チャールズ1世の処刑とは
1649年1月30日の凍てつく冬の日、ロンドンのホワイトホール宮殿前でイングランド、スコットランド、アイルランドの王チャールズ1世が自らの臣民の手により公に斬首されました。この出来事は単なる一人の君主の死ではありません。それは何世紀にもわたりヨーロッパの政治秩序の根幹をなした王権神授説という理念が文字通り断頭台の上で断罪された瞬間でした。国王の処刑はイングランド内戦という血なまぐさい紛争の頂点であり、ブリテン諸島の歴史ひいては西洋世界の政治思想の発展において後戻りのできない一線を画すものでした。
一人の国王が法廷で裁かれ反逆者として処刑される事態は当時の人々にとって想像を絶するものでした。それは社会の自然な秩序と考えられた階層構造を根底から覆し、神によって任命されたはずの統治者が人民の名においてその責任を問われ得るという恐ろしくも新しい可能性を示しました。この行為はイングランドを君主制から引き剥がしブリテン史上唯一の共和政(コモンウェルス)の実験へと突き進ませる直接の原因となります。
しかしこの革命的な行為は決して国民的な合意の下で行われたわけではありません。それは内戦の勝利者である議会派内部の深刻な分裂とニューモデル軍という強力な軍事組織の急進化が生み出した過激な少数派による決断でした。議会の多数派である長老派は国王との和解を望みましたが、二度目の内戦によって国王への不信を決定的にしたオリバー=クロムウェルら軍の指導者たちは彼を「血にまみれた男」として裁きにかけることを決意します。軍事クーデターである「プライドのパージ」によって議会から反対派を追放し、残った議員たち(ランプ議会)に国王を裁くための特別法廷を設置させたのです。
チャールズ1世の裁判と処刑の物語は法と権力、正義と復讐、そして神聖な王権と人民の意志が激しく衝突する劇的なドラマです。法廷の権威を頑として認めず自らを法の守護者であり人民の自由のための殉教者として描き出そうとした国王。そして神の摂理と人民の負託を背負い前例のない革命的行為を正当化しようとした裁判官たち。両者の対立はイングランドという国家の根源的なあり方をめぐる二つの相容れない世界観の衝突でした。
処刑への道筋
チャールズ1世の処刑は単独で発生した事件ではありません。それは第一次イングランド内戦の終結後、勝利者である議会派の内部で繰り広げられた約3年間にわたる複雑な政治闘争と国王自身の絶え間ない策謀がもたらした必然的な帰結でした。国王をどう処遇しどのような戦後国家を築くのか。この問いをめぐる対立が最終的に穏健な解決策を葬り去り最も過激な結末へと道を拓いたのです。
第一次内戦の終結と勝利者の分裂
1646年春ニューモデル軍の圧倒的な軍事力の前に王党派の組織的な抵抗は終わりを告げました。国王チャールズ1世は敵であるイングランド議会ではなくニューアークに駐留していたスコットランド盟約軍に投降することを選びます。彼は二つの敵対勢力を互いに対立させることで自らに有利な条件を引き出せると計算していました。この瞬間から武力による戦争は複雑な政治交渉の段階へと移行します。
しかし勝利者である議会派は一枚岩ではありませんでした。議会内の多数派を占める「長老派」は政治的には保守的で国王との迅速な和解を望んでいました。彼らの目標は君主制を維持しつつ国王の権力を制限し国教会を長老制の教会制度に改革することでした。彼らはニューモデル軍をその宗教的な急進主義と独立した政治勢力としての台頭を理由に社会秩序への脅威と見なしていました。
一方ニューモデル軍の将校団、特にオリバー=クロムウェルやその婿であるヘンリー・アイアトンといった指導者たちは「独立派」として知られていました。彼らは長老制のような画一的な国教会制度に反対し各個教会が独立して運営される会衆制を支持しある程度の宗教的寛容(良心の自由)を求めました。彼らは国王との和解にはるかに慎重で将来の専制を防ぐためのより厳格で実効性のある保証が必要だと考えていました。
