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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 重商主義と啓蒙専制主義

セイロン島(スリランカ)とは わかりやすい世界史用語2672

著者名: ピアソラ
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セイロン島とは

17世紀、セイロン島は世界の歴史が交錯する激動の舞台でした。古くから「東方の穀倉」と称される豊かな土地、そして何よりも、世界最高品質と謳われるシナモンが育つ唯一無二の場所。この香しい樹皮をめぐって、三つの勢力が、時に協力し、時に裏切り、そして血を流しながら、島の覇権を争いました。
一つは、島の心臓部である山岳地帯に拠点を置き、シンハラ仏教の伝統と独立を守ろうとするキャンディ王国。彼らは、巧みな外交術とゲリラ戦を駆使して、強大な外敵に立ち向かいました。
もう一つは、一世紀以上にわたって島の沿岸部を支配し、カトリックの布教とシナモン貿易の独占を築き上げてきたポルトガル海上帝国。彼らは、要塞を築き、武力によってその権益を維持しようとしました。
そして、17世紀の夜明けと共に東方へ進出し、ポルトガルの牙城に挑んだ新興勢力、オランダ東インド会社(VOC)。彼らは、冷徹な商業的合理性と圧倒的な海軍力を武器に、アジアの富をその手に収めようと野心を燃やしていました。
17世紀のセイロン島の物語は、これら三者が織りなす、複雑で、劇的な三つ巴の闘争の記録です。それは、シナモンという一本の木をめぐる経済戦争であり、王国の独立をかけた政治闘争であり、そして仏教、カトリック、プロテスタントという異なる信仰が衝突する文化的なドラマでもありました。この島の運命は、ヨーロッパで繰り広げられる大国の思惑と、アジアの海で展開される商業帝国の興亡に、密接に結びついていたのです。



ポルトガル支配の黄昏

17世紀の幕開け時点において、セイロン島の沿岸部は、一世紀以上にわたりポルトガル海上帝国(エスタド=ダ=インディア)の影響下にありました。1505年、偶然の嵐によってポルトガル艦隊が島の南西岸ガッレに漂着したのが、その長い関係の始まりでした。彼らが探し求めていたのは、キリスト教徒と香辛料。そしてセイロン島は、その両方、特に世界で最も価値のある香辛料の一つ、シナモンを豊富に産出する、まさに約束の地でした。
支配の確立

当初、ポルトガル人は島の南西部にあったコーッテ王国の内紛に乗じる形で、その影響力を徐々に拡大していきました。彼らは、王位継承争いに介入し、一方の派閥を支援する見返りとして、交易上の特権や要塞建設の許可を得ていきました。1518年には、主要な港であったコロンボに最初の要塞を建設しました。これを足がかりとして、島の沿岸部、特にシナモンが自生する肥沃な南西部と西部一帯の支配を固めていきます。
ポルトガルの支配は、二つの柱によって支えられていました。一つは「フェイトリア」と呼ばれる商館と、それを守る「フォルタレザ」すなわち要塞のネットワークです。コロンボ、ガッレ、ニゴンボ、マナー、ジャフナといった戦略的な港には、石造りの堅固な要塞が築かれ、大砲が据え付けられました。これらの要塞は、海上からの敵の侵入を防ぐと同時に、内陸のシンハラ王国に対する威圧の拠点ともなりました。
もう一つの柱は、カトリックの布教活動でした。フランシスコ会、ドミニコ会、イエズス会といった修道会が、ポルトガル軍と共に島へやってきました。彼らは、教会や学校を建設し、積極的に布教活動を展開しました。特に、沿岸部の漁村に住むカライヤール(漁師カースト)など、既存の仏教社会の周縁にいた人々が、集団でカトリックに改宗しました。改宗は、単なる信仰の選択ではなく、ポルトガルの庇護下に入ることで社会的な地位の向上を図るという、政治的・経済的な動機も絡んでいました。ポルトガル風の洗礼名を持つシンハラ人やタミル人が数多く生まれ、彼らはポルトガル支配の協力者ともなりました。
シナモン独占と搾取

