ケープ植民地とは
アフリカ大陸の最南端、大西洋とインド洋が劇的に出会うこの地は、何世紀にもわたりヨーロッパとアジアを結ぶ海上交通の要衝として、極めて重要な戦略的価値を持ち続けてきました。この地に築かれたケープ植民地は、その歴史を通じて単なる地理的な中継点をはるかに超える、複雑で多層的な社会を形成していきます。物語は17世紀半ば、オランダ東インド会社という民間企業が船乗りたちのためのささやかな補給基地を設営したことから始まります。しかしその小さな始まりは、やがてヨーロッパからの入植者の拡大、先住民コイコイ人やサン人との接触と衝突、そしてマダガスカルや東南アジア、アフリカ各地から連れてこられた奴隷たちの強制労働という、光と影が交錯する壮大な歴史ドラマへと発展していきました。
ケープ植民地の歴史は、一つの視点から単純に語ることはできません。それはヨーロッパの帝国主義的な野心とアフリカ土着の社会とが、初めて深くそして持続的に関わりを持った実験の場でもありました。オランダ東インド会社の厳格な管理下で始まったこの植民地は、やがて会社の意図を超えて独自の社会を形成し始めます。自由市民の登場、そして彼らが内陸へと進出していく「トレックボーア」の現象は、ヨーロッパ的な秩序とアフリカの広大なフロンティアとの間で新たなアイデンティティを生み出しました。この過程でヨーロッパ人入植者、先住民、そして奴隷という三つの異なる集団が互いに影響を与え合い、時には暴力的に衝突し、時には予期せぬ形で混じり合いながら、後の南アフリカ社会の原型となる深く分断されながらも不可分に結びついた独特の階層社会を築き上げていったのです。
18世紀末から19世紀初頭にかけてヨーロッパの政治情勢の激変は、遠く離れたアフリカ南端のこの植民地にも決定的な変化をもたらします。ナポレオン戦争の余波を受け、ケープ植民地はオランダの手から当時世界最強の海洋帝国であったイギリスの支配下へと移りました。この支配者の交代は単に旗が替わったという以上の、社会の根本的な変革の始まりを意味していました。イギリスは奴隷制度の廃止、法の下の平等の導入、そして英語の公用語化といった啓蒙主義的な理念に基づいた改革を次々と推し進めます。しかしこれらの改革は、すでに150年以上の歴史の中で独自の価値観と生活様式を築き上げていたオランダ系入植者、すなわち「アフリカーナー」たちの激しい反発を招きました。
オランダ東インド会社による設立
ケープ植民地の歴史は17世紀の世界経済を支配した巨大多国籍企業、オランダ東インド会社(VOC)の商業的な必要性から直接的に生まれました。その設立は帝国建設という壮大な野望からではなく、アジアとの香辛料貿易という極めて実利的な目的を達成するための合理的な一手でした。
補給基地の必要性
17世紀初頭、オランダ東インド会社はポルトガルから香辛料貿易の覇権を奪い取り、ヨーロッパとバタヴィア(現在のジャカルタ)を中心とする東インド諸島との間に巨大な海上交易網を築き上げていました。しかしこの航海は当時の帆船にとって想像を絶するほど過酷なものでした。オランダから喜望峰を回りインド洋を横断してバタヴィアに至るまで、片道だけで6ヶ月以上を要することも珍しくありませんでした。
この長い航海の最大の脅威の一つが壊血病でした。新鮮な野菜や果物の不足によって引き起こされるこの病気は、ビタミンCの欠乏により歯茎からの出血、極度の倦怠感、そして最終的には死に至る恐ろしい病でした。多くの航海で船員の半数近くがこの病によって命を落としたと記録されています。また飲料水の不足や嵐による船の損傷も常に船乗りたちを悩ませていました。
この問題を解決するためオランダとバタヴィアの中間地点に安全な港と新鮮な食料や水を補給できる恒久的な拠点を設けることが急務となりました。アフリカ大陸の南端に位置するテーブル湾はその地理的な位置から理想的な候補地として以前から知られていました。ポルトガルの探検家たちはすでに15世紀末にはこの地に到達していましたが、彼らは恒久的な拠点を築くことにはほとんど関心を示しませんでした。1647年オランダ東インド会社の船「ニュー=ハーレム号」がテーブル湾で難破するという事故が起こります。生き残った船員たちはこの地に約1年間滞在し自給自足の生活を送る中で、この土地が農業に適しており先住民との交易も可能であることを身をもって体験しました。彼らが本国に帰還した後の報告書が、会社の取締役会である「17人会」にこの地に補給基地を設立する決断を促す最後のひと押しとなったのです。
ヤン=ファン=リーベックの上陸
1651年オランダ東インド会社はこの重要な任務の指揮官としてヤン=ファン=リーベックという名の船医兼商人を任命しました。彼はかつて会社の規則に違反したことで不遇をかこっていましたが、この任務を成功させることで自らの名誉を回復しようという強い野心に燃えていました。
1652年4月6日ファン=リーベックが率いる3隻の船(ドロメダリス号、レイハー号、フーデ=ホープ号)が約90人の会社員を乗せてテーブル湾に到着しました。彼らの任務は植民地を建設することではなく、あくまで会社の船団のための補給基地を設営することでした。その目的は以下の三点に集約されていました。
