チョーサーとは
チョーサー。その名は、英語という言語そのものの響きと分かちがたく結びついています。「英語詩の父」と称される彼は、ラテン語とフランス語の影に隠れていた中英語を、洗練された文学言語へと昇華させ、その後のイギリス文学が歩むべき道を、独力で切り拓いた巨人です。彼の最高傑作『カンタベリー物語』は、聖地巡礼の旅という枠組みの中に、騎士、修道女、商人、農夫といった、中世イギリス社会のあらゆる階層の人間たちを生き生きと描き出し、その声を通して、人間の欲望、偽善、そして高潔さを、万華鏡のように映し出しました。
しかし、チョーサーの生涯をたどる時、我々が目にするのは、書斎に籠もる孤高の詩人の姿だけではありません。彼は、その人生の大半を、有能で抜け目のない宮廷人、外交官、そして役人として生きた、極めて実際的な人物でもありました。彼は、百年戦争の戦場でフランス軍の捕虜となり、国王の密命を帯びてイタリアやフランスの宮廷を駆け巡り、ロンドン港の関税を取り仕切る税関長官として、羊毛の輸出に目を光らせ、さらには国王の建築事業を監督する役人として、足場から転落する災難にさえ見舞われています。
彼の文学は、この宮廷人としての実際的な経験と、深く結びついています。彼の鋭い人間観察眼は、宮廷の複雑な人間関係や、商業都市ロンドンの喧騒の中で培われました。また、外交官としての旅は、彼に、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオといった、イタリア・ルネサンスの最先端の文学に触れる機会を与え、彼の詩作に決定的な影響を及ぼしました。
チョーサーの生涯は、詩人としての内面的な世界と、宮廷人としての外面的な世界という、二つの異なる領域を、驚くべきバランス感覚で往還した、類稀な軌跡を描いています。彼の人生を理解することは、中世後期のイングランドが経験した、戦争、疫病、そして社会的な大変動の時代を背景に、一人の人間が、いかにして自らの言語で、不滅の文学を創造し得たのかを探る、刺激的な旅なのです。
ワイン商の息子から王家の小姓へ
ロンドンの商人階級
ジェフリー・チョーサーの正確な生年月日は、記録に残されていませんが、一般的には1340年代初頭、おそらくは1343年頃に、ロンドンで生まれたと考えられています。彼の姓「チョーサー」は、フランス語の「chaussier」(靴屋)に由来することから、その祖先が靴職人であった可能性が示唆されていますが、ジェフリーの時代には、一家はすでにそれよりもはるかに高い社会的地位を築いていました。
彼の父、ジョン・チョーサーは、ロンドンの裕福なワイン商であり、国王へのワイン供給にも関わる、有力な商人でした。母、アグネス・ド・コプトンもまた、ロンドン造幣局の役人の姪であり、相当な資産を相続していました。チョーサー家は、ロンドンのテムズ・ストリートに居を構え、国際貿易の中心地であるこの都市の、活気と富を享受する、新興の商人階級に属していました。
この商人階級の出身であるという事実は、チョーサーの生涯と文学を理解する上で、極めて重要です。彼は、生まれながらの貴族ではありませんでしたが、その家庭環境は、彼に、商業活動の実際、金銭の価値、そして都市生活の多様な人間模様に、幼い頃から触れる機会を与えました。彼の作品、特に『カンタベリー物語』に登場する、抜け目のない商人や、腕利きの職人たちの、リアルな描写は、この幼少期の経験に根差していると考えられます。
また、父ジョンは、単なる商人にとどまらず、国王の側近としての役割も果たしており、宮廷との強いつながりを持っていました。この父の人脈が、若きジェフリーが、貴族社会への足がかりを得る上で、決定的な役割を果たしたことは、想像に難くありません。
アルスター伯爵夫人への奉公
