒの軍隊が皇帝軍に大敗し、彼はボヘミア王位を失うだけでなく、世襲の領地であるプファルツまでハプスブルク家の軍隊に占領されてしまいます。ジェームズの娘エリザベスとフリードリヒは、亡命者としてオランダに逃れることになりました。
この事態に、イングランド議会は憤激し、王に対してスペインとの戦争と、フリードリヒの領地回復のための軍事行動を要求しました。1621年に召集された議会は、当初は王に補助金を与えることに同意しましたが、その見返りとして、王の外交政策、特に王太子チャールズの結婚問題について議論する権利を主張しました。ジェームズは、外交と王族の結婚は王の大権に属する事柄であり、議会が口を出すべきではないと激しく反発し、議会の議事録から彼らの主張を記した「抗議書」を自らの手で破り捨て、議会を解散させてしまいました。
スペインとの結婚交渉とマドリードへの旅
ジェームズの平和外交の中心にあったのが、「スペインとの結婚」と呼ばれる計画でした。これは、王太子チャールズを、カトリック国スペインの王女(インファンタ)、マリア=アナと結婚させることで、ハプスブルク家との同盟関係を築き、ヨーロッパに平和をもたらそうという壮大な構想でした。ジェームズは、この結婚が実現すれば、スペインがその影響力を行使して、娘婿フリードリヒのプファルツ領を返還させてくれるだろうと期待していました。また、王女が持参する莫大な持参金は、王室の財政危機を解決する切り札にもなり得ました。
しかし、この計画は、イングランド国内のプロテスタント勢力から猛烈な反対を受けました。彼らは、将来の王妃がカトリック教徒であること、そしてその結婚によってイングランド国内でカトリックの地位が向上することを、国家の存亡に関わる脅威と見なしました。
長年にわたる交渉が遅々として進まないことに業を煮やしたチャールズとバッキンガム公は、1623年、ジェームズを説得し、驚くべき行動に出ます。彼らは、身分を隠して秘密裏にスペインの首都マドリードへ直接乗り込み、王女に求婚し、交渉を一気に妥結させようと計画したのです。この無謀な冒険旅行は、ジェームズを不安にさせましたが、彼は最愛の息子と寵臣の熱意を止めることができませんでした。
しかし、マドリードでの現実は、彼らが期待したようなロマンティックなものではありませんでした。スペイン宮廷は、彼らの突然の訪問に困惑し、プロテスタントの王子がカトリックの王女と結婚するためには、チャールズ自身がカトリックに改宗すること、そしてイングランド国内のカトリック教徒に完全な信仰の自由を認める法律を制定することが必要であると、極めて厳しい条件を突きつけました。チャールズは、王女に会うことさえほとんど許されず、屈辱的な扱いを受けました。
数ヶ月の滞在の末、チャールズとバッキンガムは、何の成果も得られないまま、手ぶらでイングランドに帰国します。この失敗は、彼らをそれまでの親スペイン政策から180度転換させ、猛烈な反スペイン主義者へと変貌させました。彼らは、スペインに復讐を誓い、今度はフランスとの同盟と対スペイン戦争をジェームズに強く迫りました。
最期と遺産
マドリード旅行の失敗は、ジェームズの平和主義的な外交政策の完全な破綻を意味しました。晩年の彼は、もはや好戦的な息子と寵臣の勢いを止めることができず、不本意ながらも対スペイン戦争へと引きずられていきます。1624年に召集された議会は、チャールズとバッキンガムが主導する形で、対スペイン戦争のための補助金を可決しました。そして、チャールズの結婚相手は、スペイン王女からフランス王女アンリエット=マリーへと変更されました。この結婚交渉では、フランス側もイングランド国内のカトリック教徒の保護を求めており、後の宗教対立の火種となる秘密協定が結ばれました。
長年の統治の心労と、持病であった関節炎や腎臓結石の悪化により、ジェームズの健康は急速に衰えていきました。1625年3月、彼は激しい赤痢の発作に見舞われ、同月27日にハートフォードシャーのセオバルズの邸宅で、58年の生涯を閉じました。彼の死により、息子のチャールズがチャールズ1世として王位を継承しました。
ジェームズ1世の治世に対する評価は、歴史家の間でも分かれています。彼は、二つの王国を平和裏に統治し、大規模な戦争を回避し、欽定訳聖書という不朽の文化遺産を残しました。彼は、自らを「平和の王」と呼び、異なる宗派や国家間の調停者であろうと努めました。スコットランドの統治においては、派閥争いに明け暮れていた国に、王権の下での安定をもたらした、成功した君主であったと言えます。
しかし、イングランドにおいては、彼の統治は多くの問題の種を蒔きました。彼の王権神授説の主張と議会軽視の姿勢は、王と議会の間の溝を深めました。彼の浪費と財政管理の失敗は、王室への信頼を損ないました。そして、バッキンガム公への過度な寵愛は、宮廷を腐敗させ、深刻な政治的対立を生み出しました。
彼が直面した多くの問題、すなわち、宗教的な緊張、財政問題、そして王権と議会の関係といった課題は、解決されることなく、息子のチャールズ1世に引き継がれました。ジェームズは、その狡猾さと妥協の精神によって、なんとか治世中の破局を回避することができましたが、より頑固で融通の利かない性格であったチャールズは、父が残した負の遺産を乗り越えることができず、最終的に王国を内戦へと導いてしまうことになります。その意味で、ジェームズ1世の生涯は、ステュアート朝の幕開けを飾る華やかさと、その後の悲劇を予感させる影の両方を内包した、複雑で矛盾に満ちたものであったと言えるでしょう。