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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)

モンゴル(韃靼・タタール)とは わかりやすい世界史用語2151

著者名: ピアソラ
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モンゴル(韃靼・タタール)とは

明王朝は1368年に成立し、モンゴル人の支配を打破したことで知られています。この時期、モンゴル高原に住む韃靼族は、岡山、城南、内蒙古など異なる地域に亘る部族間の交流が顕著で、彼らの行動は明朝に多大な影響を与えました。明の再興は、彼らとの関係を強化したものの、同時に敵対関係を生む要因ともなりました。
明王朝と韃靼族の関係は、主に政治的、軍事的な側面での相互作用によって形成されました。明の政治家たちは、南北の敵対勢力を排除するため韃靼族との連携を図り、彼らの勢力を利用して外敵に対抗しました。この結果、韃靼族は明にとって重要な同盟者へと変わっていく過程で、両者の交流は深まっていきました。
文化的側面において、明朝は韃靼族の独自の文化や生活様式を理解し、尊重することで、より強固な関係を築いていきました。韃靼族の牧畜や狩猟の伝統は、明との交易を通じて相互に影響し合い、文化的な交流が進展しました。これにより、明朝内での韃靼族の地位が向上し、彼らの文化が広く認知されることとなったのです。



歴史的背景

明王朝は1368年に成立し、以前の元朝(モンゴル帝国)の影響を排除しました。元朝の崩壊は、漢人による統治への転換を象徴し、中華文明の復興の一環として重要でした。この時期には、モンゴルの部族との関係が再構築され、特に韃靼族との対立が顕著に現れました。明王朝はその成立以来、北方の脅威であるモンゴルの部族に対して、様々な軍事行動を実施する必要がありました。
韃靼族は元朝の崩壊以降、明王朝下にあっても影響力を持ち続けました。彼らは一部の明の指導者と同盟を結びながらも、時に対立を繰り返しました。明は、韃靼族との関係を利用し、彼らを他のモンゴル部族に対する防衛戦略として用いることがありました。この戦略は、歴史的に「蛮族をもって蛮族を制する」という考えに基づいています。
初期の明王朝との関係は、主に軍事的衝突によって特徴付けられました。明は、特に北方の騎馬民族である韃靼族に対して多くの軍事行動を実施し、支配地域の安全を確保しようとしました。こうした軍事的緊張は、双方の信頼を損ない、対立を長引かせる要因となりました。このようにして、明王朝と韃靼族の間には、互いに言うべきことの多い複雑な関係が形成されました。

明成祖と韃靼族

明成祖(永楽帝)は、韃靼族に対して五度の親征を行いました。この軍事行動は、明王朝の北方境界を守るための重要な施策であり、特に彼の治世における「漠北塵清」と評されるほどの成果を上げました。親征の実施により、韃靼族の動向を把握し、対策を講じる機会を得ました。これは、中国北方の戦略的安定を図る上でも非常に重要な意味を持っていました。
永楽帝は、軍事征服と政治的策略を選択しました。具体的には、韃靼の可汗鬼力赤が明の接触を拒否する中で、副可汗の阿魯台が少なくとも通好の意志を示したことを利用し、外交手段と軍事力を組み合わせました。このように、明朝は韃靼族の分裂を巧みについて、自らの影響力を強化しつつありました。
韃靼族の一部は明王朝の政策に従い、比較的安定した時期を迎えました。特に、瓦剌部族との臣属関係が確立され、明朝との間に和平が図られたことで、両者の関係は一時的に安定しました。この状況は、明朝の北方防衛における成功を示すものであり、両国の繁栄にも寄与しました。さらに、これにより交易の回復や文化交流が促進され、地域全体の発展に繋がったのです。

文化交流

明朝(1368-1644)は中国の王朝であり、モンゴル高原に対して重要な文化的影響を与えました。韃靼族や他のモンゴル部族との関係は複雑で、明は彼らの生活様式や文化に対して積極的にアプローチしました。特に、経済的な利益を得るために、これらの部族との文化交流が促進され、中国文化がモンゴル社会の中に徐々に浸透しました。
韃靼族の一部は、中国の行政制度や文化的慣習を採用する過程で、明朝の支配を受けました。特に、明の強力な中央集権的統治が、韃靼族に対しても影響を与え、彼らは行政や政治の様式を部分的に取り入れるようになりました。これらは、文化的な同化を促進する重要な要素でした。
文化交流は特に陶磁器や絵画を通じて進行しました。これにより、中国の美術や技術がモンゴルの伝統に融合し、新たな文化的表現が生まれました。

