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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

ホラント州とは わかりやすい世界史用語2629

著者名: ピアソラ
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ホラント州とは

ライン川、マース川、スヘルデ川が北海に注ぐデルタ地帯に位置するこの低地は、その名の通り、常に水との闘いの最前線にありました。中世には神聖ローマ帝国の辺境の一伯領に過ぎなかったホラントは、やがてニシン漁と海上貿易によってその富を築き、ヨーロッパで最も都市化された先進的な地域の一つへと変貌を遂げます。そして、16世紀に始まる八十年戦争において、ホラントはスペインの圧政に対する抵抗の揺るぎない砦となり、新たに誕生するネーデルラント連邦共和国の政治的、経済的、そして文化的な心臓部として、その運命を牽引することになります。アムステルダム、ライデン、デルフト、ハーグといった都市の名は、ホラントが主導した「黄金時代」の輝きそのものであり、その影響は遠くアジアや新大陸にまで及びました。



起源

ホラントという名の地域が歴史の舞台に登場するまでには、ローマ帝国の崩壊からフランク王国の分裂に至る、長い年月の混沌がありました。この低湿な土地は、自然の力と人々の営みが交錯する中で、徐々にその輪郭を現していきます。
ローマ時代と民族移動

ローマ帝国がその勢力を北方に伸ばした時代、現在のホラントにあたる地域は、ライン川を国境とするローマの属州ゲルマニア=インフェリオルの北端に位置していました。この湿地帯には、カニネファテス族などのゲルマン系の部族が住み、ローマと同盟を結びながら、その兵力の一翼を担っていました。ローマ人は、この地に砦や道路を築き、ライン川の水運を利用しましたが、広大な泥炭地や頻繁な洪水のため、大規模な植民は行われませんでした。
ローマ帝国の力が衰え、ライン川の国境線が維持できなくなると、この地域は民族移動の波に洗われます。北方からフリジア人が南下し、東方からはフランク人が勢力を拡大しました。特にフリジア人は、北海沿岸の交易路を支配する海洋民族として頭角を現し、ホラントを含む沿岸地帯は、中世初期を通じて「フリジア」という広い地域名で呼ばれることが多くなりました。
フランク王国とヴァイキング

フランク王国が台頭し、カール大帝の下で西ヨーロッパの大部分を統一すると、この地域もその版図に組み込まれました。キリスト教の布教も進み、ウィリブロードのようなアングロ=サクソン系の宣教師がユトレヒトを拠点に活動し、教会や修道院が知識と権威の中心として設立されていきました。
しかし、カール大帝の死後、フランク王国が分裂すると、この地は再び不安定な時代を迎えます。特に、8世紀末から始まったヴァイキングの襲来は、沿岸部に壊滅的な打撃を与えました。彼らは川を遡って内陸の都市や修道院を襲撃し、豊かな交易の中心地であったドレスタットなどを破壊しました。フランク王国の王たちは、この神出鬼没の脅威に有効な手を打てず、沿岸防衛の責任は、現地の有力者に委ねられるようになります。
ホラント伯の誕生

このような混沌の中から、やがてホラント伯となる家系が登場します。その祖とされるのが、9世紀後半から10世紀初頭にかけて活動した、フリジア人の伯ディルク1世です。彼は、西フランク王国のシャルル単純王から、エグモント周辺の土地と教会を与えられました。このエグモントに、彼は修道院を建立し、自らの権力の精神的な支柱とします。このエグモント修道院は、その後何世紀にもわたり、ホラント伯家の墓所となり、その歴史を記録する重要な役割を担うことになります。
ディルク1世とその子孫たちは、当初は「西フリジアの伯」を名乗り、神聖ローマ皇帝や、この地域の司教であるユトレヒト司教の封臣として、限られた権力を持つに過ぎませんでした。彼らの領地は、ライン川の河口域を中心とする狭い範囲に限られていました。しかし、彼らは巧みな政治手腕と軍事行動によって、徐々にその勢力を南へと拡大していきます。11世紀半ばのディルク4世の時代には、マース川流域にまで影響力を及ぼし、皇帝や近隣の諸侯との間で激しい戦いを繰り広げました。
「ホラント」という名称が、この伯爵領を指す言葉として初めて文献に登場するのは、1101年のことです。これは、伯爵領の中心部にある「ホルト=ラント」(森の土地)と呼ばれる地域に由来すると考えられています。この頃には、ディルク1世の子孫たちは、フリジアの一領主から、明確な領域を持つ「ホラント伯」として、その地位を確立していたのです。
発展

