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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

王政復古とは わかりやすい世界史用語2711

著者名: ピアソラ
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王政復古とは

1660年5月、チャールズ2世がロンドンに帰還し、イングランド、スコットランド、アイルランドの王位に就いた出来事は、単なる一人の王の帰国以上の意味を持っていました。それは、11年間にわたる共和制、すなわちイングランド共和国とそれに続く護国卿政権という、イギリス史上前例のない実験の終わりを告げるものでした。この「王政復古」は、清教徒革命から始まる激動の時代のクライマックスであり、その後のイギリスの政治、宗教、社会のあり方を決定づける重大な転換点となりました。この歴史的な和解がなぜ、そしてどのようにして実現したのかを理解するためには、時計の針を少し戻し、オリバー=クロムウェルの死後の混乱期に目を向ける必要があります。
1658年9月3日、イングランド共和国を鉄腕で統治した護国卿オリバー=クロムウェルが世を去りました。彼の死は、共和国の屋台骨を揺るがす巨大な権力の空白を生み出しました。護国卿の地位は、彼の息子であるリチャード=クロムウェルに継承されました。しかし、リチャードは父のようなカリスマ性も政治的手腕も、そして何よりも軍を掌握する力も持ち合わせていませんでした。彼は温厚で善良な人物でしたが、乱世の指導者としてはあまりにも無力でした。



