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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

レパントの海戦とは わかりやすい世界史用語2620

著者名: ピアソラ
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レパントの海戦とは

1571年10月7日、ギリシャ西部のパトラス湾の入り口で、キリスト教世界の連合艦隊とオスマン帝国の巨大な艦隊が激突しました。レパントの海戦として知られるこの戦いは、歴史上最後にして最大規模のガレー船同士の海戦であり、その壮絶な激闘と劇的な結末は、16世紀ヨーロッパの歴史における一つの転換点として、またキリスト教世界とイスラム世界の長きにわたる対立の象徴的な出来事として、後世に語り継がれることになります。この一日で4万人以上の命が失われ、地中海の覇権をめぐる勢力図は大きな転換点を迎えました。それは単なる軍事的な衝突ではなく、宗教的な情熱、政治的な思惑、そして技術的な革新が複雑に絡み合った、時代の肖像そのものでした。



対決への道

地中海の二つの大国

16世紀後半の地中海は、二つの巨大な帝国の間で繰り広げられる覇権争いの舞台でした。西には、フェリペ2世が統治するスペイン=ハプスブルク帝国が君臨していました。その領土はイベリア半島からイタリア南部(ナポリ、シチリア)、ネーデルラント、そしてアメリカ大陸の広大な植民地にまで及び、「太陽の沈まぬ帝国」と称されていました。フェリペ2世は熱心なカトリック教徒であり、自らをキリスト教世界の守護者と任じていました。彼にとって地中海は、スペイン本国とイタリアの所領を結ぶ経済的、軍事的な生命線であり、その安全確保は国家の最優先課題でした。
一方、東にはスレイマン大帝の治世に最盛期を迎えたオスマン帝国がそびえ立っていました。バルカン半島から中東、北アフリカに至る広大な領域を支配するこのイスラムの大国は、強力な中央集権体制と、ヨーロッパ最強と謳われた常備軍イェニチェリを擁していました。そして、その海軍力は地中海のキリスト教国にとって深刻な脅威となっていました。オスマン艦隊は、北アフリカのバルバリア海賊(オスマン帝国の庇護下にあったイスラム教徒の海賊)と連携し、地中海の島々や沿岸の町を頻繁に襲撃し、通商路を脅かし、人々を奴隷として連れ去っていました。
1565年、オスマン帝国は聖ヨハネ騎士団が守るマルタ島に大規模な包囲攻撃を仕掛けます。マルタ島はシチリア島の南に位置する戦略的な要衝であり、もしここが陥落すれば、オスマン帝国が西地中海へ進出するための重要な足がかりを得ることになります。数ヶ月にわたる壮絶な攻防の末、スペインからの援軍もあって騎士団はかろうじて島を守り抜きました。このマルタ大包囲戦の失敗は、オスマン帝国の不敗神話に初めて影を落とす出来事でしたが、地中海における彼らの脅威が去ったわけではありませんでした。むしろ、この敗北はオスマン帝国の威信を傷つけ、次なる大規模な軍事行動への動機付けとなったのです。
キプロス侵攻

マルタでの失敗から5年後の1570年、スレイマン大帝の後を継いだセリム2世は、新たな征服の目標を東地中海に定めました。その標的となったのが、ヴェネツィア共和国が長年にわたって支配してきたキプロス島です。キプロス島は、その戦略的な位置と、ワインや砂糖、綿花といった豊かな産物によって、ヴェネツィアの海外領土の中で最も重要な拠点の一つでした。
オスマン帝国にとって、キプロスはアナトリア半島南岸の目と鼻の先にありながら、敵対的なキリスト教国の手に残る「目の上のたんこぶ」でした。彼らは、キプロスがキリスト教徒の海賊の拠点となり、シリアやエジプトへ向かうオスマン帝国の通商路や巡礼路を脅かしていると主張しました。1570年春、オスマン帝国はヴェネツィアに対し、キプロス島の割譲を要求する最後通牒を突きつけます。ヴェネツィアがこれを拒否すると、同年7月、ララ=ムスタファ=パシャ率いる6万人の大軍がキプロス島に上陸し、侵攻を開始しました。
ヴェネツィアは必死に抵抗しましたが、単独でオスマン帝国の大軍に対抗できる力はありませんでした。島の主要都市であるニコシアは、わずか7週間の包囲で陥落し、市内では大規模な虐殺と略奪が行われました。残る最後の拠点ファマグスタは、マルカントニオ=ブラガディンの指揮の下、驚異的な粘り強さで11ヶ月近くも持ちこたえました。しかし、援軍の望みが絶たれた1571年8月、ついに降伏を余儀なくされます。オスマン側の司令官ララ=ムスタファ=パシャは、当初約束した降伏条件を反故にし、司令官ブラガディンを残酷な方法で処刑しました。彼の皮を剥ぎ、それに藁を詰めて見せしめにしたというこの残虐な行為のニュースは、ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃と怒りをもって伝えられました。
神聖同盟の結成