ポルトガルにとって、セイロン島は「シナモンの島」でした。彼らの最大の目的は、この価値ある香辛料の貿易を完全に独占し、莫大な利益を上げることでした。そのために、彼らはコーッテ王国が古くから維持してきた制度を、より収奪的な形で利用しました。
シナモンの収穫と加工は、伝統的にサラガマと呼ばれる特定のカーストの人々が担っていました。彼らは、王に対してシナモンを貢納する義務を負う代わりに、土地の保有を認められていました。ポルトガル人はこの制度を乗っ取り、サラガマの人々に対して、より過酷な量のシナモンを、ほとんど無償で納めることを強制しました。収穫されたシナモンは、コロンボの倉庫に集められ、ポルトガル国王の独占事業として、リスボンへと船積みされていきました。この強制労働システムは、サラガマの人々に大きな負担を強いるものであり、彼らの反乱や逃亡が絶えませんでした。
キャンディ王国との対立

ポルトガルの支配は、島の沿岸部に限定されていました。内陸の山岳地帯には、シンハラ人の最後の独立王国であるキャンディ王国が、頑強に抵抗を続けていました。16世紀末、ヴィマラダルマスリヤ1世のもとで再興されたキャンディ王国は、ポルトガルにとって常に悩みの種でした。
ポルトガルは、幾度となくキャンディ王国を征服しようと試み、大規模な軍隊を内陸へと送り込みました。しかし、険しい山道、鬱蒼としたジャングル、そしてキャンディ軍の巧みなゲリラ戦術の前に、その試みはことごとく失敗に終わります。特に1638年のガンノルワの戦いでは、ラジャシンハ2世率いるキャンディ軍が、ポルトガル軍を壊滅的な敗北に追い込みました。この勝利は、キャンディ王国の独立を確固たるものにすると同時に、ポルトガルの軍事力が絶対ではないことを示しました。
支配の揺らぎ

17世紀半ば、ポルトガルの支配は明らかに黄昏時を迎えていました。一世紀にわたるキャンディ王国との絶え間ない戦争は、その国力を著しく消耗させていました。兵士の士気は低下し、要塞の維持管理もままならなくなっていました。また、本国ポルトガルがスペインとの同君連合(イベリア連合)に組み込まれていた時期(1580年-1640年)には、アジアの植民地に対する関心や支援が低下し、その勢いに陰りが見えていました。
そして何よりも、アジアの海に、新たな、そしてより強力なライバルが出現していました。それが、オランダ東インド会社(VOC)でした。ポルトガルの衰退とキャンディ王国の抵抗、そしてオランダの野心。これら三つの要素が絡み合い、セイロン島の歴史は、新たな、そしてより激しい時代へと突入していくことになります。ポルトガルが築いた要塞と教会は、やがて新たな支配者の手に渡る運命にあったのです。
オランダの台頭

17世紀の夜明けは、アジアの海上交易の世界に、新たなプレイヤーの登場を告げました。それは、1602年に設立されたオランダ東インド会社、通称VOCでした。商業的な効率性と軍事的な攻撃性を兼ね備えたこの巨大企業は、ポルトガルが築き上げたアジアの交易網に、正面から挑戦状を叩きつけます。彼らの究極の目標は、ポルトガルを駆逐し、香辛料貿易の独占を自らの手に収めること。そして、その戦略上、セイロン島、すなわち「シナモンの島」の奪取は、避けて通れない最重要課題でした。
最初の接触

オランダ人が初めてセイロン島に姿を現したのは、1602年のことでした。提督ヨリス=ファン=スピルベルヘン率いる艦隊が、島の東岸バッティカロアに到着し、内陸のキャンディ王国との接触を試みます。当時、キャンディ王ヴィマラダルマスリヤ1世は、沿岸部を支配する宿敵ポルトガルに対抗するための、強力な同盟相手を探していました。彼は、オランダ人を歓迎し、丁重にもてなしました。スピルベルヘンは王に、オランダがポルトガルと戦争状態にあることを伝え、共にポルトガルを島から追い出すことを提案します。ここに、キャンディ王国とオランダの、利害に基づいた複雑な関係が始まりました。
しかし、この初期の協力関係は、文化的な誤解からすぐに暗礁に乗り上げます。スピルベルヘンの後にやってきた副提督セーバルト=デ=ウェールトは、王に対して横柄な態度をとり、王の要求を無視したため、激怒した王の命令によって殺害されてしまいます。この事件により、両者の関係は一時的に断絶しました。
キャンディ=オランダ同盟の成立