第一に新鮮な野菜と果物を栽培するための菜園を建設すること。
第二に先住民から家畜(牛や羊)を交易によって安定的に確保すること。
第三に船員たちのための簡素な病院と敵国からの攻撃に備えるための砦を建設すること。
彼らが上陸した場所はテーブルマウンテンの雄大な姿を望む風の強い荒涼とした土地でした。彼らは早速土と木材を使って四角形の簡単な砦「希望の砦(Fort de Goede Hoop)」の建設に着手しました。同時に砦の近くに広大な菜園(カンパニーズ・ガーデン)を作りヨーロッパから持ってきた種子を使ってキャベツ、ニンジン、カブといった野菜の栽培を試みました。最初の数年間は厳しい気候や未知の土壌、そして労働力不足に悩まされ困難を極めました。しかし彼らの粘り強い努力の結果、菜園は徐々に軌道に乗り始め、ケープは東インド諸島へ向かう船にとって文字通り「命綱」ともいえる新鮮な食料を供給できる不可欠な拠点となっていったのです。
ファン=ファン=リーベックの小さな集団の上陸は、その時点では歴史の大きな流れの中のささやかな出来事に過ぎませんでした。しかしこの補給基地の設立は意図せずしてヨーロッパ勢力による南アフリカへの永続的な定住の第一歩となり、その後のこの地域の歴史を根本的に変えてしまう重大な転換点となったのです。
先住民との接触と関係の変化
オランダ人がテーブル湾に上陸した時この土地は無人の荒野ではありませんでした。そこには何世紀にもわたってこの土地で独自の文化と社会を築いてきた先住民たちが暮らしていました。オランダ東インド会社の補給基地の成功はこれらの先住民との関係に根本的に依存していました。当初は交易相手であったこの関係は、やがて土地と資源をめぐる対立へと必然的に変化していくことになります。
コイコイ人とサン人
17世紀半ばの西ケープ地方には主に二つの先住民族グループが存在していました。
一つはコイコイ人(Khoikhoi)です。彼らは半遊牧の牧畜民であり牛や羊の群れを飼育し季節ごとに牧草地を移動しながら生活していました。彼らの社会はいくつかの氏族に分かれておりそれぞれが首長に率いられていました。彼らはオランダ人が「ホッテントット」という蔑称で呼んだ人々です。コイコイ人は高度な牧畜技術を持ち、その家畜はオランダ人にとって新鮮な肉を確保するための唯一の供給源でした。
もう一つのグループがサン人(San)です。彼らは狩猟採集民であり特定の家畜を持たず野生動物の狩猟と植物の採集によって生計を立てていました。彼らはコイコイ人よりもさらに古くからこの土地に住んでいたと考えられています。オランダ人は彼らを「ボッシュマンネン(森の人)」と呼び、しばしば家畜を盗む厄介な存在と見なしていました。サン人は岩絵などの豊かな芸術的伝統を持つ一方で、その生活様式は土地の私有という概念を持つオランダ人とは根本的に相容れないものでした。
ファン=リーベックの当初の任務はこれらの先住民、特にコイコイ人との友好的な関係を築き交易を通じて安定的に家畜を確保することでした。会社は彼に対して先住民の土地を奪ったり彼らを奴隷にしたりすることを厳しく禁じていました。
初期の交易関係
最初の数年間オランダ人とコイコイ人の関係は相互の利益に基づいた比較的平和な交易関係にありました。オランダ人は銅、真鍮、タバコ、そしてアルコールといったヨーロッパの製品を提供し、その見返りとしてコイコイ人から牛や羊を手に入れました。
しかしこの交易関係には当初から根本的な不安定さが内在していました。オランダ人は自分たちの都合の良い時にいつでも好きなだけ家畜を交易できると考えていました。一方コイコイ人にとって家畜は単なる商品ではなく富と社会的地位の象徴であり彼らの社会経済的な基盤そのものでした。彼らは自分たちの群れの規模を維持する必要があるため、無制限に家畜を手放すことはできませんでした。
また土地に対する考え方の違いも深刻な問題でした。オランダ人は砦と菜園の周りの土地を自分たちが排他的に所有する土地と見なしていました。一方コイコイ人にとって土地は共有のものであり、彼らは季節ごとに自分たちの家畜を伝統的な牧草地へと移動させる権利があると考えていました。オランダ人が砦の周りに垣根を築き始めた時、それはコイコイ人の移動の自由を物理的に妨げるものであり両者の間に初めて深刻な緊張が生まれました。
第一次コイ=オランダ戦争
関係の悪化は1659年ついに最初の武力衝突である第一次コイ=オランダ戦争へと発展しました。この戦争の直接的な引き金は1657年にオランダ東インド会社が初めて会社の従業員の一部を自由市民として解放し、彼らに砦の外での農業を許可したことでした。
これらの自由市民たちはコイコイ人が伝統的に最も肥沃な牧草地として利用してきたリーベーク川の流域に自分たちの農地を割り当てられました。これはコイコイ人にとって自分たちの生存基盤に対する直接的な侵害でした。ドマンという名の、かつてバタヴィアで通訳として訓練を受けたコイコイ人の指導者に率いられたいくつかの氏族がオランダ人の農場を襲撃し家畜を奪い入植者を殺害しました。
この戦争は散発的なゲリラ戦の様相を呈しました。コイコイ人は土地の地理を熟知しており素早い襲撃を得意としましたが、オランダ人のマスケット銃という近代的な火器の前には無力でした。一方オランダ人も広大な土地に散らばる神出鬼没のコイコイ人を完全に制圧することはできませんでした。
