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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

リヴァイアサンとは わかりやすい世界史用語2703

著者名: ピアソラ
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リヴァイアサンとは

1651年に出版されたトマス=ホッブズの『リヴァイアサン、あるいは教会的および市民的コモンウェルスの素材、形体、および権力』は、西洋政治哲学の歴史において、画期的な記念碑としてそびえ立っています。この著作は、単なる政治論を超え、人間性、社会、宗教、そして権力の根源を、冷徹かつ体系的に分析しようとした野心的な試みです。ホッブズが生きた17世紀のイングランドは、国王と議会の対立が血みどろの内戦へと発展し、国王が処刑され、伝統的な秩序が根底から覆された激動の時代でした。この暴力と混乱の渦中で、ホッブズは、社会がいかにして平和を確立し、維持できるかという、焦眉の問いに答えようとしたのです。
『リヴァイアサン』という書名は、旧約聖書のヨブ記に登場する、地上のいかなる力も及ばない強力な海の怪物に由来します。ホッブズにとって、この怪物は、人々が互いに殺し合う悲惨な状態を避けるために創り出さなければならない、絶対的な権力を持つ国家=コモンウェルスを象徴していました。彼は、この人工的な存在=「人工的人間」を、幾何学的な明晰さで解剖し、その構造と機能を明らかにしようと試みます。
本書の議論は、その有名な人間観から出発します。ホッブズによれば、人間は自己保存の欲望に絶えず駆り立てられる、利己的な存在です。もし、人々を抑制する共通の権力が存在しなければ、彼らは自らの欲望を満たすために、限られた資源を巡って争い、互いに不信感を抱き、名誉を求めて競い合います。この状態こそが、彼が「自然状態」と呼んだものであり、そこでは「万人の万人に対する闘争」が繰り広げられ、人間の生は「孤独で、貧しく、不快で、野蛮で、短い」ものとならざるを得ません。
この耐え難い状態から脱出するために、人々は理性の声に従い、自然法を見出します。自然法とは、平和を求め、自己保存を達成するための合理的な指針です。その最も基本的な教えは、平和を追求すること、そして平和が得られないならば、あらゆる手段を用いて自己を防衛することです。この第一の自然法から、第二の自然法が導かれます。それは、他者も同様にそうするならば、自らの目的を達成するためにあらゆるものに対する権利=自然権を放棄し、他者に対して認める自由と同程度の自由で満足すべきである、というものです。
この相互の権利放棄こそが、社会契約の核心です。人々は、自分たちのすべての権力と力を、一人の人間、または合議体に委ねるという契約を結びます。この契約によって、ばらばらだった個人の群衆は、一つの人格へと統合され、コモンウェルス=リヴァイアサンが誕生します。このリヴァイアサンに権力を託された者こそが「主権者」であり、他のすべての者はその「臣民」となります。ホッブズは、この主権者の権力は絶対的であり、分割不可能でなければならないと主張しました。なぜなら、権力が分割されれば、それは内戦の原因となるからです。主権者は法を制定し、臣民間の争いを裁き、戦争と平和を決定し、思想を統制する絶対的な権限を持ちます。臣民の主権者への服従義務は、主権者が彼らの安全を保障できる限りにおいて、絶対的なものとなります。
『リヴァイアサン』は、その唯物論的な哲学、人間性に対する非情なまでの現実主義、そして絶対主権の擁護によって、出版当初から激しい論争を巻き起こしました。ホッブズは無神論者であると非難され、その書物は暴政を正当化するものとして攻撃されました。しかし、彼の議論の真の革新性は、国家の正統性を、神の権威や伝統ではなく、個人の合意という、純粋に世俗的で人間的な基盤の上に築こうとした点にあります。彼は、近代的な個人主義を論理的な極限まで突き詰め、そこから絶対的な国家権力の必要性を導き出したのです。この著作が投げかけた問いは、個人の自由と国家の安全保障という、近代政治が抱える根源的なジレンマそのものであり、その衝撃と影響力は、今日に至るまで色あせることはありません。