関係が修復され、本格的な同盟へと発展するのは、1630年代、キャンディ王ラジャシンハ2世の治世になってからのことです。ラジャシンハ2世は、父祖の代からの悲願であるポルトガルからの国土解放を成し遂げるため、オランダの海軍力が不可欠であると確信していました。一方、バタヴィアにアジアの拠点を築いたVOCもまた、ポルトガルの最も収益性の高い植民地の一つであるセイロン島を奪取する好機をうかがっていました。
1638年、両者は正式な同盟条約を締結します。この条約の骨子は、VOCがその海軍力と軍隊を用いてポルトガルの要塞を攻略し、その見返りとして、キャンディ王国がVOCに対して戦費を支払い、シナモン貿易の独占権を与えるというものでした。しかし、この条約には、後の紛争の火種となる、致命的な曖昧さが含まれていました。それは、攻略した要塞の帰属に関する条項でした。キャンディ側は、要塞は攻略後に自国に引き渡されるものと解釈していましたが、オランダ側は、戦費が完全に支払われるまでは自らが保持する権利があると主張できるような、抜け道のある文面になっていました。
ポルトガル要塞の攻略

同盟に基づき、VOCはセイロン島への大規模な軍事作戦を開始します。1638年、彼らはまず東海岸のバッティカロア要塞を、キャンディ軍の協力のもとで攻略しました。続いて1639年には、同じく東海岸の主要港であるトリンコマリーを占領します。
戦いの焦点は、島の南西部に移ります。1640年、VOCはポルトガルの重要な拠点であったニゴンボとガッレに猛攻撃をかけました。特にガッレの攻略戦は熾烈を極めましたが、オランダ軍はこれを制圧します。ガッレは、天然の良港であり、シナモン地帯の中心に位置していたため、VOCにとって極めて重要な戦略拠点となりました。彼らはすぐにガッレの要塞を大規模に改修・拡張し、セイロン島における新たな行政の中心地としました。
しかし、この時点で、キャンディ王国とオランダの同盟には亀裂が生じ始めていました。VOCは、攻略したバッティカロアやガッレの要塞を、戦費の未払いを理由にキャンディ側に引き渡すことを拒否したのです。ラジャシンハ2世はオランダの不実を悟り始めましたが、ポルトガルという共通の敵を完全に排除するまでは、この不満な同盟を維持するしかありませんでした。
コロンボとジャフナの陥落

戦いは一時的な休戦を挟みながらも、オランダ優位のうちに進んでいきました。そして、最終決戦の時が訪れます。1655年、VOCはポルトガルのセイロン島における首都、コロンボの包囲を開始しました。コロンボ要塞は堅固であり、ポルトガル守備隊は絶望的な状況の中で英雄的な抵抗を見せましたが、7ヶ月にわたる過酷な包囲戦の末、1656年5月、ついに降伏しました。飢餓と病によって、降伏時に城内から出てきたポルトガル人は、わずか73人であったと伝えられています。
コロンボの陥落は、セイロン島におけるポルトガル支配の事実上の終焉を意味しました。残る最後の拠点であった北部のマナーとジャフナも、1658年までに相次いでオランダの手に落ちました。こうして、約150年にわたったポルトガルの支配は完全に終わりを告げ、セイロン島の沿岸部は、新たなヨーロッパの支配者、オランダ東インド会社によって掌握されることになったのです。しかし、それはキャンディ王国が望んだ国土の解放ではなく、支配者がポルトガルからオランダに代わっただけという、皮肉な結果の始まりでもありました。
キャンディ王国

17世紀のセイロン島の歴史を語る上で、ヨーロッパの二つの帝国、ポルトガルとオランダの動向と並んで不可欠な存在が、島の心臓部に位置したシンハラ人の最後の独立王国、キャンディ王国です。険しい山々に囲まれた天然の要害に拠点を置いたこの王国は、圧倒的な軍事力を持つ外敵に対し、巧みな外交と粘り強い抵抗を続け、シンハラ文化と仏教の砦として、その独立を維持し続けました。
抵抗の王国

