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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 重商主義と啓蒙専制主義

平戸とは わかりやすい世界史用語2682

著者名: ピアソラ
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平戸とは

17世紀の日本、特に九州北西部に位置する長崎と平戸は、激動する世界史の奔流が列島に流れ込む、まさにその接点でした。この時代、徳川幕府が国内の支配体制を確立し、やがて「鎖国」と呼ばれる対外政策へと舵を切っていく中で、この二つの港町は、日本と世界を結ぶ極めて重要な窓口としての役割を担いました。しかし、その役割と運命は、世紀の進行と共に対照的な道を歩むことになります。
世紀の初め、平戸は戦国時代からの自由闊達な雰囲気を色濃く残す国際貿易港でした。地元の領主である松浦氏の庇護の下、ポルトガル、オランダ、イギリスといったヨーロッパの商人たち、そして中国のジャンク船が次々と来航し、多国籍の人々が行き交う活気に満ちた場所でした。鄭成功の父である鄭芝龍のような、国境を越えて活躍する海上勢力もこの地を拠点とし、平戸は東アジアのダイナミックな海上交易ネットワークの重要な結節点として繁栄を極めました。
一方、長崎は、16世紀後半にポルトガルとの貿易のために開かれた港であり、当初からイエズス会の布教活動と密接に結びついていました。豊臣秀吉による直轄地化を経て、江戸時代に入ると幕府の直接管理下に置かれ、その性格は次第に変化していきます。幕府がキリスト教への警戒を強め、貿易の管理と統制を強化する中で、長崎の重要性は増していきました。
17世紀を通じて、幕府の対外政策は大きく転換します。キリスト教の禁教が徹底され、日本人の海外渡航が禁止され、来航する外国船も厳しく制限されるようになります。この過程で、イギリスは自ら平戸から撤退し、ポルトガルは島原の天草一揆を契機に追放されます。そして最終的に、ヨーロッパとの貿易はオランダ一国に限定され、その活動の場も自由な平戸から、厳重な監視下にある長崎の出島へと移されることになりました。
この決定的な変化により、平戸は国際貿易港としての輝きを失い、一地方の城下町へと姿を変えていきます。対照的に、長崎は、オランダ商館と唐人屋敷という二つの窓口を通じて、その後200年以上にわたり日本が世界とつながる唯一の公的な場所としての地位を独占することになります。



平戸

17世紀の幕開け、日本の西端に位置する平戸は、東アジアで最も活気に満ちた国際貿易港の一つでした。戦国時代の混沌とした自由な空気がまだ色濃く残り、徳川幕府による中央集権的な統制が完全には及んでいないこの時期、平戸は多様な国籍の人々が集い、富と情報が交差するダイナミックな空間でした。
松浦氏の統治と自由港

平戸の繁栄の基盤を築いたのは、この地を代々治めてきた領主=松浦氏の存在でした。戦国大名の一人であった松浦氏は、山がちで耕作に適した土地が少ないという領地の地理的制約を乗り越えるため、古くから海外交易に活路を見出してきました。彼らは、16世紀にはポルトガル船や中国のジャンク船を積極的に誘致し、平戸を貿易拠点として発展させました。
松浦氏の統治の特徴は、その柔軟性と現実主義にありました。彼らは、海外からやって来る商人たちに対して比較的寛容な政策をとり、彼らの商活動の自由を認めました。特定の宗教=例えばキリスト教=を保護したり弾圧したりすることもありましたが、その判断は常に領地の経済的利益を最大化するという現実的な計算に基づいていました。この開かれた姿勢が、国籍や宗教を問わず多くの商人たちを平戸に惹きつけたのです。
17世紀に入り、徳川家康が日本の新たな支配者として台頭した後も、松浦氏は巧みな外交手腕でその地位を保ちました。彼らは、徳川幕府に対して恭順の意を示しつつも、自らの領地における交易の主導権を維持しようと努めました。幕府もまた、当初は海外交易の利益を重視しており、松浦氏のような西国大名が持つ交易のノウハウやネットワークを必要としていました。このため、世紀初頭の平戸は、幕府の間接的な管理下にありながらも、かなりの自治権を享受する「自由港」としての性格を維持することができたのです。
オランダ商館の設立

