トマス=モアとは
トマス=モア。その名は、理想郷を描いた不朽の名作『ユートピア』の著者として、また、自らの信仰を貫き、イングランド王ヘンリー八世に反逆罪で処刑された悲劇の聖人として、歴史に深く刻まれています。彼は、ルネサンス期ヨーロッパを代表する人文主義者であり、優れた法律家、そして辣腕の政治家でもありました。その生涯は、中世的なキリスト教世界が崩壊し、近代的な国民国家が形成されつつあった激動の時代、すなわち宗教改革の嵐が吹き荒れる16世紀イングランドの歴史そのものを体現しています。モアの人生は、家庭人としての温かい眼差し、学者としての鋭い知性、そして政治家としての現実的な手腕が、カトリック教会への揺るぎない信仰という一本の太い糸で貫かれていました。
人文主義の薫陶:若き日のモアと知的世界の形成
トマス=モアの人間性と思想を理解するためには、彼がどのような時代に生まれ、いかなる教育を受け、そして誰と交友を結んだのかを知ることが不可欠です。彼の青年期は、ヨーロッパ全土でルネサンスと人文主義の気風が高まり、古典古代の学問とキリスト教信仰の融合が試みられた、知的に刺激的な時代でした。
ロンドンの市民階級と幼少期
トマス=モアは、1478年2月7日、ロンドンのミルク=ストリートで生を受けました。彼の家系は、貴族階級ではなく、勃興しつつあった都市の専門職階層に属していました。父ジョン=モアは、法曹院に所属する成功した法律家であり、後には王座裁判所の判事にまで昇進する人物でした。母はアグネス=グランジャーといい、彼女もまたロンドンの裕福な商人の娘でした。このように、モアは生まれながらにして、法と商業が交差する、活気に満ちたロンドンの市民文化の中で育ったのです。
当時のロンドンは、イングランドの政治=経済=文化の中心地として急速に発展していました。テューダー朝の初代国王ヘンリー七世の下で、長きにわたった薔薇戦争の混乱は収束し、国内の安定がもたらされていました。商業の発展は、モアの父のような法律家や、母の実家のような商人といった、新たな社会階層の台頭を促していました。彼らは、血統ではなく、自らの知識や才覚によって身を立てる人々であり、教育の価値を深く認識していました。
モアは、幼い頃からその聡明さを示したと言われています。彼はまず、当時ロンドンで最も評価の高かった学校の一つである、聖アンソニー校に入学しました。ここで彼は、ラテン語の基礎を徹底的に学びました。ラテン語は、当時のヨーロッパにおける学問=外交=教会の共通語であり、これを習得することは、知識人としてのキャリアを歩む上での第一歩でした。
モートン枢機卿の下での薫陶
12歳頃になると、モアの才能を見込んだ父ジョンは、彼をカンタベリー大司教であり、大法官でもあったジョン=モートン枢機卿の邸宅に小姓として奉公させました。これは、当時の有力者の子弟が、礼儀作法や実社会の仕組みを学ぶための一般的な慣習でした。モートン枢機卿は、ヘンリー七世の最も信頼する顧問の一人であり、イングランドで最も権力のある政治家の一人でした。彼の邸宅は、国の内外から重要な人物が集まる、政治と外交の最前線でした。
若きモアにとって、この経験は計り知れない価値を持つものでした。彼は、食卓での会話や日々の業務を通じて、国家の統治がどのように行われるのか、外交交渉がどのような駆け引きで行われるのかを間近で目の当たりにしました。モートン枢機卿自身も、モアの非凡な才能と機知に富んだ受け答えに感銘を受け、彼が将来大物になるだろうと予言したと伝えられています。モアの伝記を最初に書いた義理の息子ウィリアム=ローパーは、モートンが客に対して「今日ここで給仕をしているこの少年は、将来、驚くべき人物になるだろう」と語ったという逸話を記しています。
モートン枢機卿の下での生活は、モアに政治の世界への関心を目覚めさせると同時に、彼の人文主義的な素養を育む上でも重要な役割を果たしました。モートン自身が学問を重んじる人物であり、その周囲には多くの知識人が集っていました。モアは、この環境の中で、古典文学や修辞学への関心を深めていったと考えられます。
オックスフォードと法曹院での学び