キャンディ王国の歴史は、ポルトガルに対する抵抗の歴史そのものでした。16世紀末、沿岸部のコーッテ王国がポルトガルの傀儡と化す中で、キャンディはシンハラ人の独立の希望を託される最後の砦となりました。ヴィマラダルマスリヤ1世(在位1591年-1604年)は、ポルトガル軍を打ち破って王国の基盤を固め、仏教を復興させ、仏歯(釈迦の歯とされる聖遺物)をキャンディに安置することで、王国の正統性を確立しました。
彼の後継者たちも、この抵抗の精神を受け継ぎました。特に、17世紀の大部分を統治したラジャシンハ2世(在位1635年-1687年)は、その治世を通じて、ヨーロッパ勢力との複雑な駆け引きに終始した王でした。彼は、幼少期にポルトガル軍の侵攻によって首都を追われるという屈辱を経験しており、ポルトガルからの国土解放を生涯の悲願としていました。そのために、彼は「敵の敵は味方」という論理のもと、当時ポルトガルと敵対していたオランダ東インド会社(VOC)との同盟に踏み切ります。
巧みな外交とゲリラ戦

キャンディ王国の最大の武器は、その巧みな外交術でした。彼らは、ポルトガルとオランダという二つの勢力を天秤にかけ、互いに争わせることで、自国の利益を最大化しようと試みました。ラジャシンハ2世がオランダと同盟を結んだのは、オランダの海軍力を利用して、自力では攻略不可能なポルトガルの沿岸要塞を奪うためでした。彼は、オランダを単なる傭兵と見なし、目的が達成されれば島から追い出すことができると考えていました。
もう一つの武器は、地の利を活かしたゲリラ戦術でした。キャンディ王国は、首都キャンディに至るまでの道が険しい山道と密林に覆われており、ヨーロッパ式の重装備の軍隊が侵攻するには極めて困難な地形でした。キャンディ軍は、正面からの大規模な会戦を避け、待ち伏せ攻撃、補給路の寸断、焦土作戦といったゲリラ戦法を得意としました。彼らはジャングルの奥深くに潜み、敵が疲弊したところを急襲しました。1638年のガンノルワの戦いでは、この戦術が功を奏し、侵攻してきたポルトガル軍をほぼ全滅させるという輝かしい勝利を収めています。
オランダとの不信

しかし、ポルトガルを追い出すために招き入れたオランダは、キャンディ王国が期待したような従順な同盟相手ではありませんでした。VOCは、攻略した要塞をキャンディ側に引き渡すことを拒否し、沿岸部の支配権を自らのものとしました。ラジャシンハ2世は、オランダの野心と不実をすぐに悟ります。彼は、オランダ人を「胡椒の商人とシナモンの商人が入れ替わっただけだ」と皮肉ったと伝えられています。
ポルトガルという共通の敵がいなくなると、キャンディ王国とオランダの関係は、急速に悪化しました。両者の間には、国境線をめぐる紛争、貿易に関する対立、そして互いの主権の承認をめぐる儀礼的な問題など、絶え間ない緊張が続きました。ラジャシンハ2世は、オランダの支配地域に対して、しばしば散発的な攻撃を仕掛け、シナモンの収穫を妨害するなどして、VOCの支配を揺さぶろうとしました。彼は、オランダの支配を完全に覆すことはできないと理解しつつも、自らの王としての尊厳と王国の独立を守るために、生涯にわたって抵抗を続けたのです。
王国の社会と文化

キャンディ王国は、政治的・軍事的な抵抗の拠点であっただけでなく、シンハラ文化と上座部仏教の中心地でもありました。沿岸部がポルトガル、次いでオランダの支配下に入り、キリスト教化が進む中で、キャンディは伝統的な価値観を守る最後の砦と見なされていました。
王は、仏教の保護者であり、仏歯の守護者として、絶対的な権威を持っていました。社会は、王を頂点とする封建的な階層構造であり、貴族(ラダラ)が地方の行政を担っていました。経済は、自給自足的な米作農業を基本とし、土地は王への奉仕(ラージャカーリヤ)と引き換えに与えられていました。
17世紀後半、ロバート=ノックスというイギリス人の船乗りが、キャンディ王国で20年近くにわたって捕虜生活を送りました。彼が後に著した『セイロン島歴史』は、当時のキャンディ王国の社会、宗教、風俗、そしてラジャシンハ2世の統治について、外部の視点から詳細に記録した、極めて貴重な資料となっています。ノックスの記述は、専制君主である王の気まぐれな暴力に怯えながらも、人々が伝統的な生活を営む、閉鎖的でありながらも秩序だった社会の姿を生き生きと描き出しています。
17世紀を通じて、キャンディ王国は、強大な外圧に晒されながらも、その独立を奇跡的に維持しました。それは、険しい地形という地理的な幸運だけでなく、王たちの巧みな外交戦略と、民衆の粘り強い抵抗の精神があったからに他なりません。この山岳の王国は、セイロン島が完全にヨーロッパの植民地となることを防ぐ、最後の防波堤として、その役割を果たし続けたのです。
オランダの支配体制