チョーサーの少年時代の教育に関する具体的な記録は残っていませんが、彼の作品が示す、ラテン語、フランス語、イタリア語の深い素養や、古典文学、神学、天文学に至る広範な知識から、彼が質の高い教育を受けたことは明らかです。おそらく、セント・ポール大聖堂付属の学校などで、当時の標準的な教育課程を修めたものと考えられます。
彼の名前が、歴史の記録に初めて登場するのは、1357年のことです。この年、彼は、国王エドワード3世の次男であるライオネル・オブ・アントワープの妻、アルスター伯爵夫人エリザベス・ド・バーの家計簿に、小姓(ペイジ)として記載されています。当時、有力な商人の息子が、貴族の家庭に小姓として奉公に出されることは、礼儀作法や宮廷の慣習を学び、将来のキャリアを築くための、一般的な慣行でした。チョーサーは、この奉公を通じて、貴族社会の内部へと、その第一歩を踏み出したのです。
小姓としての彼の仕事は、主人の身の回りの世話をすることでしたが、それは同時に、宮廷の洗練された文化、すなわち、最新の流行の詩や音楽、騎士道物語、そして複雑な人間関係に、直接触れる機会でもありました。彼は、ここで、宮廷で支配的な言語であったフランス語の詩作の技法を学び、自らも詩を書き始めたと考えられます。
このアルスター伯爵夫人の宮廷での経験は、チョーサーを、単なるワイン商の息子から、洗練された宮廷人に育て上げるための、重要な養成期間でした。彼は、ここで、後の彼の人生を支えることになる、二つの重要なスキルを身につけました。一つは、宮廷人としての洗練された立ち居振る舞いと、有力者に取り入るための対人スキル。そしてもう一つは、宮廷の聴衆を喜ばせるための、詩人としての技芸です。この二つのスキルが、彼のその後の目覚ましいキャリアの、両輪となっていくのです。
兵士、そして外交官としての大陸での経験
百年戦争とフランスでの捕虜生活
1359年、若きチョーサーの宮廷での奉公生活は、百年戦争の激化によって、新たな局面を迎えます。彼の主人であるライオネル王子が、国王エドワード3世率いるフランス遠征軍に加わった際、チョーサーもまた、兵士として、その一員に加わりました。これは、彼にとって初めての海外での軍事経験でした。
しかし、この遠征は、彼にとってほろ苦いものとなります。ランス市の包囲戦の最中、チョーサーはフランス軍の捕虜となってしまったのです。一介の兵士が捕虜となれば、過酷な運命が待ち受けているのが常でしたが、チョーサーは幸運でした。彼の宮廷での地位が考慮され、1360年3月1日、国王エドワード3世自身が、16ポンドという、当時としてはかなりの金額の身代金を支払って、彼を解放したのです。この事実は、チョーサーが、すでにこの若さで、国王の目にも留まる、将来を期待された人材であったことを示唆しています。
この戦争と捕虜生活という経験は、チョーサーに、書物の上での騎士道物語とは異なる、戦争の過酷な現実を、身をもって教えたことでしょう。彼の作品には、戦争の栄光を謳い上げる一方で、その悲惨さや空虚さに対する、冷めた視線が、しばしば見え隠れします。
フランスから帰国後、チョーサーのキャリアは、しばらくの間、歴史の記録から姿を消します。この「失われた数年間」に、彼が何処で何をしていたのかは、研究者の間で様々な推測を呼んでいます。一説には、彼は、法学院(インズ・オブ・コート)に入学し、法律の知識を学んだのではないかと言われています。彼の作品に見られる、法律用語の正確な使用や、法的な議論への関心は、この説を裏付けているように思われます。また、この時期に、彼は、生涯の伴侶となる、フィリッパ・ド・ロエと結婚したと考えられています。
外交官としてのイタリアへの旅
1360年代後半には、チョーサーは、国王直属の廷臣(エスクワイア)として、再び宮廷でのキャリアを再開します。彼は、国王の私室に仕え、様々な公務や、秘密の任務をこなす、有能な役人として、その頭角を現していきました。そして、1370年代に入ると、彼のキャリアは、外交官として、新たな飛躍を遂げます。