そして軍の一般兵士やロンドンの職人たちの間にはジョン・リルバーンらに率いられた「水平派」の思想が浸透していました。彼らは人民主権、男子普通選挙権、そして完全な信教の自由といった当時としては極めて急進的な民主主義思想を掲げていました。
この三つの勢力がそれぞれの思惑で国王との交渉を進めようとしたため戦後の政治状況は極めて不安定になりました。チャールズはこの分裂を巧みに利用しどの勢力にも決定的な譲歩をすることなく時間稼ぎを図りました。彼は敵が内輪揉めで自滅し最終的には国民が自分を再び王として迎えてくれると信じていたのです。
国王の策謀と第二次内戦
1647年議会の長老派は脅威であるニューモデル軍を解体しようと試みます。彼らは兵士たちに支払われるべき給与の大部分を未払いのまま軍を解散するよう命じました。これに激しく反発した軍は公然と議会に反抗し国王の身柄を確保するという実力行使に出ます。軍はもはや議会の僕ではなく独立した政治勢力として自らの要求(未払い給与の支払いと宗教的自由の保障)を掲げて行動し始めました。
軍の指導者たちは国王に対し「建議要目」として知られる比較的穏健な和解案を提示しました。これは君主制と国教会を維持しつつ議会の権限を強化し幅広い宗教的寛容を認めるというものでした。しかしチャールズはこの提案を拒否します。彼は軍と議会の対立が深まるのを見てより有利な条件を引き出せると考えたのです。
1647年11月チャールズはワイト島のカリズブルック城へと逃亡します。そしてそこで彼は致命的な賭けに出ました。彼はイングランド議会を裏切りスコットランドの使節と秘密協定(エンゲージメント)を結んだのです。この協定でチャールズはイングランドに長老制を3年間試験的に導入する見返りにスコットランドが彼を王位に復帰させるために軍事介入することを約束させました。
この秘密協定は第二次イングランド内戦の引き金となりました。1648年の春から夏にかけてウェールズやイングランド各地で王党派の反乱が勃発しスコットランドの「エンゲージャー」軍がイングランド北部に侵攻しました。
この二度目の戦争はニューモデル軍の将兵たちの態度を決定的に硬化させました。彼らはチャールズ1世を和平交渉の機会を自ら踏みにじり私的な権力欲のために再び国を血の海に沈めた神の目には許されざる「血にまみれた男」と見なすようになりました。1648年4月ウィンザー城で開かれた軍の祈祷集会で将校と兵士たちはもし再び勝利を得られたならば「あの血にまみれた男、チャールズ・スチュアートを裁きにかける」ことを神に厳粛に誓いました。彼らにとって国王を処罰することはもはや政治的な選択ではなく神聖な義務となったのです。
ニューモデル軍は再びその恐るべき戦闘能力を発揮しました。フェアファクス将軍は南東部の反乱を鎮圧しクロムウェルはウェールズを平定した後北上してプレストンの戦いでスコットランド軍を壊滅させました。第二次内戦はわずか数ヶ月でまたしても議会軍の完全な勝利に終わりました。
プライドのパージとランプ議会
軍が命がけで戦っている間もロンドンの議会では長老派が多数を占め依然として国王との和解交渉(ニューポート条約)を続けていました。軍の指導者たちにとってこれは到底容認できない裏切り行為でした。彼らは国王が再び嘘と欺瞞によって権力の座に戻ることを許せば自分たちの勝利も流された血もすべてが無駄になると考えました。
軍の総評議会は国王との交渉を即時中止し彼を裁判にかけるよう議会に要求する「軍の抗議文」を採択しました。しかし議会はこれを拒否し国王との交渉を継続する決議を可決します。
この瞬間軍は議会そのものが和平と正義の実現に対する障害であると結論付けました。1648年12月6日ニューモデル軍はクーデターを決行します。トーマス・プライド大佐が率いる部隊がウェストミンスターの議会入口を封鎖し、国王との交渉に賛成票を投じた長老派の議員たちを一人残らず排除しました。約45名が逮捕され180名以上が議場から締め出されました。