モートンの推薦を受け、1492年頃、モアはオックスフォード大学に入学しました。当時のオックスフォードは、「新しき学問」として知られるギリシャ研究の中心地となりつつありました。ウィリアム=グロシンやトマス=リナカーといった、イタリアで直接人文主義を学んだ学者たちが、ギリシャ語の教育を始めていました。モアは彼らの下で、プラトンやアリストテレス、そしてギリシャ語で書かれた新約聖書などを学び、その知的な視野を大きく広げました。古典古代の思想家たちが追求した理性=正義=徳といった概念は、彼の後の思想の根幹を形成していきます。
しかし、父ジョン=モアは、息子が人文主義的な学問に没頭しすぎることを懸念しました。彼は、モアが自分と同じように法律家としての堅実な道を歩むことを望んでいたのです。父の意向により、モアはオックスフォードをわずか2年で去り、1494年頃からロンドンの法曹院で法律の専門教育を受け始めました。
当時のイングランドの法曹院は、単に法律を教える場所ではありませんでした。それは、学生たちが共同生活を送りながら、法学だけでなく、歴史=音楽=弁論術といった幅広い教養を身につける、一種の大学のような機能を持っていました。モアはまずニュー=イン法学院で学び、その後、より上級のリンカーン法学院へと進みました。彼はここでも傑出した学業成績を収め、1501年には法廷弁護士の資格を取得しました。
法律の勉強は、モアの思考に厳密さと論理性を与えました。コモン=ロー(判例法)の複雑な体系を学ぶことを通じて、彼は社会の具体的な問題を解決するための実践的な知恵を身につけました。この法律家としての訓練は、後に彼が政治家として活躍する上で、また、『ユートピア』のような社会批評の書を執筆する上で、極めて重要な基盤となりました。
エラスムスとの出会い
法曹院で学びながらも、モアの人文主義への情熱は衰えることがありませんでした。彼は、法律の勉強の傍ら、独学で古典の研究を続け、詩や散文を執筆していました。そして1499年、彼の生涯を決定づける出会いが訪れます。オランダ出身の偉大な人文主義者、デジデリウス=エラスムスとの出会いです。
エラスムスは、当時すでにヨーロッパで最も著名な学者の一人でした。彼は、教会の腐敗を批判し、聖書の原典研究を通じて、より内面的で純粋なキリスト教信仰のあり方を提唱していました。モアとエラスムスは、出会ってすぐに意気投合し、生涯にわたる固い友情で結ばれることになります。二人は、古典古代の知恵とキリスト教の教えを融合させるという「キリスト教的人文主義」の理想を共有していました。彼らは、迷信や形式主義に陥った中世的なキリスト教を批判し、理性と信仰が調和した、より人間的な宗教のあり方を追求したのです。
二人の知的な交流は、互いの著作にも大きな影響を与えました。エラスムスが1509年に執筆し、モアに捧げた有名な風刺作品『痴愚神礼賛』は、モアの家で着想を得て書かれたと言われています。一方、モアの代表作『ユートピア』もまた、エラスムスとの対話の中から生まれた側面が強く、その出版にはエラスムスの協力が不可欠でした。彼らの間で交わされた数多くの書簡は、当時のヨーロッパの知的ネットワークの様子を生き生きと伝えており、二人の深い精神的な結びつきを示しています。
この若き日の知的探求と交友関係を通じて、トマス=モアの人間像の原型が形成されました。敬虔なキリスト教徒でありながら、古典の知恵を愛し、鋭い社会批評の精神を持つ。法律家としての現実感覚と、人文主義者としての理想主義を併せ持つ。そして、家族や友人を深く愛する温かい心と、自らの良心に従うことを何よりも重んじる厳格な道徳観。これらの要素が複雑に絡み合いながら、彼のその後の波乱に満ちた人生を方向づけていくことになるのです。
公人としての台頭:法律家から王の側近へ
法廷弁護士としての資格を得たトマス=モアは、その卓越した能力と誠実な人柄によって、ロンドンの法曹界で急速に名声を高めていきました。彼のキャリアは、一法律家として始まり、やがてロンドン市の要職、そしてついには国王ヘンリー八世の側近として、国政の中枢へと至る道を着実に歩んでいくことになります。この時期のモアは、人文主義者としての理想を抱きつつも、現実の政治の世界でその手腕を発揮する、有能な実務家としての側面を強く見せています。
