カトー=カンブレジ条約とは
カトー=カンブレジ条約は、1559年4月にフランス北部のカトー=カンブレジで締結された一連の平和条約です。この条約は、半世紀以上にわたってヨーロッパを揺るがし続けたイタリア戦争に終止符を打ち、ヴァロワ家のフランスとハプスブルク家のスペインおよび神聖ローマ帝国との間の長きにわたる闘争を終結させました。単なる戦争の終結を意味するだけでなく、この条約は16世紀後半のヨーロッパの国際秩序を新たに規定し、各国の力関係、外交政策、そして宗教政策にまで深遠な影響を及ぼしました。イタリアにおけるハプスブルク家(スペイン)の覇権を決定づけ、フランスの目をイタリアから北東国境へと転換させ、そして両大国が国内のプロテスタント問題に本格的に取り組む契機となったこの条約は、近世ヨーロッパ史における画期的な出来事として位置づけられています。
条約締結に至る背景
カトー=カンブレジ条約は、突如として生まれたものではありません。それは、60年以上にわたる断続的な戦争、変化する君主たちの個性、そして双方の国家が直面していた深刻な財政的・宗教的問題が複雑に絡み合った結果として生み出されたものです。
長きにわたるイタリア戦争
条約の直接的な背景は、1494年にフランス王シャルル8世がナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに侵攻したことに始まるイタリア戦争です。当初はイタリア半島の豊かな都市国家群の支配をめぐる争いでしたが、16世紀に入ると、その様相は大きく変化します。
フランスではヴァロワ家のフランソワ1世が、そしてハプスブルク家ではカール5世がそれぞれ君主となると、戦争は二人の君主の個人的なライバル意識と、ヨーロッパの覇権をめぐる全面的な対決へと発展しました。カール5世がスペイン王、神聖ローマ皇帝、ネーデルラント君主として広大な領土を相続し、フランスを包囲する「ハプスブルクの環」を形成したことで、フランスにとってこの戦いは国家の生存をかけたものとなりました。
戦争の主戦場は依然としてイタリア、特にミラノ公国とナポリ王国の支配をめぐるものでしたが、戦線はネーデルラントやフランス国境にも拡大しました。フランソワ1世とカール5世は、パヴィアの戦い(1525年)でのフランソワ1世の捕虜、ローマ劫掠(1527年)、そしてフランスとオスマン帝国との「不浄なる同盟」など、数々の劇的な出来事を経て、生涯にわたり4度の大規模な戦争を繰り広げました。しかし、両者の戦いは一方が他方を完全に屈服させるには至らず、双方の国庫を疲弊させる消耗戦の様相を呈していきました。
君主の交代と戦争の継続
1547年にフランソワ1世が、1556年にカール5世がそれぞれ歴史の舞台から去り、戦争の主役は彼らの後継者へと引き継がれました。フランスではアンリ2世が、そしてハプスブルク家ではスペイン王フェリペ2世と神聖ローマ皇帝フェルディナント1世が、それぞれの父や兄の政策を継承しました。
アンリ2世は、父フランソワ1世の遺志を継ぎ、ハプスブルク家への敵対政策を継続しました。彼は、ドイツのプロテスタント諸侯と結び、1552年にはメス、トゥール、ヴェルダンというロレーヌ地方の三つの重要な司教領を占領することに成功します。これは、フランスの関心がイタリアから北東の「自然国境」へと移り始めていることを示す象徴的な出来事でした。
一方、フェリペ2世もまた、父カール5世からカトリック世界の守護者としての使命と、フランスへの対抗意識を受け継いでいました。彼はイングランド女王メアリー1世と結婚し、イングランドをハプスブルク家の側に引き入れることに成功します。
最後のイタリア戦争は1551年に始まりましたが、決定的な局面を迎えたのは1557年でした。フェリペ2世の将軍であるサヴォイア公エマヌエーレ=フィリベルトが率いるスペイン=イングランド連合軍は、フランス北部のサン=カンタンの戦いでフランス軍に壊滅的な打撃を与えました。この敗北はフランス宮廷に衝撃を与え、首都パリさえも脅かされる事態となりました。しかし、フランスも反撃に転じ、若きギーズ公フランソワは1558年1月、イングランドが200年以上にわたって保持してきた大陸最後の拠点、カレーを電撃的に奪還します。この勝利はフランス国民の士気を大いに高めましたが、サン=カンタンでの大敗を覆すには至りませんでした。
和平への機運
サン=カンタンの戦いとカレーの奪還は、皮肉にも両国を和平交渉のテーブルに着かせる大きな要因となりました。両国ともに、これ以上の戦争継続が不可能であるという現実に直面していたのです。
第一の要因は、財政の破綻でした。半世紀以上にわたる戦争は、フランスとスペインの双方に天文学的な額の戦費を強いていました。両国は、国際的な金融家からの巨額の借金に依存していましたが、その債務はもはや返済不可能なレベルに達していました。事実、フェリペ2世は1557年に、アンリ2世もほぼ同時期に、国家の破産(債務不履行)を宣言せざるを得ない状況に追い込まれていました。これ以上の戦争は、国家財政の完全な崩壊を意味したのです。