リチャード=クロムウェルの政権は、発足当初から深刻な問題を抱えていました。最大の脅威は、父オリバーが作り上げた強力なニューモデル軍でした。軍の高級将校たちは、自らを「神の聖兵」とみなし、共和国の守護者であると自負していました。彼らは、文民であるリチャードが自分たちの上に立つことを快く思わず、その権威を公然と軽んじ始めます。特に、ジョン=ランバートやチャールズ=フリートウッドといった野心的な将軍たちは、護国卿政権を形骸化させ、軍による直接統治を目指して画策を始めました。
一方で、議会もまた軍との対立を深めていました。1659年に召集された第三期護国卿議会は、共和主義者や長老派など、多様な勢力で構成されていましたが、その多くは軍の強大すぎる権力に警戒感を抱いていました。彼らは、軍の予算を削減し、その政治的影響力を削ごうと試みます。この動きは、当然ながら軍の猛烈な反発を招きました。軍と議会の対立は抜き差しならないレベルに達し、1659年4月、軍の圧力によってリチャードは議会を解散させられます。そしてその翌月、彼は護国卿の地位を辞任せざるを得なくなりました。彼の統治は、わずか8ヶ月あまりで幕を閉じたのです。
リチャードの失脚後、権力は再び軍の手に渡りました。軍の将軍たちは、かつてオリバー=クロムウェルによって解散させられたランプ議会(長期議会の残部で構成される議会)を復活させます。彼らは、ランプ議会を傀儡として利用し、自らの支配を正当化しようとしました。しかし、一度権力の味を知ったランプ議会の議員たちも、そう簡単には軍の意のままにはなりませんでした。彼らは再び軍の権限を制限しようと試み、両者の対立は再燃します。1659年10月、ジョン=ランバート将軍はついに武力を行使してランプ議会を再び解散させ、軍事政権である「公安委員会」を樹立しました。
この時点で、イングランドは完全な無政府状態に陥っていました。法的な正統性を持つ政府は存在せず、国は軍の派閥によって分裂し、互いに睨み合っていました。ロンドンではランバートが権力を握り、アイルランドやスコットランドの駐留軍もそれぞれ独自の動きを見せ始めます。国民は、終わりの見えない政治的混乱と軍事独裁に疲れ果て、安定を渇望するようになっていました。重税、経済の停滞、そして何よりも「いつ戦争が再発するかわからない」という不安が、国全体を覆っていました。かつて清教徒革命が掲げた自由や理想は色褪せ、多くの人々にとって、王政時代の方がまだましだったのではないかというノスタルジアさえ生まれ始めていました。
この混沌とした状況を静かに見つめていたのが、スコットランド駐留軍の司令官、ジョージ=マンク将軍でした。マンクは、ニューモデル軍の叩き上げの軍人であり、クロムウェルの下で数々の武功を立てた人物です。しかし、彼は他の将軍たちのような露骨な政治的野心を見せず、常に冷静沈着で、その胸の内を誰にも読ませない謎めいた人物でした。彼は、ランバートによる議会の武力解散を「法を無視した暴挙」と非難し、議会の権威を回復するという大義名分を掲げます。
1660年の元日、マンクは彼に忠実な約7,000の兵を率いて、スコットランドからイングランドへと進軍を開始しました。彼の真意は誰にも分かりませんでした。彼は共和制を守るためにランバートを討つのか、それとも自らが新たな独裁者となるつもりなのか、あるいは亡命中のチャールズ=スチュアートを王位に戻そうとしているのか。マンク自身は、ただ「自由な議会の召集」を要求するのみで、その先のビジョンを一切語りませんでした。
ランバートはマンクを迎撃しようとしましたが、彼の軍はすでに士気が低下し、内部崩壊を始めていました。兵士への給料の支払いが滞り、脱走兵が相次いだのです。結局、ランバート軍は戦う前に自壊し、マンクはほとんど抵抗を受けることなく、1660年2月3日にロンドンへ無血入城を果たしました。
ロンドンに入ったマンクは、巧みな政治手腕を発揮します。彼はまず、ランバートによって追放されていたランプ議会を再び召集しました。しかし、彼はそれだけでは満足しませんでした。彼はさらに、1648年にプライドのパージによって追放された長老派の議員たちを議会に復帰させたのです。これにより、議会内の勢力図は一変しました。急進的な共和主義者は少数派となり、王党派に近い穏健な長老派が多数を占めるようになったのです。
この「復興された長期議会」は、自らの歴史的使命が、新たな選挙を実施し、正統な政府を樹立することにあると理解していました。彼らは、新しい議会(仮議会)を選出するための選挙法を制定すると、1660年3月16日、ついに自主解散を宣言しました。20年近くにわたって断続的に続いた長期議会の歴史が、ここにようやく幕を閉じたのです。
そして、1660年4月に行われた選挙の結果は、誰の目にも明らかでした。選出された議員の圧倒的多数は、王政復古を支持する王党派と穏健な長老派で占められていました。国民は、長年の混乱と不安定に終止符を打ち、伝統的な君主制の下での平和と秩序を回復することを明確に選択したのです。
この間、マンクは亡命中のチャールズ=スチュアートと秘密裏に連絡を取り合っていました。彼は、王政復古が平和裏に行われるための条件を整えるべく、慎重に交渉を進めていました。その成果が、1660年4月4日にチャールズがオランダのブレダから発した「ブレダ宣言」です。
この宣言は、政治的駆け引きの傑作でした。チャールズは、王として帰国した暁には、以下の4つのことを約束しました。第一に、内戦中の国王側に対する敵対行為について、議会が指定する数名の例外を除き、全ての者を赦免すること。第二に、宗教的信条の違いによって迫害されることのない「良心の自由」を認めること。第三に、革命中に売買された土地の所有権に関する複雑な問題を、議会の決定に委ねること。そして第四に、マンクの軍隊の兵士たちに未払いの給料を全額支払い、彼らを国王の軍隊として受け入れること。
これらの約束は、王政復古に不安を抱く可能性のある全ての人々、すなわち、かつて議会側で戦った兵士や将校、革命中に王党派の土地を購入した人々、そして長老派をはじめとする非国教徒たちを安心させるものでした。チャールズは、復讐者としてではなく、和解者として国に戻るという明確なメッセージを送ったのです。彼は、絶対王政を復活させるのではなく、議会と協調する立憲君主となることを示唆しました。
1660年4月25日、新たに選出された仮議会が召集されました。5月1日、ブレダ宣言が議会で読み上げられると、議員たちは熱狂的にこれを歓迎し、イングランドの政府は「国王、貴族院、庶民院」によって構成されるべきであると全会一致で決議しました。チャールズ=スチュアートを正統な国王チャールズ2世として承認する宣言が発せられ、使者がオランダへと派遣されました。
11年間の亡命生活は、ついに終わりを告げました。1660年5月25日、チャールズ2世はドーバーの海岸に上陸し、熱狂的な歓声で迎えられました。そして、彼の30歳の誕生日である5月29日、彼はロンドンへと凱旋しました。その日のロンドンの様子を、日記作家のジョン=エヴリンは「街路にはタペストリーが飾られ、鐘が鳴り響き、通りは花で埋め尽くされ、噴水からはワインが流れ出ていた。言葉では言い表せないほどの歓喜の声が響き渡っていた」と記しています。
こうして、王政復古は実現しました。それは、一人の将軍の決断と、一人の王の賢明な約束、そして何よりも、平和と安定を希求する国民全体の意思が結実した、ほとんど無血の革命でした。しかし、この歓喜の瞬間が、未来のすべての問題を解決したわけではありませんでした。王と議会、国教会と非国教徒、そして過去の傷跡といった、革命が残した複雑な課題は、チャールズ2世の治世を通じて、形を変えながら何度も姿を現すことになるのです。
復古王政の政治体制

チャールズ2世の帰還によって王政は復活しましたが、それは清教徒革命以前のチャールズ1世の時代と全く同じ政治体制に戻ったわけではありませんでした。1640年代から50年代にかけての激動の20年間は、イングランドの政治風景を不可逆的に変えていました。王政復古は、古い君主制の伝統と、革命を通じて成長した議会の権力との間に、新たな均衡点を模索する時代の始まりでした。この時代に形成された「復古王政の体制」は、国王、議会、そして枢密院と内閣という三者の複雑な力学によって特徴づけられます。
国王と議会の新たな関係

