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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 重商主義と啓蒙専制主義

マラッカとは わかりやすい世界史用語2673

著者名: ピアソラ
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マラッカとは

マラッカ海峡はインド洋と南シナ海を結ぶ、全長約800キロメートルの細長い水路です。古来、この海峡を制する者は、東西海上交易の覇権を握るといわれてきました。そして、その名を冠する港市マラッカは、まさにその海峡の心臓部に位置する、富と権力の象徴でした。17世紀、この伝説的な港市は、その歴史上、最も劇的な転換点を迎えます。それは、一つの帝国が没落し、新たな帝国がその座を奪い取る、激動の時代の幕開けでした。
15世紀にマレー系のスルタン国として黄金時代を築いたマラッカは、1511年、ポルトガル海上帝国の手に落ちました。彼らは、巨大な石の要塞「ア=ファモサ」を築き、130年間にわたって、この地をアジアにおけるキリスト教布教と香辛料貿易の拠点としました。しかし、17世紀の夜明けと共に、その栄光には翳りが見え始めます。ポルトガルの国力は衰え、アジアの海には、より冷徹で、より組織的な野心を持つ新たな競争相手が出現していました。オランダ東インド会社(VOC)です。
17世紀のマラッカの物語は、本質的に、この港の支配をめぐるポルトガルとオランダの、長く、そして血なまぐさい闘争の記録です。それは、単なる二つのヨーロッパ勢力の争いではありませんでした。その背後には、マラッカの正統な継承者を自任するジョホール王国や、スマトラ島北部で勢力を拡大するアチェ王国といった、地域のマレー系国家の思惑が複雑に絡み合っていました。彼らは、ヨーロッパ勢力を互いに争わせることで、漁夫の利を得ようと画策します。
1641年、オランダとジョホールの連合軍による長い包囲戦の末、マラッカはついに陥落します。この出来事は、東南アジアの勢力図を塗り替える、画期的な瞬間でした。しかし、オランダの手に渡ったマラッカは、かつてのような輝きを取り戻すことはありませんでした。VOCは、マラッカを地域の中心とするのではなく、自らがジャワ島に築いた新拠点バタヴィア(現在のジャカルタ)の管理下に置く、一地方拠点として位置づけたのです。マラッカの役割は、海峡を通過する船を監視し、競合相手の交易を妨害する、軍事的な関所に変貌していきました。



ポルトガル支配の黄昏

17世紀の幕開けの時点で、マラッカはポルトガル海上帝国(エスタド=ダ=インディア)による支配が100年近く続いていました。1511年にアフォンソ=デ=アルブケルケによって征服されて以来、この港市は、モルッカ諸島の香辛料から中国の絹、インドの綿布に至るまで、アジア各地の富が集散する、ポルトガル交易網の東方の要として機能してきました。その支配の象徴は、マラッカ川の河口を見下ろす丘の上にそびえ立つ、巨大な要塞「ア=ファモサ」でした。
要塞都市の構造

ポルトガル領マラッカは、このア=ファモサの城壁に囲まれた内側の「フォルタレザ(要塞)」と、その外側に広がる「スブルビオ(郊外)」という二つの区域に明確に分かれていました。
フォルタレザの内部は、ポルトガル人とその子孫であるカザド(既婚の定住者)、そしてキリスト教に改宗した現地人たちが暮らす、ヨーロッパ風の都市でした。石畳の道が走り、総督の館、司教座聖堂、修道院、兵舎、病院といった石造りの建物が立ち並んでいました。ここは、行政と軍事、そして宗教の中心地であり、ポルトガルの権威を内外に示す空間でした。聖パウロの丘の上には、フランシスコ=ザビエルの遺骸が一時安置されたことでも知られる、聖母教会(後の聖パウロ教会)が荘厳な姿を見せていました。
一方、城壁の外側には、多様な民族が暮らす広大な市街地が広がっていました。マラッカ川を挟んで、カンポン=クリん(南インド商人の居住区)、カンポン=チナ(中国人居住区)、そしてカンポン=ジャワ(ジャワ人やマレー人の居住区)などが形成されていました。これらの地区では、それぞれのコミュニティが独自の言語、宗教、慣習を維持しながら、交易活動に従事していました。彼らは、カピタンと呼ばれる自らのコミュニティの長を通じて、ポルトガル当局と間接的な関係を結んでいました。この多民族・多文化が共存する構造は、マラッカがスルタン国の時代から受け継いできた、重要な特徴でした。
衰退の兆候

