共和制《イギリス》とは
1649年から1660年にかけての11年間、イングランド、スコットランド、アイルランドは、歴史上唯一、国王のいない共和制国家として統治されました。この時代は「イングランド共和国」、あるいは王が不在であったことから「空位期間」として知られています。この共和制は、国王チャールズ1世の処刑という、ヨーロッパ全土を震撼させた出来事から始まりました。長年にわたる国王と議会の対立がイングランド内戦へと発展し、その末に国王が敗北し、反逆罪で裁かれた結果です。この前代未聞の出来事は、王権神授説という長らく信じられてきた統治の根幹を揺るがし、イングランドを全く新しい政治体制の実験へと駆り立てました。
この共和制の時代は、大きく二つの時期に分けることができます。第一期は1649年から1653年までの「イングランド共和国」であり、ランプ議会と呼ばれる長期議会の残存勢力と、国務会議によって統治されました。第二期は1653年から1659年までの「護国卿時代」で、内戦の英雄であったオリバー=クロムウェルが護国卿として、事実上の独裁的な権力を握りました。彼の死後、息子のリチャード=クロムウェルが後を継ぎますが、その統治は短命に終わり、政治的な混乱を経て、1660年にはチャールズ2世による王政復古が実現します。
この11年間は、イングランドの歴史において、政治的、宗教的、社会的に極めて激動の時代でした。国王を処刑し、君主制と貴族院を廃止するという急進的な試みは、安定した統治体制を確立するという困難な課題に直面しました。権力の正統性をどこに求めるのか、どのような憲法を制定するべきか、そして、内戦で深く傷ついた国民の和解をいかにして実現するのか。これらの問いに対する答えを見つけることは、容易ではありませんでした。
宗教問題もまた、この時代の中心的な課題でした。イングランド国教会に代わる新たな教会制度を模索する中で、長老派、独立派、そしてさらに急進的なクエーカー教徒や第五王国派といった様々なプロテスタントの宗派が、それぞれの理想とする社会の実現を目指して激しく対立しました。オリバー=クロムウェルは、ある程度の信教の自由を認めようとしましたが、その寛容にも限界があり、カトリック教徒や過激な宗派は依然として抑圧の対象でした。
外交面では、共和制政府は、オランダとの間で商業的覇権を争う英蘭戦争を戦い、スペインとの戦争ではジャマイカを獲得するなど、イングランドの国威を発揚しました。特にクロムウェルの下で再編された海軍力は、その後の大英帝国の海洋覇権の礎を築くことになります。
しかし、共和制の統治は、常に軍事力に依存するという根本的な弱さを抱えていました。ニューモデル軍という強力な軍隊が、国王を打ち破り、共和制を樹立する原動力となりましたが、その存在は同時に、国民の自由を脅かすものとも見なされました。高い税金、軍による直接的な統治、そしてピューリタン的な厳格な道徳の強制は、多くの人々の反発を招きました。
結局のところ、イングランドの共和制は、国民の広範な支持を得ることができず、クロムウェルという強力な指導者を失うと、急速に崩壊へと向かいました。人々は、政治的な混乱と軍事独裁に疲れ果て、安定と伝統的な秩序の回復を望むようになります。そして、その願いは、1660年の王政復古という形で結実するのです。この共和制の実験は失敗に終わったかもしれませんが、その経験は、後のイングランドの政治思想に深い影響を与えました。絶対王政への回帰を不可能にし、国王と議会の権力バランスを問い直すきっかけとなり、名誉革命へと至る道を準備したのです。この11年間の記憶は、イングランドの歴史に、権力と自由、そして統治のあり方を巡る、消えることのない問いを刻み込みました。
共和制の成立
イングランド共和制の誕生は、長い年月をかけて醸成された国王と議会の対立が、イングランド内戦という形で爆発した直接的な結果でした。その頂点に立つのが、1649年1月30日の国王チャールズ1世の処刑という、ヨーロッパの歴史において前例のない出来事です。この国王殺しは、イングランドを君主制から共和制へと転換させる決定的な一歩となりました。