キプロスへの侵攻が始まった当初から、ヴェネツィアはヨーロッパのキリスト教国、特にスペインと教皇庁に必死の救援要請を送っていました。この呼びかけに最も熱心に応えたのが、当時の教皇ピウス5世でした。厳格なドミニコ会士出身のピウス5世は、宗教改革によって分裂したキリスト教世界を再統合し、オスマン帝国の脅威に対して団結して立ち向かうことを自らの使命と考えていました。彼は、この危機をヨーロッパの君主たちに共通の敵に対する十字軍を結成させる好機と捉えたのです。
しかし、同盟の結成は困難を極めました。最大の壁は、キリスト教世界の二大海洋国家であるスペインとヴェネツィアの間の根深い不信感と利害の対立でした。ヴェネツィアは、東地中海での貿易を最優先に考えており、オスマン帝国との全面戦争は避けたいという本音がありました。彼らが望むのは、キプロス防衛に限定した迅速な軍事支援でした。
一方、スペインのフェリペ2世は、より複雑な計算をしていました。彼の関心は、東地中海のヴェネツィア領よりも、自国の沿岸を脅かす北アフリカのバルバリア海賊の掃討にありました。彼は、同盟の艦隊をキプロス救援ではなく、チュニスやアルジェといった海賊の拠点攻略に使うべきだと考えていました。また、フェリペ2世は、ヴェネツィアが過去に何度もスペインを裏切り、オスマン帝国と単独で和平を結んだ歴史を忘れていませんでした。彼は、スペインが多大な犠牲を払って勝利を収めた後、ヴェネツィアがその果実だけを享受し、再びオスマン帝国と有利な交易条件を結ぶことを警戒していたのです。
交渉は数ヶ月にわたって難航しましたが、教皇ピウス5世の粘り強い外交努力と、ファマグスタでの残虐行為のニュースがキリスト教世界の世論を動かしたことによって、ついに妥協が成立します。1571年5月25日、教皇庁、スペイン、そしてヴェネツィア共和国の間で「神聖同盟」の結成が正式に調印されました。
この同盟協定は、非常に野心的なものでした。それは単にオスマン帝国の侵略を撃退するだけでなく、北アフリカのイスラム教徒の拠点を全て奪回し、さらにはコンスタンティノープルを解放することまでをも視野に入れていました。同盟は、毎年200隻のガレー船と100隻の輸送船、そして5万人の兵士からなる連合軍を維持することを約束しました。その費用のうち、スペインが半分、ヴェネツィアが3分の1、教皇が6分の1を負担することになりました。そして、この前代未聞の連合艦隊の総司令官には、フェリペ2世の若き異母弟であるドン=フアン=デ=アウストリアが任命されました。24歳のドン=フアンは、カール5世の庶子であり、その軍事的な才能とカリスマ性、そして騎士道的な情熱によって、この困難な任務に最もふさわしい人物と見なされたのです。
両軍の戦力

