ホッブズとは
トマス=ホッブズは、17世紀のイングランドを生きた哲学者であり、その思想は西洋の政治哲学の歴史に決定的な転換をもたらしました。彼の名は、主著『リヴァイアサン』と共に、絶対主権論の提唱者として、また社会契約説の主要な創始者の一人として、今日まで広く知られています。ホッブズが生きた時代は、イングランドが宗教改革の余波と内戦の動乱によって引き裂かれた、激動の時代でした。国王と議会の対立が武力衝突へと発展し、国王が処刑され、共和制が樹立され、そして最終的に王政が復古するという、前代未聞の政治的変動を、彼はその目で目撃しました。
この暴力と無秩序の経験は、ホッブズの哲学、特に彼の人間観と国家観に深い影響を及ぼすことになります。彼は、人間を自己保存の欲望に駆られる利己的な存在として捉え、もし国家という強制力が存在しなければ、社会は「万人の万人に対する闘争」という悲惨な自然状態に陥ると論じました。この混乱を避ける唯一の方法は、人々が自らの自然権を放棄し、絶対的な権力を持つ一つの主権者にそれを委ねるという社会契約を結ぶことである、と彼は主張したのです。この強力な主権者こそが、聖書に登場する海の怪物にちなんで彼が名付けた「リヴァイアサン」に他なりません。
ホッブズの思想は、その徹底した唯物論と人間性に対する冷徹な分析ゆえに、当時の多くの人々から強い反発を受けました。彼は無神論者であると非難され、その著作は危険思想として攻撃の対象となりました。しかし、彼の議論の射程は、単なる政治論にとどまるものではありませんでした。彼は、ガリレオやケプラーといった同時代の科学革命の担い手たちと交流し、その幾何学的な、あるいは機械論的な世界観を自らの哲学体系全体に取り入れようと試みました。物体、人間、そして国家という三つの主題を、運動という一つの基本原理から演繹的に説明しようとする彼の壮大な試みは、哲学の歴史において類を見ないものです。
彼の生涯は、91年という当時としては驚異的な長寿に及びました。その長い人生の中で、彼は貴族の子弟の家庭教師としてヨーロッパ大陸を幾度となく旅し、当代一流の知識人たちと知的な交流を重ねました。パリの亡命サークルでは、デカルトやガッサンディといった哲学者たちと論争を交わし、フィレンツェでは、軟禁状態にあったガリレオ=ガリレイを訪問しています。また、イングランド内戦中は、王党派としての立場からパリへの亡命を余儀なくされ、そこで若き日のチャールズ2世の数学教師を務めました。
王政復古後にイングランドへ帰国してからも、彼の後半生は論争に満ちたものでした。特に、数学者のジョン=ウォリスとの間で行われた、円積問題などを巡る激しい論争は有名です。また、彼の思想が内戦の原因を作ったとして議会から追及されるなど、その晩年は決して平穏なものではありませんでした。しかし、彼はその強靭な精神力と知的好奇心を失うことなく、80歳を過ぎてからホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を翻訳するという偉業を成し遂げています。
ホッブズの哲学は、個人の権利よりも国家の秩序を優先するその結論ゆえに、しばしば権威主義的であると批判されます。しかし、彼の議論の出発点が、生まれや身分によらない、すべての個人が平等な権利を持つという近代的な前提にあったことを見過ごしてはなりません。彼は、神や伝統といった超越的な権威に頼ることなく、人間の理性と合意に基づいて国家の正統性を基礎づけようとした、最初の近代的な政治哲学者の一人でした。彼の思想は、ジョン=ロックやジャン=ジャック=ルソーといった後世の社会契約論者たちにとって、乗り越えるべき巨大な目標となり、その影響は、のちの政治哲学の議論にまで及んでいます。
青年期
トマス=ホッブズの長い生涯は、イングランドの歴史における大きな転換点となる出来事と共に幕を開けました。彼の知的形成期は、エリザベス朝後期の文化的興隆と、それに続くステュアート朝初期の政治的緊張の高まりという時代背景の中で形作られていきました。
誕生と家庭環境