特に重要なのが、彼が二度にわたって派遣された、イタリアへの外交使節としての旅です。最初の旅は、1372年末から1373年にかけてのもので、彼は、ジェノヴァ共和国との間で、イングランド商人のための貿易港を指定する交渉を行う任務を帯びていました。この旅の途中、彼は、フィレンツェにも立ち寄っています。
二度目の旅は、1378年で、彼は、ミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティと、その傭兵隊長であるジョン・ホークウッドのもとへ、フランスとの戦争に関する軍事援助を交渉するために派遣されました。
これらのイタリアへの旅は、チョーサーの文学的発展にとって、計り知れないほど重要な意味を持っていました。当時のイタリアは、ルネサンスの黎明期にあり、ダンテ、ペトラルカ、そしてボッカチオという、三人の偉大な文学者が、すでに不滅の傑作を生み出していました。チョーサーは、この旅を通じて、彼らの作品に直接触れる機会を得たのです。
彼は、ダンテの『神曲』の壮大な構想と、その俗語(イタリア語)による表現の力に、深い感銘を受けました。ペトラルカのソネットは、彼に、洗練された抒情詩の新たな可能性を示しました。そして、何よりも、ボッカチオの『デカメロン』や『テセイーダ』、『フィローストラト』といった物語作品は、チョーサーの後の物語詩の創作に、直接的なインスピレーションと、具体的な素材を提供しました。
チョーサーは、それまで、フランスの宮廷詩の伝統、特に『薔薇物語』の影響を強く受けていました。しかし、イタリアでの経験は、彼の文学的視野を大きく広げ、フランス風の優雅な恋愛詩から、より複雑で、現実的で、人間味あふれる物語の世界へと、彼の関心を移行させる、決定的なきっかけとなったのです。『カンタベリー物語』という、壮大な物語集の構想もまた、ボッカチオの『デカメロン』という先例なしには、生まれ得なかったかもしれません。
外交官としてのチョーサーは、イングランド王権の利益のために、冷徹な交渉を行う有能なエージェントでした。しかし、その一方で、詩人としてのチョーサーは、この旅で得た文化的な刺激を、貪欲に吸収し、自らの文学を、新たな高みへと引き上げるための、貴重な糧としていたのです。
ロンドンでの公務と詩作=二足の草鞋
イタリアでの外交任務を成功させたチョーサーは、国王からの信頼をさらに厚くし、イングランドに戻ると、彼のキャリアは、安定した公職と、旺盛な詩作活動が両立する、最も充実した時期を迎えます。
ロンドン港税関長官としてのキャリア
1374年、チョーサーは、国王エドワード3世によって、ロンドン港の羊毛・皮革関税の税関長官という、非常に重要で、収入の多い役職に任命されます。ロンドン港は、当時、イングランドの経済の心臓部であり、特に羊毛の輸出は、国家の歳入の根幹をなしていました。税関長官としての彼の仕事は、輸出入される商品の量を正確に記録し、関税を徴収することでした。この仕事は、彼に、帳簿を几帳面に管理する能力と、商人たちの抜け目のない手口を見抜く、鋭い観察眼を要求しました。
彼は、この職務を、12年間にわたって、忠実に、そして有能に務め上げました。彼は、ロンドンの城門の一つである、アルドゲイトの上の住居を与えられ、そこから毎日、テムズ川沿いの税関へと通っていました。このアルドゲイトの住居で、彼は、公務の傍ら、多くの重要な文学作品を執筆したと考えられています。
税関長官としての彼の日常は、詩の優雅な世界とは、かけ離れたものでした。彼は、羊毛の俵の数を数え、商人たちの言い分を聞き、帳簿と格闘する、現実的な役人でした。しかし、この経験は、彼の文学に、具体的な手触りと、社会の仕組みに対する深い理解を与えました。彼の作品に登場する、経済活動のリアルな描写や、金銭をめぐる人間の欲望の鋭い分析は、この税関での経験なくしては、あり得なかったでしょう。
