市民革命後のイギリス
ピューリタン革命、名誉革命という2つの市民革命を経て、イギリスの政治体制は大きく変わります。
市民革命後、ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治はうまくいきました。
二度の革命を経て、議会が大きな権限を持つようになり、それに加えて、もともとオランダ総督だったウィリアム3世はイギリスの内情をあまり知らなかったので、自分から積極的に政治に関与しようとしなかったからです。
この国王と議会の関係により、憲法など、法律に基づいて行われる
立憲政治の基盤が出来上がります。
ウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかったため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹の
アン女王が即位します。
(アン女王)
アン女王の時代、1707年には、イングランドがスコットランドを併合します。また、スペイン継承戦争の戦闘の一つで、北アメリカでイギリスとフランスが戦った戦争を
アン女王戦争といいます。
アン女王にも最終的に跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると、
ステュアート朝が断絶します。
ハノーヴァー朝のはじまり
アン女王の死後、ドイツのハノーヴァー選帝侯だった
ジョージ1世を王として迎え、新たに
ハノーヴァー朝がはじまります。
(ジョージ1世)
選帝侯というのはドイツ皇帝の選出権をもつ有力な諸侯のことです。ジョージ1世はドイツ語ではゲオルグ1世。ちなみにハノーヴァー朝はその後第一次世界大戦でドイツが敵国となった関係でドイツ系の名称を嫌い、1917年以降、宮殿の地名に由来するウィンザー朝という王朝になっています。
ジョージ1世はジェームズ1世の曾孫でしたが、40歳を過ぎイギリス国王に即位し、英語が苦手で、ドイツ滞在が多かったため、国王に変わって首相と内閣がイギリスの政治を行うという制度が発展します。
こうした流れを受けて、
ホイッグ党の
ウォルポール首相のもと、内閣が議会に責任を負うという
責任内閣制が確立します。
(初代首相ウォルポール)
ジョージ1世以降、「王は君臨すれども統治せず」というイギリス王の地位と責任内閣制を象徴する言葉が生まれました。