トマス=ホッブズは、1588年4月5日、イングランド南西部のウィルトシャーにあるウェストポートという村で生まれました。彼の父、同じくトマス=ホッブズは、近隣のチャールトンとウェストポートの教区牧師でしたが、教育レベルは高くなく、読み書きができる程度であったと言われています。ホッブズ自身の後の回想によれば、彼の誕生は、スペインの無敵艦隊がイングランドに迫っているという報せがもたらした恐怖によって、予定よりも早まったものでした。彼は自伝の中で、「母は私と恐怖という双子を産んだ」と記しており、この「恐怖」という感情が、彼の生涯と哲学を貫く重要なテーマとなることを暗示しています。
彼の家庭環境は、決して安定したものではありませんでした。父は気性が荒く、教会の墓地で他の聖職者と殴り合いの喧嘩を起こしたことが原因で、職を追われ、ロンドンへと逃亡してしまいます。その後、彼は二度と家族の元へ戻ることはありませんでした。残された三人の子供たちの養育は、ホッブズの父の兄であり、裕福な手袋職人であったフランシス=ホッブズの手に委ねられることになります。この叔父の経済的な支援がなければ、若きホッブズが高度な教育を受けることは不可能だったでしょう。
初期の教育
ホッブズは、幼い頃から並外れた知的能力の片鱗を見せていました。4歳でウェストポートの教会学校に入学し、読み書きと計算を学び始めます。6歳になると、ラテン語とギリシャ語の学習を始めました。その後、マームズベリーの私立学校に移り、ロバート=ラティマーという、オックスフォード大学を卒業した優秀な古典学者に師事します。ラティマーの下で、ホッブズの語学の才能は大きく開花しました。伝えられるところによれば、彼はわずか14歳の時に、エウリピデスのギリシャ悲劇『メディア』をラテン語のイアンボス詩に翻訳するという、驚くべき成果を上げています。
この古典語の深い素養は、ホッブズの知的生涯全体を通じて、彼の思想の基盤となりました。それは、後に彼が古代ギリシャの歴史家トゥキディデスの著作を翻訳する際や、自身の哲学を精密なラテン語で表現する際に、大いに役立つことになります。
オックスフォード大学時代
1603年、叔父フランシスの資金援助を受け、ホッブズはオックスフォード大学のモードリン=ホールに入学します。モードリン=ホールは、後にオックスフォード大学のハートフォード=カレッジとなる学寮で、当時はピューリタン的な学風で知られていました。
しかし、ホッブズは、オックスフォードで教えられていたスコラ哲学に強い不満を抱いていました。アリストテレスの論理学や物理学を中心とする当時の大学のカリキュラムは、彼にとって、無意味で曖昧な言葉遊びにしか思えませんでした。彼は、形式的な討論や演習を軽蔑し、大学の図書館で、自分の興味の赴くままに、地図や天文学の書物を読みふけることを好んだと言われています。彼は、大学の教育が、真理の探究ではなく、権威への盲従を強いるものであると感じていました。この大学での経験は、ホッブズの中に、伝統的な権威や学問に対する生涯にわたる懐疑心を植え付けることになります。
学業には必ずしも熱心ではなかったものの、ホッブズは1608年に首尾よく学士号を取得しました。卒業に際して、モードリン=ホールの学寮長であったジョン=ウィルキンソンは、彼をウィリアム=キャヴェンディッシュ(後の初代デヴォンシャー伯爵)の息子の家庭教師として推薦します。この出来事が、ホッブズのその後の人生の方向性を決定づけることになりました。キャヴェンディッシュ家との長年にわたる関係は、彼に経済的な安定と、ヨーロッパの知的世界に触れる貴重な機会をもたらすことになるのです。
キャヴェンディッシュ家との関係
1608年にオックスフォード大学を卒業したトマス=ホッブズは、有力な貴族であるキャヴェンディッシュ家の家庭教師となりました。この関係は、彼の生涯を通じて断続的に続き、ホッブズの知的成長、社会的地位、そして政治的信条の形成に計り知れない影響を与えました。
初代デヴォンシャー伯爵家の家庭教師
ホッブズが最初に教えることになったのは、ウィリアム=キャヴェンディッシュ(後の第2代デヴォンシャー伯爵)でした。彼は、ホッブズよりわずか2歳年下であり、二人の関係は、単なる教師と生徒というよりも、親しい友人、そして旅の仲間といったものでした。ホッブズは、家庭教師としての役割に加えて、キャヴェンディッシュ家の秘書や財産管理人としても働き、その実務能力を発揮しました。
