ナントの王令とは
1598年にフランス国王アンリ4世によって署名されたナントの王令(勅令)は、何もないところから突然生まれたものではありません。それは、約四十年にわたってフランス王国を血で染め、引き裂いてきた宗教内戦という、長く、そして痛ましい歴史の到達点でした。この勅令がなぜ必要とされ、どのような意味を持っていたのかを理解するためには、まずその前史であるユグノー戦争の泥沼を覗いてみる必要があります。
16世紀半ば、宗教改革の波はフランスにも押し寄せ、ジャン=カルヴァンの教えに共鳴する人々、すなわちユグノーと呼ばれるプロテスタントが、国内で急速にその数を増やしていました。彼らは、貴族階級から職人、知識人に至るまで、社会の様々な階層に浸透し、カトリック教会が絶対的な権威を誇っていた王国に、新たな亀裂を生み出しました。
ヴァロワ王家は、当初、この新たな信仰に対して弾圧をもって臨みましたが、ユグノーの勢いは止まりませんでした。特に、ブルボン家やコンデ家といった有力な大貴族がユグノーの側に付いたことで、宗教的な対立は、王国の覇権をめぐる政治的な権力闘争へとその姿を変えていきます。1562年、ヴァッシーでの虐殺事件をきっかけに、ついに両派は武力衝突に至り、その後、断続的に8度にもわたる内戦、すなわちユグノー戦争が繰り返されることになったのです。
この戦争は、フランス社会に深刻な傷跡を残しました。戦闘や虐殺によっておびただしい人命が失われ、国土は荒廃し、経済は疲弊しました。しかし、それ以上に深刻だったのは、社会の絆そのものが破壊されたことでした。隣人が隣人を「異端者」として憎み、密告し、殺害する。家族の中でさえ、信仰の違いが血縁の情を断ち切る。そのような不信と憎悪が、国中に蔓延していました。
この混乱の中で、幾度となく和平の試みがなされ、寛容令が出されては破られる、という歴史が繰り返されました。1572年のサン=バルテルミの虐殺は、その中でも最悪の悲劇でした。カトリックの王女とユグノーの指導者の結婚という、和解の象徴となるはずだった祝祭が、数千人ものユグノーが殺される大虐殺へと転じたこの事件は、両派の間の溝を決定的に深いものにしました。ユグノーたちは、もはやヴァロワ王家を信頼できる調停者とは見なさなくなり、王権そのものに抵抗する権利を主張するようになります。彼らは南フランスに独自の政治・軍事組織を築き上げ、さながら国家内国家の様相を呈していきました。
この泥沼の戦いに、一つの転機が訪れます。ヴァロワ王家の男子が次々と亡くなり、1589年、ついに国王アンリ3世がカトリックの狂信的な修道士によって暗殺され、ヴァロワ朝が断絶したのです。サリカ法に基づくフランスの王位継承法によれば、次に王位を継ぐべき最も血筋の近い男子は、ブルボン家の当主であり、ユグノーの指導者であったナバラ王アンリでした。
しかし、プロテスタントの王が、国民の大多数をカトリックが占める「教会の長姉」がフランスの王位に就くことは、カトリック勢力にとって到底受け入れられることではありませんでした。ギーズ公に率いられたカトリック同盟は、スペインの支援を受け、アンリ4世の即位を断固として拒否します。こうして、アンリ4世は、自らの王国を、力ずくで征服するという、長く困難な戦いを始めなければなりませんでした。
彼は、アルクやイヴリーの戦いで軍事的な才能を発揮し、勝利を収めますが、カトリック同盟の牙城である首都パリを陥落させることはできませんでした。この経験から、彼は、軍事力だけではフランスを真に統一することはできないと痛感します。国を一つにし、平和を取り戻すためには、国民の大多数の心をつかむ必要がある。そのための唯一の道は、彼自身がカトリックに改宗することでした。
1593年、アンリ4世は「パリはミサを執り行う価値がある」という有名な言葉を残し、カトリックへの改宗を宣言します。この政治的な決断は、カトリック同盟の抵抗の根拠を奪い、戦局を劇的に転換させました。諸都市は次々と彼に帰順し、翌1594年、彼はついにパリへと無血入城を果たします。
しかし、これで全てが解決したわけではありませんでした。王の改宗は、長年にわたって彼を支え、共に戦ってきたユグノーの仲間たちに、深い動揺と不信感をもたらしました。彼らは、王がカトリック勢力に迎合し、自分たちの信仰と権利がないがしろにされるのではないかと恐れたのです。彼らは、もはや王個人の善意や口約束ではなく、法的に保証された、恒久的な権利を強く要求しました。