国王チャールズ1世の処刑
第二次イングランド内戦が議会派の勝利に終わった後、ニューモデル軍の指導者たちは、国王チャールズ1世との和解はもはや不可能であるという結論に達しました。彼らは、国王が和平交渉の裏で敵対勢力と手を結び、再び戦乱を引き起こそうとしていると見なしました。国王を「血を流した男」として断罪し、将来の平和を確保するためには彼を裁判にかける以外に道はないと考えるようになったのです。
1648年12月、軍はプライドのパージと呼ばれるクーデターを決行します。トマス=プライド大佐が率いる兵士たちが議会を封鎖し、国王との和解に傾いていた長老派の議員たちを追放しました。これによって残ったのは、軍の意向に沿う独立派を中心とした約50名の議員のみとなり、この議会は「ランプ議会」または「残部議会」と揶揄されることになります。
このランプ議会が、国王を裁くための高等裁判所を設置する法案を可決しました。貴族院がこの法案を否決したため、庶民院は、国民によって選ばれた庶民院こそが最高の権力を持つと宣言し、単独で裁判を強行しました。裁判は1649年1月20日からウェストミンスター=ホールで開かれ、チャールズ1世は反逆罪、殺人罪、そしてイングランド国民に対する暴君として告発されました。国王は法廷の権威を一切認めず、神によって与えられた王権を裁く権利は誰にもないと主張し続けましたが、判決は覆りませんでした。1月27日、チャールズ1世に死刑判決が下され、3日後の1月30日、ホワイトホール宮殿の前に設けられた断頭台の上で、彼は公衆の面前で処刑されました。
この出来事は、イングランド社会に計り知れない衝撃を与えました。王権神授説という、国王の権威を神聖不可侵なものとする長年の伝統が、文字通り断ち切られた瞬間でした。国王の処刑は、一部の急進派にとっては圧政からの解放を意味しましたが、多くの国民にとっては、神の秩序を破壊する恐ろしい冒涜行為と映りました。この国王殺しという記憶は、その後の共和制の時代を通じて、常にその正統性を問う影として付きまとうことになります。
君主制と貴族院の廃止
国王の処刑後、ランプ議会は矢継ぎ早に、イングランドの統治体制を根本から変革する法律を制定していきました。1649年2月6日、議会は貴族院の廃止を可決します。貴族院は「国民にとって無用かつ危険」であると断じられました。翌2月7日には、君主制そのものの廃止が宣言され、国王という職は「この国民の自由、安全、そして公益にとって不必要で、重荷であり、危険である」とされました。
そして、1649年5月19日、イングランドは正式に「共和国および自由国家」であると宣言する法律が制定されます。この法律は、「イングランドの国民、およびそれに属するすべての領土は、今後、共和国および自由国家の形で統治される。その最高権威は、国王や貴族院を伴わず、国民を代表するこの議会に属する」と高らかに謳いました。これにより、イングランドは法的に共和制国家となり、統治権はランプ議会と、議会によって任命される行政機関である国務会議に委ねられることになったのです。
しかし、この新たな共和国の船出は、決して順風満帆ではありませんでした。国王の処刑は、スコットランドとアイルランドの強い反発を招きました。スコットランドは即座にチャールズ1世の息子を国王チャールズ2世として宣言し、王党派の拠点となりました。アイルランドでも、カトリック同盟と王党派が手を結び、イングランドの共和制政府に対する反乱が巻き起こりました。国内においても、レベラーズ(平等派)のような、より急進的な民主主義を求める勢力が軍内部で不満を募らせていました。
このように、イングランド共和国は、その誕生の瞬間から、内外に多くの敵を抱え、自らの存続をかけて戦わなければならないという、極めて困難な状況に置かれていたのです。その統治は、理想主義的な宣言とは裏腹に、軍事力に頼らざるを得ない、不安定なものでした。