ロンドンでの成功と家族生活
1500年代初頭、モアは法律家として順調なキャリアを築いていました。彼の弁護士としての評判は高く、多くの依頼が舞い込みました。彼は、単に法律の知識が豊富なだけでなく、依頼人の立場を深く理解し、公正な解決策を見出す能力に長けていたと言われています。この成功により、彼は経済的な基盤を固めることができました。
この頃、モアは精神的な探求にも深く没頭していました。彼は一時期、ロンドンにあるカルトジオ会の修道院の近くに下宿し、修道士たちと共に祈りと瞑想、そして禁欲的な生活を送りました。彼は聖職者になる道を真剣に考えたと言われていますが、最終的には在俗の信徒として、家庭生活の中で神に仕える道を選びました。この経験は、彼の信仰をより深いものにし、その後の人生における精神的な支柱となりました。
1505年頃、モアはジェーン=コルトと結婚しました。彼女はエセックスの郷紳の娘で、モアより若く、まだ教育も十分ではありませんでしたが、モアは愛情を込めて彼女に音楽や文学を教えたと伝えられています。二人の間には、マーガレット、エリザベス、シシリー、そしてジョンという四人の子供が生まれました。モアは、多忙な公務の合間を縫って、子供たちの教育に情熱を注ぎました。特に、女子にも男子と同等の高度な教育を受ける機会を与えるべきだという彼の考えは、当時としては非常に先進的なものでした。長女のマーガレット=ローパーは、父の薫陶を受け、ラテン語やギリシャ語に精通した、当代随一の才媛として知られるようになります。
しかし、この幸せな家庭生活は長くは続きませんでした。1511年、ジェーンが産褥熱で亡くなってしまったのです。幼い子供たちを抱え、悲しみに暮れたモアでしたが、彼は驚くほど早く、わずか1ヶ月後にアリス=ミドルトンという名の未亡人と再婚します。アリスはジェーンとは対照的に、実際的で口やかましい女性だったと言われていますが、彼女は有能な主婦として家庭を切り盛りし、モアの連れ子たちにとって良き母親となりました。モアの家庭は、常に笑いと知的な会話に満ちた、温かい場所であったと、訪れたエラスムスなどが記録しています。
ロンドン市司法次官と外交使節としての役割
法律家としての名声と市民からの信頼を背景に、モアは公的な役職に就くようになります。1504年には、庶民院(下院)の議員に選出されました。この時、彼は国王ヘンリー七世が要求した過大な課税に反対する演説を行い、法案を否決に追い込んだという逸話が残っています。これが事実であれば、26歳の若さで国王の意向に逆らうという、彼の剛直な性格を早くも示す出来事であったと言えます。
1910年、モアはロンドン市の司法次官の一人に任命されました。これは、ロンドン市の裁判所で裁判官として訴訟を審理する、非常に名誉ある重要な役職でした。彼は、その公正さと、貧しい人々への配慮によって、市民から絶大な人気と尊敬を集めました。彼は、 litigantsが不必要な費用を負担しなくて済むように、迅速な裁判を心がけたと言われています。
この司法次官としての職務と並行して、モアの才能は外交の分野でも発揮されるようになります。ロンドンは、フランドル地方(現在のベルギー=オランダ)のアントワープなど、ヨーロッパ大陸の主要な商業都市と密接な貿易関係にありました。そのため、ロンドンの商人たちの利益を代表して、大陸との通商交渉を行う使節団がしばしば派遣されました。法律と商業に精通し、ラテン語を自在に操るモアは、この外交使節としてうってつけの人材でした。
1515年、モアは、イングランドとフランドル間の羊毛貿易に関する紛争を解決するための使節団の一員として、ブルッヘとアントワープに派遣されました。この任務は数ヶ月に及び、交渉は困難を極めましたが、この大陸での滞在が、彼の最も有名な著作である『ユートピア』執筆の直接のきっかけとなりました。彼は、交渉の合間の余暇を利用して、この作品の第二部、すなわちユートピア島の社会制度を描いた部分を書き始めたのです。