この関係がホッブズにもたらした最大の恩恵は、ヨーロッパ大陸へのグランドツアーに同行する機会を得たことです。1610年から1615年にかけて、ホッブズは若きウィリアムと共に、フランス、イタリア、ドイツを巡る旅に出ました。この旅は、オックスフォードの閉鎖的なスコラ哲学の世界しか知らなかったホッブズにとって、まさに目を開かされる経験でした。彼は、大陸の様々な政治体制や文化に触れると共に、アリストテレス哲学とは異なる、新しい科学や哲学の動向に接することになります。特に、ヴェネツィアでは、当時の教皇庁とヴェネツィア共和国との間の政教分離を巡る論争に関わっていた学者パオロ=サルピの側近フルジェンツィオ=ミカンツィオと知り合い、政治と宗教の関係について深く考えるきっかけを得ました。
この最初のグランドツアーを通じて、ホッブズは、大学で教えられていたスコラ哲学の不毛さを改めて痛感し、真の知識は、古代の文献を直接研究することによって得られるべきであるという確信を深めました。イングランドに帰国後、彼は古典研究に没頭し、古代ギリシャ=ローマの歴史家や詩人たちの著作を熱心に読み込みました。
トゥキディデスの翻訳
この時期の古典研究の集大成が、1629年に出版された、古代ギリシャの歴史家トゥキディデスの『戦史』(ペロポネソス戦争史)の英訳です。ホッブズが、数ある古典の中からなぜトゥキディデスを選んだのか、その理由は彼の政治思想の萌芽を知る上で非常に重要です。
トゥキディデスは、ペロポネソス戦争の歴史を、神話的な解釈を排し、人間の権力欲や恐怖といった感情が引き起こす冷徹な政治的力学の観点から分析しました。ホッブズは、トゥキディデスの著作の中に、アテナイの民主政が衆愚政治に陥り、国家を破滅へと導いていく過程を見て取りました。彼は、民主政が雄弁家による民衆の扇動に陥りやすく、不安定で危険な政体であると考えたのです。
この翻訳書の序文で、ホッブズは、トゥキディデスの歴史叙述が、読者に対して、いかにして政治的な判断を誤らないようにするかを教える、最も政治的な書物であると述べています。この翻訳作業を通じて、ホッブズは、人間の本性に対する現実主義的な見方と、安定した統治のためには強力な権力が必要であるという、後の彼の政治哲学の根幹をなす思想を形成していきました。この著作は、イングランドで国王チャールズ1世と議会の対立が深刻化しつつある時期に出版されており、暗に民主的な議会の要求に対する警告を発するものであったと解釈されています。
ニューカッスル伯爵家との交流
1628年、彼の最初の生徒であった第2代デヴォンシャー伯爵が若くして亡くなり、ホッブズは一時的にキャヴェンディッシュ家を離れます。彼は、サー=ジャーヴァス=クリフトンの息子の家庭教師として、再び大陸へ渡りました。
しかし、キャヴェンディッシュ家との縁が切れたわけではありませんでした。1631年、彼はデヴォンシャー伯爵家に呼び戻され、亡くなったかつての生徒の息子、ウィリアム=キャヴェンディッシュ(後の第3代デヴォンシャー伯爵)の家庭教師となります。
この時期、ホッブズは、キャヴェンディッシュ家の分家である、ウィリアム=キャヴェンディッシュ(後の初代ニューカッスル公爵)を中心とする知的なサークルにも頻繁に出入りするようになります。ニューカッスルは、科学や哲学に深い関心を持つパトロンであり、彼の邸宅には、イングランドの著名な科学者、数学者、思想家たちが集っていました。この「ウェルベック=サークル」や「ニューカッスル=サークル」として知られる集まりで、ホッブズは、イングランドにおける新しい科学の動向に触れ、後の彼の唯物論的哲学の基礎を築くことになります。
キャヴェンディッシュ家との長年にわたる関係は、ホッブズに、単なる経済的支援以上のものをもたらしました。それは、彼を知のフロンティアへと導き、彼の思想を育むための知的な土壌を提供し、そして彼の政治的立場を王党派として方向づける、決定的な役割を果たしたのです。
知的覚醒と哲学体系の構想