この軍事クーデターは「プライドのパージ」として知られています。この粛清によって庶民院に残ったのは軍の路線を支持する独立派を中心としたわずか70名程度の議員だけとなりました。この残部議会はその規模の小ささから「ランプ議会」と揶揄されることになります。イングランドの正統な政治権力であったはずの議会は今や完全に軍の傀儡と化しました。そしてこのランプ議会こそが国王を処刑するというイングランド史上最も革命的な行為を実行する機関となったのです。プライドのパージは穏健な解決への道を完全に閉ざし国王の裁判と処刑への一本道を開いた決定的な出来事でした。
前代未聞の裁判
プライドのパージによってチャールズ1世の運命は事実上決しました。軍の意のままになったランプ議会は歴史上どの国も試みたことのない自国の君主を法の名の下に裁くという驚くべきプロセスを開始します。ウェストミンスター・ホールで繰り広げられたこの裁判は法廷闘争であると同時に王権神授説と人民主権という二つの相容れない政治思想が激突する壮大な政治劇でした。
高等裁判所の設置
1649年1月1日ランプ議会はチャールズ・スチュアートが「この国を奴隷にしようと企てその目的のために残酷な戦争を仕掛けた」として彼を反逆罪で裁くことを布告しました。しかしこの前例のない裁判を既存のどの裁判所が行うことができるでしょうか。通常の裁判所はすべて国王の名において運営されており「国王は不正をなし得ない」という法原理が存在していました。
そこでランプ議会は1月6日「イングランド人民の名において」国王を裁くための全く新しい特別法廷「高等裁判所」を設置する法律を可決しました。この裁判所は貴族、庶民院議員、軍人、法律家そしてロンドンの商人など様々な階層から選ばれた135名の裁判委員(コミッショナー)で構成されることになっていました。しかしこの革命的な行為の正当性に疑問を抱きあるいは身の危険を感じて実際に裁判に出席したのはその半数程度約70名に過ぎませんでした。貴族院はこの法律の承認を拒否しましたがランプ議会は「人民に次いで神の下におけるすべての正当な権力の源泉は人民にあり」「イングランドの庶民院は人民によって選ばれ人民を代表するがゆえにこの国における最高の権力を有する」と宣言し貴族院の同意なしに法律を成立させました。
裁判の検察長官には法律家のジョン・クックが、裁判長には同じく法律家のジョン・ブラッドショーが任命されました。特にクックは国王も法の下にあるべきだと固く信じる熱心なピューリタンでした。彼は国王の罪状を「暴君、反逆者、殺人者、そしてイングランド人民に対する公敵」と定めその責任を追及する準備を進めました。
法廷での対決=国王 対 裁判所
1649年1月20日土曜日裁判はウェストミンスター・ホールで始まりました。この広大なホールには裁判委員たちが座る席が設けられ、その前方に緋色のベルベットで覆われた被告席が置かれました。そしてそれを大勢の傍聴人が取り囲み、武装した兵士たちが厳重な警備にあたっていました。
午後2時過ぎチャールズ1世が兵士に連れられて入廷しました。彼は黒いマントと灰色の帽子を身につけ威厳を保っていました。彼は裁判委員たちに一瞥もくれず傍聴人の方を向いて被告席に座りました。
裁判長ブラッドショーが裁判所が「イングランド人民の権威によって」設置されたことを告げ起訴状の朗読を命じました。検察官クックが起訴状を読み上げようとするとチャールズは手に持っていた銀の杖でクックの肩を軽く叩き制止しようとしました。その瞬間杖の先端についていた銀の飾りが床に転がり落ちました。誰もそれを拾おうとしなかったため国王は自ら身をかがめてそれを拾わなければなりませんでした。この小さな出来事は多くの人々にとって神が国王を見放した不吉な前兆と映りました。