イングランド共和国の統治
1649年から1653年にかけてのイングランド共和国の時代は、ランプ議会と国務会議という二つの機関によって統治されました。しかし、その統治は常に困難に満ち、政治的な正統性の欠如と、強力なニューモデル軍との緊張関係に悩まされ続けました。
ランプ議会と国務会議
統治の最高権威は、プライドのパージを経て残ったランプ議会にありました。しかし、この議会は、もはや国民の代表とは言い難い存在でした。長期議会が最初に召集されたのは1640年のことであり、その後の内戦とクーデターを経て、議員の数は大幅に減少し、その構成も急進的な独立派に偏っていました。彼らは自らを神に選ばれた聖者であると見なし、イングランドを道徳的に浄化するという使命感に燃えていましたが、その寡頭的な支配は、国民からの広範な支持を得ることができませんでした。
日々の行政を担ったのは、国務会議でした。これは議会によって毎年選出される41名の委員で構成され、事実上の政府として機能しました。オリバー=クロムウェルやヘンリー=ベインといった有力者が委員を務め、外交、財政、軍事といった国政の重要事項を取り仕切りました。国務会議は、有能な行政官僚を登用し、効率的な統治機構を築こうと努めました。彼らは、航海法のような重要な法律を制定し、オランダとの戦争を遂行するなど、イングランドの国益を守るために精力的に活動しました。
しかし、ランプ議会と国務会議の関係は、必ずしも円滑ではありませんでした。議会は、国務会議が権力を持ちすぎることを警戒し、その活動にしばしば介入しました。また、議員たちは、自らの利権を追求する傾向があり、改革の進展を妨げることも少なくありませんでした。特に、新しい議会を選出するための選挙法の制定については、自らの地位を失うことを恐れて、遅々として進めようとしませんでした。この自己保身的な態度は、改革を求める軍の指導者たち、特にクロムウェルの強い不満を招くことになります。
内外の脅威との戦い
共和国政府は、その発足当初から、内外の深刻な脅威に直面していました。国内では、レベラーズ(平等派)が、より民主的な共和国の実現を求めて軍内部で反乱を試みました。彼らは、普通選挙権や憲法制定を主張しましたが、クロムウェルらはこれを社会秩序を破壊する危険な思想と見なし、1649年のバーフォードでの反乱を容赦なく鎮圧しました。
最大の脅威は、アイルランドとスコットランドからのものでした。アイルランドでは、国王処刑に反発するカトリック同盟と王党派が結集し、イングランドの支配に対する大規模な反乱が起きていました。1649年8月、クロムウェルはニューモデル軍を率いてアイルランドに上陸し、徹底的な征服作戦を開始します。特に、ドロヘダとウェックスフォードでの虐殺は、彼の評判に暗い影を落とすことになりましたが、この遠征によってアイルランドは完全に共和国の支配下に置かれ、広大な土地がイングランド人兵士や投機家に没収されました。
アイルランドを征服したクロムウェルは、次にスコットランドへと向かいました。スコットランドはチャールズ2世を国王として戴き、イングランドへの侵攻を準備していました。1650年、クロムウェルはダンバーの戦いでスコットランド軍に壊滅的な打撃を与え、翌1651年には、イングランドに侵入してきたチャールズ2世の軍をウスターの戦いで完全に打ち破りました。この戦いは「慈悲の戴冠」と呼ばれ、イングランド内戦に終止符を打つものとなりました。チャールズ2世は辛くもフランスへ逃亡し、スコットランドもまた、イングランドの軍事占領下に置かれることになります。
これらの軍事的な勝利は、イングランド共和国の存続を確かなものにしましたが、同時に、その統治が本質的に軍事力に依存していることを浮き彫りにしました。アイルランドとスコットランドの征服は、イングランドの安全保障を確保する一方で、両国に深い傷跡と恨みを残すことにもなりました。