1658年までにポルトガル勢力を完全に一掃したオランダ東インド会社(VOC)は、セイロン島の沿岸部に新たな支配体制を築き上げました。その体制は、ポルトガルのそれを踏襲しつつも、VOC特有の商業的合理性と官僚的な効率性によって、より体系的かつ徹底したものへと再編されました。VOCの目的は明確でした。それは、島の最大の富であるシナモンをはじめとする産物の生産と交易を完全に管理し、そこから得られる利益を最大化することでした。
行政機構

オランダ領セイロンの行政の中心は、当初ガッレに置かれましたが、1658年のコロンボ陥落後は、コロンボへと移されました。コロンボは、VOCのアジアにおける拠点の中でも、バタヴィア、ケープタウンに次ぐ重要な地位を占めることになります。
島の統治の最高責任者は、総督でした。総督は、バタヴィアの総督とインド理事会によって任命され、島の行政、司法、軍事の全権を握っていました。総督を補佐する機関として、コロンボに政務会が置かれ、上級のVOC職員たちがメンバーとして政策決定に関与しました。
オランダの支配地域は、コロンボ、ガッレ、ジャフナという三つの司令部(コマンデメント)に分割され、それぞれの司令官が地方行政を担当しました。さらにその下には、ディサワと呼ばれる行政単位が置かれ、オランダ人の役人(ディサワ)が統治しました。このディサワという役職名や行政区画は、シンハラ王国のかつての制度を借用したものでした。VOCは、既存の社会構造や統治システムを完全に破壊するのではなく、それを自らの支配に都合の良いように再編して利用する、というプラグマティックなアプローチを取ったのです。
司法制度

VOCは、島に多層的な司法制度を導入しました。ヨーロッパ人やその子孫に関わる事件は、オランダの法律に基づいて、高等法院で裁かれました。一方、現地住民(シンハラ人、タミル人)の間の民事的な争いについては、それぞれの伝統的な慣習法(テーサワラマイ法、キャンディ法など)が尊重され、それに基づいて裁かれました。VOCは、これらの慣習法を成文化する作業も行っています。これは、統治の安定化を図るための現実的な政策でしたが、同時に、多様であった慣習を固定化し、社会の変化を阻害する側面も持っていました。
宗教政策

VOCは、国教であるオランダ改革派教会(プロテスタントの一派であるカルヴァン派)の布教を推進しました。ポルトガル時代にカトリックに改宗していた住民に対しては、プロテスタントへの再改宗が強く奨励され、カトリックの聖職者は追放されました。公的な役職に就くためには、プロテスタントであることが条件とされるなど、信仰は社会的な立身出世と結びついていました。
VOCは、各地に教会を建設し、学校を併設して、聖書の教えと共に読み書きを教えました。これにより、識字率は向上しましたが、その主な目的は、VOCの統治を担う、忠実で有能な現地人エリートを育成することにありました。しかし、VOCの宗教政策は、ポルトガルほど狂信的ではありませんでした。彼らの最大の関心事はあくまで商業的利益であり、布教活動がそれに支障をきたす場合は、容易に妥協しました。仏教やヒンドゥー教は、公には認められませんでしたが、黙認されることが多く、人々の私的な信仰は根強く生き残りました。
経済支配=シナモンと象