ヘンリー八世の宮廷へ:王の側近としての栄達
モアの有能さは、やがて国王ヘンリー八世とその主席顧問であったトマス=ウルジー枢機卿の知るところとなります。ヘンリー八世は、父ヘンリー七世とは対照的に、華やかで野心的な若き王でした。彼は、学問や芸術を愛し、自らも優れた知性の持ち主であったため、モアのような人文主義者を宮廷に迎え入れることに熱心でした。
当初、モアは宮廷に入ることにためらいを感じていました。彼は、宮廷生活がもたらす虚飾や権力闘争を嫌い、学者としての静かな生活と、家族と過ごす時間を大切にしたいと願っていました。彼は、王に仕えることは、自らの良心と学問的な誠実さを危険にさらすことだと考えていたのです。この葛藤は、『ユートピア』第一部における、ラファエル=ヒュトロダエウスとモア自身の間の対話の中に、色濃く反映されています。
しかし、国王とウルジー枢機卿からの度重なる要請を断り続けることはできませんでした。1517年、モアはついに宮廷に入ることを決意し、請願審理官に任命されました。翌1518年には、枢密院(Privy Council)の顧問官となり、正式に国政の中枢に関わることになります。
宮廷に入ったモアは、その有能さを遺憾なく発揮しました。彼は、国王の秘書官として、国内外からの書簡の処理、公文書の作成、そして外交使節の応対など、多岐にわたる業務をこなしました。彼はヘンリー八世の個人的な信頼を得て、単なる役人としてではなく、知的な対話の相手としても重用されました。王はしばしば、予告なしにチェルシーにあるモアの邸宅を訪れ、天文学や神学について語り合い、庭を一緒に散策したと伝えられています。
1921年、モアは財務次官に任命され、ナイトの爵位を授与されました。1523年には、ウルジー枢機卿の推薦により、庶民院議長に選出されます。議長として、彼は国王がフランスとの戦争のために要求した巨額の戦費課税をめぐる、宮廷と議会の間の困難な調整役を担いました。1525年には、さらに昇進してランカスター公領尚書に任命され、イングランド北部における広大な王領地の管理を任されました。
この一連の昇進は、モアが国王の忠実な僕として、また有能な行政官として、いかに高く評価されていたかを示しています。彼は、人文主義者としての理想を胸に抱きながらも、現実の政治の世界で着実にキャリアを積み重ね、イングランドで最も権力のある人物の一人となっていったのです。しかし、その栄光の頂点の先には、彼の信仰と良心を試す、人生最大の試練が待ち受けていました。
『ユートピア』:理想郷の描写と社会批評
トマス=モアの名を不滅のものにしたのは、政治家としての業績以上に、1516年にラテン語で出版された著作『ユートピア』です。この作品は、単なる空想的な物語ではなく、当時のヨーロッパ社会、特にイングランド社会に対する痛烈な批評であり、政治哲学=社会思想の古典として、後世に計り知れない影響を与えました。その複雑で多義的な内容は、今日に至るまで様々な解釈を生み続けています。
執筆の背景と構成
前述の通り、『ユートピア』執筆の直接のきっかけは、1515年のフランドルへの外交使節としての滞在でした。交渉の合間の余暇に、彼はアントワープでこの作品の構想を練り、中心部分である第二部を書き上げました。ロンドンに帰国後、彼は導入部である第一部を書き加え、全体を完成させました。
この作品は、二部構成の対話篇という形式をとっています。登場人物は、著者であるモア自身、彼の友人でアントワープの役人であったピーター=ジャイルズ、そして物語の中心人物であるラファエル=ヒュトロダエウスという名の、謎めいたポルトガル人航海者です。ヒュトロダエウスという姓は、ギリシャ語で「戯言の専門家」あるいは「ナンセンスを語る者」といった意味であり、この物語が額面通りに受け取られるべきではないことを示唆しています。
物語は、モアがアントワープの教会で、ジャイルズからヒュトロダエウスを紹介されるところから始まります。ヒュトロダエウスは、新世界への航海で有名なアメリゴ=ヴェスプッチと共に旅をし、その後、未知の島「ユートピア」を発見して、そこで5年間暮らしたと語ります。