キリスト教連合艦隊

神聖同盟の連合艦隊は、1571年の夏、イタリアのシチリア島メッシーナ港に集結しました。それはまさにキリスト教ヨーロッパの軍事力の結晶でした。艦隊は、スペイン、ヴェネツィア、教皇庁のほか、ジェノヴァ共和国、サヴォイア公国、マルタ騎士団など、イタリアの諸国家から派遣された艦船で構成されていました。総司令官ドン=フアンの下、ヴェネツィア艦隊の司令官には75歳の歴戦の宿将セバスティアーノ=ヴェニエルが、教皇艦隊の司令官にはマルカントニオ=コロンナが就任しました。
連合艦隊の総数は、ガレー船約208隻、ガレアス船6隻、その他補助艦艇を含めると300隻近くに達しました。乗組員は、漕ぎ手と兵士を合わせて約8万人に及びました。兵士の中には、火縄銃の扱いに長けたスペインのテルシオ(歩兵部隊)の精鋭や、ドイツ人、イタリア人の傭兵が含まれていました。
連合艦隊の特筆すべき戦力は、ヴェネツィアが開発した新兵器である6隻のガレアス船でした。ガレアス船は、従来のガレー船を大幅に大型化し、多数の大砲を搭載した、いわば「浮き砲台」でした。全長はガレー船より長く、幅も広いため、多数の漕ぎ手を収容しつつ、船体の側面にも大砲を配置することができました。1隻のガレアス船は、前方に30門以上、側面に十数門、後方にも数門の砲を備え、その火力はガレー船10隻分にも匹敵すると言われました。動きは鈍重で、曳航されなければ戦闘隊形に加わるのが難しいという欠点がありましたが、その圧倒的な火力は、敵のガレー船の密集隊形を打ち破る切り札として期待されていました。
また、連合艦隊の兵士の武装も、オスマン軍に比べて優位な点がありました。キリスト教側の兵士の多くは、火縄銃(アーキバス)やマスケット銃といった火器で武装していました。特にスペイン兵の用いる火縄銃は、オスマン軍の弓兵に対して、射程と威力で勝っていました。さらに、兵士たちは鉄製の兜や胸当てといった防具を着用しており、敵の矢や剣から身を守る上で有利でした。
しかし、連合艦隊は深刻な内部対立という弱点を抱えていました。異なる国籍と文化を持つ兵士や船乗りたちの間では、絶えずいがみ合いや衝突が発生しました。特に、総司令官ドン=フアンとヴェネツィアの司令官ヴェニエルの間の対立は深刻でした。誇り高い老将ヴェニエルは、若輩のドン=フアンの指揮下に入ることを屈辱と感じ、しばしばその命令に公然と異議を唱えました。ある時、両者の部下の間で起きた乱闘事件をきっかけに、ドン=フアンがヴェニエルの部下を処刑したことで、二人の関係は決定的に悪化しました。この内部不和は、艦隊の結束を脅かし、作戦遂行の大きな障害となる可能性を秘めていました。
オスマン帝国艦隊

神聖同盟の艦隊を迎え撃つオスマン帝国の艦隊もまた、強大な戦力を誇っていました。キプロスを征服した後、オスマン艦隊はギリシャ西部のレパント(現在のナフパクトス)港を拠点としていました。その総司令官(カプダン=パシャ)は、アリ=パシャでした。彼は経験豊富な海軍軍人でしたが、その地位は主にスルタンの縁故によるものであり、前任者であった伝説的な提督バルバロッサ=ハイレッディン=パシャほどの戦略眼やカリスマ性は持ち合わせていませんでした。
オスマン艦隊の戦力は、ガレー船と小型のガリオット船を合わせて約230隻から250隻と、キリスト教連合艦隊を数で上回っていました。乗組員の総数も約8万8千人と推定されています。オスマン艦隊の最大の強みは、その漕ぎ手の質と均質性にありました。キリスト教側のガレー船の漕ぎ手の多くは、罪人や戦争捕虜であり、その忠誠心や士気は低く、戦闘中に反乱を起こす危険さえありました。一方、オスマン艦隊の漕ぎ手の多くは、専門の訓練を受けた自由民であり、彼らは戦闘時には兵士としても戦うことが期待されていました。これにより、オスマン艦隊は兵員の数でキリスト教側を大きく上回っていました。
また、オスマン軍の兵士は、弓の扱いに非常に長けていました。彼らの用いる複合弓は、火縄銃に比べて連射速度が格段に速く、接近戦においては短時間で大量の矢を放ち、敵の甲板を制圧する能力に長けていました。特に、精鋭部隊であるイェニチェリは、弓と剣の両方に熟達した恐るべき戦士でした。
しかし、オスマン艦隊にもいくつかの弱点がありました。第一に、艦船の多くはキプロス遠征で長期間にわたる作戦行動に従事しており、船体の損傷や乗組員の疲労が蓄積していました。また、キプロスでの戦闘で多くの経験豊富な兵士を失っていました。
第二に、彼らの大砲の質と数は、キリスト教側に劣っていました。オスマンのガレー船に搭載されている大砲は、一般的にキリスト教側のものより小型で数が少なく、鋳造技術も劣っていました。彼らは、海戦において大砲による砲撃戦よりも、敵船に乗り込んでの白兵戦を重視する伝統的な戦術に固執していました。
そして最大の弱点は、情報収集の失敗でした。アリ=パシャは、キリスト教連合艦隊がヴェネツィアの新兵器であるガレアス船を伴っていることを全く知りませんでした。彼は、敵の戦力を数的に劣るものと過小評価し、海戦の経験が浅い若きドン=フアンを侮っていました。この油断と情報不足が、後に致命的な結果を招くことになります。
大海戦