起訴状の朗読が終わるとブラッドショーは国王に起訴事実に対して罪状認否を行うよう求めました。ここからチャールズの法廷闘争が始まります。彼は罪を認めるか否かを答えるのではなく裁判所そのものの正当性に真っ向から異議を唱えました。
「私は、私がいかなる権威によってここに連れてこられたのかを知りたい。私は国王であり、私には神から託された人民の自由を守る信頼がある。私は合法的な権威によってここに召喚されたのでない限りいかなる新しい非合法な権威にも答えるつもりはない。」
チャールズは自らが世襲の国王でありその権威は人民ではなく神に由来すると主張しました。彼を裁くことのできる法廷はイングランドには存在しない。したがってこの裁判は非合法であり自分はそれに答える義務はないという論理です。彼は自らを法の超越者としてではなくむしろイングランドの古来の法と国制の守護者として描き裁判所こそが法を破壊する暴君だと非難しました。
ブラッドショーは裁判所の権威がそれを設立した庶民院に由来すると反論しました。しかしチャールズは庶民院だけで法律を作ることはできず国王の同意なしに裁判所を設置することはできないと切り返します。
「覚えておくがいい、私はあなた方の国王だ。あなた方がどのような罪を私のせいにするにせよよく考えるがいい。私は神の恩寵によりイングランドの国王である。私を裁く権限を持つ法廷は地上には存在しない。」
このやり取りは裁判の期間中何度も繰り返されました。チャールズは巧みにそして粘り強く裁判所の土俵で戦うことを拒否し続けました。彼は被告人としてではなく自らの権威に挑戦する臣下を審問する王として振る舞いました。その威厳ある態度は多くの傍聴人に感銘を与え中には「神よ国王陛下を護りたまえ!」と叫ぶ者もいました。
有罪判決と死刑宣告
チャールズが罪状認否を拒否し続けたため裁判は行き詰まりました。裁判所は国王の沈黙を「黙秘による自白」と見なすことを決定し証人尋問へと進みました。数日間にわたり30人以上の証人が国王が内戦中に戦場にいたことや軍を指揮していたことなどを証言しました。しかしこれらの証言は国王が戦争に関与したという事実を証明するだけでそれが法的に「反逆罪」にあたるかどうかという核心的な問題には触れませんでした。
1月26日裁判委員たちは国王の有罪と死刑を決定するための非公開の会議を開きました。しかしこの段階に至っても一部の委員は国王の処刑に躊躇していました。伝えられるところによればクロムウェルは署名をためらう委員の手を掴んで無理やり署名させたり「我々は彼らの首を切り落とすか彼らが我々の首を切り落とすかだ」と言って決断を迫ったとされています。最終的に59名の裁判委員が国王の死刑執行令状に署名しました。
1月27日土曜日裁判の最終日。ブラッドショーは赤い式服を身にまとって法廷に現れました。これは死刑判決を宣告する際の慣習でした。彼は国王が暴君であり人民の信頼を裏切ったと断じる長大な演説を行いました。チャールズは最後に自らの弁明を行う機会を求めましたがブラッドショーはそれを冷たく拒否します。「判決が下された後ではもはや囚人が発言することは許されない。」
そして書記が判決文を読み上げました。チャールズ・スチュアートは「暴君、反逆者、殺人者、そしてこの国家に対する公敵として有罪と認定される」。そしてその罰として「首と胴体が切り離されることによって死に至らしめられるべきである」と。
判決が言い渡された後国王は兵士たちによって連れ去られました。兵士たちは「正義を!」「処刑を!」と叫び中には国王の顔に煙草の煙を吹きかける者もいました。チャールズは最後まで威厳を失うことなく法廷を後にしました。ヨーロッパの歴史上一人の国王が自らの臣民によって法的に死刑を宣告された最初の瞬間でした。
処刑の舞台
1649年1月30日火曜日。チャールズ1世の地上での最後の日は凍てつくような寒さの中で始まりました。しかしそれは単なる一人の男の死の日ではありません。それは何世紀にもわたるイングランドの歴史と伝統が断頭台の上で断ち切られる象徴的な儀式の日でした。処刑の舞台となったホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前は、この歴史的瞬間の目撃者となろうとする静かな興奮と不安に包まれた群衆で埋め尽くされていました。