第一部は、モア、ジャイルズ、ヒュトロダエウスの三者による対話で構成されています。中心的なテーマは、哲学者は王に仕えるべきか否か、という問題です。モアは、哲学者はその知恵を国家のために役立てるべきだと主張しますが、ヒュトロダエウスは、私有財産と貨幣が存在する限り、いかなる国家も公正に統治することはできず、宮廷は腐敗と迎合に満ちているため、哲学者が王に仕えても何も変えることはできないと反論します。この対話の中で、ヒュトロダエウスは、当時のイングランド社会の様々な病理を鋭く批判します。特に有名なのが、「羊が人間を食らう」と表現された、囲い込み運動(エンクロージャー)への批判です。地主たちが、より儲かる羊毛生産のために、農民を土地から追い出し、畑を牧草地へと変えてしまうことで、多くの農民が貧困と犯罪に追いやられている惨状を、彼は生々しく告発します。
第二部は、ヒュトロダエウスによるユートピア島の地理=社会制度=慣習に関する詳細な報告です。彼が語るユートピアは、第一部で批判されたヨーロッパ社会とは全く対照的な、合理的で秩序だった理想郷として描かれます。
ユートピア島の社会制度
ヒュトロダエウスが語るユートピア社会の最も根本的な特徴は、私有財産の完全な否定です。島にある全ての富は共有され、人々は貨幣を一切使用しません。金や銀は、便器や奴隷の足かせを作るために使われ、その価値は意図的に貶められています。全ての市民は、必要な物資を共同の倉庫から自由に受け取ることができます。
ユートピアの市民は、全員が労働に従事することが義務付けられています。ただし、労働時間は一日六時間と短く、残りの時間は学問や芸術、あるいは有益なレクリエーションに費やすことが奨励されます。人々は農業と、もう一つ何らかの手工業の技術を身につけなければならず、都市と農村の間を定期的に移動して、両方の労働に従事します。
社会の基本単位は家族ですが、その構成は血縁よりも共同生活の便宜が優先されます。都市は計画的に建設され、清潔で衛生的な環境が保たれています。食事は共同の食堂でとることが基本です。
政治体制は、一種の代議制に基づいています。30世帯ごとに一人の代表(フィラルク)が選出され、フィラルクたちがさらに上位の代表を選び、最終的に全市民の投票によって終身任期の元首(プリンケプス)が選ばれます。ただし、元首も不正を行えば解任される可能性があります。
ユートピアの法は非常に少なく、単純明快です。これは、複雑な法律が、富める者が貧しい者を欺くための道具になると考えられているためです。弁護士という職業は存在しません。
宗教については、多様な信仰が許容される、宗教的寛容が原則とされています。ただし、無神論や、魂の不滅を信じないことは、社会の道徳的基盤を損なうものとして許されません。ユートピア人は、自然の摂理の中に神の存在を感じる、一種の理神論的な信仰を持っていますが、ヒュトロダエウス一行からキリスト教について聞かされると、多くの人々がそれに改宗したと語られます。
戦争に関しては、ユートピア人は戦争を獣的な行為として忌み嫌います。しかし、自衛のため、あるいは同盟国を防衛するため、また圧政に苦しむ人々を解放するためには、戦争を行うこともあります。その際には、自国民の犠牲を避けるため、傭兵を雇ったり、敵の指導者を買収したりといった、極めて現実的で冷徹な手段も辞さないとされています。
『ユートピア』の多義的な解釈
『ユートピア』は、その出版以来、様々な、そしてしばしば相反する解釈を生んできました。
一つは、モアが本気で共産主義的な理想社会を構想したとする解釈です。私有財産の否定、労働の義務、計画的な社会運営といった特徴から、この作品は後の社会主義思想や共産主義思想の先駆と見なされることがあります。カール=マルクスやフリードリヒ=エンゲルスも、モアを「空想的社会主義者」の一人として評価しました。