1630年代は、トマス=ホッブズの知的生涯において、決定的な転換期となりました。この時期、彼は二つの重要な知的発見を通じて、自らの哲学体系の基礎となる着想を得ます。それは、ユークリッド幾何学との出会いと、ガリレオに代表される新しい自然科学=機械論的世界観への傾倒でした。
ユークリッド幾何学との出会い
ホッブズが40歳を過ぎた頃、彼は偶然にもユークリッドの『原論』に出会います。伝記作家ジョン=オーブリーが伝える有名な逸話によれば、ホッブズはある紳士の書斎で、開かれたままになっていた『原論』を目にしました。そこに書かれていたピタゴラスの定理の証明を読み進めるうちに、彼はその論理の厳密さと確実性に衝撃を受けます。一つの命題が、先行する自明な公理や定義から、疑いようのない形で論理的に導き出されている。この演繹的な証明の方法こそ、スコラ哲学の曖昧な議論とは全く異なる、確実な知識を構築するための真の方法であると、彼は直感しました。
この発見は、ホッブズに「哲学の父は理性であり、母は経験である」という考えを抱かせました。彼は、哲学もまた、幾何学のように、明確な定義から出発し、厳密な論理的推論を積み重ねることによって、確実な結論を導き出すことができるはずだと考えたのです。この幾何学的な方法論は、後の彼の哲学体系全体を貫く基本設計となります。彼は、複雑な社会現象や人間の感情でさえも、単純な構成要素に分解し、それらの運動法則から再構成することで説明できると考えるようになりました。
大陸での知的交流とガリレオの訪問
1634年から1636年にかけて、ホッブズは三度目となる大陸へのグランドツアーに、彼の新しい生徒である第3代デヴォンシャー伯爵と共に旅立ちます。この旅は、彼の知的覚醒を決定的なものにしました。
パリで、彼は、当代一流の知識人たちが集うサークルに参加する機会を得ます。その中心人物は、数学者であり、哲学のパトロンでもあったマラン=メルセンヌでした。メルセンヌのサークルを通じて、ホッブズは、ルネ=デカルトやピエール=ガッサンディといった、新しい哲学の旗手たちと知り合い、彼らと活発な知的交流を行いました。特に、デカルトが『省察』を出版する前にその草稿をメルセンヌに回覧した際、ホッブズはそれに対する反論を寄せており、そのやり取りは『省察』の第三反論として収録されています。ホッブズは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という出発点には同意しつつも、思考する実体としての「精神」という非物質的な存在を認めることには、断固として反対しました。これは、彼の徹底した唯物論的な立場を明確に示しています。
この旅のハイライトは、1636年にフィレンツェ近郊のアルチェトリで、異端審問所によって軟禁されていたガリレオ=ガリレイを訪問したことです。ガリレオは、すべての自然現象は、運動する物体の相互作用として説明できるという、機械論的な自然観を提唱していました。ホッブズは、ガリレオの思想に深く感銘を受け、この「運動」という概念こそが、あらゆる事象を説明するための普遍的な原理であると確信します。
三部作『哲学の原理』の構想
これらの知的経験を経て、イングランドに帰国したホッブズは、自らの哲学体系の壮大な構想を練り上げます。それは、『哲学の原理』と題された三部作であり、世界のすべてを「運動」という単一の原理から演繹的に説明しようとする、野心的な試みでした。
第一部『物体論』では、自然界の物体とその運動法則を扱います。これは、彼の哲学の基礎となる自然哲学です。
第二部『人間論』では、人間を一種の自然機械として捉え、その感覚、想像、情念、そして理性といった働きを、外部からの刺激(運動)が体内で引き起こす微細な運動として説明しようとします。
そして、第三部『市民論』では、人間という原子的な個体から、いかにして「国家」という人工的な物体(リヴァイアサン)が形成されるのかを論じます。政治社会もまた、自己保存という根本的な欲望(運動)に駆られた個人間の相互作用の結果として説明されるのです。