12世紀から14世紀にかけて、ホラントは目覚ましい発展を遂げます。それは、絶え間ない水との闘い、都市の勃興、そして巧みな婚姻政策による領土拡大の物語でした。
水との闘いと干拓

ホラントの歴史は、水との闘争の歴史そのものでした。この低地の大部分は、海面よりも低い土地であり、常に高潮や川の洪水、そして内陸の湖の拡大という脅威に晒されていました。中世初期の温暖化と海面上昇は、この状況をさらに悪化させ、広大な土地が泥炭湿地や湖に変わっていきました。
この過酷な環境を克服するため、ホラントの人々は、11世紀頃から組織的な水利管理と干拓事業を開始します。彼らは、集落の周りに堤防を築き、土地を排水するための水路を掘りました。この事業は、個々の農民の力を超えるものであったため、村や地域の共同体レベルでの協力が不可欠でした。こうして、排水を管理するための「水利組合」が各地に組織されます。これらの組合は、独自の規則を持ち、組合員から費用を徴収し、堤防や水門の維持管理を行う、高度な自治組織でした。この水利組合の伝統は、後のネーデルラント社会における合議制と共同体主義の精神の源流の一つとなります。
13世紀になると、技術革新が干拓をさらに加速させます。風車の導入は、画期的な出来事でした。当初は穀物の製粉に使われていた風車が、排水ポンプとして応用されるようになったのです。風の力で水を汲み上げ、堤防の外に排出することで、それまで不可能だった、より低い土地の干拓が可能になりました。この技術によって、ホラントは内陸の湖や沼地を次々と耕作地に変え、その領域を内側から拡大していきました。この絶え間ない土地創出の努力が、限られた土地に多くの人口を養うことを可能にし、後の経済的繁栄の物理的な土台を築いたのです。
都市の勃興と特権

干拓によって生まれた新しい土地は、伝統的な封建的な荘園制度にはなじみませんでした。ホラント伯は、これらの新しい土地に入植者を募るため、彼らに個人的な自由と有利な条件を与えました。これにより、ホラントの農村社会は、他のヨーロッパ地域に比べて、自由な農民の割合が非常に高いという特徴を持つようになります。
農業生産性の向上と人口の増加は、商業と手工業の発展を促し、各地に都市が生まれる素地となりました。ホラント伯は、自らの権力基盤を強化し、税収を確保するため、これらの都市に「都市権」を与えました。都市権を与えられた都市は、独自の城壁を築き、独自の法廷と行政機関を持ち、市場を開く権利を得ました。
1248年に都市権を得たデルフト、13世紀後半に急速に発展したライデン、そして伯爵の居城が置かれたハーグ周辺に形成された政治の中心地。これらの都市は、それぞれが特徴ある産業を発展させました。ライデンは毛織物工業の中心地として、デルフトは醸造業と陶器で、ドルトレヒトはライン川水運の結節点として、その富を築きました。
これらの都市は、ホラント伯に対して税金や軍役を負担する見返りに、広範な自治権を享受しました。都市の代表は、貴族と共に「ホラント州議会」を構成し、伯爵の政策決定、特に課税に対して、重要な発言権を持つようになります。この強力な都市の存在と、その自治の伝統が、ホラントの政治的性格を決定づけることになります。
領土の拡大