ランプ議会の解散
内外の敵を打ち破った後、クロムウェルと軍の指導者たちの関心は、国内の改革へと向かいました。彼らは、ランプ議会が腐敗し、自己の利益ばかりを追求して、真の改革、特に新しい選挙の実施を怠っていることに、ますます苛立ちを募らせていました。クロムウェルは、議会が自らを永久に存続させようとしていると確信し、ついに実力行使を決意します。
1653年4月20日、クロムウェルは兵士を率いて議会に乗り込み、議員たちを激しい言葉で罵倒しました。「お前たちはここに座りすぎだ。お前たちが成し遂げた善行など、もうたくさんだ。神の名において、去れ!」と叫び、議会の象徴であるメイス(職杖)を指して「あの安ぴか物をどけろ」と言い放ったと伝えられています。そして、兵士の力によって議員たちを議場から追い出し、ランプ議会を強制的に解散させました。
このクーデターによって、イングランド共和国の第一期は終わりを告げました。議会を解散させたクロムウェルは、イングランドの全権をその手に握ることになり、新たな統治体制の模索が始まるのです。それは、彼自身が主導する、より直接的な統治の実験、すなわち護国卿時代の幕開けでした。
護国卿時代
ランプ議会の解散後、イングランドの政治権力はオリバー=クロムウェルの手に集中しました。彼は、議会政治の失敗を目の当たりにし、より安定的で神の意志に沿った統治形態を模索し始めます。これが、1653年から1659年まで続く「護国卿時代」の始まりです。この時代は、クロムウェル個人のカリスマと軍事力に支えられた、事実上の独裁体制でした。
ベアボーンズ議会と統治章典
ランプ議会を解散させたクロムウェルは、当初、自らが独裁者となることを望んでいませんでした。彼は、神を畏れる「聖者」たちによる統治という理想を追求し、1653年7月、「聖者議会」とも呼ばれる新たな議会を召集しました。この議会は、選挙によらず、軍の将校たちが各地の独立派教会から推薦された候補者リストの中から、140名の議員を指名するという、異例の形で構成されました。その議員の一人、ロンドンの革商人であったプレイズゴッド=ベアボーンの名にちなんで、「ベアボーンズ議会」と揶揄されることになります。
この議会は、熱心なピューリタンたちで構成され、法制度の改革や十分の一税の廃止など、急進的な改革案を次々と打ち出しました。しかし、彼らの急進主義は、社会の安定を望む穏健派や、財産権の侵害を恐れる地主層の強い反発を招きました。議会内部でも意見の対立が激化し、統治能力の欠如が明らかとなっていきます。結局、わずか5ヶ月後の1653年12月、穏健派の議員たちが自ら権力をクロムウェルに返還するという形で、ベアボーンズ議会は自壊しました。
この失敗を受けて、軍の指導者ジョン=ランバートらが中心となって起草したのが、イングランド史上初の成文憲法である「統治章典」です。この憲法は、一人の終身の「護国卿」と、選挙で選ばれる議会、そして国務会議が権力を分担するという、混合政体を目指すものでした。1653年12月16日、オリバー=クロムウェルは、この統治章典に基づいて、イングランド、スコットランド、アイルランドの護国卿に就任しました。これにより、イングランドは共和制の形をとりながらも、事実上、クロムウェルという一人の人物による統治体制へと移行したのです。
オリバー=クロムウェルの統治
護国卿となったクロムウェルは、イングランドに安定と秩序をもたらすことを目指しました。彼の統治は、「癒しと和解」をスローガンに掲げ、内戦で分裂した国家の再建を試みるものでした。彼は、ある程度の信教の自由を認め、ユダヤ人の再入国を許可するなど、宗教的寛容政策を推進しました。ただし、この寛容はカトリック教徒や過激な宗派には及ばず、イングランド国教会の礼拝は引き続き禁止されました。