ホッブズは当初、この三部作を『物体論』、『人間論』、『市民論』の順番で執筆し、出版する計画でした。しかし、イングランドの政治情勢が急速に悪化し、内戦の危機が目前に迫る中で、彼はこの計画を変更せざるを得なくなります。社会の平和と秩序を回復するための処方箋を緊急に示す必要性を感じた彼は、三部作の最後に来るはずだった政治哲学のパートを、最初に執筆し、公にすることを決意したのです。この決断が、彼の最初の政治哲学書である『法学要綱』、そして亡命先のパリで出版されることになる『市民論』へと繋がっていきます。
イングランド内戦と亡命
1630年代末から1640年代にかけて、イングランドは国王チャールズ1世と議会の対立が激化し、ついに内戦へと突入しました。この政治的激動は、トマス=ホッブズの人生と哲学に決定的な影響を与え、彼は自らの身の安全のために、長きにわたるフランスへの亡命を余儀なくされました。
『法学要綱』と亡命の決意
1640年、イングランドの政治的緊張は頂点に達していました。チャールズ1世は、スコットランドとの戦争の戦費を得るために、11年ぶりに議会を召集しましたが、議会は国王の政策を厳しく批判し、両者の対立は決定的となりました。この「短期議会」が解散され、続く「長期議会」が召集されるという緊迫した状況の中で、ホッブズは自らの政治思想をまとめた小冊子『法学要綱』を執筆しました。
この著作は、正式に出版されたものではなく、彼のパトロンであったニューカッスル伯爵をはじめとする、王党派のサークルの間で、手稿の形で回覧されました。その中でホッブズは、後の『リヴァイアサン』の思想の原型となる、絶対主権論を展開しました。彼は、国家の主権は分割不可能であり、国王と議会が権力を分かち合うことは、無政府状態と内戦につながるだけであると論じました。そして、臣民は、平和と秩序を維持するために、主権者の命令に絶対的に服従する義務があると主張したのです。
この著作は、議会派の立場を真っ向から否定するものでした。長期議会が、国王の側近であったストラフォード伯爵やロード大主教を弾劾し、逮捕するなど、急進的な動きを見せる中で、ホッブズは、自らが議会の攻撃の標的になるのではないかという恐怖を感じ始めます。彼は後に、「自分が最初にイングランドから逃げ出した人間の一人だ」と記しています。1640年後半、ホッブズは、身の危険を感じて、イングランドを脱出し、パリへと亡命しました。この亡命生活は、11年にも及ぶことになります。
パリでの亡命生活と『市民論』
パリには、ホッブズと同じように、イングランド内戦の激化を逃れてきた多くの王党派の亡命者たちが集まっていました。ホッブズは、再びメルセンヌの知的なサークルに身を置き、デカルトらとの哲学的な交流を再開しました。
この亡命期間中に、ホッブズは彼の哲学体系の構築を着実に進めていきました。イングランドの惨状を目の当たりにし、政治哲学の重要性を痛感していた彼は、当初の計画を変更し、三部作の第三部にあたる『市民論』をラテン語で執筆し、1642年にパリで私家版として出版しました。この著作は、より洗練された形で『法学要綱』の議論を発展させたものであり、自然状態、社会契約、そして主権者の絶対的な権力といった、ホッブズ政治哲学の核心的な要素が、体系的に論じられています。1647年には、アムステルダムのエルゼビア社から公刊版が出版され、ホッブズの名は、政治哲学者としてヨーロッパ大陸の知識人たちの間に広く知られるようになりました。
チャールズ2世の家庭教師と『リヴァイアサン』の執筆
1646年、ホッブズの人生に新たな転機が訪れます。内戦に敗れたチャールズ1世の息子であり、王位継承者であった若きプリンス=オブ=ウェールズ(後のチャールズ2世)が、パリに亡命してきたのです。ホッブズは、その優れた学識を買われ、1646年から1648年にかけて、この未来の国王の数学教師を務めることになりました。この関係は、後に王政が復古した際に、ホッブズの立場を保護する上で重要な役割を果たすことになります。
亡命生活の後半、ホッブズは、自らの政治哲学の集大成となる著作の執筆に没頭します。それが、彼の名を不滅のものにした主著『リヴァイアサン、あるいは教会的および市民的コモンウェルスの素材、形体、および権力』です。この著作は、これまでのラテン語による学術書とは異なり、母国語である英語で書かれました。それは、学者のコミュニティだけでなく、イングランドの幅広い読者層に向けて、内戦の原因を分析し、永続的な平和を確立するための道を指し示すことを目的としていました。