王政復古の最も重要な成果は、国王が「議会なくして統治せず」という原則を受け入れた点にあります。チャールズ1世が信奉した王権神授説に基づく絶対主義的な統治は、もはや過去のものとなりました。チャールズ2世は、父の運命を目の当たりにし、議会との協調なくして王位を維持することは不可能であると痛感していました。彼は、課税権や立法権が議会の承認を必要とすることを認め、定期的に議会を召集することに同意しました。
しかし、これは国王が単なる象徴的な存在になったことを意味するわけではありません。国王は依然として国家元首であり、行政権の最高責任者でした。大臣の任免権、軍の最高指揮権、外交交渉権、そして議会が可決した法案に対する拒否権など、国王は極めて強力な「国王大権」を保持していました。チャールズ2世は、これらの大権を巧みに行使し、自らの政策を実現しようとしました。特に、外交政策や宗教政策においては、しばしば議会の意向と対立し、緊張関係を生み出しました。
一方の議会も、革命を通じてその力を飛躍的に増大させていました。特に庶民院は、国家の財政を握る「財布の紐」を盾に、国王の政策に大きな影響力を持つようになりました。議会は、国王が必要とする歳費を承認する見返りに、自らの要求を突きつけ、政策の変更を迫ることができました。また、議会は国王の大臣を弾劾する権利を持っており、これは国王の行政に対する強力な牽制手段となりました。
この国王と議会の関係は、協力と対立が織りなす複雑なダンスのようでした。国王は自らの大権を守ろうとし、議会はその権限を拡大しようとする。この緊張関係こそが、復古王政期における政治の中核をなし、後の立憲君主制へと発展していく土台となったのです。
枢密院と内閣の役割

国王の行政を補佐する機関として、枢密院が存在しました。枢密院は、国王によって任命された高位の聖職者、貴族、そして有力な政治家たちで構成され、伝統的に国王への助言機関としての役割を担っていました。しかし、王政復古期の枢密院は数十人規模の大所帯となり、迅速な意思決定や機密の保持には不向きでした。
そこで、より効率的な統治を行うため、チャールズ2世は枢密院の中から、特に信頼する少数の側近たちを選び出し、非公式な会合を持つようになります。この小さなグループが、実質的な政策決定の中枢を担うようになり、後の「内閣」の原型となりました。
1660年代末から70年代初頭にかけて、特に影響力を持ったのが「カバル」と呼ばれる5人の大臣グループでした。クリフォード、アーリントン、バッキンガム、アシュリー(後のシャフツベリ伯)、そしてローダーデールの頭文字をとって名付けられたこのグループは、チャールズ2世の側近として、外交や内政の重要政策を主導しました。彼らは、国王個人に対して責任を負う存在であり、議会に対しては必ずしも責任を負っていませんでした。
しかし、このカバルのような密室での政策決定は、議会からの強い不信と反発を招きました。議会は、国王が「邪悪な助言者」にそそのかされて国益に反する政策を行っていると非難し、大臣個人の責任を追及しようとしました。この国王の側近グループと議会との対立は、後の時代に「内閣は議会に対して責任を負う」という責任内閣制の考え方が生まれるきっかけの一つとなりました。
騎士議会とクラレンドン法典

1661年に選出された新しい議会は、その構成員の圧倒的多数が熱烈な王党派と国教会支持者であったことから、「騎士議会」と呼ばれました。この議会は、1679年まで18年近くにわたって解散されることなく続き、復古王政初期の政治の方向性を決定づけました。
騎士議会の議員たちの多くは、内戦中に苦難を味わった地方のジェントリ(郷紳)であり、彼らは二つのことを強く望んでいました。一つは、王政と国教会の権威を再確立すること。もう一つは、二度と革命や反乱が起こらないように、その原因となった清教徒(非国教徒)の力を徹底的に削ぐことでした。
この熱烈な国教会支持の風潮の中で制定されたのが、「クラレンドン法典」として知られる一連の宗教弾圧法です。この名称は、当時の首席大臣であったクラレンドン伯エドワード=ハイドにちなんでいますが、実際には彼自身は比較的穏健であり、法律の制定を主導したのは議会の過激な王党派でした。
クラレンドン法典は、以下の4つの主要な法律から構成されます。
自治体法(1661年):都市の役人になる者は、国教会の聖餐式に参加し、国王至上権を認め、厳粛な同盟と規約(かつて議会派が掲げた盟約)を否認することを義務付けました。これは、非国教徒を地方政治から排除することを目的としていました。
礼拝統一法(1662年):全ての聖職者と教師に対し、国教会の祈祷書の使用を強制し、その内容に全面的に同意することを求めました。これを拒否した約2,000人の聖職者が教区を追放され、非国教徒の牧師となりました。
秘密集会法(1664年):国教会の礼拝形式以外で、5人以上の集会を開くことを禁止しました。これは、非国教徒が独自の礼拝を行うことを事実上不可能にするものでした。
五マイル法(1665年):国教会に従わない聖職者が、かつて説教を行った都市や、自治体法の適用を受ける町の5マイル以内に近づくことを禁止しました。これは、非国教徒の牧師が信者と接触し、影響力を持つことを防ぐための措置でした。
これらの法律は、ブレダ宣言でチャールズ2世が約束した「良心の自由」とは全く相容れないものでした。チャールズ自身は、カトリックに同情的であり、より寛容な宗教政策を望んでいましたが、騎士議会の強硬な姿勢の前に、これらの法案に同意せざるを得ませんでした。クラレンドン法典によって、イングランド国教会は再び国内唯一の公認教会としての地位を確立し、非国教徒は市民としての権利を著しく制限され、社会の二級市民として扱われることになったのです。この厳しい宗教的不寛容は、復古王政期を通じて深刻な社会対立の火種となり続けました。
宗教をめぐる対立