最後の朝
チャールズはセント・ジェームズ宮殿で最後の夜を過ごしました。彼は忠実な従者であったトマス・ハーバートと彼が精神的な支えとして信頼していたウィリアム・ジャクソン主教と共に静かに祈りを捧げて夜を明かしたと伝えられています。彼は非常に寒い朝になるだろうから震えが恐怖によるものだと群衆に誤解されないように暖かいシャツを二枚着るよう命じました。彼は死の瞬間に至るまで自らの威厳と平静さを保つことに細心の注意を払っていたのです。
午前10時頃チャールズはジャクソン主教と数人の護衛兵に付き添われセント・ジェームズ公園を歩いて処刑の場所であるホワイトホール宮殿へと向かいました。太鼓が悲しげなリズムを刻む中彼は落ち着いた足取りで歩きました。その姿は罪人というよりは自らの運命を受け入れた殉教者のようでした。
ホワイトホール宮殿に着くと彼は数時間を自室で過ごし最後の祈りを捧げ家族への別れの手紙を書きました。彼は前日に幼い二人の子供エリザベスとヘンリーに最後の別れを告げていました。彼は息子ヘンリーに「いいかい彼らは私を殺してお前を王にしようとするかもしれない。でもお前は決して王になってはならない。兄さんたち(チャールズとジェームズ)が生きている限りは」と言い聞かせたとされています。
バンケティング・ハウス前の処刑台
午後2時少し前についにその時が来ました。処刑の舞台はホワイトホール宮殿の主要な建物であるバンケティング・ハウスの2階の窓から突き出すようにして特別に設営されていました。この場所の選択は極めて象徴的でした。バンケティング・ハウスはチャールズの父ジェームズ1世によって建てられその壮麗な天井にはルーベンスが描いた王権神授とスチュアート朝の栄光を称える天井画が飾られていました。チャールズはまさに自らの王権の神聖さを最も雄弁に物語る建物の下でその王権を否定する者たちの手によって処刑されることになったのです。
処刑台は黒い布で覆われ、その中央には首を置くための低い木製のブロックが置かれていました。そしてその傍らには処刑執行人とその助手が顔を隠すための仮面とウィッグを身につけて立っていました。処刑人の正体は公式には明らかにされておらず今日に至るまで様々な説があります。
チャールズはジャクソン主教を伴って静かに処刑台へと進み出ました。彼は集まった群衆を見渡しましたが処刑台の周りは兵士たちによって固められており一般の群衆は遠くにいるため彼の声は届かないと悟りました。そこで彼は処刑台の上にいた数人の人々、特にジャクソン主教と処刑の記録係であったトーマス・トムリンソン大佐に向かって最後の演説を始めました。
国王の最後の言葉
チャールズの最後の演説は自己弁護であり政治的遺言でありそして殉教者としての宣言でした。彼は内戦を始めたのは自分ではなく議会であると主張しました。そして自らは人民の自由のために死ぬのだと述べました。しかし彼が言う「人民の自由」とは人民が政治に参加することではありませんでした。
「まことに私は人民の自由を誰よりも望んでいる。しかし人民の自由とは人民が統治に参加することにあるのではない。それは彼らにとって何の関係もないことだ。臣民と主権者は全く異なるものである。」
彼によれば真の自由とは人々が法によって定められた自らの生命と財産を享受できる状態でありそれを保障するのが国王の務めであるというものでした。彼は自らを法と秩序の守護者として描き議会こそがそれを破壊したのだと非難しました。
そして彼は自らの信仰を表明し敵を許すことを宣言しました。「私は心から神に祈る。彼らが正しい道を取るよう神が彼らを許したまわんことを。そして私が今から赴くこの国が平和な王国となるように。」