1382年には、彼は、ワインやその他の商品の関税を取り扱う、小関税の税関長官にも任命され、さらに1385年には、ケント州の治安判事にも任命されるなど、彼の公的なキャリアは、順風満帆に見えました。
フランス詩の影響と初期の作品
この公務に勤しむ一方で、チョーサーは、詩人としても、着実にその名声を高めていきました。彼の初期の作品は、主に、当時の宮廷で流行していた、フランスの宮廷詩、特にギヨーム・ド・マショーや、『薔薇物語』の影響を色濃く受けています。
その代表作が、『公爵夫人の書』です。これは、1368年に亡くなった、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの最初の妻、ブランシュを追悼するために書かれた、夢物語詩です。詩の中で、眠れぬ夜を過ごす語り手(チョーサー自身を思わせる)が、夢の中で、森で出会った「黒衣の騎士」の、亡き恋人への嘆きを聞く、という構成になっています。この作品は、フランス詩の優雅な形式と、哀悼という個人的な感情を、巧みに融合させた、チョーサーの初期の傑作とされています。
また、『鳥たちの議会』も、同じく夢物語詩の形式をとった作品です。聖ヴァレンタインの日に、女神ナトゥーラ(自然)のもとに、すべての鳥たちが集まり、それぞれの伴侶を選ぶ、という寓意的な設定の中で、宮廷風の恋愛の作法や、愛の本質について、様々な視点から議論が交わされます。この作品は、チョーサーのユーモアのセンスと、鳥たちの鳴き声を巧みに模倣した、生き生きとした描写が特徴です。
これらの初期作品において、チョーサーは、フランス詩の伝統的な形式を学び、それを、自らの言語である中英語で、見事に再現する技術を、習得していきました。
イタリア文学の衝撃と中期作品
そして、イタリアへの旅を経験した後、チョーサーの詩作は、新たな段階へと入ります。彼は、ボッカチオの作品から、物語の筋書きや登場人物を借用し、それを、自らの詩の世界へと、大胆に取り込み始めました。
その最初の大きな成果が、『トロイルスとクリセイデ』です。これは、ボッカチオの『フィローストラト』を典拠とした、長大な物語詩であり、チョーサーの最高傑作の一つと見なされています。物語は、トロイア戦争を背景に、トロイアの王子トロイルスと、美しい未亡人クリセイデとの間の、恋愛の成就と、その悲劇的な破局を、深い心理描写と共に描き出します。チョーサーは、ボッカチオの物語に、哲学的な思索や、登場人物の内面の葛藤を、より深く掘り下げることで、単なる悲恋物語を超えた、人間の愛と運命についての、壮大な叙事詩を創り上げました。
また、『名誉の館』は、ダンテの『神曲』の影響が顕著な、未完の夢物語詩です。語り手が、鷲に掴まれて、天上の「名誉の館」へと運ばれ、そこで、歴史上の様々な人々の名声が、いかに気まぐれで、不確かなものであるかを目撃するという、幻想的な物語です。
これらのイタリア文学の影響を受けた中期作品群において、チョーサーは、もはやフランス詩の模倣者ではなく、ヨーロッパ大陸の最先端の文学と対等に渡り合い、それを自らの詩的ヴィジョンの中に消化し、独自の作品世界を構築する、成熟した詩人としての姿を示しています。この時期に培われた、物語を語る技術、登場人物を造形する能力、そして哲学的な深みが、やがて、彼の最後の、そして最大の傑作である『カンタベリー物語』へと、結実していくことになるのです。
政争の嵐と『カンタベリー物語』の誕生
政治的後援者ジョン・オブ・ゴーントの不在
1380年代半ば、チョーサーの順風満帆に見えたキャリアに、暗い影が差し始めます。当時のイングランド政界は、若き国王リチャード2世の側近グループと、国王の叔父たちを中心とする、有力貴族グループとの間で、激しい権力闘争が繰り広げられていました。