『リヴァイアサン』は、1651年にロンドンで出版されました。しかし、その内容は、亡命中の王党派の仲間たちから、強い反発と疑惑を招くことになります。ホッブズは、臣民の主権者への服従義務は、主権者が彼らを保護する能力を持つ限りにおいてのみ存続すると論じました。これは、内戦に敗れたチャールズ1世への忠誠を捨て、イングランドで新たに権力を確立したクロムウェルの共和制政府に服従することを、事実上、正当化する議論であると解釈されたのです。
さらに、『リヴァイアサン』の後半部分で展開された、教会を国家の主権の下に完全に服属させるべきであるという徹底した教会論は、フランスの強力なカトリック教会の怒りを買いました。ホッブズは、フランス政府によって逮捕される危険を感じるようになります。王党派のサークルからは裏切り者と見なされ、カトリック教会からは異端者として狙われるという、二重の危機に直面したホッブズは、1651年の冬、再び逃亡を決意します。今度は、故国イングランドへと、彼は密かに帰国したのです。
『リヴァイアサン』と論争の時代
1651年末にイングランドへ帰国したトマス=ホッブズは、その後の人生を、自らの思想を巡る絶え間ない論争の中で過ごすことになります。彼の主著『リヴァイアサン』は、イングランドの知的世界に巨大な衝撃を与え、激しい賞賛と、それ以上に激しい非難を巻き起こしました。
『リヴァイアサン』の衝撃
ホッブズが帰国したイングランドは、オリバー=クロムウェルが率いる共和制の支配下にありました。『リヴァイアサン』で展開された、事実上の権力者への服従を正当化する議論は、ホッブズが新体制への忠誠を誓うことを可能にしました。彼は、ロンドンで比較的平穏な生活を送り、彼の哲学体系の残りの部分である『物体論』(1655年)と『人間論』(1658年)を完成させ、出版しました。
しかし、『リヴァイアサン』の内容は、あらゆる方面から攻撃の的となりました。王党派は、彼が王権神授説を否定し、君主制を数ある政体の一つとして相対化したことを許しませんでした。議会派や共和主義者たちは、彼の絶対主権論が、市民の自由を抑圧する暴政を正当化するものであると批判しました。
最も激しい攻撃は、聖職者たちから寄せられました。ホッブズは、聖書を唯物論的な観点から解釈し、奇跡や預言を否定し、魂の不滅や地獄の永続的な存在といった伝統的なキリスト教の教義に疑問を呈しました。そして、教会を国家の主権の下に完全に置くべきだと主張したのです。これらの議論は、彼に「マームズベリーの怪物」という不名誉な称号をもたらし、彼は無神論者であるという非難に生涯つきまとわれることになります。オックスフォード大学は、1683年に彼の著作を焚書の刑に処しました。
ジョン=ウォリスとの数学論争
ホッブズが巻き込まれた論争は、政治や神学の分野に限りませんでした。彼は、オックスフォード大学のサヴィル幾何学教授であったジョン=ウォリスとの間で、長年にわたる激しい数学論争を繰り広げました。
この論争の発端は、ホッブズが自著『物体論』の中で、円の面積を正方形で求める「円積問題」の解法を発表したことでした。ウォリスは、ホッブズの解法に数学的な誤りがあることを即座に指摘し、彼を厳しく批判しました。これに対してホッブズは猛然と反論し、二人の間の論争は、幾何学の基礎、無限の概念、そして大学の役割といった、より広範なテーマへとエスカレートしていきました。
ホッブズは、ウォリスが用いる代数的な新しい解析幾何学を、記号の無意味な操作であると見なし、ギリシャの古典的な幾何学こそが真の学問であると主張しました。一方、ウォリスは、ホッブズを、時代遅れの知識しか持たない傲慢なアマチュアであると嘲笑しました。この論争は、互いを中傷するパンフレットの応酬となり、20年以上にわたって続きました。現代の数学史家の見解では、この論争はウォリスの圧勝に終わったとされていますが、それは、伝統的な幾何学的方法に固執するホッブズと、新しい解析学の力を信じるウォリスとの間の、世界観の衝突でもありました。
ジョン=ブランホールとの自由意志論争