約1年続いた戦争の末1660年に和平が結ばれました。この和平協定の結果はコイコイ人にとって決定的に不利なものでした。彼らはオランダ人が占有した土地の所有権を事実上認めさせられました。この戦争は武力によって土地の所有権が決定されるという先例を作ってしまいました。これ以降オランダ人の入植地が拡大するたびにコイコイ人は自分たちの土地と独立を徐々に確実に失っていくことになります。彼らの社会は病気(特にオランダ人が持ち込んだ天然痘)、アルコール、そして経済的な依存によって内側から崩壊していきました。かつてこの土地の主人であったコイコイ人はわずか数世代のうちにその多くが土地を失いオランダ人農場での労働者となるかさらに内陸へと追いやられていったのです。
自由市民と植民地の拡大
ケープ植民地の歴史における最も重要な転換点の一つは1657年にオランダ東インド会社が一部の従業員を会社の直接的な管理から解放し「自由市民」として独立した農業経営を許可したことでした。この決定は当初食料生産の効率化という限定的な目的で行われましたが、意図せずして植民地の性格を根本的に変えその後の際限のないフロンティアの拡大へと道を開くことになりました。
自由市民制度の導入
ケープの補給基地が設立されてから最初の5年間、食料生産はすべて会社の直接的な管理下にある菜園と農場で行われていました。しかしこのシステムは非効率でコストがかさむものでした。会社の従業員たちは固定給で働いており生産性を向上させるためのインセンティブに欠けていました。ファン=リーベックは会社の経費を削減し食料生産を増加させるためには個人経営のインセンティブを導入する必要があると考え本社の「17人会」を説得しました。
1657年最初の9人の会社員が自由市民として解放されました。彼らは会社の支配から自由になったとはいえその自由は多くの制約を伴うものでした。
彼らは指定された土地以外での農業を禁じられました。
彼らは生産した作物を会社が定めた固定価格で会社にのみ販売することが義務付けられました。
彼らは先住民と直接家畜を交易することを固く禁じられました。
彼らは依然として会社の法律と裁判権に服さなければなりませんでした。
これらの制約にもかかわらず多くの会社員にとって自由市民になることは魅力的な選択肢でした。それは会社の厳格な規律から解放され自らの努力次第で財産を築くことができる可能性を秘めていたからです。彼らはリーベーク川沿いの肥沃な土地を与えられ小麦の栽培と牧畜を始めました。
ステレンボッシュの設立と内陸への拡大
自由市民の数は徐々に増え、彼らの農地はテーブル湾周辺の限られた地域からさらに内陸へと拡大する必要が生じました。1679年当時の総督シモン=ファン=デル=ステルは自ら内陸部を探検し農業に適した新たな土地を発見しました。彼はその地を自分(シモン)の森(ボッシュ)という意味で「ステレンボッシュ」と名付け、そこにケープに次ぐ第二の入植地を建設しました。
ステレンボッシュの設立はケープ植民地の歴史において画期的な出来事でした。それは植民地がもはや単なる海岸沿いの補給基地ではなく内陸へと永続的に拡大していく農業植民地へと変貌を遂げたことを象徴していました。ステレンボッシュとその周辺地域は肥沃な土壌と地中海性の気候に恵まれ特にブドウ栽培に適していました。1688年以降フランスでナントの勅令が廃止されたことにより迫害を逃れてきたプロテスタント系のフランス人難民(ユグノー)がケープに大量に移住してきます。彼らの多くがこの地域に入植し、そのブドウ栽培とワイン醸造の技術はケープの農業経済に大きく貢献しました。
トレックボーアの登場
植民地が内陸へと拡大するにつれて定住型の農業だけでなくより移動性の高い牧畜を専門とする新たなタイプの入植者が登場しました。彼らは「トレックボーア(Trekboers)」すなわち「移動する農民」として知られています。
トレックボーアたちはステレンボッシュのような定住型の農業コミュニティの社会的な制約や土地の不足を嫌い広大な土地を求めてさらに東へ北へと牛や羊の群れを追いながら移動していきました。彼らの生活様式は半遊牧的であり幌馬車が彼らの移動する家でした。彼らは会社の管理がほとんど及ばない広大なフロンティアで自給自足の生活を送り独自の荒々しい個人主義的な文化を育んでいきました。
彼らは狩猟と牧畜で生計を立て、会社の法律よりも聖書とマスケット銃を頼りにしていました。フロンティアでの生活は常に危険と隣り合わせでした。彼らは家畜を狙うサン人の狩猟民や東方から南下してくるバントゥー語系の農耕民族(特にコサ人)と土地と資源をめぐって絶え間ない紛争を繰り返しました。
このフロンティアでの過酷な生存競争の中でトレックボーアたちは強い集団意識と外部の人間に対する深い不信感を育んでいきました。彼らは自分たちを神に選ばれた民でありアフリカの荒野でキリスト教文明の前哨基地を守っているのだと信じるようになりました。彼らのこの厳格なカルヴァン主義の信仰と人種的な優越感、そしてフロンティアで培われた独立不羈の精神は後のアフリカーナー・ナショナリズムの重要な源流となっていきます。