チョーサーの長年にわたる、最も強力な後援者は、国王の叔父の一人である、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントでした。チョーサーの妻フィリッパは、ジョン・オブ・ゴーントの三番目の妻となるキャサリン・スウィンフォードの姉妹であり、チョーサー家とランカスター公家は、姻戚関係によって、強く結びついていました。
しかし、1386年、ジョン・オブ・ゴーントは、カスティーリャ王位の継承権を主張するため、大規模な軍隊を率いて、スペインへと遠征に出発します。この強力な後援者の不在は、チョーサーの政治的な立場を、著しく弱めることになりました。
時を同じくして、1386年、チョーサーは、ケント州の騎士として、議会(「驚嘆すべき議会」として知られる)の議員に選出されます。しかし、この議会は、国王リチャード2世の寵臣たちを弾劾し、その権力を制限しようとする貴族派が主導権を握っていました。チョーサーが、どちらの派閥に属していたのかは定かではありませんが、結果として、彼は、この政治的混乱の余波を受けることになります。同年、彼は、12年間務めた税関長官の職を、突如として失ってしまうのです。
この失職の正確な理由は不明ですが、政敵による圧力があった可能性も指摘されています。安定した収入と、ロンドンの住居を失ったチョーサーは、政治の中心地から離れ、ケント州での生活を余儀なくされます。
不遇の時代と創作への集中
1386年から1389年にかけての数年間は、チョーサーにとって、公的なキャリアにおける、不遇の時代でした。彼は、政治の表舞台から遠ざかり、比較的目立たない役職に甘んじなければなりませんでした。しかし、皮肉なことに、この公務からの解放が、彼に、彼の文学的キャリアの集大成となる、壮大なプロジェクトに着手する時間と、精神的な余裕を与えたのかもしれません。
この時期に、彼は、生涯の傑作となる『カンタベリー物語』の執筆を開始したと考えられています。この作品は、ロンドン郊外の宿屋に集まった、身分も職業も様々な、約30人の巡礼たちが、聖トマス・ベケットの聖地であるカンタベリー大聖堂への道を、物語を語り合いながら旅をする、という枠物語の形式をとっています。
この構想自体、ボッカチオの『デカメロン』から着想を得たものであることは明らかですが、チョーサーは、それを、彼自身の独創的なものへと、見事に作り変えました。『デカメロン』の語り手たちが、皆、同じ階級の若い貴族であったのに対し、『カンタベリー物語』の巡礼団は、騎士、女子修道院長、免罪符売り、バースの女房、粉屋、農夫といった、中世イギリス社会の縮図とも言うべき、驚くほど多様な人間たちで構成されています。
そして、チョーサーの独創性が最も発揮されているのが、それぞれの語り手が語る物語が、その語り手の性格、職業、そして社会的地位を、巧みに反映している点です。高潔な騎士は、騎士道的なロマンスを語り、下品な粉屋は、猥雑な笑い話を語り、学識あるオックスフォードの学僧は、道徳的な寓話(グリーゼルダの物語)を語ります。物語は、単なる挿入話ではなく、語り手という人間を、より深く理解するための、鏡となっているのです。
さらに、物語と物語の間には、「間奏」が挿入され、そこでは、巡礼たちが、互いの物語にコメントしたり、口論したり、酔っ払って騒いだりする、生き生きとしたやり取りが描かれます。これにより、カンタベリーへの旅そのものが、一つのダイナミックなドラマとして、展開していくのです。
この『カンタベリー物語』の執筆は、チョーサーにとって、公的なキャリアの挫折を乗り越え、自らの詩人としてのアイデンティティを、再確認するための、重要な営みであったのかもしれません。彼は、政争の喧騒から離れ、自らが最も得意とする、人間観察と物語創作の世界に、没頭していったのです。
晩年と死=ウェストミンスター寺院への道
国王の建築監督官としての復帰