第二の要因は、宗教問題の深刻化でした。フランスでは、カルヴァン派のプロテスタント(ユグノー)の勢力が急速に拡大し、貴族階級にまで浸透していました。アンリ2世は、この「異端」の広がりが王国の統一を脅かす深刻な脅威であると認識し、国内の宗教問題に専念する必要性を感じていました。一方、フェリペ2世もまた、カトリックの最も敬虔な擁護者として、ネーデルラントやスペイン本国にまで及び始めたプロテスタントの動きに強い危機感を抱いていました。両国の君主は、共通の敵であるプロテスタニズムに対抗するためには、カトリック大国同士の争いを終わらせる必要があるという点で、暗黙の了解に至ったのです。
第三に、個人的な要因も作用しました。アンリ2世は、寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエや重臣のモンモランシー元帥といった和平派の側近たちの影響を強く受けていました。また、フェリペ2世も、父カール5世のような普遍的帝国の理念よりも、スペインとその属領の統治を安定させることを優先する、より現実的な君主でした。イングランド女王メアリー1世が1558年11月に亡くなったことで、フェリペ2世はイングランド王配の地位を失い、対フランス戦争におけるイングランドの価値も低下しました。
これらの要因が重なり合い、1558年末から、両国の代表団はカトー=カンブレジの地で、困難な和平交渉を開始したのです。
条約の交渉と内容
和平交渉は数ヶ月にわたり、中断を挟みながら続けられました。フランス側の代表は、アンヌ・ド・モンモランシー元帥やロレーヌ枢機卿シャルルといった重鎮が務め、スペイン側は、アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドやアントワーヌ・ド・グランヴェルといったフェリペ2世の腹心が交渉にあたりました。
二つの条約
カトー=カンブレジ条約は、厳密には二つの異なる条約から構成されています。
最初の条約は、1559年4月2日にフランスとイングランドの間で結ばれました。イングランドの新女王エリザベス1世は、戦争の継続に消極的であり、単独でカレーを奪還する力もありませんでした。この条約で、フランスはカレーを8年間保持し、その後イングランドに返還するか、あるいは50万エキュの賠償金を支払うことが定められました。しかし、これは事実上、イングランドがカレーを永久に失うことを認めたものであり、イングランドにとって大陸における最後の足場を失うという、象徴的な意味合いを持つ屈辱的な条約でした。
二番目の、そしてより重要な条約は、翌4月3日にフランスとスペインの間で結ばれました。こちらが一般にカトー=カンブレジ条約として知られるものであり、イタリア戦争の最終的な講和条約となりました。
領土に関する規定
条約の核心は、領土に関する複雑な取り決めでした。
フランスにとって、最大の譲歩はイタリアにおける全ての権利主張を放棄することでした。フランスは、長年にわたり争奪の的であったミラノ公国とナポリ王国への要求を完全に取り下げました。また、コルシカ島をジェノヴァに、そしてサヴォイア公国とピエモンテの大部分を、スペインの将軍として活躍したサヴォイア公エマヌエーレ=フィリベルトに返還しました。これにより、フランスはアルプス以南の拠点のほとんどを失い、イタリア半島から事実上撤退することになりました。
その代償として、フランスは北東国境における重要な獲得物を保持することが認められました。アンリ2世が1552年に占領したメス、トゥール、ヴェルダンの三司教領は、フランスの領有が事実上確定しました。また、イングランドから奪ったカレーの保持も認められました。これらの領土は、フランスの防衛線を強化し、その後のフランスの対外政策が、イタリアではなくライン川方面へと向かう転換点となりました。
スペイン(ハプスブルク家)は、この条約の最大の勝者でした。スペインは、ミラノ公国、ナポリ王国、シチリア、サルデーニャの直接支配を確立しました。さらに、トスカーナ大公国(フィレンツェ)やジェノヴァ共和国といったイタリアの他の主要な国家も、スペインの強力な影響下に置かれました。サヴォイア公国も、スペインの同盟国として復活しました。これにより、イタリア半島におけるスペインの覇権は、その後約150年間にわたって揺るぎないものとなったのです。
婚姻による和平の保証
近世の外交において一般的であったように、カトー=カンブレジ条約もまた、王家間の婚姻によってその履行が保証されました。
最も重要な結婚は、スペイン王フェリペ2世と、フランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワとの間の政略結婚でした。フェリペ2世は妻メアリー1世を亡くしたばかりであり、この結婚は両国の和解を象徴するものでした。若く美しいエリザベートは「平和のエリザベート」と呼ばれ、スペインの宮廷に送られましたが、故国を思う悲しみの中で暮らしたと伝えられています。