王政復古期のイングランドは、政治的な安定を取り戻したかに見えましたが、その水面下では常に宗教問題という激しい潮流が渦巻いていました。この時代の宗教対立は、単なる信仰箇条の違いにとどまらず、国家のアイデンティティ、王位継承、そして外国との関係といった、国家の根幹に関わる問題と密接に結びついていました。対立の構図は、大きく分けて「国教会と非国教徒の対立」と、「プロテスタントとカトリックの対立」という二つの軸で捉えることができます。
国教会と非国教徒

王政復古とともに、イングランド国教会はかつての権威と特権を完全に取り戻しました。騎士議会が制定したクラレンドン法典は、国教会の支配を法的に確立し、それに従わない長老派、会衆派、バプテスト派、クエーカー教徒といったプロテスタント系の非国教徒(ディセンター)を徹底的に弾圧するものでした。彼らは公職から追放され、独自の礼拝を禁じられ、教育の機会も制限されるなど、社会的な差別を受けました。
しかし、弾圧は彼らの信仰を根絶やしにすることはできませんでした。むしろ、迫害は彼らの結束を強め、独自のコミュニティを形成するきっかけとなりました。彼らは秘密の集会を開き、説教師を匿い、信仰を守り抜きました。ジョン=バニヤンの『天路歴程』のような、この時期に書かれた非国教徒の文学作品は、彼らの不屈の精神をよく表しています。
非国教徒は、政治的にも無視できない勢力でした。彼らは商工業者層に多く、経済的な実力を持っていました。そして、彼らは議会内の反主流派、特に後のホイッグ党となる勢力と結びつき、クラレンドン法典の緩和や廃止を求めて粘り強く活動を続けました。彼らの存在は、イングランド社会に宗教的な多様性を根付かせると同時に、国教会による一元的な支配に対する恒常的な批判勢力を形成したのです。
プロテスタントとカトリック

非国教徒への弾圧以上に、復古王政期のイングランドを揺るがしたのが、カトリックに対する恐怖と敵意でした。16世紀の宗教改革以来、イングランドではカトリックは「外国の(=ローマ教皇の)支配に繋がる、非国民的な宗教」と見なされていました。スペインの無敵艦隊や1605年の火薬陰謀事件といった歴史的な記憶は、カトリックに対する国民的な恐怖心、いわゆる「ポウパリィ(Popery)」を深く根付かせていました。カトリック教徒であることは、単に異端であるだけでなく、国家への反逆者と見なされる危険をはらんでいたのです。
この問題が特に深刻化したのは、王室自身がカトリックに傾倒しているという疑惑が広まったためです。チャールズ2世の母はカトリック教徒であり、彼自身もフランスでの亡命生活を通じてカトリックに親近感を抱いていました。彼の妃となったポルトガル王女キャサリン=オブ=ブラガンザも熱心なカトリック教徒でした。そして、何よりも問題だったのは、王位継承者であるチャールズの弟、ヨーク公ジェームズが公然とカトリックに改宗したことでした。
チャールズ2世は、治世を通じて二度にわたり、カトリック教徒を含む非国教徒全般に信仰の自由を与えようと試みました。1662年と1672年に発布された「信仰自由宣言」です。これは、国王大権を行使して、議会が制定した宗教弾圧法(クラレンドン法典)の適用を一時停止するというものでした。チャールズの動機には、宗教的寛容の理念もあったかもしれませんが、同時に、カトリック大国であるフランスとの同盟関係を円滑にし、自らの権力を強化するという政治的な計算もありました。
しかし、これらの宣言は、議会と国民の猛烈な反発を招きました。議会は、国王が議会の制定した法律を一方的に停止することは違法であると主張し、信仰自由宣言の撤回を要求しました。彼らにとって、これは単なる宗教問題ではなく、国王大権と議会主権のどちらが優位に立つかという、国家の基本構造に関わる憲政上の大問題でした。さらに、国民は、この宣言がカトリック教徒の勢力拡大への道を開き、ひいてはイングランドを再びローマ教皇の支配下に置こうとする陰謀の一環ではないかと疑いました。
この対立の結果、チャールズ2世は宣言の撤回を余儀なくされ、その見返りとして、議会は1673年に「審査法」を制定しました。この法律は、全ての公職(軍職を含む)に就く者に対して、国教会の教義(特に、カトリックが信じる聖変化の教義を否定すること)への宣誓と、国教会の聖餐式への参加を義務付けるものでした。これは、カトリック教徒を公職から完全に排除することを目的とした法律であり、カトリックに改宗していたヨーク公ジェームズは、海軍卿の職を辞任せざるを得なくなりました。審査法は、イングランドにおけるプロテスタント支配を決定づける画期的な法律となり、19世紀までその効力を持ち続けました。
カトリック陰謀事件と王位継承問題