戦闘序列と開戦

1571年9月16日、ドン=フアンはメッシーナで軍議を開き、全艦隊に出航を命じました。彼の決断は、キプロスの最後の拠点ファマグスタがすでに陥落したという悲報が届いた後も揺らぎませんでした。彼は、このまま引き返せばキリスト教世界の面目を失い、同盟そのものが崩壊すると考え、オスマン艦隊との決戦を求めて東へと進路を取ったのです。
10月7日の夜明け、キリスト教連合艦隊はパトラス湾の入り口、クルゾラリ諸島付近で、レパント港から出撃してきたオスマン帝国艦隊と遭遇しました。両軍は互いの艦影を水平線上に認め、決戦が避けられないことを悟りました。
ドン=フアンは、艦隊を伝統的な三つの主要分隊と予備分隊に分け、広大な戦線を形成しました。
中央分隊は、ドン=フアン自身が旗艦「レアル」号から直接指揮を執り、スペイン、ヴェネツィア、教皇庁、ジェノヴァ、サヴォイアからの精鋭ガレー船62隻で構成されました。彼の両脇には、ヴェネツィアの司令官ヴェニエルと教皇艦隊の司令官コロンナがそれぞれ旗艦を固めました。
左翼分隊は、ヴェネツィアのアゴスティーノ=バルバリーゴが指揮する53隻のガレー船で編成されました。彼らの任務は、陸に近い沿岸部で敵の右翼と対峙することでした。
右翼分隊は、ジェノヴァの名門貴族アンドレア=ドーリアの甥にあたる、ジョヴァンニ=アンドレア=ドーリアが指揮する53隻のガレー船が担当しました。彼の任務は、広大な外洋側で敵の左翼の包囲機動を警戒することでした。
そして、その後方には、サンタ=クルス侯爵アルバロ=デ=バサンが率いる30隻の予備分隊が控え、戦況に応じていずれの戦線へも増援として駆けつけられる態勢を整えていました。
ドン=フアンの戦術における最も独創的な点は、6隻のガレアス船の配置でした。彼は、この巨大な浮き砲台を、主要な三つの分隊の約1キロメートル前方に、それぞれ2隻ずつ配置しました。その狙いは、敵のガレー船団が突撃してくる際に、その密集した隊列の真ん中にガレアス船が割って入り、その圧倒的な火力で敵の陣形を混乱させ、先鋒の勢いを挫くことにありました。
一方、オスマン艦隊も同様に三つの分隊に分かれていました。
中央は、総司令官アリ=パシャが旗艦「スルタナ」号から自ら指揮を執り、約95隻のガレー船とガリオット船で構成されていました。
右翼は、シロッコ(メフメト=スルク)が指揮する約55隻。彼らはキリスト教艦隊の左翼と対峙しました。
左翼は、オスマン帝国配下のアルジェ総督(ベイラーベイ)であり、当代随一の海将と恐れられていたウルグ=アリが指揮する約65隻。彼はキリスト教艦隊の右翼、ドーリアの分隊と対峙することになりました。
午前10時頃、両艦隊は互いに数キロメートルの距離まで接近しました。ドン=フアンは、十字架を高く掲げ、全将兵に祈りを捧げさせ、士気を鼓舞しました。風は当初オスマン側に有利に吹いていましたが、戦闘が始まる直前にぴたりと止み、やがてキリスト教側に有利な西風に変わりました。これはキリスト教側にとって神の加護のしるしと受け取られました。戦闘の火蓋は、ドン=フアンの旗艦「レアル」号が放った一発の号砲によって切られました。
中央の激闘