18世紀を通じてトレックボーアたちの東への移動は止まることなく続き、1770年代にはついにグレート=フィッシュ川で南下してきたコサ人と恒常的に接触することになります。これはその後の100年近くにわたる一連の血なまぐさいフロンティア戦争(ケープ・フロンティア戦争)の始まりを告げるものでした。自由市民制度の導入というささやかな決定が最終的には植民地を際限のないフロンティアの拡大と紛争のサイクルへと導いていったのです。
奴隷制社会の確立
ケープ植民地の経済と社会はその初期段階から奴隷の労働力に深くそして構造的に依存していました。奴隷制度は単なる労働力確保の手段ではなく植民地の社会階層、人種関係、そして文化そのものを根本的に規定する中心的な制度でした。ケープで発展した奴隷制はアメリカ大陸のプランテーション型奴隷制とは異なる特徴を持ちながらも、その残忍さと非人間性において何ら変わるところはありませんでした。
労働力不足と奴隷の導入
ケープに補給基地が設立された当初労働力は会社の従業員と兵士によって担われていました。しかし砦の建設、菜園の開墾、そして船への荷役といった過酷な肉体労働をこなすにはその数は全く不十分でした。ファン=リーベックは当初から本社の「17人会」に対して奴隷の導入を繰り返し要請していました。
彼は先住民であるコイコイ人を奴隷にすることを検討しましたが会社は交易関係の悪化を恐れてこれを固く禁じました。またコイコイ人自身もその遊牧的な生活様式から定住型の農業労働には全く適していませんでした。
1657年に自由市民制度が導入されると労働力不足はさらに深刻化しました。独立した農場経営を始めた自由市民たちは自分たちの農地を耕作するための安価で従順な労働力を切実に必要としていました。
このような状況の中、1658年ケープ植民地の歴史における画期的なそして悲劇的な出来事が起こります。オランダ船アメルスフォールト号がポルトガルの奴隷船を拿捕しアンゴラから連れてこられた約170人のアフリカ人奴隷をケープへと連れてきたのです。その数週間後には別の船がダホメ(現在のベナン)から200人以上の奴隷を運び込みました。これがケープにおける大規模な奴隷輸入の始まりでした。
奴隷の出身地と労働
これ以降18世紀を通じてケープには継続的に奴隷が輸入され続けました。その数は合計で6万人以上にのぼると推定されています。彼らの出身地は多岐にわたっていました。
アフリカ=マダガスカル、モザンビーク、そして東アフリカ沿岸部。
南アジア=インドのベンガル地方やコロマンデル海岸。
東南アジア=バタヴィアを中心とするインドネシア諸島、セイロン島(現在のスリランカ)。
これらの奴隷たちはオランダ東インド会社自身と自由市民たちによって所有されました。
会社の奴隷たちは主にケープタウンでの公共事業に従事しました。彼らは砦やその他の公共建築物の建設、港での荷役、そしてカンパニーズ・ガーデンでの農作業などに従事しました。会社の奴隷たちは「スレイヴ・ロッジ」と呼ばれる劣悪な環境の巨大な兵舎のような建物に収容されていました。
一方自由市民に所有された奴隷たちは主に農場で働きました。特にステレンボッシュやその周辺のワインと小麦の生産地帯では奴隷労働は農業経営に不可欠でした。彼らはブドウ畑の手入れ、小麦の収穫と脱穀、そして家事労働などあらゆる種類の労働を強いられました。内陸のトレックボーアたちの牧畜農場でも羊飼いや家事使用人として奴隷が使役されていました。
ケープの奴隷制はアメリカ南部やカリブ海のサトウキビプランテーションのように単一作物を栽培する大規模な集団労働システムとは異なっていました。多くの場合奴隷は主人である白人家族と同じ屋根の下で生活し、より密接な、しかしそれゆえに支配的な関係の中に置かれていました。
奴隷の生活と抵抗
奴隷たちの生活は過酷で希望のないものでした。彼らは法的には主人の所有物であり売買の対象でした。彼らは結婚する権利も財産を持つ権利も認められていませんでした。主人による暴力的な懲罰は日常茶飯事でありしばしば死に至ることもありました。女性奴隷は主人やその息子たちによる性的な搾取の恒常的な脅威にさらされていました。
このような絶望的な状況の中で奴隷たちは様々な形で抵抗を試みました。
最も一般的な抵抗の形は逃亡でした。多くの奴隷が内陸のフロンティアへと逃げ込んだ時にはサン人の狩猟集団に加わったり独自の逃亡奴隷のコミュニティを形成したりしました。しかし捕らえられた場合の罰は極めて過酷でした。
またサボタージュ(怠業)や道具の破壊、放火といった日常的な抵抗も行われました。
大規模な組織的な反乱も何度か試みられました。1808年と1825年に起こった奴隷反乱はその中でも最大規模のものでしたが、いずれも植民地当局によって容赦なく鎮圧され指導者たちは処刑されました。
奴隷制度はケープ社会に消すことのできない深い傷跡を残しました。それは白人入植者の間に労働を卑しいものと見なし黒い肌を持つ人々を生まれながらの劣等人種と見なす根深い人種的偏見を植え付けました。また主人である白人男性と女性奴隷との間に生まれた混血の子供たちは「カラード」と呼ばれる新たな中間的な人種カテゴリーを形成していきました。この複雑で階層的な人種構造はその後の南アフリカの歴史を長く規定していくことになります。