第一部・人間について

『リヴァイアサン』の壮大な議論は、国家という巨大な人工的人間を理解するためには、まずその構成要素である個々の人間を理解しなければならない、という方法論的原則から始まります。ホッブズは、第一部「人間について」において、人間を一種の精巧な機械として捉え、その知覚、思考、感情、そして行動のメカニズムを、徹底した唯物論と機械論の観点から分析します。これは、彼の政治哲学の基礎をなす人間学であり、ここでの分析が、後の自然状態や社会契約の議論の論理的な前提となります。
感覚・思考・情念の機械論

ホッブズの人間分析の出発点は、「感覚」です。彼によれば、人間の思考の根源はすべて感覚にあり、感覚以外の思考は存在しません。そして、その感覚自体は、外部の物体が人間の感覚器官に及ぼす圧力、すなわち「運動」によって引き起こされる、と彼は説明します。例えば、私たちが何かを見るとき、それは対象物体から発せられた光が眼球を圧迫し、その運動が神経を通じて脳へと伝達されることによって生じます。この外部からの運動に対して、心臓から内部的な反作用の運動が生じ、この二つの運動のせめぎ合いが「現出」または「ファンタズム」として現れる、これが感覚です。
感覚が一度生じると、その運動の残響が体内に残り続けます。この弱まった感覚の残滓が「想像」あるいは「記憶」です。ホッブズは、夢もまた、睡眠中に体内の運動が活性化することによって生じる想像の一種であると考えました。そして、これらの単純な想像が、次から次へと連なっていく過程が「思考の連続」あるいは「精神的談話」です。この思考の流れには、目的のない「規制されない」ものと、何らかの欲望や目的に導かれた「規制された」ものがあります。後者の規制された思考こそが、未来を予測し、原因から結果を、あるいは結果から原因を探求する「理性」の働きに繋がっていきます。
さらにホッブズは、人間の内的な運動として「情念」を説明します。生命活動の根源である心臓の運動(生命運動)が、外部からの刺激によって促進されるとき、私たちはそれを「欲望」や「愛」として感じます。逆に、生命活動が妨げられるとき、それは「嫌悪」や「憎悪」として感じられます。喜び、悲しみ、希望、恐怖といった、人間のあらゆる複雑な感情は、すべてこの二つの基本的な運動の変奏に過ぎない、と彼は考えました。例えば、「希望」とは、対象を獲得できるという見込みを伴った欲望であり、「恐怖」とは、対象が害を及ぼすという考えを伴った嫌悪です。このように、ホッブズは、人間の内面世界全体を、物理的な運動の法則に従う、因果的なメカニズムとして描き出したのです。
権力・価値・幸福

この機械論的な人間観から、ホッブズは、人間の行動を駆動する根源的な力についての分析へと進みます。彼によれば、人間の最も基本的な欲求は、自己の生命を維持し、快適な生活を送ることです。そして、将来にわたってこれらの善を獲得するための現在の手段こそが「権力」です。人間は、自己保存を確実にするために、より多くの権力を絶えず求め続けます。ホッブズは、「人間の一般的な傾向として、死ぬまで止むことのない、権力への永続的で飽くなき欲望」を第一に挙げます。この権力欲は、人間が本質的に邪悪だからではなく、現在持つ権力を維持するためには、さらに多くの権力を獲得し続けなければ安心できないからです。
権力には、身体の強さ、魅力、知恵といった、個人に本来備わっている「自然的権力」と、富、評判、友人といった、これらの自然的権力を用いて獲得される「道具的権力」があります。人々は、他者が持つ権力を評価し、その権力を利用するために支払う対価が、その人の「価値」あるいは「価格」となります。人の「尊厳」とは、国家によって与えられた公的な価値であり、「名誉」とは、他者から高い価値や権力があると見なされることです。
ホッブズにとって、「幸福」あるいは「至福」とは、心の静止した状態や、欲望が完全に満たされた最終目的などではありません。それは、ある欲望の対象から次の対象へと、次々と成功裏に進んでいく、欲望の永続的な運動そのものです。一つのものを獲得することは、次なるものを獲得するための道筋に過ぎません。この絶え間ない運動としての幸福観は、彼の機械論的世界観と完全に一致しています。人間は、死ぬまで欲望し続ける存在であり、その運動が停止することは、すなわち死を意味するのです。この人間観が、なぜ自然状態が闘争状態とならざるを得ないのかを説明する鍵となります。
第二部コモンウェルスについて