平戸の国際貿易港としての地位を決定づけたのが、1609年のオランダ東インド会社(VOC)の商館設立でした。1600年、オランダ船リーフデ号が豊後の海岸に漂着したことが、日本とオランダの最初の公式な接触となりました。この船に乗っていた航海士ウィリアム=アダムス(三浦按針)やヤン=ヨーステンは、徳川家康の顧問として迎えられ、その後の日蘭関係の基礎を築きました。
家康は、当時日本の貿易を独占していたポルトガル=イエズス会連合に対抗する勢力として、プロテスタント国であるオランダとイギリスに大きな期待を寄せました。彼は、カトリックのような布教活動を伴わない純粋な商業的関係を望んでいました。1605年、家康はリーフデ号の船員たちに帰国を許可し、オランダとの正式な交易関係を樹立するための親書を託しました。
この家康の招きに応え、1609年、オランダ東インド会社の使節を乗せた2隻の船が平戸に来航しました。彼らは家康から朱印状(貿易許可証)を与えられ、日本のどの港でも自由に商館を設置し、交易を行う権利を認められました。数ある港の中から彼らが平戸を選んだのは、松浦氏が積極的に誘致したことに加え、平戸がすでに中国や東南アジアとの交易ルート上に位置する戦略的な拠点であったからです。
こうして平戸の地に、オランダ商館が設立されました。初代商館長(カピタン)には、ジャック=スペックスが就任しました。彼らは、港を見下ろす一等地に土地を借り、商館、倉庫、住居などを建設しました。これが、その後約30年間にわたる平戸オランダ商館の歴史の始まりでした。
イギリス商館の挑戦

オランダに遅れること4年、1613年にはイギリス東インド会社も平戸に商館を設立しました。イギリス国王ジェームズ1世の親書を携えたジョン=セーリス率いるクローブ号が平戸に来航し、彼らもまた家康から朱印状を得て、交易の自由を認められました。
イギリスが平戸を選んだのも、オランダと同様の理由からでした。しかし、彼らの日本での交易活動は、当初から多くの困難に直面しました。最大のライバルは、先に市場に参入していたオランダでした。オランダは、アジア各地に広がる広範な交易ネットワークと豊富な資金力を背景に、イギリスよりも安価で多様な商品を日本市場に供給することができました。インド産の綿織物や胡椒など、イギリスが主力とした商品は、日本の消費者の好みに必ずしも合致しませんでした。
さらに、イギリス商館の内部にも問題がありました。商館長リチャード=コックスの指揮の下、商館員たちは日本でのビジネスを軌道に乗せようと奮闘しましたが、経験不足や内紛、そして浪費などが経営を圧迫しました。彼らは、シャム(タイ)やコーチシナ(ベトナム南部)などにも拠点を広げ、日本との地域内交易を試みましたが、これも大きな成功を収めるには至りませんでした。
結局、イギリス東インド会社は、日本での交易が採算に見合わないと判断し、わずか10年後の1623年に日本市場からの撤退を決定しました。平戸の商館は閉鎖され、すべての資産が売却されました。このイギリスの失敗は、日本市場の難しさと、当時アジアの海でオランダがいかに強力な競争力を持っていたかを物語っています。
多国籍の交差点

17世紀初頭の平戸の港には、オランダやイギリスのガレオン船だけでなく、中国大陸からやってくる多数のジャンク船も絶えず出入りしていました。明朝は海禁政策をとっていましたが、多くの福建商人たちは、非公式な形で日本との密貿易に従事していました。彼らは、中国産の生糸や絹織物、陶磁器などを平戸にもたらし、日本の銀や銅、海産物などを持ち帰りました。
平戸は、これらの異なる交易ネットワークが交差する結節点でした。オランダ人やイギリス人は、中国商人がもたらす生糸を買い付け、それを自国の船でヨーロッパやアジアの他の市場へ転売しました。日本の商人もまた、平戸を拠点に海外交易に乗り出しました。幕府から朱印状を得た朱印船が、平戸から東南アジアの港へと航海し、日本の銀を現地の産品と交換しました。
このような活発な交易活動の結果、平戸の町は国際色豊かな様相を呈しました。オランダ商館やイギリス商館の周辺には、ヨーロッパ人の商館員や船員たちが居住し、彼らの生活様式が持ち込まれました。中国人商人たちも独自のコミュニティを形成し、唐人町が形成されました。日本人、中国人、オランダ人、イギリス人、そして時にはポルトガル人や東南アジアの人々までが、この小さな港町で行き交い、商談を交わし、時には対立し、共存していました。
この多国籍環境は、文化的な交流も生み出しました。例えば、鄭成功の父である鄭芝龍は、平戸を拠点の一つとして活動し、この地で日本人の田川マツと結婚しました。彼らの息子である鄭成功が平戸で生まれたことは、この港が国境を越えた人の移動と家族形成の舞台であったことを象身しています。また、オランダ商館員の中には、日本の女性と関係を持ち、子供をもうける者もいました。
このように、17世紀初頭の平戸は、単なる商品の集散地ではなく、多様な人々、文化、情報が混じり合う、まさにグローバルな交差点でした。しかし、この自由で混沌とした繁栄は、徳川幕府がその対外政策を次第に硬化させていく中で、大きな転換点を迎えることになります。
長崎=幕府の管理貿易の拠点へ