カトリックに対する恐怖が頂点に達したのが、1678年に勃発した「カトリック陰謀事件(ポウピッシュ=プロット)」です。タイタス=オーツという名の、いかがわしい経歴を持つ元国教会聖職者が、「カトリック教徒がチャールズ2世を暗殺し、ヨーク公ジェームズを王位につけ、国を武力でカトリック化しようとしている」という壮大な陰謀を「告発」しました。
この告発は、全くの捏造でした。しかし、当時の反カトリック感情に煽られた社会は、オーツの嘘を完全に信じ込み、国全体がパニックとヒステリーに陥りました。ロンドンでは著名な治安判事が謎の死を遂げたこともあり、陰謀が実在するという恐怖は爆発的に広がりました。この集団ヒステリーの中で、無実の多くのカトリック教徒が逮捕され、偽証に基づいて処刑されました。
この事件を政治的に利用したのが、シャフツベリ伯アンソニー=アシュリー=クーパーでした。彼は、カトリック陰謀事件を煽り立て、ヨーク公ジェームズを王位継承から排除しようとする運動を組織しました。彼は、ジェームズの代わりに、チャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェームズを王位につけるべきだと主張しました。
この王位継承問題をめぐって、議会は二つの派閥に分裂しました。ジェームズの継承権を剥奪する「王位継承排除法案」を支持する人々は「ホイッグ」と呼ばれ、国王の正統な継承権を支持し、法案に反対する人々は「トーリー」と呼ばれました。これが、イギリスの二大政党制の起源となります。ホイッグは、議会の権限を重視し、非国教徒との連携を模索する傾向があり、後の自由党へと繋がっていきます。一方、トーリーは、国王の権威と国教会の支配を重んじ、後の保守党の源流となりました。
1679年から1681年にかけて、ホイッグが多数を占める議会は三度にわたって王位継承排除法案を可決しようとしましたが、チャールズ2世は議会の解散という強硬手段でこれを阻止し続けました。最終的に、チャールズ2世はフランスからの秘密資金援助によって財政的に自立し、議会なしで統治する道を選びます。彼はホイッグの指導者たちを弾圧し、シャフツベリ伯はオランダへ亡命、他の指導者も処刑されるなど、ホイッグは壊滅的な打撃を受けました。
チャールズ2世は、その治世の最後の数年間を、巧みな政治手腕で絶対主義的な統治を行い、勝利を収めたかのように見えました。しかし、彼が力で抑え込んだ宗教と王位継承をめぐる対立の炎は、決して消えたわけではありませんでした。それは、彼の死後、弟であるジェームズ2世の治世において、より激しい形で再び燃え上がることになるのです。
復古王政期の社会と文化

王政復古は、政治と宗教の世界に激震をもたらしただけでなく、イングランドの社会と文化にも深く、そして鮮やかな刻印を残しました。11年間にわたる厳格な清教徒の支配からの解放は、堰を切ったように人々のエネルギーを噴出させ、特にロンドンの宮廷を中心として、陽気で、享楽的で、そして時には放縦ともいえる独特の文化を開花させました。しかしその一方で、この時代は科学革命が頂点を迎え、近代的な知性が花開いた時代でもありました。
「陽気な君主」と宮廷文化