アンリ4世は、王国の平和のためには、カトリック教徒とユグノーという、二つの異なる信仰を持つ人々が、一つの国家の中で共存できる新たな秩序を築くことが不可欠であると理解していました。ナントの王令は、このような、血塗られた過去と、複雑に絡み合った政治的現実の中から、必然として生まれてきたのです。
勅令の構造
1598年4月にアンリ4世によって署名されたナントの王令は、単一の宣言文ではありません。それは、92条(または93条、95条とする数え方もある)から成る公の条文と、それに付随する56条の秘密条項、さらに二つの国王特許状から構成される、極めて複雑で詳細な法的文書群でした。この構造自体が、当時のフランスが直面していた問題の困難さと、それを解決するためにアンリ4世が払った細心の注意を物語っています。
公の条文
勅令の本体である公の条文は、「永久かつ取消不能な勅令」として発布されました。これは、この勅令が一時的な和平協定ではなく、フランス王国の恒久的な基本法となることを意図していたことを示しています。その内容は、大きく四つの柱に分けることができます。
第一に、過去の清算と記憶の統制です。勅令は、1585年以降の内戦中に起こった全ての敵対行為や犯罪行為について、全面的な恩赦を与えることを宣言しました。そして、両派の全ての臣民に対し、過去の出来事に関する記憶を消し去り、互いに攻撃したり、侮辱したりすることなく、平和に暮らすことを命じました。これは、憎しみの連鎖を断ち切り、国民的和解への第一歩を踏み出すための、極めて重要な条項でした。
第二に、カトリック教会の地位の回復です。勅令は、カトリック=使徒=ローマ教会がフランスの国教であることを明確に認め、ユグノーによって占拠されていた教会やその財産を全て返還し、国内のいかなる場所においてもカトリックの礼拝が妨げられることなく行われることを保証しました。また、十分の一税の支払いも再び義務付けられました。これは、国民の大多数であるカトリック教徒を安心させ、高等法院などのカトリック勢力の抵抗を和らげるための、不可欠な措置でした。
第三に、ユグノーの「良心の自由」と限定的な「礼拝の自由」の保障です。勅令は、ユグノーに対し、フランス王国のいかなる場所においても、彼らの信仰を理由に尋問されたり、迫害されたりすることのない、「良心の自由」を全面的に認めました。これは、個人の内面における信仰の自由を保障した、画期的な内容でした。しかし、その信仰を外部に表明する「礼拝の自由」については、厳しい制限が課せられました。公的な礼拝は、1597年8月までに実際に礼拝が行われていた都市や町、そして特定のユグノー貴族の城(高等司法権を持つ貴族の主要な邸宅)などに限定されました。特に、パリとその周辺、および国王の宮廷が置かれる場所では、ユグノーの礼拝は固く禁じられました。これは、カトリック勢力への配慮から、ユグノーの存在が過度に目立つことを避けるための、政治的な妥協の産物でした。
第四に、ユグノーの市民的・法的権利の保障です。勅令は、ユグノーが、カトリック教徒と完全に平等な市民的権利を持つことを保証しました。彼らは、信仰を理由に公職から排除されることはなく、大学への入学や、病院や慈善施設での待遇においても、差別されないことが定められました。また、ユグノーが関わる訴訟を公平に審理するため、パリ、ボルドー、グルノーブル、カストルなどの高等法院に、カトリックとユグノー双方の裁判官から成る特別法廷を設置することも規定されました。
秘密条項と国王特許状
公の条文に加えられた秘密条項と国王特許状は、公にはしにくい、よりデリケートな問題、特にユグノーの軍事的・政治的な安全保障に関する規定を含んでいました。
秘密条項は、公の条文と同様に高等法院に登録され、法的な効力を持つものでしたが、その内容は公表されませんでした。これには、礼拝が許可される場所のリストや、ユグノーの学校設立の許可など、より詳細な規定が含まれていました。