平戸が自由闊達な国際港として繁栄していた一方で、長崎は全く異なる道を歩み始めていました。16世紀末にポルトガル貿易とキリスト教布教の拠点として開かれたこの港は、17世紀に入ると徳川幕府の直接的な管理下に置かれ、日本の対外関係を統制するための中心的な場所へと変貌を遂げていきました。
直轄地としての長崎

長崎の歴史は、1571年に大村純忠というキリシタン大名が、ポルトガル船の停泊地として長崎の港を開いたことに始まります。その後、大村純忠は長崎の地をイエズス会に寄進し、長崎は一時的に教会の支配下にある自治都市のような性格を帯びました。しかし、全国統一を進める豊臣秀吉は、キリスト教勢力が日本の国内に独立した領地を持つことを危険視し、1588年に長崎を没収して直轄地(天領)としました。
この流れは、江戸幕府にも引き継がれました。徳川家康は、長崎が持つ海外交易の窓口としての重要性を認識し、この地を幕府の直接支配下に置き続けました。そして、長崎の市政と貿易管理を司る役職として「長崎奉行」を設置しました。長崎奉行は、幕府の旗本の中から任命され、長崎に来航するすべての外国船の監視、貿易の管理、税の徴収、そして市内の行政と司法に至るまで、絶大な権限を持っていました。
平戸が地元の領主である松浦氏によって比較的自由に運営されていたのとは対照的に、長崎は当初から幕府の中央権力が直接及ぶ場所でした。このことは、後の幕府の対外政策の転換において、長崎が重要な役割を果たす決定的な要因となります。幕府は、長崎という直接管理できるパイプを通じて、海外との接触を自らのコントロール下に置こうとしたのです。
ポルトガル貿易の拠点「カピタン=モール」

17世紀初頭の長崎における対ヨーロッパ貿易の主役は、依然としてポルトガルでした。毎年、マカオから巨大な貿易船(ナウ船、またはカラック船)が長崎に来航し、中国産の生糸や絹織物を日本の銀と交換しました。この貿易は「糸割符制度」によって管理されていました。糸割符制度とは、ポルトガル商人がもたらす生糸の価格を一方的に吊り上げるのを防ぐため、幕府が特定の商人(糸割符仲間)に生糸の輸入独占権を与え、彼らが共同で価格を査定し、一括して買い付けるというシステムでした。これは、幕府が自由な市場競争を制限し、貿易を管理下に置こうとする意図の表れでした。
長崎におけるポルトガル商人の代表者は「カピタン=モール」と呼ばれ、彼はポルトガル船団の司令官であると同時に、日本におけるポルトガル人コミュニティの指導者でもありました。彼らは長崎市内に居住し、貿易活動を行いましたが、その行動は常に長崎奉行の監視下にありました。
しかし、ポルトガルと日本の関係は、単なる商売以上のものを伴っていました。彼らの貿易活動は、イエズス会や他のカトリック修道会による布教活動と常に一体でした。長崎は日本のカトリック教会の中心地であり、多くの教会や神学校が建てられ、数多くの日本人信者が暮らしていました。この宗教的な要素が、やがて幕府の厳しい弾圧を招き、ポルトガルが日本から追放される原因となっていきます。
唐人屋敷の形成