イギリスによる支配の始まり
18世紀末ヨーロッパを揺るがしたフランス革命とそれに続くナポレオン戦争の激動は遠く離れたアフリカ大陸の南端、ケープ植民地の運命を劇的にそして永久に変えることになりました。世界の覇権をめぐるイギリスとフランスのグローバルな闘争の中でケープの戦略的な重要性がかつてないほど高まったのです。この結果約150年続いたオランダ東インド会社の支配は終わりを告げ、ケープは世界最大の帝国、大英帝国の版図に組み込まれることになります。
第一次イギリス占領(1795年-1803年)
1795年フランス革命軍がオランダ本国を侵略し親フランスのバタヴィア共和国を樹立しました。オランダ総督オラニエ公ウィレム5世はイギリスへと亡命しました。イギリスはフランスがオランダの海外領土を支配下に置き、特にインドへの重要な航路を脅かすことを極度に恐れました。
この戦略的な脅威に対抗するためイギリスは亡命したオラニエ公の要請という名目のもとケープ植民地を「保護」するために艦隊を派遣しました。1795年6月イギリス艦隊がケープタウン沖のフォルス湾に到着しました。ケープのオランダ人総督は抵抗を試みましたがイギリス軍の圧倒的な軍事力の前にミューゼンバーグの戦いで短期間で敗北し降伏しました。
これが第一次イギリス占領の始まりです。イギリスの当初の目的はあくまでフランスの手に落ちるのを防ぐための一時的な軍事占領でした。しかしこの占領期間中にイギリスはケープの統治システムにいくつかの重要な変更を加えました。彼らはオランダ東インド会社の独占的な貿易政策を廃止し自由貿易を導入しました。これによりケープの農民たちは自分たちの生産物をより有利な価格で販売できるようになり経済は活性化しました。
しかし1802年ヨーロッパでアミアンの和約が結ばれイギリスとフランスの間に一時的な平和が訪れました。この和約の条項に基づきイギリスはケープをオランダ(バタヴィア共和国)に返還することに同意しました。1803年イギリス軍はケープから撤退しました。
第二次イギリス占領と恒久支配(1806年以降)
オランダによる統治の回復はしかし長くは続きませんでした。ヨーロッパでの平和はすぐに破れナポレオン戦争が再燃しました。ナポレオンがヨーロッパ大陸での覇権を確立するにつれてイギリスにとってインド航路の安全を確保することの重要性はますます高まりました。
1806年1月イギリスは再びケープに大艦隊を派遣しました。ブラウベルグの戦いで現地のオランダ軍と市民兵を打ち破りケープを再度占領しました。今回はもはや一時的な占領ではありませんでした。イギリスはこの戦略的な要衝を恒久的に支配下に置くことを決意していました。
1814年ナポレオン戦争の終結後ウィーン会議に先立って結ばれた英蘭条約によりオランダはケープ植民地を正式にイギリスに割譲しました。その見返りとしてイギリスはオランダに多額の金銭的補償を支払い、かつてオランダが領有していた東インド諸島の一部を返還しました。
こうしてケープ植民地は法的にそして名実ともに大英帝国の一部となりました。この支配者の交代は単に行政のトップが替わったという以上のはるかに深い意味を持っていました。それはケープ社会の根本的な構造改革の始まりであり既存のオランダ系住民(アフリカーナー)の生活様式と価値観に対する直接的な挑戦の始まりでもありました。イギリスは自由貿易、法の支配、そして人道主義的な理念といった自国の価値観をこの新しい植民地に持ち込もうとしました。これらの新しい波は必然的に古くからの住民たちの頑なな抵抗と衝突することになります。イギリスによる支配の確立はその後の南アフリカの歴史を形作っていく新たな対立の時代への幕開けだったのです。
イギリス統治下の社会変革
イギリスによるケープ植民地の恒久的な支配は社会のあらゆる側面に深くそしてしばしば混乱を伴う変化をもたらしました。イギリスは自国の帝国統治のモデルに従い植民地の行政、司法、そして経済システムを体系的に改革しようとしました。これらの改革は効率性と近代化を目指すものでしたが、同時に既存のオランダ系住民の社会構造と価値観を根底から揺るがすものでもあり深刻な文化的、政治的な摩擦を生み出しました。
1820年の入植者
イギリス政府はケープ植民地を単なる戦略的な軍事拠点としてだけでなくイギリス人のための新たな入植地として発展させたいと考えていました。そのための最も象徴的な政策が1820年に行われた大規模なイギリス人移民の導入でした。
当時イギリス本国はナポレオン戦争後の不況と失業問題に悩まされていました。政府はこの社会問題を緩和すると同時にケープ植民地の英語話者人口を増やしイギリスの文化的影響力を強化することを企みました。また彼らを植民地の東部フロンティアに入植させることで南下してくるコサ人との間の緩衝地帯を作り出そうという軍事的な意図もありました。
約4,000人のイギリス人入植者(「1820年の入植者」として知られる)が政府の援助を受けてケープに移住し、そのほとんどがアルゴア湾周辺(現在のポート・エリザベス周辺)のズールフェルト地方に割り当てられました。彼らは農業経験のほとんどない職人や都市労働者が多く、政府が約束した肥沃な土地は実際には乾燥し農業には不向きな土地でした。最初の数年間彼らは干ばつ、作物の不作、そしてコサ人とのフロンティア紛争に苦しめられ、多くの者が農業を放棄しグラハムズタウンやポート・エリザベスといった新興の町へ移り住みました。