もう一つの重要な論争は、アイルランド大主教であったジョン=ブランホールとの間で交わされた、自由意志を巡る論争です。この論争は、1645年にパリで、ニューカッスル侯爵の邸宅で交わされた私的な会話から始まりました。
ホッブズは、徹底した決定論の立場をとりました。彼は、人間の意志もまた、自然界の他のすべての事象と同様に、先行する原因によって必然的に決定されると考えました。彼によれば、「自由」とは、外部からの妨害がない状態を意味するに過ぎず、意志そのものが自由であるということはあり得ない、と主張しました。例えば、川の水が堤防に妨げられずに流れるとき、その水は「自由」ですが、その流れの方向は重力という法則によって決定されています。人間の行動もこれと同じである、と彼は考えたのです。
これに対してブランホールは、伝統的なキリスト教神学の立場から、人間の自由意志を擁護しました。もし人間の行動がすべて決定されているのであれば、神が人間に法を与え、善行に報い、悪行を罰することの意味が失われてしまう。道徳的責任の概念そのものが成り立たなくなると、彼は反論しました。この二人の間のやり取りは、1650年代に双方の同意なく出版され、公開の論争へと発展しました。この自由意志と決定論を巡る問題は、ホッブズの唯物論的哲学の根幹に関わるものであり、彼の思想体系全体が、伝統的な道徳観や宗教観といかに緊張関係にあったかを示しています。
これらの論争は、ホッブズが、自らの信念を決して曲げない、恐れを知らない思想家であったことを物語っています。彼は、あらゆる権威に挑戦し、理性の光だけを頼りに、世界を再解釈しようと試みたのです。
晩年
1660年の王政復古は、トマス=ホッブズの人生に一時の安堵と、新たな脅威の両方をもたらしました。彼の晩年は、かつての教え子であった国王チャールズ2世の庇護を受けながらも、その物議を醸す思想ゆえに、常に非難と疑惑の目にさらされる、波乱に満ちたものでした。
王政復古とチャールズ2世の庇護
チャールズ2世がイングランド国王として帰還すると、ホッブズの立場は一見、安泰になったように見えました。国王は、パリでの亡命時代に数学を教わったかつての師を忘れず、宮廷で彼を温かく迎えました。国王が宮廷の廊下でホッブズを見かけると、親しげに挨拶をしたと伝えられています。チャールズ2世は、ホッブズに年100ポンドの年金を与え、彼の肖像画を宮廷のギャラリーに飾らせるなど、公然と彼への好意を示しました。
この国王の庇護は、ホッブズにとって極めて重要でした。彼の敵対者たちは、ホッブズの著作、特に『リヴァイアサン』が、無神論と反乱を助長する危険な書物であるとして、彼を攻撃する機会をうかがっていました。国王の個人的な保護がなければ、ホッブズは、より深刻な迫害に直面していた可能性が高いです。
しかし、その庇護にも限界がありました。1666年、ロンドンを襲った大火とペストの流行は、国民の間に道徳的なパニックを引き起こしました。多くの人々は、これらの災厄が、神の怒りによってもたらされた天罰であると考えました。庶民院は、この神の怒りの原因を調査するための委員会を設置し、その中で、無神論的な書物、特にホッブズの『リヴァイアサン』が名指しで取り上げられました。
ホッブズは、異端の罪で告発されるのではないかと、深刻な恐怖に襲われます。彼は、自らの正統性を弁護するために、異端に関するイングランドの法律史を研究した論文を執筆しました。幸いにも、チャールズ2世の介入により、彼に対する法的な訴追は免れました。しかし、その代償として、ホッブズは、今後、政治や宗教に関する著作をイングランドで出版することを禁じられてしまいます。この命令は、彼の知的活動に大きな制約を課すものでした。
後期の著作と翻訳活動
公的な発言の場を奪われたホッブズでしたが、その知的好奇心と執筆意欲が衰えることはありませんでした。彼は、チャールズ2世に献呈されたイングランド内戦史『ビアヒモス、あるいは長期議会』を執筆しましたが、これも出版を許可されず、彼の死後になってようやく日の目を見ることになります。また、アムステルダムでは、彼の著作のラテン語版全集が出版され、その思想はヨーロッパ大陸で広く読まれ続けました。