戦闘は、オスマン艦隊がキリスト教側の前衛に配置されたガレアス船の射程内に入ったことから始まりました。オスマン側は、この巨大な艦船の正体を知らず、武装した商船か輸送船だろうと高をくくって突進しました。しかし、彼らが射程内に入ると、ガレアス船は搭載された数十門の大砲から猛烈な砲火を浴びせかけました。その破壊力は凄まじく、オスマン側のガレー船は次々とマストを折られ、船体を粉砕され、漕ぎ手や兵士がなぎ倒されていきました。この予期せぬ先制攻撃によって、オスマン艦隊の先鋒は大きな損害を受け、その陣形は突撃の勢いを失い、混乱に陥りました。
この混乱を突き、ドン=フアン率いる中央分隊が前進を開始しました。両軍の中央分隊が激突すると、戦場はたちまち数百隻のガレー船が入り乱れる大混戦となりました。ガレー船同士が衝突し、兵士たちは敵船に乗り移ろうと鉤縄を投げつけ、甲板上では剣、斧、槍が入り乱れる壮絶な白兵戦が繰り広げられました。火縄銃の轟音、大砲の発射音、弓が空を切る音、そして負傷者のうめき声や兵士たちの雄叫びが、硝煙の立ち込める海上に響き渡りました。
この大混戦の焦点となったのが、両軍の総司令官の旗艦同士の一騎打ちでした。ドン=フアンの「レアル」号とアリ=パシャの「スルタナ」号が正面から激突し、両艦の兵士たちは互いの甲板に雪崩れ込みました。特に「スルタナ」号には、弓の名手であるイェニチェリの精鋭が400人も乗り込んでおり、彼らは雨のような矢を放って「レアル」号の甲板を制圧しようとしました。ドン=フアン自身も足を負傷しましたが、怯むことなく兵士たちを鼓舞し続けました。
「レアル」号はたちまち危機に陥りましたが、司令官コロンナやヴェニエルの旗艦が救援に駆けつけ、「スルタナ」号を両側から挟み撃ちにしました。さらに、サンタ=クルス侯爵の予備分隊からも増援が到着し、旗艦周辺の戦闘はキリスト教側が数的優位に立ちました。2時間以上にわたる血みどろの戦いの末、ついにスペインの兵士たちが「スルタナ」号の甲板を制圧しました。総司令官アリ=パシャは戦闘中に負傷し、捕虜となりましたが、あるスペイン兵が彼の首を刎ね、その首を槍の先に掲げました。
オスマン艦隊の総司令官の首が槍先に掲げられ、その旗艦の緑の預言者の旗が降ろされると、オスマン軍の士気は一気に崩壊しました。指揮官を失ったオスマン艦隊の中央分隊は統制を失い、多くの艦が降伏するか、あるいは逃走を図りました。中央での戦いは、キリスト教連合艦隊の決定的な勝利に終わりました。
両翼の戦い