演説を終えると彼はジャクソン主教に自らが身につけていた聖ジョージの記章を渡し「覚えておけ」という謎めいた一言を告げました。この言葉が何を意味するのかについては様々な解釈がありますが一般的には息子チャールズに復讐を忘れるなあるいは自らの殉教を忘れるなと伝えたものと考えられています。
彼は髪が邪魔にならないように白いキャップを被り処刑人に自分が合図をしたら斧を振り下ろすよう指示しました。そして首を置くブロックがあまりに低いことに不満を漏らしながらも静かにひざまずきブロックの上に首を置きました。短い祈りの後彼は両腕を広げ合図を送りました。
斧が一閃し国王の首は一撃で胴体から切り離されました。
処刑人の助手がその血に濡れた首を拾い上げ群衆に向かって高く掲げ「見よ反逆者の首だ!」と叫びました。しかしその瞬間に群衆から湧き上がったのは歓声ではありませんでした。目撃者の記録によればそれは恐怖と驚きそして悲しみが入り混じったこれまで誰も聞いたことのないような深いうめき声でした。
群衆の中には国王の血をハンカチに浸して持ち帰ろうとする者もいました。それは殉教者の聖遺物としてあるいは王の血には治癒の力があるという古い信仰に基づいていました。チャールズ1世の死は政治的な行為であると同時に多くの人々にとって神聖なものが冒涜された恐るべき出来事として受け止められたのです。
処刑の反響と遺産
チャールズ1世の処刑はイングランドだけでなくヨーロッパ全土に衝撃の波紋を広げました。それは単に一つの統治体制を終わらせただけでなく人々の心の中に深く複雑な遺産を残しました。一方では国王殺しという行為は共和政の正当性に拭い去れない汚点を残し、他方ではチャールズを「殉教者」として神聖化する強力な神話を生み出しました。この二つの相反する遺産がその後のイングランドの歴史の行方を大きく左右することになります。
イングランド共和国(コモンウェルス)の誕生
国王の処刑から数日後ランプ議会は君主制が「不必要で厄介でこの国の人民の自由、安全、そして公益にとって危険である」としてその廃止を正式に宣言しました。貴族院も同様に廃止され1649年5月19日イングランドは「コモンウェルス(共和国)」であることが布告されました。行政権は議会によって任命される41名のメンバーからなる国務会議が担いました。
しかしこの新しい共和国の船出は極めて困難なものでした。国内では国王の処刑に衝撃を受けた多くの人々が新しい政権を軍事力に依存した非合法な簒奪者と見なしていました。水平派のような急進的なグループは共和国が自分たちの求める民主的な改革を実現しなかったことに失望し反乱を起こしました。
国外ではヨーロッパの君主国が国王殺しの政権を嫌悪しその承認を拒否しました。スコットランドとアイルランドは亡命中のチャールズ2世を正統な王として認めコモンウェルスに対する戦争の準備を進めていました。共和国はその存続をかけてオリバー=クロムウェルによるアイルランドとスコットランドの過酷な征服戦争を遂行しなければなりませんでした。
国王の処刑という行為は共和国の正当性に常に付きまとう重荷となりました。それはあまりに多くの人々にとって神と自然の法に反する許されざる罪でした。この「原罪」がコモンウェルスとそれに続く護国卿時代が国民の幅広い支持を得ることができず最終的に11年で崩壊する大きな要因の一つとなったのです。
『国王の肖像(エイコーン・バシレイケイ)』と殉教者神話
チャールズ1世の処刑からわずか数日後一冊の本がロンドンの街角に現れ爆発的なベストセラーとなりました。『エイコーン・バシレイケイ(Eikon Basilike、ギリシャ語で「国王の肖像」の意)』と題されたこの本はチャールズ1世自身が内戦中の苦難と信仰を綴った私的な瞑想録であるとされていました。
この本の中で描かれるチャールズは自らの権力のために戦った頑固な暴君ではなく人民の罪のために苦しみ敵を許しキリストのように自らを犠牲にする敬虔で忍耐強い殉教者でした。彼は自らの死をイングランドの法とプロテスタント信仰を守るための殉教と位置づけました。