一方、国王特許状は、高等法院への登録を必要としない、国王個人の約束として出された文書でした。これは、将来の国王によって容易に覆される可能性のある、より脆弱な保証でした。この特許状によって、二つの極めて重要な保証がユグノーに与えられました。一つは、ユグノーの牧師の給与として、国王が年間4万5000エキュを支払うこと。そしてもう一つが、おそらく最も重要な点ですが、ユグノーが彼らの安全を守るための「安全保障都市」を、8年間の期限付きで保持することを認めたことでした。ラ=ロシェル、ソミュール、モントーバン、モンペリエなど、約150の都市や城塞がこれにあたり、ユグノーは国王の費用で独自の守備隊を駐留させることができました。これは、ユグノーに国家内国家としての地位を認めるに等しい、強力な軍事的保証でした。
このように、ナントの王令は、公の条文、秘密条項、国王特許状という、異なる法的効力を持つ文書を組み合わせることで、カトリック側の面子を保ちつつ、ユグノーに実質的な権利と安全を保障するという、極めて巧妙で現実的な構造を持っていたのです。
寛容の限界
ナントの王令は、しばしば近代的な「信教の自由」の先駆けとして称賛されます。確かに、宗教的統一が国家の絶対的な原則とされていた16世紀末のヨーロッパにおいて、一つの国家が法の下で二つの異なる信仰の共存を認めたという点で、この勅令が画期的であったことは間違いありません。しかし、その内容を詳しく見ていくと、それが現代的な意味での寛容や平等とは程遠く、多くの限界と矛盾をはらんだ、あくまで政治的な妥協の産物であったことが分かります。
まず、勅令の根底にあるのは、平等ではなく、明確な階層構造でした。勅令は、カトリックをフランスの国教として再確認し、その優位性を揺るぎないものとしています。カトリックの礼拝は全国どこでも保証されましたが、ユグノーの礼拝は、特定の場所、特定の条件下でのみ許される、例外的なものでした。パリのような主要都市で礼拝が禁じられたことは、ユグノーが二級市民であることを象徴していました。勅令が目指したのは、宗教的な平等の実現ではなく、カトリックという優位な多数派の枠組みの中に、プロテスタントという少数派を、秩序を乱さない範囲で封じ込め、管理することでした。
次に、勅令が保障した「自由」は、個人に与えられた普遍的な権利ではなく、共同体に与えられた特権でした。礼拝の自由は、個人がどこでも自由に信仰を表明できる権利ではなく、特定の条件を満たした「場所」や、特定の身分を持つ「貴族」に付随するものでした。これは、近代的な個人の権利というよりは、中世的な身分制社会の発想に基づいています。人々は、一個の市民としてではなく、カトリック共同体の一員、あるいはユグノー共同体の一員として扱われたのです。
さらに、勅令の最も特徴的であり、そして最も問題含みであった点は、ユグノーに「安全保障都市」という軍事的な特権を与えたことでしょう。これは、ユグノーの安全を保障するための、現実的な必要悪でした。サン=バルテルミの虐殺の記憶が生々しいユグノーたちにとって、国王の善意や法の条文だけでは、自分たちの命を守ることはできない、という不信感は根深いものがありました。彼らは、自らの手で銃を持ち、城壁に囲まれていなければ、安心できなかったのです。
しかし、この規定は、フランス王国の中に、独自の軍事力と政治組織を持つ「国家内国家」を公式に認めるに等しいものでした。これは、アンリ4世の後継者たちが目指す、中央集権的な絶対王政の確立という目標とは、真っ向から対立するものでした。ユグノーの安全保障都市は、王権にとって常に潜在的な脅威であり、将来にわたって紛争の火種となり続ける運命にあったのです。
また、勅令は「永久かつ取消不能」と謳われましたが、その保証は、国王の権威と意志に完全に依存していました。特に、安全保障都市の維持や牧師への給与を定めた国王特許状は、法的な裏付けが弱く、国王が変わればいつでも反故にされる可能性がありました。ユグノーの権利は、普遍的な人権としてではなく、国王からの恩寵として与えられたものであり、その運命は、常に国王の胸三寸にかかっていたのです。
このように、ナントの王令は、寛容の理想を掲げつつも、その内実においては、多くの妥協と矛盾を抱えた、極めて現実的な取り決めでした。それは、平和を達成するための、当時のフランスが取り得た、唯一の、そして最善の策だったのかもしれません。しかし、その内部に抱え込まれた時限爆弾は、アンリ4世という強力な調停者を失った後、再びフランスを混乱へと導いていくことになります。