しかし、17世紀に入ると、かつて「東方の女王」と謳われたマラッカの繁栄にも、明らかに陰りが見え始めます。その要因は、複合的なものでした。
第一に、ポルトガル本国の国力低下です。1580年から1640年まで続いたスペインとの同君連合(イベリア連合)は、ポルトガルの海外領土に対する関心と投資を削ぎました。アジアの拠点への兵員や物資の補給は滞りがちになり、要塞の維持管理もままならなくなっていきました。
第二に、地域のライバル勢力の台頭です。マラッカを追われたスルタンの子孫が建国したジョホール王国は、マラッカ海峡の南端に拠点を置き、ポルトガルと敵対を続けました。彼らは、ポルトガルの交易船を襲撃し、マラッカへ向かう商人を妨害しました。さらに、スマトラ島北部では、イスカンダル=ムダの治世に最盛期を迎えたアチェ王国が、強力な海軍力をもってマラッカ海峡の支配に乗り出し、1629年にはマラッカに対して大規模な包囲攻撃を仕掛けるなど、ポルトガルにとって深刻な脅威となっていました。
第三に、そして最も決定的な要因が、オランダ東インド会社(VOC)の出現でした。1602年に設立されたVOCは、ポルトガルをアジアから駆逐し、香辛料貿易を独占することを使命としていました。彼らは、ポルトガルの拠点に対して、執拗な攻撃を仕掛け始めます。1606年には、VOC艦隊が初めてマラッカを包囲攻撃し、ポルトガルに大きな衝撃を与えました。この攻撃は失敗に終わったものの、それはこれから始まる長い闘争の序曲に過ぎませんでした。
経済の停滞

これらの軍事的脅威と政治的不安定は、マラッカの経済を直撃しました。かつてアジア中から商人が集まったこの港は、その魅力を失いつつありました。VOCは、マラッカ海峡の入り口で海上封鎖を行い、マラッカへ向かう商船を拿捕したり、他の港へ誘導したりしました。これにより、マラッカの交易量は激減し、市の財政は悪化の一途をたどります。
ポルトガル当局は、高い関税を課すことで歳入を補おうとしましたが、それは商人たちをさらに遠ざける結果にしかなりませんでした。腐敗も蔓延し、役人たちは自らの私腹を肥やすことに熱心で、市の防衛やインフラの整備は疎かになっていきました。17世紀初頭のマラッカは、外敵の脅威と内部の腐敗によって、ゆっくりと、しかし確実にその活力を失っていく、黄昏時の帝国の一地方都市と化していたのです。ア=ファモサの堅固な城壁だけが、かつての栄光を物語るかのように、静かに海を見下ろしていました。
オランダの執念

オランダ東インド会社(VOC)にとって、マラッカの奪取は、単なる一都市の攻略以上の意味を持つ、戦略的な至上命令でした。マラッカは、インド洋と南シナ海を結ぶ航路のまさに喉元に位置しており、この地を支配することは、マラッカ海峡全体の通航権を掌握し、ライバルであるポルトガルの交易網に致命的な打撃を与えることを意味しました。VOCの首脳部は、マラッカを「ポルトガルのアジアにおける前門」と呼び、その攻略を最優先課題と位置づけていました。
度重なる攻撃