外交面では、クロムウェルはイングランドの国威を高めることに成功しました。彼は強力な海軍を建設し、第一次英蘭戦争(1652–1654)を有利な条件で終結させ、プロテスタント国家の盟主としての地位を確立しようとしました。また、カトリックのスペインとの戦争に踏み切り、その過程でジャマイカを恒久的な植民地として獲得しました。これは、後の大英帝国の発展における重要な一歩となりました。
しかし、クロムウェルの統治は、議会との対立という、かつてチャールズ1世が直面したのと同じ問題に悩まされ続けました。1654年に召集された第一回護国卿議会は、統治章典そのものに異議を唱え、護国卿の権力を制限しようとしました。業を煮やしたクロムウェルは、憲法が許す最短期間で議会を解散させます。
1655年、王党派による反乱(ペンラドックの蜂起)が発生すると、クロムウェルはイングランド全土を11の軍管区に分割し、それぞれに少将を配置して直接的な軍政を敷くという、強硬策に打って出ます。この「軍政監統治」は、治安維持には効果があったものの、国民の生活を厳しく監視し、ピューリタン的な道徳を強制するものでした。酒場の閉鎖、賭博や演劇の禁止といった政策は、国民の強い反感を買い、軍事独裁に対する恐怖を植え付けました。
国王待望論とクロムウェルの死
軍政監統治の不評を受け、クロムウェルは再び議会との協調路線に活路を見出そうとします。1656年に召集された第二回護国卿議会は、軍政監制度を廃止する見返りに、スペインとの戦費を承認しました。さらに、1657年には、議会はクロムウェルに対して、国王の称号を受け入れるよう求める「謙虚な請願と勧告」を提出します。これは、護国卿という軍事力に依存した曖昧な地位よりも、伝統的で法に基づいた君主制の方が、国家を安定させることができると考えたからです。
クロムウェル自身、この提案に大いに悩みましたが、最終的には、軍の古参幹部たちの強い反対を受け、国王の称号を辞退しました。しかし、彼は「謙虚な請願と勧告」の他の条項は受け入れ、これにより護国卿の権力は強化され、後継者を指名する権利や、貴族院に代わる「第二院」を創設する権限が与えられました。
しかし、この新たな体制もまた、議会との対立によって機能不全に陥ります。クロムウェルが第二院に腹心の議員を移した結果、庶民院では共和主義的な反対派が勢いを増し、再び統治体制そのものを攻撃し始めました。1658年2月、クロムウェルは「神に判断を委ねる」と述べ、再び議会を解散させます。
この頃、クロムウェルの健康は著しく悪化していました。長年の激務と、愛娘エリザベスの死による心労が重なり、1658年9月3日、ダンバーとウスターでの輝かしい勝利を記念する日に、彼はこの世を去りました。彼の死は、護国卿時代、そしてイングランドの共和制そのものの終わりを告げるものでした。彼の強力な個性と指導力によってかろうじて維持されていた統治体制は、その支柱を失い、急速に崩壊へと向かうのです。
[h1]共和制の崩壊と王政復古[/h11]
オリバー=クロムウェルの死は、イングランドの共和制に致命的な打撃を与えました。彼の後を継いだ息子のリチャード=クロムウェルには、父のようなカリスマ性も軍を統率する能力もなく、護国卿体制は急速にその求心力を失っていきます。権力の空白が生じたことで、軍と議会の対立が再燃し、イングランドは政治的な混乱と無政府状態へと陥りました。この混乱の中から、最終的に王政復古への道が開かれることになります。
リチャード=クロムウェルの失敗
オリバー=クロムウェルは、死の床で息子のリチャードを後継者に指名しました。1658年9月、リチャード=クロムウェルは、軍や議会の支持を得て、平穏に護国卿の地位を継承しました。彼は温厚な人柄で、多くの人々から好意的に受け止められましたが、政治家としても軍人としても全くの素人でした。彼は、父が築いたニューモデル軍との間に強固な信頼関係を築くことができず、これが彼の失脚の直接的な原因となります。
軍の高級将校たちは、文民であるリチャードが軍の最高司令官であることに不満を抱き、軍の独立性を主張し始めました。特に、ジョン=ランバートやチャールズ=フリートウッドといった有力な将軍たちは、護国卿の権力を制限し、軍の評議会が政治的な発言権を持つことを要求しました。