出版の自由を奪われたホッブズが、晩年に情熱を注いだのが、古典の翻訳でした。84歳という高齢にもかかわらず、彼はホメロスの長大な叙事詩『オデュッセイア』の翻訳に着手し、1675年に出版します。この試みが好評を博したことに気を良くした彼は、続いて『イリアス』全巻の翻訳も完成させ、翌1676年に出版しました。これらの翻訳は、文学的な価値よりも、その驚異的な老いのエネルギーの産物として評価されることが多いですが、ホッブズ自身が、その生涯を通じて古典文学に深い愛着を持ち続けていたことを示しています。
87歳の時には、ラテン語で書かれた自伝を出版しました。これは、自らの生涯と知的遍歴を振り返り、彼に向けられた数々の非難に対して、自らの立場を後世のために記録しようとする試みでした。
死
1679年の秋、91歳になっていたホッブズは、膀胱の疾患を患い、体調が急速に悪化しました。彼は、長年仕えてきたキャヴェンディッシュ家の邸宅の一つである、ダービーシャーのハードウィック=ホールに移りました。そこで数週間を過ごした後、彼は脳卒中に見舞われ、話す能力を失ってしまいます。そして、1679年12月4日、彼はその長い生涯を閉じました。彼の最後の言葉は、「私は最後の一歩、暗闇への跳躍をしようとしている」であったと伝えられています。
彼の遺体は、近くのハルト=ハックナル教区教会の墓地に埋葬されました。その墓石には、ラテン語で「真の哲学者」と刻まれています。それは、生涯を通じて論争と非難にさらされながらも、自らが信じる理性の力に従って真理を探究し続けた、この孤高の思想家にふさわしい碑銘でした。
結論
トマス=ホッブズの91年という長い生涯は、彼が生きた17世紀という時代の激動と、分かちがたく結びついています。スペイン無敵艦隊の脅威の中で生まれ、イングランド内戦の混乱を経験し、王政復古後の論争の時代を生き抜いた彼の人生そのものが、一つの時代の証言となっています。彼の哲学、特にその政治思想は、この暴力と無秩序の経験から生まれた、平和を渇望する知性の産物でした。
ホッブズが『リヴァイアサン』で描き出した国家像は、絶対的な権力を持つ主権者が、個人の自由を犠牲にしてでも、社会の平和と秩序を維持するというものでした。この結論は、多くの人々から、専制政治を擁護する危険な思想であると批判されてきました。しかし、彼の議論の画期的な点は、その出発点にあります。彼は、国家の権威を、神の命令や伝統的な身分秩序に求めたのではなく、自由で平等な個人間の合理的な合意、すなわち「社会契約」に求めました。これは、政治的正統性の源泉を、天上から地上へ、そして共同体から個人へと引き下ろす、近代的な思考の幕開けを告げるものでした。
彼は、ガリレオやデカルトといった同時代の科学革命の精神を哲学に持ち込み、人間と社会を、客観的に分析可能な一種の機械として捉えようとしました。この徹底した唯物論と科学的なアプローチは、彼を多くの敵から「無神論者」と非難される原因となりましたが、それは同時に、哲学を神学の束縛から解放し、独立した学問として確立しようとする、近代的な試みでもありました。
彼の人間観は、しばしば冷笑的で悲観的であると評されます。自己保存の欲望に駆られ、互いに不信を抱き、栄光を求め争う人間という彼の描写は、確かに厳しいものです。しかし、その冷徹な眼差しは、人間の理想化された姿ではなく、ありのままの姿を直視しようとする、科学的な精神の表れでもありました。彼は、この不完全な人間という素材から、いかにして永続する平和な社会を構築できるかという、政治哲学の根本問題に、生涯をかけて取り組んだのです。
ホッブズの思想は、ジョン=ロック、ジャン=ジャック=ルソーといった後世の思想家たちにとって、賛成するにせよ反対するにせよ、無視することのできない巨大な参照点となりました。彼が設定した「自然状態」「社会契約」「主権」といった概念は、その後の西洋政治思想の基本的な語彙となっていきます。彼の哲学は、個人の権利と国家の権威、自由と秩序という、近代国家が常に直面する根本的な緊張関係を、最も鋭い形で提示しました。
トマス=ホッブズは、その生涯を通じて、知的にも社会的にも、しばしば孤立した存在でした。しかし、その孤立の中から、彼は時代を超えて影響力を持ち続ける、独創的で強力な思想体系を築き上げました。