長崎に来航したのはヨーロッパ人だけではありませんでした。平戸と同様に、多数の中国ジャンク船も長崎を訪れ、交易を行っていました。彼らは、ポルトガル人がもたらす生糸だけでは満たされない日本の旺盛な需要に応え、大量の中国産品を供給しました。
当初、中国人商人たちは長崎市内に日本人と混じって居住し、比較的自由に活動していました。しかし、幕府は次第に彼らの活動にも統制を加えていきます。キリスト教の禁教が厳しくなる中で、中国人商人の中にキリスト教徒が紛れ込んでいることや、彼らが禁制品の密輸に関与することを幕府は警戒しました。
その結果、1635年には、中国船の来航地が長崎一港に限定されます。さらに、世紀の後半である1689年には、中国人商人たちの居住地を特定の区画に限定し、彼らの行動を監視するための施設として「唐人屋敷」が建設されました。これは、後に出島がオランダ人に対して果たしたのと同じような、隔離と管理のための施設でした。これにより、長崎における中国人との貿易も、完全に幕府の管理下に置かれることになったのです。
このように、17世紀を通じて長崎は、自由な交易の場から、幕府が対外関係を厳格に管理・統制するための装置へと、その性格を大きく変えていきました。長崎奉行の設置、糸割符制度の導入、そして唐人屋敷の建設といった一連の措置はすべて、海外との接触を幕府の独占的な管理下に置き、国内の政治的安定を最優先するという、徳川幕府の基本的な姿勢を反映したものでした。この流れが、やがて平戸の運命にも決定的な影響を与えることになります。
幕府の政策転換と「鎖国」への道

17世紀前半、徳川幕府の対外政策は大きな転換期を迎えます。国内の支配体制を盤石にすることを最優先課題とした幕府は、海外からの影響、特にキリスト教がもたらす政治的・社会的な不安定要因を徹底的に排除しようとしました。この一連の政策は、後に「鎖国」と呼ばれる体制を形作っていき、平戸と長崎の運命を決定的に分かつことになります。
キリスト教禁教の強化

徳川家康は当初、貿易の利益を重視し、キリスト教の布教に対して比較的寛容な態度をとっていました。しかし、彼の治世の末期から、その政策は徐々に硬化していきます。1612年、幕府は直轄領に対して禁教令を発布し、翌1613年にはこれを全国に拡大しました。この背景には、キリシタン信者の団結が、大坂の豊臣方と結びつくなど、幕府の支配に対する潜在的な脅威となりうるとの警戒感がありました。
二代将軍秀忠、三代将軍家光の時代になると、禁教政策はさらに徹底され、苛烈を極めていきます。宣教師は国外追放または処刑され、日本人信者には棄教が強要されました。踏み絵などの手法を用いて信者を発見し、棄教しない者は拷問の末に処刑されるという、大規模な迫害が行われました。
この禁教政策の強化は、カトリック国であるポルトガルやスペインとの関係に直接的な影響を与えました。幕府は、彼らの貿易活動が常に布教と一体であると見なし、その存在そのものを危険視するようになりました。1624年、幕府はスペイン船の来航を禁止し、スペインとの国交を断絶しました。これは、フィリピン総督が日本人キリシタンの保護を求めてきたことへの反発が直接的な原因でした。
朱印船貿易の廃止と日本人の海外渡航禁止

幕府の統制は、ヨーロッパ人だけでなく、日本人の海外活動にも及びました。17世紀初頭に盛んであった朱印船貿易は、多くの富を日本にもたらしましたが、同時に多くの日本人を海外に流出させ、東南アジア各地に日本人町を形成しました。幕府は、これらの海外在留日本人が、キリスト教の影響を受けたり、外国勢力と結びついたりすることを恐れました。
1633年、幕府は奉書船(朱印状に加えて老中の奉書を必要とする船)以外の海外渡航を禁じました。そして1635年には、すべての日本人の海外渡航と、海外に在留する日本人の帰国を全面的に禁止するに至ります。これにより、朱印船貿易の歴史は完全に終わりを告げ、東南アジアの日本人町は、新たな移住者が途絶えたことで次第に現地社会に同化し、消滅していきました。これは、日本の対外関係における大きな転換点であり、国家が国民の海外移動を完全に管理下に置こうとする強い意志の表れでした。
島原=天草一揆とその影響