『リヴァイアサン』の核心部分は、第二部「コモンウェルスについて」にあります。ここでホッブズは、第一部で分析した人間という構成要素から、いかにして国家という巨大な人工的人間=リヴァイアサンが構築されるのかを、社会契約の理論を用いて論理的に描き出します。彼の目的は、内戦という最悪の事態を避けるために、なぜ絶対的な主権が必要不可欠であるかを明らかにすることでした。
自然状態と万人の万人に対する闘争

ホッブズの政治哲学の論理的出発点となるのが、「自然状態」という思考実験です。これは、政府や法、社会といった、人々を従わせる共通の権力が一切存在しない状態を仮定したものです。このような状態では、人間はいかに振る舞うでしょうか。
ホッブズは、自然状態における人間の基本的な平等を強調します。ある人は他の人より身体的に強いかもしれないし、知恵が優れているかもしれませんが、最も弱い者でも、策略や共謀によって最も強い者を殺すことができるという意味で、人々は十分に平等です。この能力の平等から、目的を達成する希望の平等が生まれます。そして、もし二人の人間が同じものを欲し、それを両者が同時に享受できない場合、彼らは敵となります。
ホッブズは、この敵対関係が闘争へと発展する原因として、三つの主要なものを挙げます。第一は「競争」です。人々は、利得のために、他者を支配し、その財産や家族を奪おうとして争います。第二は「不信」です。他者がいつ自分を攻撃してくるか分からないため、人々は、先んじて他者を攻撃し、自らの安全を確保しようとします。これは、防衛のための先制攻撃です。第三は「栄光」または「評判」です。人々は、自らの名誉のために、些細な言葉や侮辱をきっかけとして争います。
これらの原因により、自然状態は、必然的に「万人の万人に対する闘争」の状態となります。この「闘争」とは、必ずしも絶え間ない戦闘状態を意味するわけではありません。それは、闘争への意志が公然と示され、安全の保障が全くない、戦争の期間全体を指します。このような状態では、勤勉な産業は育たず、農業、航海、商業、建築、学問、芸術は存在しません。なぜなら、それらの成果がいつ奪われるか分からないからです。そして、何よりも最悪なのは、暴力による死への絶え間ない恐怖です。この状態では、人間の生は「孤独で、貧しく、不快で、野蛮で、短い」ものとならざるを得ません。
また、自然状態には、正義も不正義も存在しません。なぜなら、それらを規定する共通の法が存在しないからです。同様に、所有権も存在せず、各人が力ずくで獲得し、保持できるものが、その人のものとなるに過ぎません。
自然法と社会契約