しかし、これとは対照的に、『ユートピア』は単なる知的な遊び、あるいは風刺文学に過ぎないという解釈も有力です。「ユートピア」という言葉自体が、ギリシャ語の「ou-topos(どこにもない場所)」と「eu-topos(良い場所)」をかけた言葉遊びであり、モア自身がこの理想郷の実現可能性を信じていなかったことを示唆しています。また、ユートピア社会における個人の自由の制限、厳格な社会統制、プライバシーの欠如といった側面は、むしろ現代の全体主義国家を彷彿とさせるという批判もあります。この解釈によれば、モアはユートピアを完璧な社会として提示したのではなく、むしろ、理性を突き詰めた結果として現れる非人間的な社会の危険性を警告したのだ、ということになります。
さらに別の解釈として、『ユートピア』は、修道院の共同生活の理想を、世俗社会全体に拡大しようとする試みであったと見ることもできます。私有財産を持たず、共同で労働し、祈りと学問に励むというユートピアの生活は、モアが青年期に憧れたカルトジオ会修道院の生活と多くの共通点を持っています。この観点からは、『ユートピア』は、キリスト教的人文主義の理想、すなわち、信仰と理性が調和した共同体を地上に実現しようとするモアの願望の表明と読むことができます。
結局のところ、『ユートピア』の真の意図を一つに特定することは困難であり、おそらくモア自身も、その多義性を意図していたのでしょう。この作品の不朽の価値は、特定の答えを提示することにあるのではなく、私有財産、貧困、正義、幸福、国家の役割といった、人間社会の根源的な問題について、読者に深く考えさせる力を持っている点にあります。それは、16世紀ヨーロッパの社会不安を背景に書かれた、時代の子であると同時に、時代を超えて普遍的な問いを投げかけ続ける、驚くべき近代性を備えた古典なのです。
大法官への道と「王の大問題」
1520年代、トマス=モアの政治家としてのキャリアは頂点に達します。彼は国王ヘンリー八世の厚い信頼を得て、イングランド王国における最高位の司法職である大法官にまで上り詰めました。しかし、その栄光の座は、やがて彼をイングランドの政治と宗教を根底から揺るがす巨大な嵐、「王の大問題」として知られる国王の離婚問題の渦中へと引きずり込んでいくことになります。この問題は、モア自身の運命を決定づけるだけでなく、イングランドの歴史の流れを大きく変える分水嶺となりました。
宗教改革の波とルター批判
モアが国政の中枢で活躍していた頃、ヨーロッパ大陸では、マルティン=ルターによって引き起こされた宗教改革の動きが、キリスト教世界全体を揺るがす大きなうねりとなっていました。1517年にルターが「95か条の論題」を発表して以来、彼の思想は活版印刷の助けもあって急速に広まり、カトリック教会の権威に公然と挑戦していました。
敬虔なカトリック教徒であり、教会の統一性を深く信じていたモアにとって、ルターの教えは、キリストの体を分裂させ、社会の秩序を破壊する危険な異端思想に他なりませんでした。彼は、人文主義者として教会の腐敗や聖職者の堕落を批判することはあっても、教皇の首位権や秘跡の有効性といった、カトリック教義の根幹そのものを疑うことはありませんでした。
1521年、ヘンリー八世は、ルターの教えに反論する『七つの秘跡の擁護』という本を出版し、その功績によって教皇レオ十世から「信仰の擁護者」という称号を授けられます。この本の執筆には、モアが国王を補佐し、重要な役割を果たしたと考えられています。
さらにモアは、自らもペンをとり、ルター派のプロテスタントに対する激しい論争書を次々と執筆しました。1523年にラテン語で書かれた『ヘンリクス王への返答』では、ルターの著作を「嘘と冒涜に満ちた汚水溜め」とまで呼び、痛烈な言葉で非難しています。その後も、ウィリアム=ティンダルといったイングランドのプロテスタント改革者たちを相手に、英語で書かれた数多くの論駁書を出版しました。これらの著作の中で、モアは異端思想が社会にもたらす混乱と無秩序を警告し、カトリック教会の伝統と権威を擁護しました。彼の態度は、時に不寛容とも言えるほど厳しいものであり、異端者の火刑を是認するなど、現代の視点からは問題視される側面も持っています。しかしこれは、彼が宗教的な分裂が必然的にもたらすであろう社会的な崩壊を、心から恐れていたことの裏返しでもありました。