幕府の対外政策を決定的な方向へと導いたのが、1637年から1638年にかけて起こった島原=天草一揆です。島原半島と天草諸島は、かつてキリシタン大名の領地であり、多くのキリシタン信者が潜伏していました。彼らは、松倉氏や寺沢氏といった新しい領主による過酷な年貢の取り立てと、厳しいキリスト教弾圧に苦しんでいました。
この経済的な困窮と宗教的な抑圧に対する不満が爆発し、農民たちは天草四郎という少年を指導者に担ぎ、大規模な反乱を起こしました。一揆軍は、廃城となっていた原城に立てこもり、数ヶ月にわたって幕府の大軍に抵抗しました。
幕府は、この一揆を鎮圧するために10万以上の兵を動員しましたが、一揆軍の頑強な抵抗に苦戦しました。この時、幕府は平戸のオランダ商館に対し、海上から原城を砲撃するよう要請しました。オランダ商館長ニコラス=クーケバッケルは、この要請に応じ、船を派遣して砲撃を行いました。オランダとしては、ライバルであるカトリック勢力(一揆の背景にはポルトガルの影響があると幕府は見ていた)の排除に協力することで、幕府の歓心を買い、自らの貿易上の地位を有利にしようという計算がありました。
最終的に、一揆は兵糧攻めの末に鎮圧され、老若男女を問わず数万人が虐殺されるという悲惨な結末を迎えました。この事件は、幕府にキリスト教の恐ろしさを改めて痛感させ、禁教政策を絶対的なものとさせました。そして、一揆の背景にポルトガル人宣教師の扇動があったと確信した幕府は、ついにポルトガルとの関係を完全に断ち切ることを決意します。
1639年、幕府はポルトガル船の来航を全面的に禁止しました。翌1640年、マカオから関係再開を嘆願するためにやってきた使節団は、長崎で捕らえられ、見せしめとして船員の大半が処刑されました。これにより、16世紀半ばから約100年続いた日本とポルトガルの公式な関係は、完全に終焉を迎えたのです。
平戸商館の終焉と出島への移転

ポルトガルを追放したことで、幕府の対ヨーロッパ貿易の相手はオランダ一国のみとなりました。オランダは、島原の乱での協力が実を結び、貿易を独占できると期待したかもしれません。しかし、幕府の統制の波は、彼らにも容赦なく押し寄せました。
幕府は、平戸という地方大名の城下町で、オランダ人が比較的自由に活動している状況を問題視していました。1639年、幕府は平戸のオランダ商館に対し、1637年に完成したばかりの石造りの壮麗な倉庫を破壊するよう命じました。その理由は、倉庫の破風に西暦の年号(キリスト教の紀年法)が刻まれていたという、些細なものでした。これは、オランダ人に対して、彼らが幕府の厳格な管理下にあることを思い知らせるための、意図的な示威行為でした。
そして1641年、幕府は決定的な命令を下します。平戸のオランダ商館を閉鎖し、すべての機能と人員を長崎の出島に移転せよ、というものでした。出島は、もともと1636年に長崎市内に雑居していたポルトガル人を収容し、日本人との不必要な接触を断つために築かれた扇形の人工島でした。ポルトガル人が追放された後、空き家となっていたこの場所に、オランダ人が押し込められることになったのです。
この命令は、平戸のオランダ人にとって青天の霹靂でした。彼らは30年以上にわたって平戸に根を下ろし、多額の投資を行ってきました。しかし、幕府の命令は絶対であり、逆らうことはできませんでした。彼らは、住み慣れた平戸の商館を去り、狭く、不自由な出島での生活を余儀なくされました。
この移転により、平戸は国際貿易港としての歴史に幕を下ろしました。港から外国船の姿は消え、活気に満ちていた町は静かな城下町へと変わっていきました。一方、長崎は、オランダ貿易を独占する唯一の港としての地位を不動のものとしました。しかし、その貿易は、出島という厳重に隔離された空間の中で、幕府の徹底した監視と管理の下で行われる、極めて特殊な形のものとなったのです。この1641年の出来事は、日本の対外政策における「鎖国」体制が完成したことを象徴する、決定的な瞬間でした。
「鎖国」下の窓口=長崎と出島

1641年のオランダ商館の出島移転は、日本の対外関係のあり方を根本的に変えました。これ以降、約200年間にわたり、長崎は日本が世界とつながるための、極めて限定的ではあるものの、唯一の公的な窓口となりました。その中心的な舞台となったのが、人工島「出島」と、そこに暮らすオランダ人たちでした。
出島の構造と生活