「私は人民の殉教者として死ぬ方が彼らと共に生きるよりも彼らの自由をはるかに買い求めることができるだろう。」
この本は人々の心に深く訴えかけました。国王の処刑という暴力的な現実に衝撃を受け罪悪感を抱いていた多くの人々にとって『エイコーン・バシレイケイ』はその悲劇的な出来事に意味と慰めを与えるものでした。この本は出版が禁止されたにもかかわらず何度も再版されヨーロッパの各言語に翻訳されました。議会派はジョン・ミルトンに命じてこれに反論する『エイコノクラスティーズ(偶像破壊者)』を書かせましたがその効果は限定的でした。
『エイコーン・バシレイケイ』の成功は「チャールズ国王、殉教者」という強力なカルトの形成に決定的な役割を果たしました。王党派はこの殉教者神話を巧みに利用しスチュアート朝の正当性を訴え続けました。国王の血が染み込んだハンカチは聖遺物として崇められ彼の死を悼む版画や詩が密かに出回りました。チャールズ1世は生前のどの時点よりも死後において、はるかに多くの人々の心を掴んだのです。
王政復古への影響
殉教者チャールズの神話は単なる感傷的な物語ではありませんでした。それは11年間にわたる共和政の実験を通じて人々の心の中で生き続けた強力な政治的力でした。軍政の厳しさ、政治の不安定、そしてピューリタン的な道徳の強制にうんざりした人々にとって失われた王政は平和で秩序ある「古き良きイングランド」の象徴として次第に理想化されていきました。
1660年オリバー=クロムウェルの死後の混乱を経てジョージ・マンク将軍が王政復古への道を拓いたとき国民は熱狂してチャールズ2世を迎えました。この熱狂の背景には共和政への幻滅だけでなく「殉教した王の息子」を正統な王位に戻すことで国家が犯した罪を贖い断ち切られた秩序を回復したいという人々の強い願いがありました。
王政復古後チャールズ1世の殉教者としての地位は公に確立されました。イングランド国教会は彼を聖人に列しその命日である1月30日を断食と悔い改めの日として祈祷書に加えました。国王の裁判に関わった「国王殺し」たちは反逆者として捕らえられその多くが残虐な方法で処刑されました。クロムウェルの遺体さえも墓から掘り起こされ、その首はウェストミンスター・ホールに晒されました。これらは国王殺しという罪がいかに重大であったかを国民に示すための象徴的な儀式でした。
永続する遺産
チャールズ1世の処刑はイングランドの歴史に消えることのない二重の遺産を残しました。
一つは君主でさえも法の下にあり人民に対して責任を負うという革命的な原則です。この原則は王政復古後も完全に消え去ることはありませんでした。チャールズ2世とその弟ジェームズ2世は父のように絶対的な権力を振るうことはできず常に議会の存在を意識しなければなりませんでした。そしてジェームズ2世が再び専制を試みたときイングランド国民は1688年の名誉革命によって再び国王を追放することになります。国王を処刑するという記憶はその後のイングランドの君主たちにとって常に無言の警告として機能し続けたのです。
もう一つの遺産は立憲君主制という英国独自の政治体制の発展です。国王の処刑という過激な手段とその後の軍事独裁という経験はイングランド国民に君主制の完全な廃止ではなく国王の権力を法と議会によって制限するというより穏健で現実的な道を選ばせることになりました。ある意味でチャールズ1世の死は絶対王政の可能性を永遠に葬り去り国王が「君臨すれども統治せず」という近代的な立憲君主制への道を逆説的に切り拓いたと言えるかもしれません。
チャールズ1世の処刑はイングランドが二度と後戻りできない歴史の分水嶺でした。それは一つの政治体制を終わらせ新しい体制を生み出すための血なまぐさい産みの苦しみでした。そして断頭台の上で流された王の血はその後のブリテン諸島の政治と社会のあり方を永続的に規定し続けることになったのです。