この悲惨な自然状態から脱出する可能性は、人間の二つの側面に見出されます。一つは、死への恐怖や快適な生活への欲望といった「情念」であり、もう一つは、平和な共存のためのルールを指し示す「理性」です。理性が発見するこのルールこそが、「自然法」です。
ホッブズにとって自然法とは、神が定めた永遠の法ではなく、自己保存という目的を達成するための、合理的な格率あるいは定理です。彼は、約19にわたる自然法を列挙しますが、その中でも特に重要なのが最初の二つです。
第一の基本法は、「平和を追求し、それに従うこと」です。そして、その系として、「平和が得られない場合には、我々が利用しうるあらゆる助けと利点を手段として、我々自身を防衛すること」が導かれます。
この第一の法から、第二の法が導き出されます。それは、「人が平和と自己防衛のために必要だと考えるならば、他者もまた同様である限りにおいて、すべてのものに対するこの権利(自然権)を進んで放棄し、他者に対して許容するのと同じだけの自由で満足すべきである」というものです。自然状態では、各人は自己保存のために何でもする権利=自然権を持っています。しかし、全員がこの権利を行使し続ければ、闘争状態は終わりません。したがって、平和を達成するためには、この無制限の権利を相互に放棄する必要があります。
この相互の権利放棄が「契約」です。人々は、自然状態の恐怖から逃れるために、自分たちの自然権を放棄し、それを一つの人格、すなわち「主権者」に委ねるという契約を結びます。この契約は、各人が他のすべての人々に対して、「私は、この人(またはこの合議体)に、私自身を統治する権利を承認し、委譲する。ただし、あなたも同様に、あなたの権利を彼に委譲し、彼のすべての行為を承認するという条件においてである」と約束することによって成立します。
この契約によって、ばらばらだった個人の群衆は、一つの人格へと統一され、巨大な人工的人間=リヴァイアサン、すなわち「コモンウェルス」または「国家」が誕生します。この契約は、臣民となる人々同士の間で結ばれるものであり、主権者は契約の当事者ではありません。したがって、主権者は契約に違反することがありえず、その権力は絶対的なものとなります。
主権者の権利と臣民の自由

社会契約によって設立された主権者は、コモンウェルスの平和と防衛を維持するために、絶対的かつ不可分な権利を持つ、とホッブズは主張します。
主権者の権利には、以下のようなものが含まれます。臣民は主権者を変更したり、主権を放棄したりすることはできません。主権者は契約の当事者ではないため、その権力を剥奪されることはありえません。主権者の行為に反対する少数派も、多数派の決定に従わなければなりません。主権者の行為は、それを承認した臣民自身の行為と見なされるため、主権者が臣民を不正に侵害することはありえません。主権者は、臣民を処罰することはできますが、その行為が不正であるとして告発されることはありません。
さらに、主権者は、平和と防衛のために必要と判断する思想や教義を決定する権利(検閲の権利)を持ちます。所有権のルール(何が誰のものか)を定める権利、すべての論争を審理し、裁決する権利(司法権)、他の国家との間で戦争と平和を決定する権利、そして役人や顧問官を任命する権利も、すべて主権者に属します。ホッブズは、これらの権利はすべて相互に関連しており、一つでも欠ければ主権は機能しなくなると強調します。権力分立は、国家を分裂させ、内戦へと導く道であると彼は考えたのです。
では、このような絶対的な主権の下で、臣民に「自由」は残されているのでしょうか。ホッブズにとって、自由とは、物理的な障害がないこと、すなわち「運動の外的障害の不在」を意味します。法は、人々の行動を制限する人工的な鎖のようなものです。したがって、臣民の自由とは、主権者が法によって規制していない事柄に関して、自らの判断で行動できる領域に存在します。例えば、住居を選んだり、食事を選んだり、子供を教育したり、商売をしたりといった事柄です。
しかし、ホッブズは、臣民が決して放棄できない、真の自由の核心を認めます。それは、社会契約の目的そのものである、自己保存の権利です。臣民は、主権者から、自らを殺害、傷害、あるいは監禁するように命じられた場合、それに抵抗する権利を持ちます。なぜなら、そのような命令に従うことは、契約の目的そのものに反するからです。また、臣民の主権者への服従義務は、主権者が彼らを保護する能力を失った時点で消滅します。もし主権者が内戦や外敵の侵攻によって打ち破られ、臣民の安全を保障できなくなった場合、臣民は、新たな保護者を求めて、新しい主権者に服従する自由を得るのです。この議論は、イングランド内戦の結果、クロムウェルの共和制政府が確立したという現実を、追認するものと解釈されました。
第三部キリスト教的コモンウェルスについて