ホラント伯たちは、内部の発展と並行して、巧みな婚姻政策と戦争によって、その領土を拡大していきました。
13世紀末、ホラント伯ヤン1世が若くして亡くなり、ホラント伯家が断絶の危機に瀕します。この時、伯位を継承したのが、彼の又従兄弟にあたるエノー伯ジャン2世でした。これにより、ホラントと、南のフランス語圏の伯領であるエノーは、同君連合を結成することになります。この連合は、ホラントに南への政治的・経済的な足がかりを与えました。
さらに14世紀前半、ホラント=エノー伯ウィレム3世の娘マルガレーテが、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結婚したことで、ホラントは帝国の中枢と直接結びつきます。彼らの息子であるウィレム5世は、ホラント、エノーに加えて、北のゼーラントの支配権をも確立し、その領土は最大に達しました。
しかし、この領土拡大は、内部の対立も生み出しました。14世紀半ば、ウィレム5世とその母マルガレーテとの間で後継者争いが勃発し、ホラントの貴族と都市は二つの派閥に分かれて、数十年にわたる内戦を繰り広げました。これは「タラ戦争とコッド戦争」として知られ、保守的な貴族を中心とする「コッド派」と、より進歩的な都市の商人層が支持する「タラ派」との間の、根深い社会経済的な対立を反映したものでした。この長い内戦は、ホラントの社会を疲弊させましたが、結果的に、伯爵の権威を相対的に低下させ、都市の発言権をさらに強めることにつながりました。
ブルゴーニュとハプスブルクの時代

15世紀に入ると、ホラントは独立した伯領としての時代を終え、より大きな政治的枠組みの中に組み込まれていきます。ブルゴーニュ公、そしてハプスブルク家の支配は、ホラントに中央集権化の圧力をもたらすと同時に、ネーデルラントという、より広い経済圏・文化圏への統合を促しました。
ブルゴーニュ公の支配

タラ戦争とコッド戦争の混乱の末、ホラント伯領の最後の独立君主となったのが、ヤコバ=ファン=ベイエレンでした。彼女の波乱に満ちた生涯は、ホラントの独立の終焉を象徴しています。叔父やいとこ、そして夫たちとの間で権力闘争を繰り広げた末、彼女は1428年、当時ネーデルラントで急速に勢力を拡大していたブルゴーニュ公フィリップ善良公に、自らを後継者とすることを認めざるを得なくなりました。1433年に彼女が全ての権利をフィリップに譲渡したことで、ホラントはブルゴーニュ公国の広大な領土の一部となりました。
フィリップ善良公とその息子シャルル突進公は、フランドル、ブラバント、そしてホラントといった、ネーデルラントの諸州を一つの国家として統合しようとしました。彼らは、中央集権的な行政機関や司法機関(メヘレンの大評議会など)を設立し、共通の通貨を導入し、そして全ネーデルラントの代表からなる「全国議会」を招集しました。
この中央集権化政策は、ホラントの都市が享受してきた伝統的な自治権と、しばしば衝突しました。ブルゴーニュ公は、都市の財政に介入し、自らの息のかかった人物を要職に任命しようとしました。これに対し、都市は激しく抵抗し、時には反乱を起こすこともありました。しかし、全体として見れば、ブルゴーニュ時代はホラントにとって経済的な繁栄の時代でした。ネーデルラントという統一された市場へのアクセスは、ホラントの貿易と産業に新たな機会をもたらしました。特に、バルト海沿岸地域との穀物貿易(母なる貿易)は、ホラントの船乗りたちが独占するようになり、アムステルダムなどの都市が、その中継地として急速に成長する基盤を築きました。
ハプスブルク家の統治

1477年、シャルル突進公がナンシーの戦いで戦死すると、ブルゴーニュ公国の男系は断絶します。彼の娘であるマリー女公は、フランス王の侵攻から領土を守るため、ハプスブルク家のマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝)と結婚しました。これにより、ネーデルラント全土は、ホラントも含めて、ハプスブルク家の広大な世襲領地に組み込まれることになります。
ハプスブルク家の支配は、ホラントの政治的な地位をさらに相対化させました。統治の中心はブリュッセルに置かれ、ホラントは、帝国の辺境の一州という位置づけになりました。しかし、経済的な重要性は、むしろ増大していきます。16世紀前半、カール5世の治世下で、アントワープが世界の金融・貿易の中心地として繁栄する中、ホラントは、その広大な後背地として、食料(穀物とニシン)と輸送手段(船舶)を供給する、不可欠な役割を担いました。アムステルダムは、バルト海貿易の拠点として、アントワープに次ぐネーデルラント第二の都市へと成長を遂げます。
しかし、このハプスブルクの統治は、同時に、後の大爆発につながる火種をいくつも抱えていました。カール5世と、その後継者であるフェリペ2世は、ネーデルラントにおける中央集権化をさらに推し進め、都市の特権を制限しようとしました。そして何よりも、彼らは、領内で急速に広まっていたプロテスタントの宗教改革運動を、国家への反逆と見なし、厳しい異端審問と弾圧をもって臨みました。この宗教弾圧は、個人の良心の自由を重んじる気風が強かったホラントの都市部で、特に強い反発を招きました。政治的自由の侵害、重税、そして宗教的迫害。これらの要因が重なり合った時、ホラントは、ハプスブルクの支配に対する反乱の、まさに震源地となるのです。
反乱の砦