チャールズ2世自身が、この新しい時代の空気を体現していました。彼は「陽気な君主」というあだ名で知られるように、機知に富み、魅力的で、人生を謳歌することを愛する人物でした。長い亡命生活で苦労を重ねた彼は、堅苦しい儀礼や道徳よりも、快楽や娯楽を優先しました。彼の宮廷は、ネル=グウィンやポーツマス公爵夫人といった数多くの愛人たちで彩られ、夜ごと開かれる仮面舞踏会、賭博、そして華やかな宴に満ちていました。
この解放的な雰囲気は、清教徒時代に抑圧されていた演劇の復活に最も顕著に表れました。1642年以来閉鎖されていた劇場が再開され、イングランド演劇史上初めて、女優が舞台に立つことが許されました。ウィリアム=ウィチャリーやジョージ=エサリッジ、そしてアフラ=ベーンといった劇作家たちが書いた「王政復古喜劇」は、貴族たちの恋愛の駆け引き、そして機知に富んだ会話を赤裸々に描き出し、大衆の人気を博しました。これらの作品は、しばしば非道徳的でシニカルでしたが、人間の本性や社会の偽善を鋭く風刺する力を持っていました。
ファッションもまた、劇的に変化しました。清教徒時代の地味で質素な服装は姿を消し、フランス宮廷の影響を受けた、華やかで贅沢なスタイルが流行しました。男性は、レースの襟やカフス、リボンで飾られた色鮮やかな絹やベルベットの衣装をまとい、巨大なかつら(ペリウィッグ)をかぶることがステータスシンボルとなりました。女性のドレスは、大胆に胸元を開け、豪華な装飾が施されました。
科学革命の進展と王立協会の設立

享楽的な宮廷文化とは対照的に、復古王政期は知的な探求心が爆発した時代でもありました。この時代は、ヨーロッパ全体を席巻していた「科学革命」が、イングランドで一つの頂点を迎えた時期にあたります。
その象徴的な存在が、1660年に設立され、1662年にチャールズ2世から勅許状(ロイヤル=チャーター)を与えられた「ロンドン王立協会」です。王立協会は、「誰の言葉も鵜呑みにするな」という標語を掲げ、権威や伝統に頼るのではなく、実験と観察を通じて知識を探求することを目的としました。
協会の初期のメンバーには、近代化学の父と称されるロバート=ボイル、顕微鏡を用いて細胞を初めて観察したロバート=フック、建築家であり天文学者でもあったクリストファー=レン、そして後に万有引力の法則を発見するアイザック=ニュートンといった、錚々たる知の巨人たちが名を連ねていました。彼らは定期的に集まり、空気ポンプの実験、惑星の観測、昆虫の解剖など、多岐にわたる分野で実験や議論を重ね、その成果を論文として発表しました。
王立協会の活動は、自然界に対する人々の見方を根本から変えました。世界はもはや神の神秘的な計画によって動く不可解なものではなく、観察と理性によって理解可能な法則に支配された、秩序あるシステムであると考えられるようになったのです。この新しい科学的精神は、宗教や政治といった他の分野にも影響を与え、合理主義的な思考の基礎を築きました。
ロンドンの変貌=大疫病と大火

復古王政期のロンドンは、華やかな文化の中心地であると同時に、悲劇的な災害に見舞われた都市でもありました。
1665年、ロンドンは腺ペストの大流行、いわゆる「大疫病」に襲われました。不衛生な都市環境でネズミを介して広まったこの疫病は、わずか数ヶ月の間に、当時のロンドンの人口の約4分の1にあたる、推定10万人の命を奪いました。人々はパニックに陥り、裕福な者たちはこぞって田舎へ避難し、街には死体があふれました。ダニエル=デフォーが後に著した『ペストの年』は、この時の恐ろしい光景を克明に描いています。
そして、疫病の猛威がようやく収まりかけた翌年の1666年9月2日、プディング横丁のパン屋から出火した火の手は、瞬く間に燃え広がり、ロンドンを4日間にわたって焼き尽くす「ロンドン大火(The Great Fire of London)」となりました。木造家屋が密集していた中世以来の市街地の大部分は灰燼に帰し、セント=ポール大聖堂を含む13,000軒以上の家屋と87の教区教会が焼失しました。
しかし、この二つの大災害は、皮肉にもロンドンが近代的な都市として生まれ変わるきっかけとなりました。大火の後、チャールズ2世は直ちに復興計画に着手しました。クリストファー=レンらの建築家は、道路を拡幅し、建物をレンガや石で建てることを義務付けるなど、防災を考慮した新しい都市計画を立案しました。この計画の全てが実現したわけではありませんが、ロンドンの街並みは一新されました。レンは、壮麗なドームを持つ新しいセント=ポール大聖堂をはじめ、50以上の教会を再建し、その美しい尖塔群は、今日のロンドンのスカイラインの原型を形作りました。
この時代、ロンドンは商業の中心地としても発展を続けました。コーヒーハウスが新たな社交場として登場し、人々はそこで新聞を読み、商談を行い、政治を論じ合いました。保険市場であるロイズや、証券取引所の原型もこの時期に生まれています。災害からの復興を通じて、ロンドンは中世の都市から、近代的な商業・金融都市へと変貌を遂げていったのです。
王政復古の終焉