大法官就任とウルジー枢機卿の失脚
長年にわたりイングランドの国政を牛耳ってきたのは、大法官であり、教皇特使でもあったトマス=ウルジー枢機卿でした。しかし、彼の権勢は、「王の大問題」を解決できなかったことによって、急速に終わりを告げます。
「王の大問題」とは、ヘンリー八世が、最初の王妃であるキャサリン=オブ=アラゴンとの離婚(正確には婚姻の無効)を望んだことに端を発する一連の政治的・宗教的危機です。キャサリンは、ヘンリーの兄アーサーの未亡人であり、二人の結婚は、旧約聖書レビ記の「兄弟の妻をめとってはならない」という記述に抵触する可能性がありました。この結婚は、教皇ユリウス二世からの特別の許可(特免)によって成立していましたが、ヘンリーは、キャサリンとの間に男子の世継ぎが生まれなかったことを、この禁じられた結婚に対する神の罰だと考えるようになっていました。そして何よりも、彼は若く魅力的な女官アン=ブーリンに心を奪われ、彼女を新たな王妃として迎え、正統な男子の世継ぎをもうけたいと強く願っていたのです。
ヘンリーは、ウルジー枢機卿に、教皇クレメンス七世から婚姻の無効宣言を取り付けるよう命じました。しかし、これは極めて困難な任務でした。なぜなら、当時の教皇クレメンス七世は、神聖ローマ皇帝カール五世の政治的影響下にあり、そのカール五世は、他ならぬキャサリン王妃の甥だったからです。カール五世が、自らのおばが不名誉な形で王妃の座を追われることを認めるはずがありませんでした。
ウルジーはあらゆる外交努力を尽くしましたが、教皇からの許可を得ることはできず、彼の立場は急速に悪化しました。1529年、ヘンリー八世の信頼を完全に失ったウルジーは、大法官の職を解かれ、反逆罪で告発されて失意のうちに亡くなります。
大法官トマス=モアの誕生
ウルジーの失脚後、ヘンリー八世は、その後任としてトマス=モアを大法官に任命しました。これは、イングランド史上初めて、聖職者ではない平信徒がこの最高位の職に就いたという点で、画期的な出来事でした。国王がモアを選んだ理由には、いくつかの点が考えられます。第一に、モアがヨーロッパ中に名声が轟く高名な人文主義者であり、その清廉潔白な人柄が広く尊敬を集めていたこと。第二に、彼が有能な法律家であり、行政官として卓越した実績を持っていたこと。そして第三に、国王は、モアの国際的な名声と人脈を利用すれば、大陸の大学や学者たちから自らの離婚を支持する意見を取り付け、教皇に圧力をかけることができるのではないかと期待したのかもしれません。
1529年10月、モアは大法官に就任しました。彼は、その就任演説で、自らを月(大法官)に、国王を太陽にたとえ、国王の光を反射して正義を行うと述べ、国王への忠誠を誓いました。大法官としてのモアは、その職務に精力的に取り組みました。彼は、前任者ウルジーの時代に滞っていた多くの訴訟を迅速に処理し、大法官裁判所の機能を正常化させました。彼は、賄賂を受け取らず、身分や富に関わらず、全ての人々に対して公正な裁きを行ったことで、広く称賛されました。
しかし、彼の頭上には、常に「王の大問題」という暗雲が垂れ込めていました。モアは、大法官の職を引き受ける際に、国王から、この離婚問題に直接関与することは求めないという約束を取り付けていたと言われています。彼は、法律家として、また敬虔なカトリック教徒として、ヘンリーとキャサリンの結婚は有効であり、教皇にしかそれを覆す権限はないと固く信じていました。彼は、国王個人の問題には関わらず、純粋に司法の長としての職務に専念しようと努めました。
しかし、事態はモアが距離を置くことを許さない方向へと急速に進んでいきました。ヘンリー八世は、教皇からの許可が得られないことに業を煮やし、次第にローマ教皇庁そのものから離反し、イングランド国内の教会を自らの支配下に置くという、より過激な手段へと傾いていったのです。トマス=クロムウェルといった新たな側近たちの助言を受け、国王は議会を利用して、次々と反聖職者的な、そして反教皇的な法律を制定していきました。