1568年に始まる八十年戦争において、ホラントは、スペイン=ハプスブルク帝国に対する抵抗運動の、揺るぎない中核となりました。その地理的条件と、都市の経済力、そして住民の不屈の精神が、この州を独立への道を切り開く原動力に変えたのです。
反乱の勃発とホラントの役割

1566年の聖像破壊運動と、それに対するアルバ公の恐怖政治は、ネーデルラント全土を戦争の渦に巻き込みました。当初、ホラントも他の州と同様、アルバ公の圧倒的な軍事力の前に沈黙を強いられました。
しかし、1572年4月1日、状況は劇的に変わります。オラニエ公ウィレムの私掠船団「海の乞食党」が、偶然にもホラント南部の港町ブリールを占拠したのです。この小さな成功は、燎原の火のようにホラント全土に燃え広がりました。ドルトレヒト、ライデン、ハールレム、ゴーダといった主要都市が、次々とスペインの守備隊を追放し、反乱に加わりました。
同年7月、これらの都市の代表は、ドルトレヒトに集まり、王の許可なく自主的にホラント州議会を開催します。彼らは、亡命中のオラニエ公ウィレムを唯一の正統な総督として承認し、戦争遂行のための資金と権限を彼に委ねることを決議しました。これは、ホラントが、単なる反乱地域ではなく、独自の政府を持つ政治的実体として、スペインからの事実上の独立を宣言した瞬間でした。
なぜホラントは、これほど迅速に反乱の中核となり得たのでしょうか。その理由の一つは、その地理的条件にあります。多くの湖、川、そして運河に囲まれたホラントは、水を使った防御に非常に適していました。反乱軍は、堤防を決壊させて土地を水浸しにすることで、スペインの陸軍の進軍を阻止し、包囲された都市を解放することができたのです(アルクマールやライデンの解放がその典型例です)。
包囲戦と英雄的抵抗

スペイン軍は、反乱の拠点であるホラントを鎮圧するため、総力を挙げて攻撃を仕掛けました。戦争の初期段階は、ホラントの諸都市をめぐる、血なまぐさい包囲戦の連続でした。
1572年末から7ヶ月にわたって続いたハールレムの包囲戦は、その悲劇性を象徴しています。市民は、ケナウ=ハッセラールという伝説的な女性に率いられ、英雄的な抵抗を見せましたが、飢餓の末に降伏。降伏後、スペイン軍は守備隊のほとんどを処刑しました。
しかし、この恐怖は、ホラントの人々の心をくじくことはありませんでした。むしろ、「最後まで戦うしかない」という決意を固めさせました。1574年のライデン包囲戦では、市民は極度の飢餓に耐え抜き、ウィレムが決壊させた堤防から侵入してきた「海の乞食党」の艦隊によって、劇的な解放を勝ち取りました。この勝利を記念して、ウィレムはライデン大学を設立し、それはやがてヨーロッパ有数の学問の中心地となります。
これらの包囲戦を通じて、ホラントは反乱の砦としての地位を不動のものにしました。南部の州が次々とスペインに再征服されていく中で、ホラントと、それに隣接するゼーラントだけが、抵抗の拠点を守り抜いたのです。
共和国の心臓部

1581年にネーデルラント北部7州がフェリペ2世の統治権を否認し、ネーデルラント連邦共和国が事実上誕生すると、ホラントは、その新しい国家の、議論の余地のない中心となりました。その圧倒的な経済力と政治的影響力は、共和国の性格そのものを規定しました。
政治的支配