チャールズ2世の巧みな政治運営によって保たれていた復古王政の均衡は、彼の死とともに脆くも崩れ去りました。彼の後を継いだ弟、ジェームズ2世の短くも激しい治世は、王政復古期に潜在していたすべての矛盾を噴出させ、最終的には「名誉革命」として知られる無血クーデターによって、その幕を閉じることになります。王政復古の時代は、ステュアート朝の絶対主義的な野望が、議会主権とプロテスタント支配を求める国民の意思の前に、最終的に敗北するまでの物語でもありました。
ジェームズ2世の治世とカトリック化政策

1685年2月、チャールズ2世が崩御し、ヨーク公ジェームズがジェームズ2世として即位しました。彼はイングランド史上、ヘンリー8世の娘メアリー1世以来となる、公然たるカトリック教徒の国王でした。即位当初、彼は国民の宗教と権利を守ることを約束し、トーリー党が多数を占める議会も彼を支持しました。王位継承排除法案をめぐる激しい対立の後、多くの人々は、ジェームズが高齢であり、彼の後継者はプロテスタントである娘のメアリー(オランダ総督ウィレム3世の妻)とアンであることから、彼の治世は一時的なものに過ぎないと考え、静観する姿勢をとっていました。
しかし、ジェームズ2世は兄チャールズのような柔軟性や政治的嗅覚に欠け、自らの信仰であるカトリックの地位向上を、性急かつ強引に推し進めようとしました。彼は、カトリック教徒を公職から排除する審査法や、非国教徒の活動を制限するクラレンドン法典を、国家の統一を妨げる悪法と見なしていました。
即位直後の1685年6月、チャールズ2世の庶子であるモンマス公が、ジェームズの王位を狙ってイングランド南西部に上陸し、反乱を起こしました(モンマスの反乱)。この反乱は、地元の非国教徒や農民の一部に支持されましたが、国王軍によって容赦なく鎮圧されます。ジェームズは、この反乱を鎮圧した後、「血の巡回裁判」として知られる厳しい報復を行い、数百人を処刑、多数を奴隷として西インド諸島に送りました。この過酷な処置は、国民に恐怖心を植え付けました。
さらにジェームズは、この反乱を口実に、国王大権を用いて平時においても大規模な常備軍を維持し、その将校として多くのカトリック教徒を任命し始めます。これは、審査法を公然と無視する行為であり、議会との深刻な対立を引き起こしました。議会がこれに抗議すると、ジェームズは1685年11月に議会を停会させ、その後は二度と召集しませんでした。
議会の抵抗がなくなると、ジェームズの行動はさらに大胆になります。彼は、国王が特定の法律の適用を特定の個人に対して免除する権限と、法律全体の効力を一時的に停止する権限があると主張しました。1687年4月、彼はこの権限を行使して「信仰自由宣言」を発布します。これは、審査法を含む全ての宗教的刑罰法を停止し、カトリック教徒と非国教徒に完全な信仰の自由と公職に就く権利を与えるという、画期的な内容でした。
表面的には寛容な政策に見えましたが、その真の狙いは、カトリック教徒の完全な解放と地位向上にあることは明らかでした。多くの非国教徒でさえ、この宣言を「カトリック化へのトロイの木馬」と見なし、警戒しました。彼らは、国王が議会の立法権を無視して絶対主義的な統治を進めるための口実として、宗教的寛容を利用していることを見抜いていたのです。ジェームズはさらに、大学の役職にカトリック教徒を強引に任命するなど、国教会の特権領域にまで踏み込み始め、かつて彼を支持したトーリー党や国教会聖職者たちをも敵に回してしまいました。
名誉革命の勃発