勅令の登録
1598年4月にアンリ4世によって署名されたナントの王令は、しかし、それだけでは法的な効力を持ちませんでした。当時のフランスの法制度では、国王の勅令は、各地の高等法院によって「登録」という手続きを経て初めて、その管轄地域において施行されることになっていたのです。そして、この登録こそが、勅令の実現に向けた、最後の、そして最大の難関でした。
高等法院は、単なる最高裁判所ではなく、立法にも関与する強力な権限を持つ機関でした。その構成員である法服貴族たちは、自らを王国の基本法の守護者と任じており、国王の勅令であっても、それが国益に反すると判断すれば、登録を拒否し、国王に「諫言」を行う権利を持っていました。
そして、パリ高等法院をはじめとするフランス各地の高等法院は、そのほとんどが、熱心なカトリック教徒によって占められていました。彼らにとって、国内に「異端」であるユグノーの存在を法的に認め、彼らに広範な権利を与えるナントの王令は、神の法とフランス王国の伝統に反する、到底受け入れがたいものでした。彼らは、この勅令が、王国の宗教的統一を破壊し、社会に永続的な混乱をもたらすと固く信じていました。
アンリ4世が勅令をパリ高等法院に送付すると、案の定、裁判官たちは激しく抵抗しました。彼らは、勅令の多くの条項、特にユグノーに公職への道を開き、宗派混合の特別法廷を設置する条項に、猛烈に反対しました。彼らは、国王に対し、勅令の修正を求める長文の諫言を何度も送り返しました。
この膠着状態を打破するため、アンリ4世は、自ら行動に移します。1599年2月7日、彼は、パリ高等法院の裁判官たちをルーヴル宮殿に召喚しました。そして、歴史に残る有名な演説を行います。彼は、裁判官たちを前に、威厳と、親しみやすさと、そして隠しきれない苛立ちをない交ぜにしながら、彼らを説得し、そして脅しました。
彼は、まず、自らがフランスに平和をもたらした王であることを、彼らに思い出させました。「私が成し遂げたことを、あなた方には壁の向こうから見ていて欲しくはない。あなた方にも、その一部となって欲しいのだ」と、彼は語りかけました。そして、裁判官たちの頑なな態度を非難し、「私は、あなた方を私の後見人にするために呼び出したのではない。私は王であり、王として語り、そして服従されることを望む!」と、その権威を毅然と示しました。
しかし、彼は、単に権力で彼らをねじ伏せようとしただけではありませんでした。彼は、慈悲深い父のように、彼らに語りかけました。「私は、カトリック教徒とユグノーの間に、もはやいかなる区別も設けるべきではないと信じている。全ての者が、良きフランス人として、私の忠実な臣下でなければならないのだ」と。彼は、この勅令が、ユグノーを優遇するためではなく、王国全体の平和と安定のために不可欠であることを、情熱的に訴えたのです。
このアンリ4世による直接の説得は、絶大な効果を発揮しました。彼の王としての決意と、国家の未来に対する真摯な思いに心を動かされた裁判官たちは、ついに抵抗を断念します。1599年2月25日、パリ高等法院は、いくつかの小さな修正を加えた上で、ナントの王令を登録しました。
パリでの登録後も、地方の高等法院、特にルーアンやトゥールーズといった、カトリック勢力が極めて強い地域の高等法院は、なおも抵抗を続けました。しかし、アンリ4世は、特任の委員を派遣し、粘り強く交渉を重ね、時には王権の圧力をちらつかせながら、彼らを説得していきました。最終的に、全ての高等法院が勅令を登録するまでには、1609年まで、実に10年以上の歳月を要したのです。
この長い登録のプロセスは、ナントの王令が、単に国王の一方的な意志によって押し付けられたものではなく、王権と、それに抵抗する様々な勢力との間の、困難な交渉と妥協の末に、ようやく成立したものであることを示しています。そして、アンリ4世という、権威と柔軟性を兼ね備えた、卓越した政治家がいなければ、この歴史的な勅令が実現することは決してなかったであろうことも、また物語っているのです。
王令下の平和