中央で激闘が繰り広げられている間、両翼でもまた、それぞれ異なる様相の戦いが展開していました。
キリスト教艦隊の左翼では、司令官バルバリーゴが、陸に近い沿岸部でオスマン艦隊の右翼を率いるシロッコと対峙していました。経験豊富なシロッコは、キリスト教艦隊の戦列と海岸線との間にわずかな隙間があることを見抜き、数隻のガレー船を率いてその隙間をすり抜け、バルバリーゴの分隊の背後に回り込もうとしました。この巧みな機転によって、キリスト教側の左翼は一時的に包囲される危険に陥りました。
バルバリーゴは、この危機に冷静に対処し、旗艦を反転させて敵の回り込みを防ごうとしました。激しい白兵戦の最中、彼は兜の面頬を上げて指示を出そうとした瞬間、敵の矢が右目に突き刺さりました。この致命傷にもかかわらず、彼は死の直前まで指揮を執り続けました。司令官を失ったヴェネツィア艦隊は混乱しましたが、後任の指揮官がすぐに態勢を立て直し、粘り強く戦いました。やがて中央からの増援も到着し、シロッコ自身も戦死したことで、オスマン艦隊の右翼は完全に崩壊しました。
一方、外洋側の右翼では、全く異なる種類の戦いが繰り広げられていました。ここでは、キリスト教側の司令官ジョヴァンニ=アンドレア=ドーリアと、オスマン側の最も有能な海将ウルグ=アリが、互いの腹を探り合う、さながらチェスのような心理戦を展開していました。
ウルグ=アリは、正面からの衝突を避け、その優れた操船技術を活かして艦隊を大きく南に展開させ、ドーリアの分隊の側面を突いて包囲しようと試みました。老練なドーリアは、この敵の意図を見抜き、自らの分隊も南へと移動させてウルグ=アリの動きに対応しました。しかし、このドーリアの動きによって、キリスト教艦隊の中央分隊と右翼分隊との間に、大きな間隙が生じてしまったのです。
ウルグ=アリは、この絶好の機会を見逃しませんでした。彼は突如として進路を北に変え、全速力でこの間隙に突入しました。彼の狙いは、ドン=フアンの中央分隊の側面を攻撃することでした。ウルグ=アリの奇襲は成功し、彼の率いるガレー船団は、キリスト教艦隊の右翼の南端にいたマルタ騎士団のガレー船数隻に襲いかかりました。騎士団は勇敢に戦いましたが、圧倒的な数の敵の前に次々と撃破され、その旗は奪われました。
この右翼の危機を救ったのが、サンタ=クルス侯爵の予備分隊でした。彼は戦況全体を見渡し、ウルグ=アリの動きを察知すると、ただちに艦隊の一部を率いて救援に駆けつけました。サンタ=クルス侯爵の増援と、中央での戦闘を終えて転進してきたドン=フアンの部隊が迫ってくるのを見ると、さすがのウルグ=アリも勝利の望みがないことを悟りました。彼は、これ以上の戦闘は無益と判断し、鹵獲したマルタ騎士団の旗を掲げたまま、残存する約40隻の艦隊を率いて戦場から巧みに離脱しました。彼は、レパントの戦いでオスマン側で唯一、部隊を保ったまま帰還できた司令官となりました。
午後4時頃、海上の戦闘はほぼ終息しました。海は、破壊された船の残骸、折れたマストやオール、そして数えきれないほどの死体で埋め尽くされていました。レパントの海戦は、キリスト教連合艦隊の圧倒的な勝利に終わったのです。
戦いの後

勝利の代償と影響

レパントの海戦におけるキリスト教連合艦隊の勝利は、まさに圧倒的なものでした。オスマン帝国艦隊は、戦闘に参加した艦船のうち、約130隻が拿捕され、約50隻が沈没または破壊されました。ウルグ=アリが率いて脱出した約40隻を除き、ほぼ全ての艦船を失ったことになります。人的被害も甚大で、オスマン側では兵士、水夫、漕ぎ手を含めて約3万人が死亡し、約5千人が捕虜となりました。
一方、キリスト教側の損害は、ガレー船15隻の喪失と、約8千人の死者、そして約1万5千人の負傷者でした。司令官バルバリーゴを含む多くの貴族や将校が命を落としましたが、オスマン側の壊滅的な被害に比べれば、その損害は軽微でした。この勝利によって、キリスト教側は120隻以上のガレー船を鹵獲し、オスマンのガレー船で奴隷として働かされていた約1万2千人のキリスト教徒の漕ぎ手を解放するという大きな成果も得ました。この中には、後に小説『ドン=キホーテ』を著すことになる若き日のミゲル=デ=セルバンテスも含まれていました。彼はこの戦いで胸と左手に重傷を負い、左手の自由を失いましたが、後年、レパントの海戦に参加したことを生涯の誇りとして語っています。
勝利の知らせは、ヨーロッパのキリスト教世界を熱狂の渦に巻き込みました。ローマでは、教皇ピウス5世が勝利を神に感謝するミサを執り行い、この勝利を記念して10月7日を「勝利の聖母」の祝日と定めました。ヴェネツィアやマドリードでも、壮大な祝祭や感謝の行列が何日にもわたって催されました。この勝利は、長年にわたって無敵と恐れられてきたオスマン帝国に対する画期的な勝利であり、宗教改革によって分裂し自信を失いかけていたカトリック世界に、大きな精神的な高揚と一体感をもたらしました。それは、神がカトリックの側に味方していることの何よりの証拠と受け止められたのです。ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットといったルネサンスの巨匠たちは、この歴史的な勝利を主題とする壮大な絵画を数多く制作し、その栄光を後世に伝えました。
しかし、この輝かしい勝利がもたらした戦略的な成果は、期待されたほど大きなものではありませんでした。勝利の直後、連合艦隊の内部では、今後の作戦方針をめぐって再び対立が表面化しました。ドン=フアンは、この勢いに乗ってギリシャの要塞を攻略し、さらにはコンスタンティノープルを目指すべきだと主張しましたが、季節が冬に向かっていることや、艦隊の損害と疲労を理由に、他の司令官たちはこれに反対しました。結局、連合艦隊は決定的な追撃を行うことなく、それぞれの港に引き上げていきました。
一方、オスマン帝国は、この壊滅的な敗北から驚異的な回復力を見せました。大宰相ソコルル=メフメト=パシャは、ヴェネツィアの大使に対して、「我々がキプロスを奪ったことは、お前たちの腕を切り落としたようなものだ。お前たちが我々の艦隊を破ったのは、我々の髭を剃ったに過ぎない。切り落とされた腕は二度と生えてこないが、剃られた髭は前よりも濃く生えてくるものだ」と豪語したと伝えられています。彼の言葉通り、オスマン帝国は国力を総動員し、わずか半年余りで失われた艦隊とほぼ同数の新しいガレー船を建造してしまいました。1573年、オスマン帝国は再び大艦隊を地中海に派遣し、キリスト教側を威嚇しました。
結局、神聖同盟の足並みは乱れ、ヴェネツィアは単独でオスマン帝国と和平交渉を開始します。1573年3月、ヴェネツィアは屈辱的な講和条約に調印し、キプロス島の領有権を正式に放棄した上、多額の賠償金を支払うことに同意しました。神聖同盟は事実上崩壊し、レパントの海戦の勝利によって得られた領土的な成果は、ほとんど何も残らなかったのです。
歴史的意義と遺産