しかし彼らの到来はケープ社会に長期的に大きな影響を与えました。彼らは東ケープ地方に活気あるイギリス文化の拠点を築き上げました。彼らは出版の自由を要求し独立した新聞を創刊し政治的な議論を活発化させました。彼らの存在はケープ植民地をオランダ的な社会からよりイギリス的な二重文化社会へ変貌させる重要な要因となったのです。
英語化政策と司法改革
イギリス政府は植民地統治を効率化するため行政と司法の言語を英語に統一しようとしました。これは「英語化政策」として知られています。1820年代を通じてオランダ語は徐々に公的な地位を失い裁判所や公文書で英語の使用が義務付けられました。
この政策はオランダ語のみを話す大多数のアフリカーナー農民にとって深刻な不利益と屈辱を意味しました。彼らは自分たちの理解できない言語で進められる法的手続きに従わなければならず政府から疎外されているという感覚を強めました。
同時にイギリスは司法制度の改革にも着手しました。彼らはイギリス本国のモデルに基づいた独立した司法制度を導入し巡回裁判所を設置しました。この改革の一環として1828年に公布された「第50号条例」は特に重要な意味を持っていました。この条例は法的には「コイコイ人およびその他の自由な有色人種」に白人と同等の市民的権利を保障するものでした。これにより彼らは土地を所有する権利や移動の自由を認められ特別な通行許可証なしに植民地内を旅行できるようになりました。
アフリカーナーの農場主たちにとってこの条例は自分たちの社会の根幹をなす人種的な階層秩序を覆すものと映りました。彼らは安価で従順な労働力の供給源であったコイコイ人が自分たちと対等な権利を持つことに激しく反発しました。彼らはこれを自分たちの財産と安全に対する脅威と見なしたのです。
奴隷制度の廃止
イギリス統治下の社会変革の中で最も影響が大きく、そして最も論争を呼んだのが奴隷制度の廃止でした。19世紀初頭イギリス本国ではウィリアム=ウィルバーフォースらに率いられた福音主義的な人道主義運動が高まりを見せ、奴隷貿易と奴隷制度そのものに対する国民的な反対運動が盛り上がっていました。
1807年イギリス議会は奴隷貿易を禁止しました。そして長いキャンペーンの末1833年ついに大英帝国全土で奴隷制度を廃止する法律(奴隷解放法)が可決されました。この法律に基づきケープ植民地では1834年12月1日から奴隷解放が施行されることになりました。
この法律には奴隷所有者への経済的な打撃を緩和するため二つの措置が盛り込まれていました。一つは解放された奴隷を「徒弟」としてさらに4年間元の主人の下で働かせるという移行期間を設けたことです。もう一つは奴隷所有者に対して政府が金銭的な補償を支払うというものでした。
しかしこれらの措置はケープの奴隷所有者たちの不満を和らげるには全く不十分でした。彼らにとって奴隷は単なる労働力ではなく彼らの富と社会的地位の主要な基盤でした。政府が提示した補償金の額は奴隷の市場価格の半分にも満たない低いものでした。さらにその補償金はロンドンでしか受け取ることができず、多くの内陸部の農民は煩雑な手続きの末投機的な代理人に手数料をだまし取られる結果となりました。
奴隷制度の廃止はアフリカーナーの農場主たちにとって経済的な破滅であると同時に神が定めたもうた人種間の自然な秩序を破壊する許しがたい行為と映りました。彼らはイギリス政府とその背後にいる宣教師たちが自分たちの伝統的な生活様式を意図的に破壊しようとしているのだと確信しました。第50号条例と奴隷解放。この二つの改革は多くのアフリカーナーにとってイギリスの支配下ではもはや自分たちの望むような生活は送れないという決定的な認識を植え付けたのです。この深い幻滅と憤りがやがて彼らを故郷を捨て未知の内陸部へと向かわせる大規模な集団移住「グレート=トレック」へと駆り立てる直接的な動機となりました。
グレート=トレック
1830年代半ばから約10年間にわたり、数千人のオランダ系入植者(ボーア人)とその家族が、イギリスの支配するケープ植民地を捨てて内陸の未知の領域へと移住していくという壮大な集団移動が起こりました。この出来事は「グレート=トレック」として知られ、アフリカーナーの民族史における中心的な神話であり、その後の南アフリカの歴史を決定づける極めて重要な転換点となりました。
トレックの原因
グレート=トレックは、単一の原因によって引き起こされたわけではありません。それは、長年にわたって蓄積されてきたボーア人たちの不満、不安、そして希望が複雑に絡み合った結果でした。
第一に、東部フロンティアにおける絶え間ない治安の悪化がありました。トレックボーアたちは、何世代にもわたって南下してくるコサ人との間で、土地と家畜をめぐる散発的な紛争(ケープ・フロンティア戦争)を繰り返してきました。彼らは、イギリス政府のフロンティア政策が弱腰であり、自分たちの生命と財産を十分に保護していないと感じていました。特に1834年から35年にかけての第六次フロンティア戦争の後、イギリス政府がボーア人から奪われた土地の一部をコサ人に返還したことは、彼らの怒りを決定的なものにしました。