出島は、長崎の港に築かれた面積約1万5千平方メートルの扇形の人工島で、本土とは一本の橋でのみ結ばれていました。この橋のたもとには番所が置かれ、人の出入りは厳しく管理されていました。島の周囲は高い塀で囲まれ、オランダ人が許可なく島から出ることも、日本人が許可なく島に入ることも固く禁じられていました。
この狭い島の中に、オランダ商館のすべての機能が詰め込まれていました。商館長の住居であるカピタン部屋、商館員たちの住居、商品を保管する倉庫、調理場、通詞(通訳)の詰め所、そして家畜を飼育し野菜を育てるためのささやかな庭などがありました。
出島に居住することが許されたのは、オランダ東インド会社の商館員のみで、その数は通常、商館長(カピタン)以下、十数名程度でした。彼らは、貿易船が来航する夏から秋にかけては多忙を極めましたが、船が去った後の長い冬の間は、単調で閉鎖的な生活を送らなければなりませんでした。ヨーロッパ人の女性が帯同することは固く禁じられていたため、彼らは日本人女性を妻や伴侶として島内に住まわせることもできず、例外的に遊女だけが夜間に島を訪れることを許されていました。
このように、出島はオランダ人にとっては「海の上の牢獄」とも呼ばれる不自由な場所でした。しかし、彼らがこの屈辱的な状況に耐えたのは、日本との貿易が依然として莫大な利益を生み出す可能性を秘めていたからです。
管理貿易の実態

出島における貿易は、幕府による徹底した管理の下で行われました。オランダ船が長崎港に入港すると、まず長崎奉行所の役人が乗り込み、積荷の目録を改め、禁制品であるキリスト教関連の書籍や物品がないかを厳しくチェックしました。船員たちは上陸を許されず、船上で待機させられました。
すべての積荷は出島の倉庫に運び込まれ、そこで値踏みが行われました。幕府は、ポルトガル貿易の時代に導入した糸割符制度をオランダ貿易にも適用し、輸入品の価格と数量を一方的に決定しました。オランダ側には価格交渉の余地はほとんどなく、幕府が提示する条件を受け入れるしかありませんでした。
オランダが日本にもたらした主要な輸入品は、中国産の生糸や絹織物、東南アジアの砂糖や香辛料、鮫皮、そしてヨーロッパの毛織物やガラス製品、書籍などでした。これに対して、日本からの主要な輸出品は、当初は銀でした。17世紀半ばまで、日本は世界有数の銀産出国であり、オランダはこの銀をアジア各地での貿易の決済資金として利用しました。しかし、17世紀後半になると、幕府は国内の銀の流出を懸念し、銀の輸出を厳しく制限するようになります。
銀に代わる主要な輸出品となったのが、銅でした。日本の銅は質が高く、アジアの諸地域で貨幣の鋳造や大砲の製造などに広く用いられ、高い需要がありました。17世紀末から18世紀にかけて、銅はオランダの対日貿易における最も重要な輸出品目となります。その他、伊万里焼などの日本の磁器も、ヨーロッパの王侯貴族の間で人気を博し、重要な輸出品の一つとなりました。
この貿易を通じて、幕府は莫大な利益を得ると同時に、海外の情報を独占的に入手することができました。オランダ商館長は、毎年、貿易船がもたらした海外のニュースや情勢をまとめた「オランダ風説書」を幕府に提出することが義務付けられていました。これは、幕府が外部世界の動向を知るための、極めて重要な情報源となったのです。
カピタンの江戸参府

出島での貿易と並んで、オランダ商館長に課せられたもう一つの重要な義務が、定期的な江戸参府でした。当初は毎年、後には4年に一度、商館長は医師や書記などを伴い、長崎から江戸までの長い道のりを旅し、将軍に拝謁して感謝の意を表し、貢物を献上しなければなりませんでした。
この江戸参府は、オランダ人にとっては大きな負担でしたが、同時に彼らが隔離された出島から出て、日本の内陸部を旅し、その社会や文化に触れることのできる唯一の機会でもありました。彼らの道中は、多くの大名行列と同様に、厳格な儀礼に則って行われ、各地で日本の役人や学者たちの好奇の目に晒されました。
江戸城での将軍への拝謁は、オランダ人にとって屈辱的な儀式でした。彼らは、日本の大名たちと同じように平伏し、将軍の威光の前にひれ伏すことを求められました。時には、歌を歌ったり、踊ったりといった「異国の芸」を披露させられることもあったと言われています。これは、オランダ人が日本の支配者である将軍に従属する存在であることを、内外に示すための政治的なパフォーマンスでした。
しかし、この江戸参府は、日蘭間の文化交流において重要な役割を果たしました。道中や江戸滞在中、オランダ人たちは日本の学者や大名たちと接触する機会を持ちました。日本の蘭学者たちは、この機会を捉えてオランダ人に質問を浴びせ、西洋の科学技術や医学、世界情勢に関する知識を貪欲に吸収しました。エンゲルベルト=ケンペルやカール=ツンベルク、フィリップ=フランツ=フォン=シーボルトといった、商館付きの医師として来日した学者たちは、この江戸参府の経験を通じて日本の自然や文化に関する詳細な記録を残し、それらがヨーロッパにおける日本研究の基礎を築きました。
蘭学の窓として