社会政治的関係

明王朝は、韃靼族を政治的に分断しようとする政策を展開しました。1368年の明朝成立に伴い、元朝の残党が北元として西蒙古に撤退すると、彼らは韃靼として再編成されました。明王朝は、これを利用して内部の結束を妨げ、部族間の対立を誘発することで、自らの支配を強化しようとしました。明朝は、韃靼族の部族名を用いて日本の台頭を抑え、敵対勢力を効果的に分散させる策略を採用しました。
「以夷制夷」の政策により、韃靼族の部族間の対立を意図的に促進しました。明王朝は、外敵である袁朝の影響を減らすために、韃靼族の内部対立を煽りました。この政策により、韃靼族間では権力争いや同盟関係の変化が生じ、明王朝はその混乱を利用して支配を維持しました。結果として、韃靼族の団結が損なわれ、その結果生まれた分断的状況は明王朝の利となりました。
韃靼族はしばしば明朝との提携を模索しつつも、自らの独立性を維持しようとしました。彼らは明王朝との交渉を行い、時には軍事的な連携も試みましたが、常に自らの文化や自治を保つことが重要とされました。この狭間において、韃靼族は明王朝から独立した存在であることを強調し、地域的な権益を確保するために懸命に戦いました。選択の自由を求める彼らの姿勢は、明朝の統治に対する抵抗として重要な意味を持っていました。

明朝による影響

明朝は、韃靼族に対して単なる軍事的圧力を加えるだけでなく、巧妙な外交交渉も行いました。この方法は、複雑な地政学的状況に基づいており、明は韃靼族の内部分裂を利用し自らの権力を拡大しようとしました。具体的には、軍事攻撃によって敵対する部族を排除し、その後に和解の手段として貢納制度を導入することで、軍事力と外交を組み合わせた一貫した政策を展開しました。
韃靼族の指導者たちの中には、明の支配を受け入れる者もいれば、強固に反抗する者もいました。このような態度の違いは、明朝の圧力によるものだけでなく、韃靼内部の権力構造の変化にも起因しています。権力の中心が達延汗のような強力な指導者のもとで一時的に統一されていても、その後の権力の分裂は、岡田、城などさまざまな部族の抗争を引き起こしました。結果的に、明は彼らを外交的手段に引き戻すことで、一定の制御を保持しました。
このような明と韃靼族の関係は、モンゴル内部の政治構造にも深い影響を与えました。明朝の圧迫に応じて、韃靼族の部族間での連携や競争が一層熾烈になっていき、この状況が彼らの内部政治を変えていきました。韃靼の指導者が明朝の要求に従う場合、その部族内での権威や地位は強化されましたが、逆に抵抗を試みる場合は、内部分裂を招き、政治的混乱を引き起こしました。このような一連の影響は、地域の権力構造を変える要因となりました。

韃靼族の地理的特徴

韃靼族はモンゴル高原に広く分布している民族であり、その生活様式は極めて厳しい自然環境に密接に関連しています。冷涼で風の強い気候、広大な草原、そして時折の厳しい寒波など、これらの要素は、彼らの遊牧生活の根幹をなすものでした。家畜の養殖を基盤とした彼らの社会構造は、この土壌において育まれてきました。
遊牧民としての生活は、韃靼族にとって根本的な重要性を持ちます。彼らは地理的条件に深く根ざし、季節ごとの移動を適切に行うことで、草を求めて生活を成り立たせています。この移動生活は、食料供給の安定に寄与し、また民族間の交流をも生み出しました。遊牧民の経験と知恵が、彼らの生計と文化を支える要因となっています。
韃靼族が居住する地域は、中国北部との境界として戦略的な役割を果たしてきました。この位置は、さまざまな民族と国家の交流の場ともなり、特に明王朝との関係において重要でした。この境界での勢力は、交易や外交において韃靼族が持つ役割を強化し、歴史的な対立や協力の要因にもなったと言えるでしょう。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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