1659年1月に召集された議会は、リチャードを支持する一方で、軍の政治への介入を抑え込もうとしました。議会と軍の対立が先鋭化する中、リチャードは両者の間で有効な指導力を発揮することができませんでした。1659年4月、軍の将軍たちはリチャードに圧力をかけ、議会を強制的に解散させます。これにより、リチャードは事実上、軍の傀儡となり、その権威は完全に失墜しました。統治への意欲を失ったリチャードは、同年5月25日に正式に辞任し、護国卿時代は終わりを告げました。彼の短い統治は、その無力さから「転落ディック」と揶揄されることになります。
政治的混乱とモンク将軍の台頭
リチャード=クロムウェルの辞任後、軍の将軍たちは、かつてクロムウェルが解散させたランプ議会を再召集しました。しかし、一度権力の座から追われた議員たちと、彼らを追放した軍との間に信頼関係が築けるはずもなく、両者はすぐに対立を始めます。1659年10月、ジョン=ランバートは再び武力を用いてランプ議会を解散させ、軍による直接統治を目指す公安委員会を設立しました。
この軍事独裁は、イングランド全土に深刻な無政府状態と混乱をもたらしました。法と秩序は崩壊し、商業は停滞し、国民は終わりの見えない政治的変動に疲れ果てていました。この混乱を収拾する人物として歴史の表舞台に登場したのが、スコットランド駐留軍の司令官であったジョージ=モンク将軍です。
モンクは、もともと王党派の軍人でしたが、内戦中に議会派に転向し、クロムウェルの下でスコットランドの統治を任されていた、経験豊富で現実的な軍人でした。彼は、ランバートによる軍事独裁に反対を表明し、ロンドンにおける文民統治の回復を要求しました。1660年1月、モンクは彼の精鋭部隊を率いてスコットランドからイングランドへと進軍を開始します。彼の意図は当初、謎に包まれていましたが、その行動は、軍事独裁にうんざりし、安定した政府の回復を望む多くの国民から熱狂的な支持を受けました。ランバートの軍は士気が低く、戦わずして崩壊し、モンクは抵抗を受けることなくロンドンへと入城しました。
ブレダ宣言と王政復古
ロンドンを掌握したモンクは、まずプライドのパージで追放された長老派の議員たちを議会に復帰させ、長期議会を正式に復活させました。そして、この議会に、新たな「自由な議会」を選出するための選挙を実施させた後、自らを解散させました。この一連の巧みな政治操作により、モンクは軍事独裁を終わらせ、合法的な政治プロセスを回復させたのです。
一方、大陸に亡命していたチャールズ2世とその側近たちは、この好機を逃しませんでした。エドワード=ハイド(後のクラレンドン伯爵)の助言のもと、チャールズ2世は1660年4月4日、オランダのブレダから「ブレダ宣言」として知られる声明を発表しました。この宣言は、王政復古が実現した際の政策を約束するもので、非常に巧みな内容でした。具体的には、国王殺しに関わった者を除き、内戦中のすべての行為に対する恩赦、良心の自由(信教の自由)の保障、軍の給与の全額支払い、そして内戦中に所有権が移転した土地の権利関係は議会が決定すること、などを約束しました。
この宣言は、イングランド国民が抱いていた不安、すなわち王政復古がもたらすであろう報復や財産の没収、宗教的迫害といった恐怖を和らげるものでした。それは、復讐ではなく、和解と安定を約束するメッセージでした。
1660年4月に召集された新たな議会(仮議会)は、王党派と長老派が多数を占めていました。彼らはブレダ宣言を熱狂的に歓迎し、5月8日、イングランドの政府は国王、貴族院、庶民院によって構成されるべきであると決議しました。そして、チャールズ2世を正式にイングランド国王として招聘することを決定したのです。