VOCのマラッカに対する執念は、17世紀初頭から、数十年にわたる執拗な攻撃となって現れます。
最初の本格的な試みは、1606年に行われました。提督コルネリス=マテリーフ=デ=ヨンゲ率いるVOC艦隊が、マラッカを数ヶ月にわたって海上から包囲し、砲撃を加えました。この時、VOCはマラッカの宿敵であるジョホール王国と同盟を結び、陸からの攻撃も試みます。しかし、ア=ファモサ要塞の守りは固く、またスペインのフィリピンからポルトガルの援軍が到着したため、VOCは包囲を解いて撤退せざるを得ませんでした。この戦いは失敗に終わったものの、VOCにマラッカ攻略の困難さを教えると同時に、ジョホール王国との協力関係の重要性を認識させる契機となりました。
その後も、VOCはマラッカ海峡に頻繁に艦隊を派遣し、海上封鎖を実行しました。彼らの目的は、マラッカへの兵員や食料の補給を断ち、その経済を干上がらせることにありました。彼らは、マラッカへ向かう商船を拿捕し、積荷を没収しました。これにより、ポルトガル領マラッカは慢性的な物資不足と経済的苦境に陥り、徐々に疲弊していきました。
1620年代には、スマトラ島北部のアチェ王国が強大化し、マラッカ海峡の支配権をめぐってポルトガルと激しく争います。VOCは、この地域の二大勢力が互いに争う状況を静観し、両者が疲弊するのを待ちました。1629年、アチェ王国がマラッカに大規模な攻撃を仕掛けて大敗を喫すると、VOCにとって最大の地域ライバルが一つ消えることになり、マラッカ攻略の好機が近づいてきました。
ジョホール王国との同盟

VOCは、1606年の最初の攻撃の教訓から、マラッカを攻略するためには、強力な海軍力だけでなく、陸からの大規模な攻撃を担う地域の同盟相手が不可欠であると理解していました。その最も有力なパートナーが、マラッカ・スルタン国の正統な後継者を自任するジョホール王国でした。
ジョホール王国にとっても、異教徒のポルトガル人をマラッカから追い出し、先祖代々の土地を回復することは、王国の悲願でした。VOCとジョホールは、「共通の敵」ポルトガルを打倒するという一点で利害が一致し、再び同盟関係を強化します。1630年代後半、VOCとジョホールは、マラッカへの共同攻撃計画を具体化させていきました。VOCが海上からの包囲と砲撃を担当し、ジョホールが陸上部隊を派遣して要塞を包囲するという、役割分担が合意されました。
最後の包囲戦と陥落

そして1640年6月、運命の時が訪れます。VOC艦隊がマラッカ沖に集結し、海上を完全に封鎖。同時に、ジョホール王国から派遣された数千の兵士が陸地に展開し、ア=ファモサ要塞を完全に包囲しました。マラッカの最後の総督、マヌエル=デ=ソウザ=コウティーニョの指揮のもと、ポルトガル守備隊は絶望的な籠城戦を開始します。
包囲戦は、過酷を極めました。VOC艦隊は、昼夜を分かたず要塞に砲弾を撃ち込み、城壁や建物を破壊していきました。陸からはジョホール軍が絶えず攻撃を仕掛け、守備隊を消耗させます。城内では、食料と弾薬が日に日に尽きていきました。それ以上に守備隊を苦しめたのが、飢餓と、そして疫病の蔓延でした。壊血病や赤痢といった病気が兵士や市民の命を次々と奪っていき、城内は地獄絵図と化しました。
それでも、ポルトガル守備隊は驚くべき粘り強さで抵抗を続けました。しかし、半年以上にわたる包囲の末、彼らの力も限界に達します。1641年1月14日、VOC軍は総攻撃を開始。城壁の弱点となっていた一角を爆破して突入し、激しい市街戦の末に、ついに要塞を制圧しました。この時、生き残っていたポルトガル守備隊は、わずか数百名に過ぎなかったといいます。
130年間にわたってマラッカの空に翻っていたポルトガルの旗は引きずり下ろされ、代わりにVOCの三色旗が掲げられました。このマラッカの陥落は、東南アジアにおけるポルトガル時代の終焉と、オランダ時代の本格的な始まりを告げる、象徴的な出来事でした。VOCの数十年にわたる執念が、ついに実を結んだ瞬間でした。
オランダ統治下の変容