決定的な転機は、1688年に訪れました。この年、ジェームズ2世は二つの行動によって、イングランドの支配層の忍耐の限界を超えさせます。
第一に、彼は1687年の信仰自由宣言を再発布し、全国の国教会の説教壇でこれを読み上げるよう命じました。カンタベリー大主教ウィリアム=サンクロフトを含む7人の主教たちは、国王の法律停止権は違法であるとして、この命令に従うことを拒否する請願書を提出しました。激怒したジェームズは、彼らを扇動文書誹毀罪で逮捕し、ロンドン塔に投獄しました。しかし、ロンドンで行われた裁判で、陪審は主教たちに無罪の評決を下します。この評決は、国民的な歓喜をもって迎えられ、ジェームズの権威は大きく失墜しました。
第二に、そしてこれが最も決定的な出来事でしたが、1688年6月10日、ジェームズ2世の妃であるメアリー=オブ=モデナが王子ジェームズ=フランシス=エドワードを出産したのです。それまで、人々はジェームズの死後、プロテスタントである娘のメアリーが王位を継ぐことを期待していました。しかし、カトリック教徒として育てられるであろう王子の誕生は、カトリック王朝が永続する可能性を現実のものとしました。これは、イングランドのプロテスタント支配層にとって、到底受け入れがたい悪夢でした。王子の誕生をめぐっては、「実は死産であり、別の赤ん坊とすり替えられたのだ」という噂が広まるほど、国民の動揺は深刻でした。
この二つの出来事を受け、ホイッグ、トーリー両党の有力者たちは、ついに党派を超えて結束します。1688年6月30日、7人の貴族や主教(「不滅の7人」として知られる)が連名で、ジェームズ2世の娘メアリーの夫であり、オランダ総督のウィレム3世(英語名ウィリアム=オブ=オレンジ)に秘密の書簡を送りました。彼らは、ウィレムに対し、「イングランド国民の権利と自由を回復するため」、軍を率いてイングランドに上陸するよう招聘したのです。
プロテスタントの擁護者として知られていたウィレムにとって、これは絶好の機会でした。彼は、当時ヨーロッパで勢力を拡大していたフランスのルイ14世に対抗するため、イングランドを自らの対フランス大同盟に引き入れたいと考えていました。彼は招聘を受諾し、周到な準備の末、1688年11月5日、約15,000の兵を率いてイングランド南西部のトーベイに上陸しました。
ジェームズ2世は、ウィレムの軍を迎撃しようとしましたが、彼の軍隊は次々と寝返り、崩壊していきました。かつて彼に忠誠を誓ったジョン=チャーチル(後のマールバラ公)のような有力な将軍や、さらには彼自身の娘であるアンまでもがウィレムの側に寝返るに及び、ジェームズは完全に孤立します。戦意を喪失した彼は、王妃と生まれたばかりの王子をフランスへ逃がした後、自らも国璽をテムズ川に投げ捨て、フランスへと亡命しました。
ウィレムは、戦闘を交えることなくロンドンに入城しました。ジェームズが自ら国を捨てて逃亡したことで、この政変はほとんど血を流すことなく達成されました。これが「名誉革命」と呼ばれる所以です。
権利の章典と王政復古の遺産

ジェームズの亡命によって生じた権力の空白を埋めるため、1689年1月に臨時議会(コンヴェンション=パーラメント)が召集されました。長い議論の末、議会は、ジェームズ2世が「国王と国民の間の根源的な契約を破り、王国から逃亡したことによって、王位は空位となった」と宣言しました。そして、ウィレムとメアリーを共同統治者(ウィリアム3世とメアリー2世)として王位につけることを決定しました。
しかし、議会はただ新しい国王を迎えただけではありませんでした。彼らは、二度とジェームズ2世のような専制君主が現れないように、国王の権力を法的に制限し、国民(実際には議会とプロテスタント支配層)の権利を保障するための文書を作成しました。これが「権利の宣言」であり、後に法制化されて「権利の章典(Bill of Rights)」となるものです。
1689年に制定された権利の章典は、イギリス憲政史における最も重要な文書の一つです。その主な内容は以下の通りです。
議会の同意なく、国王が法律を停止したり、その適用を免除したりすることは違法である。
議会の承認なく、国王大権によって課税することは違法である。
国民が国王に請願する権利を侵害してはならない。
議会の同意なく、平時に常備軍を維持することは違法である。
プロテスタント国民が自衛のために武器を保有する権利を侵害してはならない。
議会における言論の自由は、議会外で問責されたり問題にされたりしてはならない。
議会は頻繁に召集されなければならない。
権利の章典は、国王が法の下にあることを明確にし、議会の主権を確立しました。これにより、イングランドは王権神授説に基づく君主制から、法に基づく立憲君主制へと決定的に移行したのです。また、カトリック教徒が王位に就くことを永久に禁止し、イングランドがプロテスタント国家であることを不動のものとしました。
王政復古の時代は、1660年のチャールズ2世の帰還に始まり、1688年の名誉革命によって終わりを告げました。この約30年間は、革命の動乱から伝統的な君主制への回帰を試みた時代でした。しかし、それは単なる揺り戻しではありませんでした。この時代を通じて、国王と議会の権力闘争、国教会と非国教徒の対立、そしてプロテスタントとカトリックの深刻な亀裂が絶えず続きました。
チャールズ2世の「陽気な」宮廷文化や、王立協会の設立に象徴される知性の開花といった華やかな側面を持つ一方で、その根底には常に、清教徒革命が残した「統治権はどこにあるのか」という根本的な問いが存在していました。王政復古は、その問いに対する答えを見つけようとする、苦難に満ちた模索の過程でした。そして、その最終的な答えが、名誉革命と権利の章典によって示された「主権は国王ではなく、議会にあり」という原則だったのです。
したがって、王政復古は、単にステュアート朝が一時的に復活した時代としてではなく、絶対王政から立憲君主制へと至る、イギリス近代国家形成の過程における、不可欠でダイナミックな移行期として理解されるべき歴史的出来事といえます。
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・王政復古とは わかりやすい世界史用語2711

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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