『リヴァイアサン』の約半分を占める第三部「キリスト教的コモンウェルスについて」は、ホッブズの議論の中で最も物議を醸し、また多くの読者から見過ごされがちな部分です。しかし、彼が生きた時代において、政治と宗教は分かちがたく結びついており、内戦の根源には宗教的な対立がありました。したがって、永続的な平和を確立するためには、誰が聖書を解釈する最終的な権威を持つのか、そして教会の権力(教会的権力)と国家の権力(市民的権力)の関係をいかに規定するか、という問題に答えなければなりませんでした。ホッブズの目的は、教会を国家の主権の下に完全に服属させることによって、宗教が内乱の原因となる可能性を根絶することでした。
聖書の唯物論的解釈

ホッブズは、聖書を、自らの唯物論的な哲学体系と矛盾しない形で解釈し直すという、大胆な作業に着手します。彼は、聖書を神の言葉として受け入れつつも、そのテキストを理性的に分析し、比喩的な表現と文字通りの意味を区別しようとします。
彼の解釈の中心は、非物質的な霊的存在の否定です。彼は、天使、悪魔、さらには神自身でさえも、極めて希薄で目に見えない「物体」であると主張しました。彼によれば、「非物質的実体」という言葉は、スコラ哲学者が作り出した無意味な用語であり、聖書にはそのような概念は存在しません。
同様に、彼は、魂の不滅という伝統的な教義にも異議を唱えます。ホッブズによれば、人間は死ぬと、最後の審判の日に復活するまで、意識のない状態になります。そして、義人は復活の後に地上で永遠の命を享受し、罪人は二度目の死、すなわち永遠の消滅を迎えます。地獄とは、特定の場所ではなく、この永遠の消滅の状態を指す比喩的な表現である、と彼は論じました。この解釈によって、彼は、聖職者が地獄の永続的な苦しみへの恐怖を利用して人々を支配するという、彼が最も危険視した権力の源泉を無力化しようとしたのです。
また、ホッブズは、「神の王国」という概念を分析し、それが文字通りの政治的な王国を意味すると主張します。神は、かつてアブラハムやモーセとの契約を通じて、イスラエルの民を直接統治する主権者でした。しかし、イスラエルの民が人間の王を求めたとき、この直接的な神の王国は中断されました。そして、それは、キリストが再臨し、地上に王国を再建する最後の審判の日まで、回復されることはありません。したがって、現在のこの世において、キリストの代理人として霊的な王国を支配すると主張する者(特にローマ教皇)は、主権を僭称する者である、と彼は結論づけました。
教会権力と市民権力の統一

聖書解釈の最終的な権威は誰に属するのか。この問いに対して、ホッブズは、明確に「地上のキリスト教的コモンウェルスにおける主権者である」と答えます。
彼によれば、救済のためにキリスト教徒が信じなければならない信仰箇条は、ただ一つ、「イエスがキリスト(救世主)である」ということだけです。これ以外の複雑な神学論争は、救済にとって本質的ではなく、人間の野心から生まれたものです。そして、この基本的な信仰を告白し、主権者の法に従うことが、キリスト教徒の義務のすべてです。
ホッブズは、「教会」とは、特定の聖職者の階級組織を指すのではなく、キリスト教徒の市民が集まった会衆に過ぎない、と定義します。そして、キリスト教的コモンウェルスにおいては、国家そのものが教会であり、主権者は、市民の長であると同時に、教会の長でもあります。したがって、聖書を解釈し、何が異端であるかを決定し、公的な礼拝の形式を定め、聖職者を任命する権限は、すべて市民的主権者に属します。
教会的権力と市民的権力は、二本の剣ではなく、一本の剣です。もし、教会の権力が市民的主権者から独立していると主張するならば、それは国家の中に国家を、王国の中に王国を作ることに他ならず、臣民は二人の主人に仕えなければならなくなります。一方は神の名において永遠の罰をちらつかせ、もう一方は市民法の名において死の恐怖をちらつかせます。このような権力の分裂は、必然的に人々の忠誠心を分裂させ、内戦へと導く、とホッブズは警告しました。
したがって、永続的な平和のためには、教会は完全に国家に従属しなければなりません。教皇であれ、司教であれ、長老会であれ、主権者から独立した権力を主張するいかなる組織も、国家の安全に対する脅威と見なされなければならないのです。この徹底した国家教会主義は、イングランド国教会、カトリック教会、そして長老派のすべてから、激しい敵意を招くことになりました。
第四部=暗黒の王国について