1389年、イングランドの政局は、再び大きな転換点を迎えます。国王リチャード2世が、親政を宣言し、それまで権力を握っていた貴族派(アペラント卿)を退け、政治の主導権を取り戻したのです。これに伴い、国王の叔父であり、チョーサーの後援者であったジョン・オブ・ゴーントも、スペインから帰国し、その影響力を回復しました。
この政治状況の変化は、チョーサーの公的なキャリアにも、再び光をもたらしました。1389年7月、彼は、国王の建築監督官という、重要な役職に任命されます。この役職は、ウェストミンスター宮殿やロンドン塔をはじめとする、国王所有の建物の、修繕や建設を監督する責任者でした。
この仕事は、彼に、石工、大工、煉瓦職人といった、多くの職人たちを監督し、資材を調達し、賃金を支払うという、極めて実際的な管理能力を要求しました。彼は、馬上から、あるいは足場の上から、工事の進捗を監督して回りました。この仕事は、危険と隣り合わせでもありました。1390年9月には、彼は、少なくとも三度、路上で強盗に襲われ、金品を奪われるという事件に遭遇しています。また、ある記録によれば、彼は、足場から転落して、怪我を負ったこともあるようです。
詩人チョーサーが、建築現場の監督官として、職人たちに指示を与えている姿を想像するのは、興味深いものです。しかし、この経験もまた、彼の人間観察の幅を、さらに広げることに貢献したのかもしれません。『カンタベリー物語』に登場する、腕利きの親方大工の描写などには、この時期の経験が反映されている可能性もあります。
彼は、この建築監督官の職を、約二年間務めましたが、その後、1391年には、サマセットにある王領の森林の、副森林官に任命されるなど、晩年に至るまで、様々な公職を歴任し続けました。
最後の住まいと死
晩年のチョーサーは、国王リチャード2世から、年金を与えられるなど、比較的安定した生活を送っていました。しかし、1399年、リチャード2世が、ジョン・オブ・ゴーントの息子であるヘンリー・ボリングブルック(ヘンリー4世)によって王位を追われるという、政変が起こります。
チョーサーは、長年、リチャード2世と、その敵対者であったランカスター家の両方に仕えてきたため、この政変における彼の立場は、微妙なものでした。しかし、新国王ヘンリー4世は、父の代からの忠実な家臣であったチョーサーを、引き続き厚遇しました。
1399年のクリスマスイブ、チョーサーは、ウェストミンスター寺院の敷地内にある家を、長期契約で借りました。この寺院の敷地内に住むことは、一種の聖域権を意味し、彼を、過去の負債などから、法的に保護する効果もあったと考えられています。
彼は、このウェストミンスターの住まいで晩年を過ごし、『カンタベリー物語』の執筆を続けたと考えられますが、この壮大な物語が、完成することは、ついにありませんでした。
1400年10月25日、ジェフリー・チョーサーは、その波乱に満ちた生涯を閉じました。その死因は、記録されていません。
彼は、ウェストミンスター寺院の南翼廊に埋葬されました。当時、この場所に埋葬されたのは、必ずしも、彼が偉大な詩人であったからというわけではなく、彼が、寺院の借家人であり、王家の役人であったという、地位によるものでした。
しかし、彼の死後、その墓は、次第に、イギリスの偉大な文学者たちの、聖地と見なされるようになります。16世紀には、詩人エドマンド・スペンサーが、チョーサーの近くに埋葬されることを望み、その後、多くの作家や詩人たちが、彼の周りに眠るようになりました。こうして、ウェストミンスター寺院のこの一角は、「詩人のコーナー」として知られるようになり、その最初の、そして最も重要な居住者が、ジェフリー・チョーサーなのです。
ワイン商の息子として生まれた彼は、兵士、外交官、役人として、激動の時代を生き抜き、その傍らで、英語という言語の可能性を、極限まで追求しました。彼が遺した物語と詩は、その後の英語文学の、豊かで広大な礎となったのです。