もう一つの結婚は、フランスが返還したサヴォイア公国の君主エマヌエーレ=フィリベルトと、アンリ2世の妹であるマルグリット・ド・フランスとの間の結婚でした。これにより、フランスとサヴォイアの関係も安定化が図られました。
これらの結婚を祝うため、1559年6月、パリでは盛大な祝祭と馬上槍試合が催されました。しかし、この祝祭は悲劇によって幕を閉じます。国王アンリ2世自身が馬上槍試合に参加した際、対戦相手のスコットランド衛兵隊長モンゴムリ伯ガブリエルの槍が砕け、その破片が王の眼窩に突き刺さるという事故が起こったのです。アンリ2世は10日間の苦しみの末に亡くなりました。条約の成立を祝うはずだった祝祭は、王の葬儀へと変わり、フランスは若く不安定な後継者たちの時代、そして深刻な宗教内乱の時代へと突入していくことになります。
条約がもたらした影響と歴史的意義
カトー=カンブレジ条約は、16世紀後半のヨーロッパの政治地図を塗り替え、その後の歴史に多大な影響を与えました。
ヨーロッパの勢力図の変化
この条約がもたらした最も明白な結果は、イタリアにおけるスペイン覇権の確立です。フランスの脅威が去ったことで、イタリア半島は「パクス・ヒスパニカ(スペインによる平和)」と呼ばれる、比較的安定した時代を迎えました。しかし、それは同時に、イタリアの諸国家が政治的な独立性を失い、スペインの巨大な影響力に従属することを意味しました。ルネサンス期にヨーロッパ文化の中心であったイタリアの政治的・経済的な活力は、この頃から次第に失われていったと指摘されることもあります。
一方、フランスはイタリアへの野心を断念せざるを得ませんでしたが、これは長期的に見てフランスにとって必ずしもマイナスではありませんでした。イタリアという「泥沼」から手を引いたことで、フランスは国力を北東国境の強化と国内の統一へと集中させることが可能になりました。メス、トゥール、ヴェルダン、そしてカレーの確保は、後のルイ14世の時代に行われる「自然国境」への領土拡大政策の先駆けとなりました。
イングランドは、カレーを失ったことで大陸への最後の拠点を失い、ヨーロッパ大陸の政治から一時的に距離を置くことになります。これは、イングランドが「孤立主義」的な外交政策をとり、海洋国家としてのアイデンティティを強めていく一つの契機となりました。
宗教対立の激化
カトー=カンブレジ条約の締結交渉において、アンリ2世とフェリペ2世が共有していた動機の一つが、プロテスタニズムという共通の敵への対処でした。条約には、両国が協力して異端と戦うことを示唆する秘密条項があったとも言われています。
条約によって対外戦争から解放された両国の君主は、そのエネルギーを国内の宗教問題へと向けました。フランスでは、アンリ2世の急死によって幼いフランソワ2世が即位し、宮廷がカトリックのギーズ家とプロテスタントのブルボン家などの対立の場となると、宗教的な緊張は一気に高まります。そして1562年、ヴァシーの虐殺をきっかけに、フランスは30年以上にわたる悲惨な宗教内乱、すなわちユグノー戦争へと突入しました。
スペインでも、フェリペ2世は異端審問を強化し、国内のプロテスタントの芽を徹底的に摘み取りました。さらに彼の過酷なカトリック政策は、ネーデルラントにおけるプロテスタント貴族の激しい反発を招き、八十年戦争として知られる長期にわたる独立戦争を引き起こすことになります。
このように、カトー=カンブレジ条約は、国家間の戦争の時代に一区切りをつけ、それに代わる形で、各国内部および国家間での宗教をめぐる対立がヨーロッパ政治の主要なテーマとなる時代の幕開けを告げるものでした。
外交と戦争の変容
イタリア戦争の時代は、フランソワ1世やカール5世といった君主自身が戦場で指揮を執る、騎士道的な戦争の最後の時代でした。カトー=カンブレジ条約以降、戦争はより組織化され、官僚的に運営されるようになります。君主は首都の宮殿から戦争を指揮し、専門的な軍人や外交官が実務を担うという、より近代的な国家のあり方へと移行していきました。
また、この条約は、ヨーロッパにおける主権国家体制の確立に向けた重要な一歩と見なすこともできます。条約は、各国の領土の境界線を明確に画定し、それぞれの君主がその領域内で排他的な主権を持つという原則を暗黙のうちに認めました。これは、中世的なキリスト教共同体という理念が後退し、国益を追求する主権国家が国際政治の主要なアクターとなる時代の到来を示していました。
カトー=カンブレジ条約は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる分水嶺でした。それは、ルネサンス期の華やかさと混沌に満ちたイタリア戦争の時代を終わらせ、宗教改革の嵐が吹き荒れる、よりイデオロギー的で深刻な対立の時代への扉を開いたのです。この条約によって規定されたヨーロッパの勢力図と政治力学は、その後の三十年戦争に至るまでの約半世紀間の国際関係の基本的な枠組みとなり、近世ヨーロッパ世界の形成に決定的な影響を与え続けたのです。