出島は、単なる貿易の拠点ではありませんでした。それは、日本の知識人たちにとって、西洋の進んだ学問と技術を学ぶための、唯一無二の窓口でした。
18世紀に入ると、八代将軍徳川吉宗が実学を奨励し、漢訳されたキリスト教関連以外の洋書の輸入を緩和したことをきっかけに、蘭学(オランダ語を通じて西洋の学問を学ぶこと)が隆盛期を迎えます。日本の学者たちは、長崎のオランダ通詞たちの助けを借りて、オランダ語の医学書や天文書、物理学書などを解読し、翻訳する作業に没頭しました。
杉田玄白や前野良沢らによる『解体新書』の翻訳は、その最も有名な成果です。彼らは、オランダの解剖学書『ターヘル=アナトミア』を翻訳することで、日本の伝統的な医学の常識を覆し、近代的な人体認識の基礎を築きました。この他にも、天文学、地理学、砲術、植物学など、様々な分野で西洋の知識が導入され、日本の学術と技術の発展に大きな影響を与えました。
このように、出島とそれを通じたオランダとの接触は、政治的には厳しく管理され、制限されたものでありながらも、文化的には日本の近代化の萌芽を育む上で、計り知れないほど重要な役割を果たしたのです。長崎は、商品だけでなく、知識と思想が日本に入ってくるための、狭いながらも決定的に重要な水門であり続けました。
17世紀という100年間は、平戸と長崎という二つの港町の運命を劇的に、そして決定的に分かちました。世紀の初め、両者は共に日本の西の玄関口として、海外からの船で賑わう国際港でした。特に平戸は、地方領主の自由な政策の下、オランダ、イギリス、中国など多国籍の商人が行き交う、活気に満ちた交易の中心地として繁栄を極めていました。
しかし、徳川幕府が国内の支配体制を固め、キリスト教の脅威を排除するために「鎖国」と呼ばれる一連の対外統制政策を推し進める中で、その状況は一変します。幕府は、自由で管理の難しい平戸のあり方を問題視し、すべての対外接触を幕府の直接的な管理下に置くことを目指しました。
島原の天草一揆というキリスト教徒が関わった大規模な反乱は、この流れを決定づけます。幕府はカトリック国であるポルトガルを追放し、唯一貿易を許したプロテスタント国のオランダに対しても、その活動の場を平戸から、長崎の厳重に隔離された人工島「出島」へと強制的に移転させました。
この1641年の決定により、平戸は国際貿易港としての役割を完全に失い、歴史の表舞台から静かに姿を消していきました。代わって長崎は、出島のオランダ商館と唐人屋敷という二つの管理された窓口を通じて、日本が世界とつながる唯一の場所としての地位を独占します。
その後の長崎は、単なる貿易港にとどまらず、西洋の学術や文化が流入する「蘭学の窓」としての役割も果たしました。出島を通じて入ってくる断片的な情報は、日本の知識人たちの知的好奇心を刺激し、日本の近代化につながる知的土壌を育んでいきました。
17世紀における平戸の衰退と長崎の隆盛は、個々の港町の盛衰物語であると同時に、日本という国家が、グローバルな交易と文化交流の奔流の中で、いかにして自らの秩序を維持し、外部世界との関わり方を模索したかという、より大きな物語の縮図でもあります。徳川幕府が選択した道は、政治的な安定と引き換えに、自由な交流を犠牲にするものでした。平戸の自由闊達な雰囲気は失われ、長崎の管理された窓は極めて狭いものでした。しかし、その狭い窓から差し込んだ光が、後の日本の歴史を大きく動かすことになるのです。17世紀の平戸と長崎の対照的な物語は、近世日本の対外関係の複雑さと、その中で形作られていった日本の世界の捉え方を、鮮やかに映し出しています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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