VOCの支配体制の核心は、経済の徹底的な管理にありました。その最大の目的は、世界最高品質とされたセイロン産シナモンの完全な独占でした。
VOCは、ポルトガルと同様に、サラガマ=カーストの人々を強制的に動員してシナモンを収穫させました。彼らは、王への奉仕(ラージャカーリヤ)の義務を、VOCへの奉仕へと振り向けられたのです。収穫されたシナモンは、厳格な品質管理のもとで等級分けされ、コロンボの巨大な倉庫に集められました。そして、VOCの船によって、バタヴィアを経由してアムステルダムへと運ばれ、ヨーロッパ市場で莫大な利益を生み出しました。VOCは、シナモンの木の栽培にも乗り出し、ニゴンボ近郊などにプランテーションを設立しました。これは、キャンディ王国との関係が悪化し、内陸からの供給が途絶えた場合のリスクに備えるためでした。
シナモンに次いで重要な商品は、象でした。セイロン産の象は、その大きさと強さから、インドの王侯やムガル帝国の軍隊で「生きた戦車」として重宝され、高値で取引されました。VOCは、北西部のマナール地方で大規模な象の捕獲を行い、それをインドの商人に売却することで、大きな利益を上げていました。
その他にも、ビンロウジュの実、真珠、そして宝石などもVOCの独占下に置かれました。VOCは、自らが管理する港以外での交易を厳しく禁じ、密貿易は厳罰に処せられました。これにより、島の経済は完全にVOCのコントロール下に置かれ、その富は組織的に吸い上げられていったのです。この効率的で収奪的なシステムこそが、17世紀後半におけるオランダの繁栄を支える、重要な柱の一つでした。
社会と文化の変容

17世紀のセイロン島は、ポルトガルからオランダへと支配者が交代するという、大きな政治的変動を経験しました。このヨーロッパ勢力による約一世紀半にわたる支配は、島の社会構造、文化、そして人々のアイデンティティに、深く、そして不可逆的な変化をもたらしました。それは、単なる外国による統治ではなく、異なる価値観、宗教、そして生活様式が、既存の社会と衝突し、融合していく複雑なプロセスでした。
バーガーの誕生

オランダ統治時代がセイロン社会に残した最も明確な遺産の一つが、「バーガー」と呼ばれる新しい社会階層の形成です。バーガーとは、オランダ語で「市民」を意味する言葉で、当初はVOCに属さないオランダ人の自由市民を指しましたが、次第に、オランダ人をはじめとするヨーロッパ人の父と、現地のシンハラ人やタミル人の母との間に生まれた混血の子孫を指すようになりました。
彼らは、父親のヨーロッパ文化と母親のアジア文化の両方を受け継ぐ、ユニークなクレオール文化を育みました。家庭ではオランダ語やポルトガル語クレオールが話され、キリスト教(プロテスタント)を信仰し、ヨーロッパ風の服装を好みました。VOCは、彼らを統治の協力者として積極的に登用しました。読み書きができ、オランダ語を解するバーガーたちは、VOCの官僚機構の中で、書記や通訳、下級役人といった重要な役割を担いました。彼らは、ヨーロッパ人と現地人の間に立つ中間層として、植民地社会の円滑な運営に不可欠な存在となっていきました。彼らの存在は、セイロン島が人種的・文化的に混じり合う、新たな段階に入ったことを象徴しています。
宗教の多元化

ポルトガルとオランダによる支配は、島の宗教地図を大きく塗り替えました。それまで、島はシンハラ人の上座部仏教と、タミル人のヒンドゥー教が主要な宗教でした。そこに、ポルトガルがカトリックを、オランダがプロテスタントをもたらしたことで、宗教的な多元性が生まれたのです。
特に沿岸部では、多くの人々が、社会的・経済的な利益を求めてキリスト教に改宗しました。しかし、その信仰は、必ずしも純粋なものではありませんでした。多くの人々は、キリスト教の教えと、古くから信じてきた仏教やヒンドゥー教の儀礼、あるいは土着の精霊信仰などを、巧みに融合させていました。教会のミサに参加する一方で、家の仏壇に手を合わせ、占星術師に未来を占ってもらうといった、シンクレティズム(宗教混淆)が広く見られました。この柔軟な信仰のあり方は、外部から持ち込まれた文化を、自分たちの文脈の中で受容し、変容させていく、セイロン社会のしたたかさを示しています。
言語と名前の変化