レパントの海戦は、短期的な戦略的成果に乏しかったにもかかわらず、長期的に見て地中海の勢力均衡と海軍史に大きな影響を与えました。
第一に、この戦いはオスマン帝国の西地中海への膨張を決定的に食い止めました。オスマン帝国は艦隊を物理的に再建することはできましたが、この戦いで失われた経験豊富な船乗り、弓兵、そして海軍将校たちの人的資源を完全に回復させることはできませんでした。レパントの敗北は、オスマン海軍の不敗神話を打ち砕き、その後の彼らの大規模な海上作戦に対する自信を失わせました。これ以降、オスマン帝国の関心は、地中海からペルシャとの陸上での戦争や、国内の政治問題へと移っていきます。同様に、スペインのフェリペ2世も、ネーデルラントの反乱やイングランドとの対立といった大西洋側の問題に直面し、地中海での全面戦争を継続する余力を失っていきました。その結果、1580年頃までには、スペインとオスマン帝国の間で非公式な休戦状態が成立し、地中海は二つの勢力圏に分割され、相対的な安定期を迎えることになります。
第二に、レパントの海戦は、海軍戦術の歴史における一つの転換点を示唆しています。この戦いは、ガレー船が主役となった最後の大規模な海戦でした。戦闘の勝敗を分けた要因の一つが、ガレアス船に搭載された大砲の火力であったことは、海戦における砲撃の重要性が増していることを示していました。ガレー船は、その構造上、船首にしか大型の砲を搭載できず、火力は限定的でした。一方、大西洋で発展していた帆船は、船体の側面に多数の大砲を並べた「舷側砲列」によって、はるかに大きな火力を発揮することができました。レパントの海戦からわずか17年後の1588年、スペインの無敵艦隊が、より機動的で砲撃力に優れたイングランドの帆船艦隊に敗れたことは、海軍の主役が地中海のガレー船から大西洋の帆船へと移り変わっていく時代の流れを象徴しています。レパントの海戦は、ガレー船時代の栄光の頂点であると同時に、その黄昏を告げる戦いでもあったのです。
最後に、この戦いは文化的な遺産として、ヨーロッパ人の集合的記憶の中に深く刻み込まれました。それは、キリスト教文明がイスラムの脅威に打ち勝った象徴的な瞬間として、何世紀にもわたって語り継がれ、芸術や文学のインスピレーションの源泉となりました。それは、分裂しがちなヨーロッパが、共通の危機に直面した時にいかにして団結し、偉大な力を発揮しうるかを示す物語でもありました。レパントの海戦は、その軍事的な結果以上に、ヨーロッパの自己認識とアイデンティティの形成に大きな影響を与えた、歴史的な出来事だったのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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