ネーデルラント連邦共和国は、その名の通り、主権を持つ7つの州の連合体でした。理論上は、各州は平等であり、国家の最重要事項は、全州の代表からなる全国議会において、全会一致で決定されることになっていました。
しかし、現実には、ホラント州が他の6州を圧倒していました。ホラントは、共和国の総税収の半分以上(時には60%近く)を一人で負担していました。この莫大な財政貢献は、ホラントに絶大な発言力を与えました。「金を持つ者が口を出す」という現実は、共和国の政治力学の基本でした。全国議会における議論は、しばしば、ホラント州議会が事前に決定した方針を、他の州に受け入れさせるための手続きと化しました。
ホラントの政治的影響力を象徴する役職が、「法律顧問」でした。当初はホラント州議会の法律アドバイザーに過ぎなかったこの役職は、ヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトのような有能な政治家の下で、共和国の事実上の宰相へと変貌しました。彼は、ホラント州の代表として全国議会を主導し、共和国の外交、財政、そして戦争遂行の全般にわたって、その方針を決定しました。
このホラントによる支配は、当然ながら、他の州、特に内陸の諸州からの反発や嫉妬を招きました。共和国の歴史は、ホラントの優越を維持しようとする力と、それに対抗して各州の自治権を守ろうとする「パルティクラリスム」との間の、絶え間ない緊張関係によって特徴づけられます。
経済的覇権と「黄金時代」

ホラントの政治的支配を支えたのは、その圧倒的な経済力でした。17世紀、ヨーロッパの大部分が戦争と不況に苦しむ中、ホラントは空前の経済的繁栄を謳歌し、「黄金時代」を迎えました。
その基盤となったのが、海上貿易です。1585年のアントワープ陥落後、南ネーデルラントの多くの有能な商人、職人、そして知識人が、宗教の自由と経済的な機会を求めて、ホラントの諸都市、特にアムステルダムに移住してきました。彼らがもたらした資本、技術、そして国際的なネットワークは、アムステルダムを、アントワープに代わる世界の貿易・金融の中心地へと押し上げました。
アムステルダムの商人たちは、バルト海の穀物貿易、地中海の香辛料貿易、そしてアジアや新大陸との遠距離貿易を支配しました。1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)と、1621年の西インド会社(WIC)は、ホラントの商人たちが中心となって運営され、国家から与えられた独占権と軍事力を行使して、世界中に貿易帝国を築き上げました。
この貿易によってもたらされた富は、ホラントの社会全体に浸透しました。造船、繊維、醸造、製糖といった加工産業が栄え、アムステルダムには、世界初の為替銀行(1609年)や証券取引所が設立され、近代的な金融システムが発展しました。農業もまた、都市の需要に応えるため、酪農や園芸といった、より収益性の高い分野に特化していきました。
文化の開花

経済的な繁栄は、文化の爆発的な開花をもたらしました。17世紀のホラントは、レンブラント、フェルメール、フランス=ハルスといった、西洋美術史を代表する巨匠たちを輩出しました。彼らの作品は、伝統的な宗教画や神話画だけでなく、裕福な市民の肖像画、日常生活の情景を描いた風俗画、そしてホラントの風景そのものを主題とした風景画など、新しいジャンルを開拓しました。これは、芸術のパトロンが、教会や王侯貴族から、勃興しつつある市民階級へと移行したことを反映しています。
学問の世界でも、ホラントはヨーロッパの知的中心地となりました。ライデン大学は、その自由な学風と優れた教授陣によって、ヨーロッパ中から学生や学者を引きつけました。出版業も盛んであり、他国では発禁となるような書物も、ホラントでは比較的自由に出版することができました。デカルト、スピノザ、ロックといった近代哲学の巨人たちが、ホラントに居住し、その思想を深め、発表することができたのは、この知的な寛容さのおかげでした。
この「黄金時代」の文化は、その主題においても、精神性においても、まさにホラントの市民社会そのものの反映でした。それは、現実主義的で、実利的であり、そして何よりも、自らの力で運命を切り開いた市民階級の自信と誇りに満ちていたのです。

ホラントの物語は、ネーデルラントという国家の形成史そのものを凝縮したものです。水と闘い、土地を創造した中世の干拓事業から、都市の自由と自治を育んだブルゴーニュ時代、そしてスペインの圧政に抵抗し、独立戦争の砦となった激動の時代を経て、ホラントは、自らが主導して創り上げた共和国の、議論の余地のない心臓部となりました。その政治的支配力、経済的覇権、そして文化的な輝きは、17世紀の「黄金時代」を定義づけ、その影響は全世界に及びました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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