1641年、激しい包囲戦の末にマラッカを手に入れたオランダ東インド会社(VOC)でしたが、彼らが継承したのは、かつての栄光の影が色濃く、疲弊しきった港市でした。VOCの目標は、マラッカをかつてのような交易の中心地として再興させることではありませんでした。彼らのアジア戦略の中心は、すでにジャワ島に建設した新拠点バタヴィア(現在のジャカルタ)へと移っていました。オランダにとってのマラッカは、あくまでバタヴィアを中心とする交易網の一部であり、その役割は大きく変容を遂げることになります。
軍事拠点としての再編

VOCは、マラッカをアジアにおけるポルトガル勢力の影響力を削ぎ、マラッカ海峡の通航を管理するための、重要な軍事拠点として位置づけました。彼らの最優先課題は、ポルトガルが築いた要塞「ア=ファモサ」を修復し、さらに強化することでした。長年の戦闘で損傷した城壁は再建され、新たな稜堡(バスティオン)が追加されました。VOCは、ポルトガル時代の教会や修道院の多くを取り壊し、その石材を要塞の修復に再利用しました。
かつてカトリックの象徴であった聖パウロの丘の上の聖母教会は、屋根を失ったまま放置され、オランダ改革派教会のための墓地として使われるようになりました。その代わりに、VOCは丘の麓に、新たな教会を建設しました。これが、現存するクライストチャーチ(キリスト教会)の前身となるオランダ改革派教会です。また、総督の公邸として、スタッドハウス(市庁舎)が教会の隣に建設されました。これらの赤レンガ色の建物群は、マラッカの中心部に、オランダ的な景観を新たに作り出しました。
交易の管理と制限

経済面において、VOCはマラッカの交易を独占的に管理しようとしました。彼らは、マラッカを通過する全ての船に対して、通行許可証の取得と関税の支払いを義務付けました。これは、海峡における自由な交易を制限し、全ての富がVOCの管理下に置かれることを意味しました。
特に重要視されたのが、マレー半島で産出される錫(すず)の交易独占でした。VOCは、ペラやケダといったマレー半島の錫産地のスルタンと条約を結び、錫をVOCにのみ独占的に供給することを強制しました。マラッカは、この錫を集積し、バタヴィアやインドへ輸出するための一大拠点となりました。
しかし、この厳格な独占政策は、地域の商人たちの反発を招きました。多くの商人は、VOCの監視をかいくぐり、密貿易を続けました。特に、イギリス東インド会社などのライバル勢力は、積極的にこの密貿易を支援し、VOCの独占体制を切り崩そうと試みました。その結果、マラッカの交易量は、VOCの期待通りには伸びず、港はかつてのような活気を取り戻すことはありませんでした。マラッカは、自律的な交易センターではなく、バタヴィアに従属する、一地方管理拠点としての性格を強めていきました。
行政と社会

オランダの統治下でも、マラッカの多民族社会という構造は維持されました。VOCは、ポルトガル時代と同様に、中国人、インド人、マレー人といった各民族コミュニティの自治を認め、それぞれの長である「カピタン」を通じて間接的に統治しました。
VOCは、ポルトガル時代に形成されたカトリック系のユーラシアン(混血)コミュニティに対しては、厳しい態度を取りました。カトリック信仰は禁止され、プロテスタント(オランダ改革派)への改宗が強要されました。しかし、多くの人々は、家庭内で密かにカトリックの信仰を守り続けました。
一方で、VOCの職員と現地の女性との間に生まれた、新たなユーラシアンのコミュニティも形成されていきました。彼らは「バーガー」と呼ばれ、オランダ語を話し、プロテスタントを信仰する、植民地社会のエリート層を形成していきました。彼らは、VOCの行政機構の中で、書記や通訳として重要な役割を果たしました。
17世紀後半のマラッカは、かつての国際交易都市の華やかさを失い、静かで、より管理された都市へと変貌していました。ア=ファモサの城壁の内側では、オランダ人の役人や兵士たちが秩序だった生活を送り、城壁の外側では、多様な民族が、VOCの厳格な管理のもとで、したたかに日々の暮らしを営んでいました。港の役割は、富が集まる「市場」から、海峡を監視する「関所」へと変わりました。それは、マラッカの黄金時代の終わりを意味すると同時に、グローバルな帝国の論理の中で、新たな役割を担って生き残っていく、この港市の長い歴史の新たな一章の始まりでもあったのです。
多文化社会の様相