ナントの王令が発布され、困難な登録プロセスを経てフランス全土で施行されると、王国には、約四十年間も忘れられていた、待望の平和な時代が訪れました。もちろん、長年にわたって社会に深く刻み込まれた宗教的な憎悪や不信感が、一夜にして消え去ったわけではありません。地方レベルでは、カトリック教徒とユグノーとの間の小競り合いや、勅令の解釈をめぐる対立が、依然として散発的に発生していました。
しかし、国家レベルでの大規模な内戦は、ついに終わりを告げました。アンリ4世は、勅令の精神に基づき、両派に対して公平な仲裁者として振る舞おうと努めました。彼は、勅令の条文が遵守されるよう監督し、違反があった場合には、厳正な態度で臨みました。
この平和な時代の中で、ユグノーは、勅令によって保障された権利を享受し、フランス社会の中で独自の地位を築いていきました。彼らは、自分たちの教会を組織し、定期的に全国教会会議を開催して、教義や規律に関する問題を討議しました。また、セダン、ソミュール、モントーバン、ニームなどに設立されたプロテスタント大学は、神学だけでなく、法学や古典研究においても高い水準を誇り、多くの優れた学者や知識人を輩出しました。
経済活動の面でも、ユグノーは目覚ましい活躍を見せました。彼らは、カルヴァン主義の倫理観である勤勉と禁欲を重んじ、商工業や金融業の分野で大きな成功を収める者が少なくありませんでした。特に、織物業、製紙業、印刷業、時計製造などの分野では、ユグノーの職人たちの技術が高く評価されていました。彼らは、フランス経済の発展に、無視できない貢献を果たしたのです。
しかし、この平和は、常に緊張をはらんだ、脆いものでした。ユグノーは、依然として、カトリックが支配的な社会の中での、警戒される少数派でした。彼らは、自分たちの権利が、国王の気まぐれ一つで覆されるかもしれないという不安を、常に抱き続けていました。
その不安の最大の象徴が、「安全保障都市」の存在でした。ユグノーは、これらの要塞都市を、自分たちの生命と財産を守るための最後の砦と見なしていました。彼らは、都市の城壁を修復し、守備隊を維持し、独自の政治組織を運営しました。この「国家内国家」の存在は、ユグノーに安心感を与える一方で、王権との間に絶えざる摩擦を生み出す原因ともなりました。
アンリ4世は、このデリケートな問題に対して、現実的な態度で臨みました。彼は、ユグノーの軍事的な自治を認めつつも、それが王権に対する反逆に繋がらないよう、巧みに彼らをコントロールしました。彼は、ユグノーの指導者たちに年金を与え、彼らを宮廷の役職に就けることで、彼らを王権の体制内に取り込もうとしました。
しかし、1610年、この絶妙なバランスを保っていた偉大な調停者、アンリ4世が、カトリックの狂信者によって暗殺されると、状況は一変します。幼いルイ13世が即位し、母であるマリー=ド=メディシスが摂政となると、宮廷の政策は、より親カトリック、親スペイン的なものへと傾いていきます。
王権の弱体化と政策の転換は、ユグノーの不安を掻き立てました。彼らは、自分たちの権利が脅かされていると感じ、再び武装し、反抗的な態度を示すようになります。一方、カトリック勢力は、この機会を捉え、勅令の条文を、よりカトリックに有利な形で解釈し、ユグノーの権利を少しずつ制限していこうと画策しました。
アンリ4世の死後、ナントの王令がもたらした平和は、徐々にその輝きを失い、フランスは、再び宗教的な対立の暗雲に覆われていくことになります。勅令下の平和は、結局のところ、アンリ4世という一個人の卓越した政治手腕に支えられた、束の間の奇跡だったのかもしれません。
勅令の浸食
アンリ4世の死は、ナントの王令がもたらした微妙な均衡を崩壊させる、終わりの始まりでした。幼いルイ13世の摂政となったマリー=ド=メディシスは、アンリ4世のような政治的洞察力も権威も持ち合わせていませんでした。彼女の親スペイン・親カトリック的な政策は、ユグノーの不信感を増大させ、彼らを再び武装蜂起へと駆り立てました。1620年代には、ルイ13世とユグノーとの間で、再び内戦が勃発します。