『リヴァイアサン』の最終部である第四部「暗黒の王国について」で、ホッブズは、彼の考える真のキリスト教的コモンウェルスを妨げ、人々を無知と迷信のうちに閉じ込めている勢力に対して、最も辛辣で痛烈な批判を展開します。彼が「暗黒の王国」と呼ぶのは、地獄の悪魔の王国といったものではありません。それは、「欺瞞者たちの連合体であり、彼らは、聖書の誤った解釈や、ギリシャ哲学の虚偽の残滓を利用して、人々を支配し、自らの野心と利益を追求するために、人々から権力を奪おうとする」ものです。この「暗黒」とは、理性の光が遮られた、無知の状態を指します。
聖書の誤解釈

ホッブズによれば、暗黒の王国の第一の基盤は、聖書の意図的な誤解釈です。彼は、特にローマ=カトリック教会を念頭に置きながら、彼らが人々の心に恐怖を植え付け、服従させるために利用してきた、四つの主要な誤った教義を攻撃します。
第一は、教会が「神の王国」であるという主張です。ホッブズは第三部で論じたように、神の直接的な王国はキリストの再臨まで存在せず、したがって、現在の教会が地上における神の代理人として政治的な権力を主張することは、主権の僭称であると批判します。
第二は、教皇が聖ペテロの後継者として、普遍的な権力を持つという教義です。ホッブズは、聖書にはペテロがローマにいたという証拠も、彼がその権力を後継者に譲ったという証拠もないと主張し、教皇の権威を歴史的にも神学的にも根拠のないものとして退けます。
第三は、聖職者が聖変化の儀式を通じて奇跡を起こせるとする教義です。ホッブズは、これを、人々を畏怖させ、聖職者に特別な力を信じ込ませるための、一種の魔術に過ぎないと断じます。
第四は、魂の不滅や煉獄、地獄の永遠の罰といった教義です。彼は、これらの教義が、聖職者に、人々の死後の運命を左右する力があるかのように見せかけ、贖宥状の販売などを通じて、彼らが富と権力を蓄積するための手段として利用されてきたと激しく非難します。
ギリシャ哲学の悪用

暗黒の王国の第二の基盤は、アリストテレスに代表される、ギリシャ哲学の「虚偽の哲学」です。ホッブズは、スコラ神学が、アリストテレスの哲学をキリスト教神学に組み込むことによって、聖書の単純な教えを、無意味で曖昧な専門用語の迷宮へと変えてしまったと攻撃します。
特に彼が標的とするのは、「実体的形相」や「本質」といった、アリストテレス哲学の中心概念です。これらの概念は、物体の背後に、目に見えない非物質的な実体が存在するという考え方を助長します。ホッブズの唯物論的な観点からすれば、これは全くの虚構であり、「非物質的実体」という言葉は、それ自体が矛盾した無意味な言葉です。
この虚偽の哲学は、聖書の誤解釈と結びつき、例えば「非物質的霊魂」や「聖変化における実体変化」といった、人々を惑わす教義を生み出す温床となりました。ホッブズは、大学がこのアリストテレス的なスコラ哲学を教え続ける限り、それは真理の探究の場ではなく、暗黒の王国を支える人材を育成する機関として機能してしまうと警告しました。彼の大学教育に対する生涯にわたる不信感は、ここにその根源があります。
結論=理性の光へ