17世紀のマラッカは、支配者がポルトガルからオランダへと交代する、大きな政治的変動の時代でした。しかし、その激動の歴史の表面下では、スルタン国の時代から続く、多様な民族、文化、宗教が共存し、混じり合う、豊かな多文化社会が脈々と息づいていました。ヨーロッパの帝国がもたらした変化は、この既存の社会に新たな層を加え、その複雑さを一層深めることになりました。
民族のモザイク

17世紀のマラッカの市街地は、まさに民族のモザイクでした。城壁の外側には、それぞれの民族が集住する「カンポン」が形成されていました。
カンポン=チナ(中国人居住区)は、最も活気のある地区の一つでした。福建省や広東省からやってきた商人たちは、ジャンク船で中国の陶磁器や絹、茶などを運び込み、東南アジアの産物と交換しました。彼らは、同郷者のネットワークと勤勉さを武器に、マラッカの商業活動において重要な役割を担っていました。オランダ統治下では、彼らの中から「カピタン=チャイナ」が任命され、コミュニティの統治を任されました。彼らは、寺院(現在のチェンフンテン寺院の基礎)を建立し、独自の慣習や祭礼を守り続けました。
カンポン=クリん(南インド人居住区)には、コロマンデル海岸から来たタミル系の商人や金融業者が集まっていました。彼らは、インド産の綿布をもたらし、香辛料や錫の交易に従事しました。ヒンドゥー教の寺院が建てられ、故郷の文化が維持されていました。
カンポン=ジャワやカンポン=マレーには、マレー半島やインドネシア諸島から来た人々が暮らしていました。彼らは、小規模な交易や漁業、農業に従事し、イスラム教の信仰を守っていました。
これらのアジア系コミュニティに加えて、ポルトガル時代に形成されたユーラシアン(混血)のコミュニティが存在しました。彼らは、ポルトガル語をベースにしたクレオール語(クリスタン語)を話し、カトリックを信仰していました。オランダの支配下では、彼らの信仰は抑圧されましたが、その文化は家庭内やコミュニティの中で粘り強く受け継がれていきました。彼らは、ポルトガル時代の遺産を体現する、生きた証人でした。
さらに、オランダ統治下で、VOC職員と現地の女性との間に生まれた、オランダ系のユーラシアンである「バーガー」が新たな社会階層として加わりました。彼らは、支配者であるオランダ人と、被支配者であるアジア人の間に立つ、中間的な存在として、植民地社会の中で独特の地位を占めていきました。
文化の混淆

これほど多様な人々が、一つの港市で長年にわたって共存する中で、文化の混淆(クレオール化)が進むのは、ごく自然なことでした。
言語の面では、マレー語が地域の共通語として広く使われる一方で、ポルトガル語クレオールも、特に異なる民族間の商取引の場で、重要な役割を果たし続けました。オランダ語は、行政の公用語でしたが、その影響は支配者層や一部のエリートに限られていました。
食文化においても、融合が見られました。マレーのスパイス、中国の調理法、インドのカレー、そしてヨーロッパの食材が組み合わさり、ニョニャ料理に代表されるような、マラッカ独特のハイブリッドな料理が生まれていきました。
建築様式にも、その影響は見て取れます。中国系の商人が建てたショップハウス(店舗兼住宅)には、中国風の屋根瓦や装飾と共に、ヨーロッパ風の窓や柱が取り入れられるなど、東西の様式が融合した独特のデザインが見られました。
共存と緊張