第二に、前述の奴隷解放とその不十分な補償がもたらした経済的打撃と社会的混乱です。彼らは労働力を失っただけでなく、自分たちの社会の根幹である人種的階層秩序が脅かされていると感じました。
第三に、英語の公用語化や司法制度の改革といったイギリス化政策に対する文化的な反発です。彼らは、自分たちの言語、宗教(オランダ改革派教会)、そして伝統的な生活様式が、イギリスの支配下で失われてしまうという強い危機感を抱いていました。
これらの不満を背景に、彼らはイギリスの支配が及ばない内陸部に、自分たちの手で新たな共同体を築くことを決意しました。そこでは、自分たちの法と言語に基づき、神が定めたと信じる「白人と非白人の間の適切な関係」を維持できると信じたのです。指導者の一人ピート=レティーフが布告したマニフェストには、「我々は静かな土地を求め、我々のやり方で神に仕え、我々の子供たちに我々の法を教える」という彼らの決意が明確に表明されています。
トレックの過程と共和国の建国
グレート=トレックは、統一された指導部の下で行われた単一の移動ではありませんでした。それは、ピート=レティーフ、アンドリース=プレトリウス、ヘンドリック=ポトヒーターといった、それぞれ独立した指導者に率いられたいくつかのグループが、異なる時期に異なるルートで北や東へと向かう一連の移動でした。
彼らは、牛に引かせた頑丈な幌馬車(カウ)に家財道具のすべてを積み込み、広大な草原(フェルト)を越えていきました。その旅は困難を極めました。彼らは、干ばつや病気、そして内陸部にすでに強力な国家を築いていたアフリカの諸民族との激しい戦闘に直面しました。
特に悲劇的だったのが、ピート=レティーフの一行が直面した運命です。彼らはナタール地方(現在のクワズール・ナタール州)に入り、ズールー王国の王ディンガネと土地の割譲交渉を行いました。しかしディンガネは彼らを罠にかけ、レティーフを含む約100人のボーア人を虐殺しました。その後、ズールーの戦士たちはボーア人の野営地を襲撃し、数百人の女性や子供を含む人々を殺害しました。
この報復として、アンドリース=プレトリウスに率いられたボーア人の一隊がズールー軍と対決しました。1838年12月16日、ブラッド・リバー(血の川)の戦いで、数で圧倒的に劣るボーア人たちは、幌馬車を円陣(ラーヘル)に組んで要塞化し、マスケット銃の火力で数千人のズールー戦士を打ち破りました。この勝利は、ボーア人にとって神が自分たちを選ばれた民として祝福した証であると解釈され、彼らの民族意識の核心的な出来事となりました。
この勝利の後、ボーア人たちはナタール共和国を建国しました。しかしイギリスは、インドへの航路に面したこの地に独立国家が存在することを許さず、1843年にナタールを併合しました。
イギリスの追跡を逃れるため、多くのボーア人たちはさらに内陸のオレンジ川とヴァール川を越えた高地(ハイフェルト)へと移動しました。そして1850年代初頭、イギリスは最終的にこれらの内陸地域におけるボーア人の独立を承認するに至ります。1852年のサンド・リバー協定でヴァール川以北のボーア人の独立が認められ、トランスヴァール共和国(南アフリカ共和国)が成立しました。さらに1854年のブルームフォンテーン協定で、オレンジ川とヴァール川の間の地域の独立が認められ、オレンジ自由国が建国されました。
こうしてグレート=トレックは、ケープ植民地から離れた内陸部に二つの独立したボーア人共和国を誕生させるという結果をもたらしました。この出来事は南アフリカの政治地図を塗り替え、その後のイギリス帝国とアフリカーナー・ナショナリズムの間の長期にわたる対立の舞台を設定したのです。
鉱物資源の発見と南アフリカの変貌
19世紀後半、ケープ植民地と内陸のボーア人共和国の辺境地帯で相次いで発見されたダイヤモンドと金は、南アフリカ全体の経済、社会、そして政治の構造を、根底からそして永久に変えてしまう地殻変動を引き起こしました。それまで農業と牧畜を主産業としていたこの地域は、一躍、世界の資本主義経済の渦の中心へと投げ込まれることになります。
ダイヤモンドの発見とキンバリー
1867年、オレンジ川のほとりで、一人の少年が偶然きらめく石を拾いました。これが、南アフリカで最初に確認されたダイヤモンドでした。この発見に続き、1870年代初頭には、ケープ植民地の北の境界、オレンジ自由国との係争地であった場所に、巨大なダイヤモンド鉱脈(パイプ)が次々と発見されました。
このニュースは世界中に広まり、一攫千金を夢見る何千人もの人々が、世界中からこの乾燥した不毛の地へと殺到しました。こうして誕生したのが、鉱山町キンバリーです。キンバリーは、無数の個人採掘者たちがひしめき合う、混沌とした無法地帯として始まりました。しかし、地表のダイヤモンドが掘り尽くされ、採掘がより深く、より大規模な資本と技術を必要とするようになると、個人採掘者たちは淘汰されていきました。