ホッブズは、この暗黒の王国から人々を解放するためには、理性の光を取り戻すことが不可欠であると結論づけます。それは、聖書を、先入観や権威に惑わされることなく、注意深く、理性的に読むこと。そして、哲学を、曖昧な言葉遊びから、明確な定義と厳密な論理に基づく、真に科学的な探究へと変えることです。
『リヴァイアサン』の最終部は、単なる反カトリックのプロパガンダではありません。それは、あらゆる種類の知的権威主義に対する、啓蒙主義的な闘争宣言です。ホッブズは、人々が自らの理性を信頼し、恐怖と迷信の束縛から自らを解き放つことによってのみ、真の市民的平和と個人の幸福が達成されると信じていました。彼の壮大な著作は、絶対主権の必要性を説く一方で、その最終的な目的が、理性的で自由な個人が安心して暮らせる社会の実現にあることを、力強く示唆して終わるのです。
トマス=ホッブズの『リヴァイアサン』は、その出版から3世紀半以上を経た今なお、そのラディカルな問いかけと冷徹な論理によって、私たちに挑戦し続ける書物です。イングランド内戦という未曾有の混乱の中から生まれたこの著作は、何よりもまず、平和への渇望の産物でした。ホッブズが目指したのは、人々が暴力的な死の恐怖から解放され、安心して日々の生活を営むことができる、安定した社会秩序をいかにして構築するかという、極めて実践的な課題に答えることでした。
そのために彼が提示した解決策=絶対的な権力を持つ主権者への完全な服従=は、多くの批判を浴びてきました。彼の理論は、個人の自由を抑圧し、専制政治への道を開くものだと見なされてきました。しかし、そのような批判は、ホッブズの議論の最も革命的な側面を見落とす危険性があります。彼は、国家の正統性を、神の意志や血統、あるいは伝統といった、人間を超えた権威に求めたのではありません。彼は、その基礎を、あくまで自由で平等な個人間の「合意」に置いたのです。国家は、神が創造したものではなく、人間が自らの安全のために、理性を用いて創り出す「人工物」である。この思想こそが、『リヴァイアサン』を近代政治哲学の出発点たらしめている核心的な洞察です。
ホッブズは、人間性を美化することも、理想化することもしませんでした。彼は、人間を、自己保存の欲望に駆られ、権力を求め続ける、利己的で計算高い存在として、容赦なく描き出しました。この人間観は、多くの人々にとって不快なものかもしれませんが、それは、人間の暗黒面から目をそらすことなく、現実をありのままに直視しようとする、科学的な精神の表れでした。彼は、この不完全で危険な可能性を秘めた人間という素材から、いかにして堅固で永続的な政治体を構築できるかという、困難な課題に正面から取り組みました。
その答えが、社会契約によって創り出される「リヴァイアサン」でした。人々は、自然状態という「万人の万人に対する闘争」の恐怖から逃れるために、自らの自然権を放棄し、それを一つの主権者に委ねます。この人工神は、法という剣を手に、社会の平和を強制します。このリヴァイアサンの体内では、個人の意志は主権者の意志へと吸収され、一つの統一された人格が形成されます。この議論は、近代国家が持つ、個人の生殺与奪を左右するほどの圧倒的な権力の性質を、誰よりも早く見抜いたものと言えるでしょう。
さらに、ホッブズは、宗教が内戦の火種となることを防ぐために、教会を国家の主権の下に完全に服属させなければならないと主張しました。彼は、聖書を大胆に再解釈し、聖職者たちが人々の恐怖心を利用して権力を握る「暗黒の王国」を痛烈に批判しました。これは、政治を神学から切り離し、純粋に世俗的な領域として確立しようとする、近代的な政教分離思想の先駆けでした。
『リヴァイアサン』は、一つの巨大なパラドックスを内包しています。それは、近代的な個人主義の思想を極限まで突き詰めることによって、絶対主義的な国家権力の必要性を論証した、というパラドックスです。しかし、このパラドックスこそが、近代政治の本質的なジレンマを映し出しています。すなわち、個人の自由を保障するためには、その自由を制限しうる強力な権力が必要である、というジレンマです。ホッブズが投げかけた、自由と秩序、個人と国家、同意と服従を巡る問いは、その後の社会の根底を揺さぶり続けているのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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