ヨーロッパ支配は、人々の言葉や名前にも影響を与えました。ポルトガル語は、ポルトガルが去った後も、沿岸部の共通語(リンガ=フランカ)として、特に異なる民族間のコミュニケーションにおいて、広く使われ続けました。オランダ語も、行政や教育の言語として普及し、多くの単語がシンハラ語やタミル語の語彙の中に借用されていきました。
また、キリスト教への改宗に伴い、多くの人々がヨーロッパ風の名前を持つようになりました。デ=シルヴァ、ペレラ、フェルナンドといったポルトガル系の姓は、現代のスリランカにおいても、ごく一般的な名前として定着しています。これは、17世紀に起こった文化変容が、いかに深く社会に根付いているかを示す証拠です。
知識と技術の導入

オランダ人は、自らの統治と商業活動に役立てるため、様々な西欧の知識と技術を島にもたらしました。彼らは、島の動植物、鉱物、そして人々の習慣について、詳細な調査を行い、多くの記録を残しました。これらの記録は、当時のセイロン島を知る上で、極めて貴重な資料となっています。
また、印刷技術の導入も重要な変化でした。VOCは、キリスト教の教義書や聖書を現地の言葉で印刷するために、コロンボに印刷所を設立しました。これは、文字情報の複製と普及を可能にし、知識の伝達方法に革命をもたらしました。
建築の分野でも、オラン-ダの影響は顕著です。ガッレの要塞都市や、コロンボ、マータラなどに残るオランダ風の教会、役所、住居は、その堅牢で実用的な建築様式を示しています。これらの建物は、ヨーロッパの建築技術と、熱帯の気候に適応するための工夫(高い天井、風通しの良いベランダなど)が融合した、独特の植民地様式建築として、島の景観の一部となっています。
17世紀は、セイロン島が、否応なくグローバルな世界の網の目の中に組み込まれていった時代でした。その過程で、古くからの伝統は挑戦を受け、変容を余儀なくされました。しかし、人々は外来の文化を一方的に受け入れるだけでなく、それを選択し、解釈し直し、自らの文化と融合させることで、新しい、より複雑で豊かな社会を築き上げていったのです。
結論

17世紀という一世紀は、セイロン島の運命を根底から揺さぶり、その後の歴史の方向性を決定づけた、激動の時代でした。このインド洋の島は、ヨーロッパで燃え盛る帝国の野心と、アジアの海で繰り広げられる商業的覇権争いの、まさに中心舞台となったのです。物語は、香しいシナモンの樹皮をめぐる、三つの勢力の複雑な駆け引きとして展開しました。
世紀の初め、島はポルトガル海上帝国の支配下にありました。彼らは要塞を築き、カトリックの旗印のもと、シナモン貿易の独占から莫大な富を得ていました。しかし、その支配は、内陸の山岳地帯に籠るキャンディ王国の粘り強い抵抗と、絶え間ない戦争によって、次第にその力を消耗させていきました。
そこへ登場したのが、新興の商業帝国、オランダ東インド会社(VOC)でした。彼らは、ポルトガルからの国土解放を悲願とするキャンディ王ラジャシンハ2世と、利害に基づいた同盟を結びます。キャンディ王国のゲリラ戦と、VOCの圧倒的な海軍力が組み合わさった時、ポルトガルの支配はもろくも崩れ去りました。1658年、最後の拠点が陥落し、150年にわたるポルトガルの時代は、完全に幕を閉じます。
しかし、キャンディ王国が夢見た独立の夜明けは訪れませんでした。オランダは、ポルトガルに取って代わった、新たな、そしてより狡猾で組織的な支配者でした。彼らは、攻略した沿岸部を自らの領土とし、より効率的な官僚システムと軍事力によって、島の富を徹底的に搾取する体制を築き上げました。キャンディ王国は、独立こそ維持したものの、海への出口を完全に封鎖され、内陸に押し込められることになります。
オランダの支配は、島の社会にも深い歴史を残しました。プロテスタントの布教、オランダ法の導入、そしてヨーロッパ人とアジア人の血が混じり合った「バーガー」という新たな社会階層の誕生。ポルトガル語やオランダ語の単語が日常会話に溶け込み、人々の姓にヨーロッパ風の名前が刻まれました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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