この新たな対立の中で、王権の側で実権を握ったのが、宰相リシュリュー枢機卿でした。リシュリューは、カトリックの聖職者でありながら、何よりも国家の理性を重んじる冷徹な現実主義者でした。彼の目標は、宗教的な統一ではなく、フランス王国の絶対王政を確立し、国内のあらゆる抵抗勢力を排除することでした。そして、彼にとって、独自の軍事力と政治組織を持つユグノーの「国家内国家」は、王権に対する最大の脅威の一つでした。
リシュリューは、ユグノーの宗教的権利を奪うことには関心を示しませんでした。しかし、彼らの政治的・軍事的な特権は、断固として粉砕する決意でした。1627年、彼は、ユグノーの最大拠点であり、イングランドからの支援を受けていた港湾都市ラ=ロシェルに対する、大規模な包囲戦を開始します。
ラ=ロシェルの包囲戦は、一年以上に及び、凄惨を極めました。リシュリューは、港を巨大な堤防で封鎖し、都市を兵糧攻めにしました。飢餓と病によって、市民の大多数が命を落としましたが、彼らは英雄的に抵抗を続けました。しかし、1628年10月、ラ=ロシェルはついに降伏します。
この勝利の後、ルイ13世は、1629年に「アレスの恩恵勅令」を発布します。この勅令は、ナントの王令が保障したユグノーの信教の自由と市民的権利を再確認しました。しかし、その一方で、彼らの政治的・軍事的な特権は、全て剥奪されました。安全保障都市は解体され、城壁は破壊され、ユグノーは、もはや武装した政治集団ではなく、単なる国王の臣下である一宗派となったのです。
リシュリューの政策は、ナントの王令の骨抜きにするものでしたが、それは、ある意味で、勅令が内包していた矛盾の必然的な帰結でもありました。一つの国家の中に、二つの軍事力が並存することは、長期的には不可能だったのです。リシュリューは、勅令の軍事的な側面を破壊することで、その宗教的な側面を、逆説的に延命させようとしたのかもしれません。
リシュリュー、そしてその後を継いだマザランの時代、ユグノーは、政治的な力を失った一方で、比較的平穏な時代を享受しました。彼らは、もはや王権に反抗することなく、忠実な臣下として、商工業や学問の世界で活躍しました。
しかし、1661年にルイ14世が親政を開始すると、状況は再び暗転します。若き「太陽王」ルイ14世は、「一つの国に、一つの法、一つの王、そして一つの宗教」という、絶対君主制の理念の熱烈な信奉者でした。彼にとって、国内にユグノーという「異端」が存在すること自体が、彼の王としての権威と、神から与えられた使命に対する、許しがたい汚点でした。
ルイ14世は、祖父アンリ4世の寛容の精神を受け継ぎませんでした。彼は、ナントの王令を、祖父が国家の危機に際してやむを得ず結んだ、一時的な妥協に過ぎないと見なしていました。彼の治世の目標の一つは、この忌まわしい勅令を最終的に撤廃し、フランスからプロテスタント信仰を根絶することでした。
そのための政策は、最初は、じわじわと真綿で首を絞めるように、陰湿な形で進められました。まず、改宗したユグノーに金銭的な報酬を与える「改宗者金庫」が設立されました。次に、勅令の条文が、極めて厳格に、そしてユグノーに不利な形で解釈されるようになります。ユグノーの学校や教会は、些細な法的な口実を見つけては、次々と閉鎖されていきました。ユグノーは、多くの公職や、特定の職業(弁護士、医師、出版業など)から排除されていきました。宗派混合の特別法廷も廃止され、彼らは法的な保護を失っていきました。
そして1680年代に入ると、迫害は、より暴力的で直接的なものとなります。「竜騎兵の迫害」として知られる、悪名高い政策が開始されたのです。これは、竜騎兵と呼ばれる国王の軍隊を、ユグノーの家庭に強制的に宿泊させるというものでした。兵士たちは、家財を破壊し、食料を食い尽くし、家人に暴行を加えるなど、あらゆる嫌がらせを行うことを黙認されていました。この恐怖に耐えかねた多くのユグノーが、次々とカトリックへの改宗を誓いました。
ルイ14世は、この「竜騎兵の迫害」によって、国内のユグノーのほとんどがカトリックに改宗した、という誤った報告を信じ込みました。そして、もはやナントの王令は、その存在意義を失ったと判断したのです。
フォンテーヌブローの勅令
1685年10月18日、ルイ14世は、フォンテーヌブロー宮殿で、フランスの歴史を大きく後退させる決定的な文書に署名しました。これが「フォンテーヌブローの勅令」であり、一般には「ナントの王令の廃止」として知られています。