この過程で頭角を現したのが、イギリスから来た若き野心家、セシル=ローズでした。彼は、小さな採掘権を次々と買い占め、統合し、最終的に1888年、キンバリーのすべてのダイヤモンド鉱山を支配する巨大独占企業、デ=ビアス合同鉱山会社を設立しました。これにより、ダイヤモンドの生産と価格は、一企業によって完全にコントロールされることになったのです。
ダイヤモンドラッシュは、南アフリカに初めて、大規模な産業資本主義と、それに伴う新たな労働力の需要をもたらしました。鉱山での過酷な労働を担わせるため、アフリカ各地から黒人労働者が募集されました。彼らは、「クローズド・コンパウンド」と呼ばれる、鉄条網で囲まれた厳重な監視下の宿舎に収容され、契約期間中は外部との接触を一切断たれました。このシステムは、後のアパルトヘイト時代における、黒人労働者の移動と居住を管理するパス法や人種隔離政策の、原型となりました。
金の発見とヨハネスブルグ
ダイヤモンドの衝撃が冷めやらぬ1886年、トランスヴァール共和国のウィットウォーターズランドと呼ばれる地域で、今度は世界最大級の金鉱脈が発見されました。この発見のインパクトは、ダイヤモンドの比ではありませんでした。
瞬く間に、トランスヴァール共和国の静かな農場は、巨大な鉱山町ヨハネスブルグへと変貌しました。ヨハネスブルグは、キンバリーをはるかにしのぐ規模で、世界中から資本と人間を吸い寄せました。ヨーロッパの金融資本家たち(「ランドロード」と呼ばれた)が巨額の投資を行い、最新の技術を駆使した大規模な深層採掘が始まりました。
このゴールドラッシュは、貧しい農業国であったトランスヴァール共和国を、一夜にしてアフリカで最も裕福な国家へと変貌させました。しかし、それは同時に、共和国の独立を脅かす、致命的な要因ともなりました。
金の採掘によって生まれた富は、そのほとんどが、イギリス人を中心とする外国人(「アウトランダー」と呼ばれた)の資本家や技術者の手に渡っていました。彼らは、ヨハネスブルグの人口の大多数を占めるようになっても、トランスヴァール政府から市民権を与えられず、政治的な権利を一切持っていませんでした。一方、トランスヴァール共和国のポール=クリューガー大統領は、この外国人の流入が、ボーア人の独立と生活様式を脅かすものと考え、彼らに対して重税を課し、政治参加を頑なに拒否しました。
このアウトランダー問題は、ケープ植民地の首相であり、デ=ビアス社の総帥でもあったセシル=ローズにとって、トランスヴァールをイギリスの支配下に置くための、絶好の口実となりました。彼は、イギリス帝国の北進政策(ケープからカイロまで)という壮大な野望を抱いており、その障害となる独立したボーア人共和国の存在を、許すことができませんでした。
鉱物革命は、南アフリカの経済を劇的に変え、近代的な産業国家への道を切り開きました。しかしそれは同時に、イギリス帝国主義の野心と、アフリカーナー・ナショナリズムの頑なな抵抗との間の対立を、決定的に激化させるものでした。ダイヤモンドと金という、大地からの贈り物は、この土地に富だけでなく、やがて南アフリカ全土を巻き込む、大規模な戦争の種をも蒔いたのです。
結論
ケープ植民地の歴史は、1652年のヤン=ファン=リーベックによるささやかな補給基地の設立から始まり、1910年の南アフリカ連邦の成立をもって、その独立した存在としての幕を閉じました。その約250年間の歩みは、単一の物語として語ることはできず、様々な民族、文化、そして利害が複雑に絡み合い、衝突し、そして融合する、多層的なドラマでした。
オランダ東インド会社の商業的な拠点として始まったこの植民地は、自由市民の登場とトレックボーアたちの内陸への拡大を通じて、独自のフロンティア社会を形成しました。この過程で、先住民であるコイコイ人やサン人は、その土地と独立を奪われ、社会は崩壊していきました。同時に、アフリカやアジアの各地から連れてこられた奴隷たちの労働力が、植民地の経済を支える一方で、その後の南アフリカ社会を特徴づける、根深い人種的階層構造の基礎を築きました。
19世紀初頭のイギリスによる支配は、奴隷制度の廃止や法の支配といった近代的な改革をもたらしましたが、それは同時に、すでに形成されていたアフリカーナーのアイデンティティとの間に、深刻な亀裂を生み出しました。イギリスの支配を逃れようとするグレート=トレックは、アフリカーナー・ナショナリズムの神話的な起源となり、内陸に独立したボーア人共和国を誕生させました。
そして19世紀後半の鉱物革命は、この地域の運命を再び一変させました。ダイヤモンドと金の発見は、南アフリカを世界の資本主義経済の最前線へと押し上げましたが、その富をめぐる争いは、イギリス帝国主義とボーア人共和国との間の対立を激化させ、最終的には悲惨なボーア戦争へとつながりました。
ケープ植民地の歴史は、後の南アフリカが直面する、人種問題、土地問題、そして国民的アイデンティティをめぐる、あらゆる対立の起源を内包しています。それは、ヨーロッパの帝国主義がアフリカの土着社会と出会った時に何が起こったのか、そして、いかにしてアパルトヘイトという、20世紀で最も悪名高い人種隔離体制の土台が築かれていったのかを、理解するための、不可欠な序章なのです。テーブルマウンテンの麓に築かれた小さな砦から始まった物語は、最終的に、現代南アフリカの複雑で困難な、しかし希望もまた内包する、現実そのものを形作ったと言えるでしょう。