1660年5月29日、奇しくも彼の30歳の誕生日に、チャールズ2世はロンドンに帰還しました。彼の帰還は、熱狂的な歓声で迎えられ、イングランドの共和制の実験は、11年間の激動の末に、その幕を閉じたのです。人々は、国王の帰還に、平和と秩序、そして伝統的な統治の回復という希望を託しました。
結論
1649年から1660年にかけてのイングランドの共和制、すなわち「空位期間」は、イングランドの歴史における壮大かつ困難な政治的実験でした。国王を処刑し、君主制と貴族院を廃止するという急進的な試みは、最終的に失敗に終わり、王政復古という形で伝統的な秩序へと回帰しました。しかし、この11年間の経験は、イングランドの政治と社会に消えることのない深い足跡を残しました。
この共和制の実験が失敗した原因は、複合的なものです。第一に、その統治は、誕生の瞬間から正統性の危機を抱えていました。国王チャールズ1世の処刑は、多くの国民にとって神の秩序を破壊する冒涜行為であり、共和制政府は、国民の広範な同意や伝統的な権威に裏打ちされることがありませんでした。その権力基盤は、常にニューモデル軍という軍事力に依存しており、その統治は本質的に不安定なものでした。
第二に、共和制の指導者たちは、安定した政治体制を構築することができませんでした。ランプ議会は腐敗し、自己の利益を優先して国民の信頼を失いました。その後のベアボーンズ議会は、急進的すぎて現実の政治に対応できませんでした。そして、オリバー=クロムウェルによる護国卿時代は、彼個人の強力な指導力によって一時の安定をもたらしましたが、それは事実上の軍事独裁であり、議会との絶え間ない対立に悩まされ続けました。クロムウェルという支柱を失うと、この体制はたちまち崩壊しました。
第三に、ピューリタン的な厳格な道徳の強制は、国民の反発を招きました。演劇、賭博、祝祭といった伝統的な娯楽を禁止する政策は、人々の生活から彩りを奪い、自由を束縛するものと感じられました。軍政監による厳しい監視社会は、軍事独裁への恐怖を植え付け、多くの人々が、国王のいる「古き良き時代」を懐かしむ原因となったのです。
しかし、この共和制の時代は、単なる失敗の物語ではありません。それは、後のイングランドの政治的発展にとって、極めて重要な意味を持っていました。まず、この経験は、絶対王政への回帰を不可能にしました。王政復古後の国王チャールズ2世とジェームズ2世は、父チャールズ1世のように振る舞うことはできず、常に議会の存在を意識せざるを得ませんでした。共和制の記憶は、国王の権力は無制限ではないという考えを、イングランドの政治文化に深く刻み込んだのです。
また、この時代には、後の政治思想に大きな影響を与える、様々な考え方が噴出しました。レベラーズが主張した普通選挙権や憲法制定といった思想、そして「統治章典」という成文憲法の試みは、近代的な立憲主義や民主主義の源流の一つと見なすことができます。信教の自由を巡る議論も活発に行われ、完全な形ではないにせよ、宗教的寛容の重要性が認識されるきっかけとなりました。
外交面では、クロムウェルが築いた強力な海軍力は、イングランドの国際的地位を大いに高め、その後の海洋帝国としての発展の礎を築きました。航海法に代表される重商主義政策も、イングランドの商業的覇権を確立する上で重要な役割を果たしました。
最終的に、イングランド国民は、共和制の混乱よりも、君主制の下での安定を選びました。しかし、それは単なる過去への回帰ではありませんでした。1660年の王政復古は、国王と議会が共存する、新たな政治秩序の始まりでした。空位期間の記憶は、権力の乱用に対する警告として機能し続け、国王と議会の権力闘争を経て、1688年の名誉革命へと至る道を準備したのです。名誉革命によって確立された立憲君主制は、ある意味で、この11年間の共和制の実験が投げかけた問い、すなわち、いかにして権力を制限し、国民の自由を守るかという問いに対する、イングランドなりの一つの答えだったと言えるでしょう。この激動の11年間は、イングランドが近代国家へと脱皮していく過程で、避けては通れない、痛みを伴う試練の時だったのです。