この新たな勅令は、その前文で、祖父アンリ4世がナントの王令を発布したのは、内戦で疲弊した国家に平和をもたらすための、やむを得ない一時的な措置であったと述べています。そして、神の恩寵により、今や国内のユグノーの大部分がカトリック信仰に復帰したため、ナントの王令はもはや無用の長物となった、と宣言しました。
この宣言に基づき、フォンテーヌブローの勅令は、ナントの王令、およびその後に発布された関連する全ての寛容令を、全面的に、そして永久に廃止することを布告しました。その内容は、ユグノーにとって、まさに死刑宣告に等しいものでした。
まず、フランス国内に残っていた全てのユグノー教会の破壊が命じられました。そして、いかなる場所においても、プロテスタントの礼拝を行うことが、固く禁じられました。
次に、全てのユグノー牧師に対し、15日以内に国外へ退去するか、さもなければガレー船の漕ぎ手として送致されるか、という過酷な選択が突きつけられました。
一方で、牧師以外の全てのユグノー信徒(平信徒)に対しては、国外へ逃亡することが、財産没収とガレー船送致の罰則をもって、厳しく禁じられました。彼らは、フランス国内に留まり、カトリック教徒として生活することを強制されたのです。これは、彼らの信仰を内心においてさえも許さず、その魂を完全に支配しようとする、ルイ14世の徹底した意志の表れでした。
さらに、ユグノーの子供たちは、親から引き離され、カトリックの司祭によって洗礼を授けられ、カトリック教徒として育てられることが定められました。これは、プロテスタント信仰を、次の世代で完全に根絶やしにしようとする、冷酷な政策でした。
ナントの王令の廃止は、ルイ14世の治世における、最大の汚点の一つと見なされています。彼は、この政策によって、フランスの宗教的統一を達成し、自らの絶対的な権威を内外に示したと考え、満足したかもしれません。しかし、その代償は、あまりにも大きなものでした。
この決定は、ヨーロッパのプロテスタント諸国から、激しい非難を浴びました。彼らは、ルイ14世を、約束を破る暴君とみなし、フランスに対する敵意を一層強めました。これは、後のアウクスブルク同盟戦争など、フランスがヨーロッパで孤立を深めていく一因となりました。
しかし、それ以上に深刻だったのは、国内への影響でした。国外逃亡を禁じられたにもかかわらず、推定で20万人以上ものユグノーが、命がけで国境を越え、あるいは海を渡って、国外へと逃れていきました。彼らは、イングランド、オランダ、スイス、ブランデンブルク=プロイセン、そしてアメリカ大陸など、プロテスタントを受け入れてくれる国々へと亡命しました。
この「大亡命」は、フランスにとって、計り知れない損失でした。亡命したユグノーの中には、熟練した職人、有能な商人、優秀な軍人、そして知識人が数多く含まれていました。彼らが持ち去った技術、資本、そして知識は、亡命先である国々の経済や文化を豊かにし、一方で、フランス自身の国力を大きく損なう結果となったのです。彼らの多くは、フランスへの深い恨みを抱き、その後の戦争で、敵国側についてフランスと戦うことさえありました。
国内に残ったユグノーたちは、公式には存在しないことになりました。彼らは、「新改宗者」として、偽りのカトリック生活を強いられました。しかし、多くの人々は、密かに信仰を守り続けました。彼らは、人里離れた山中や森の中で、夜間に集まり、説教を聞き、詩篇を歌いました。この「荒野の教会」と呼ばれる秘密の信仰共同体は、国王の厳しい弾圧にもかかわらず、その信仰の灯を絶やすことはありませんでした。セヴェンヌ山脈で起こったカミザールの反乱は、この絶望的な状況の中から生まれた、最も激しい抵抗でした。
ナントの王令の廃止は、アンリ4世が目指した、異なる信仰を持つ人々が共存する社会という理想を、完全に破壊しました。それは、寛容の精神に対する、絶対主義の不寛容の勝利でした。しかし、それは、人間の良心と信仰を、国家の権力によって完全に支配することはできない、という事実をも、皮肉な形で証明することになったのです。フランスが、再び公式にプロテスタントの市民権を認めたのは、それから約一世紀後の、フランス革命前夜の1787年のことでした。