この多文化社会は、基本的には平和的な共存を保っていました。異なる民族は、互いの文化や宗教に寛容であり、商業的な利益という共通の目的のもとで協力し合っていました。しかし、その一方で、潜在的な緊張関係も存在しました。
支配者であるヨーロッパ人(ポルトガル人、次いでオランダ人)と、被支配者であるアジアの諸民族との間には、明確な権力勾配がありました。また、異なる民族コミュニティ間でも、経済的な競合関係から、対立が生じることもありました。
オランダの厳格な宗教政策は、特にカトリックを信仰するユーラシアンコミュニティに大きな圧力を与えました。彼らは、自らのアイデンティティの根幹である信仰を、公の場で実践することを禁じられたのです。
17世紀のマラッカは、多様性がもたらす豊かさと、それが故に生じる緊張を内包した、複雑な社会でした。それは、帝国の支配という大きな枠組みの中で、人々がたくましく、そしてしたたかに自らのアイデンティティを維持し、時にはそれを変容させながら生きてきた、人間の営みの縮図であったといえるでしょう。この港市に刻まれた多文化共生の記憶は、その後のマレーシアという国家の成り立ちにも、深く影響を与えていくことになります。
17世紀のマラッカは、その長い歴史の中で、最も劇的で、そして決定的な転換点を経験した一世紀でした。かつてアジアの海上交易の頂点に君臨したこの港市は、二つのヨーロッパ帝国の野望が激突する最前線となり、その運命は否応なくグローバルな闘争の渦の中に巻き込まれていきました。
世紀の初め、マラッカはポルトガル海上帝国の東方における宝石でした。しかし、その輝きは、本国の衰退、地域のライバル勢力の挑戦、そして何よりも、新興の商業帝国オランダ東インド会社(VOC)の執拗な圧力によって、急速に失われつつありました。ア=ファモサの堅固な要塞に守られたこの港市は、外からの脅威と内部からの腐敗によって、ゆっくりと孤立し、疲弊していきました。
そして1641年、VOCとジョホール王国の連合軍による長く過酷な包囲戦の末、マラッカはついに陥落します。それは、東南アジアにおける130年間のポルトガル時代に、決定的な終止符を打つ出来事でした。しかし、オランダの三色旗のもとで始まった新しい時代は、マラッカにかつての栄光を取り戻させるものではありませんでした。
VOCのアジア戦略の中心は、すでにジャワ島のバタヴィアにありました。オランダの支配下で、マラッカの役割は、活気ある国際交易の中心地から、マラッカ海峡の通航を監視し、ライバルの交易を妨害するための、軍事的な「関所」へと変貌を遂げました。錫交易の独占拠点としての役割はあったものの、その経済は厳しく管理され、かつての自由な活気は失われました。スタッドハウスやクライストチャーチといったオランダ風の赤レンガの建物が、街の新たな支配者を象徴する一方で、港の静けさは、その地位の変化を物語っていました。
しかし、政治的な衰退とは裏腹に、マラッカの社会は、その多文化的な豊かさを維持し、さらに深めていきました。中国人、インド人、マレー人、そしてポルトガル時代からのユーラシアン、新たに生まれたオランダ系バーガー。これらの多様なコミュニティは、支配者の交代という大きな変化を乗り越え、互いに影響を与え合いながら、独自のハイブリッドな文化を育み続けました。
17世紀のマラッカの物語は、一つの偉大な港市が、帝国の興亡という大きな歴史の波の中で、いかにしてその役割を変え、生き抜いていったかを示す、壮大な叙事詩です。それは、権力と富をめぐる冷徹な地政学のドラマであると同時に、異なる文化を持つ人々が、同じ場所で暮らし、混じり合うことで、新たなアイデンティティを創造していく、人間の営みの記録でもあります。マラッカの街角に残るポルトガル風の教会の廃墟も、オランダ風の広場も、そして人々の暮らしの中に息づく多様な文化の痕跡も、すべてはこの激動の一世紀が刻んだ、忘れがたい記憶なのです。
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・マラッカとは わかりやすい世界史用語2673

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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