大法官として、モアはこれらの法案に署名し、国璽を押すことを求められました。彼は、自らの良心と、国王への忠誠義務との間で、引き裂かれるような苦悩を味わいました。彼は、公の場で国王の方針に反対することは避けましたが、その沈黙は、彼の内心の不承認を雄弁に物語っていました。やがて、国王の政策が、もはやカトリック教会の教義と相容れない地点にまで達したとき、モアは人生で最も重大な決断を下さなければならなくなります。栄光の頂点にあった大法官の職は、彼にとって、もはや安住の地ではなく、良心の呵責に苛まれる苦痛の座へと変わっていたのです。
良心の危機と殉教への道
トマス=モアが大法官の職にあった期間は、わずか2年半ほどでした。しかし、その短い期間は、イングランドの歴史が決定的な転換点を迎える、激動の時代と重なります。国王ヘンリー八世が、自らの離婚問題を解決するために、イングランド教会をローマ教皇の支配から切り離し、自らがその首長となる道を突き進んでいったからです。この動きは、大法官として、そして一人の敬虔なカトリック教徒として、モアを深刻な良心の危機へと追い込み、最終的に彼を殉教の道へと導くことになりました。
大法官辞任と沈黙の抵抗
1530年代に入ると、ヘンリー八世の反ローマ政策はますます露骨になっていきました。トマス=クロムウェルの巧みな政治手腕のもと、議会は次々と国王の意向に沿った法律を可決しました。1531年、イングランドの聖職者たちは、国王を「イングランド教会の唯一最高の保護者にして首長」として認めることを強要されました。この時、「神の法が許す限りにおいて」という曖昧な留保条件が付されたことで、かろうじて全面的な対立は避けられましたが、事態が向かっている方向は誰の目にも明らかでした。
大法官として、モアはこれらの動きを黙認せざるを得ない立場にありました。彼は、公の場で国王を批判することはせず、司法の長としての職務を淡々とこなし続けました。しかし、彼の内心の苦悩は深まるばかりでした。彼にとって、教皇の首位権は、イエス=キリストがペテロに与えた権威に由来する、神聖不可侵の教義でした。一国の王が、自らの都合で教会の首長を名乗ることなど、到底受け入れられるものではなかったのです。
決定的な転機が訪れたのは、1532年5月15日のことでした。この日、イングランドの聖職者会議は、国王の圧力に屈し、「聖職者の服従」として知られる決議を採択しました。これは、今後、教会が国王の同意なしに独自の教会法を制定しないこと、そして既存の教会法も国王が任命する委員会による審査を受けることを認めるものでした。これにより、イングランド教会は、その立法上の独立性を完全に失い、実質的に国王の支配下に置かれることになったのです。
この報せを聞いた翌日の1532年5月16日、トマス=モアは大法官の職を辞任しました。表向きの理由は健康問題でしたが、真の理由が国王の教会政策への抗議であることは、誰の目にも明らかでした。大法官という栄光の地位を自ら手放すというこの決断は、彼がもはや自らの良心を偽ってまで、国王の政策に加担することはできないという、断固たる意思表示でした。
辞任後のモアは、チェルシーの自邸に引きこもり、公的な活動から一切身を引きました。彼は、家族と共に静かな祈りと学問の生活を送ることを望みました。収入は激減し、生活は苦しくなりましたが、彼の心は、大法官時代に感じていた重圧から解放され、穏やかであったと言われています。彼は、国王の離婚問題や教会政策について、公の場で一切の意見を表明しない「沈黙」の戦術をとりました。彼は、何も語らなければ、法的に反逆罪に問われることはないと考えていたのです。この沈黙は、彼の不承認を雄弁に物語る、消極的な抵抗でした。
国王の結婚と後継者法
しかし、国王とクロムウェルは、モアのような影響力のある人物が沈黙を守ることを許しませんでした。彼の沈黙は、それ自体が国王の政策に対する無言の批判であり、他の人々の反抗を誘発する危険性をはらんでいたからです。
1533年1月、ヘンリー八世は、カンタベリー大司教トマス=クランマーの司式のもと、アン=ブーリンと秘密裏に結婚しました。同年5月、クランマーは、ヘンリーとキャサリンの結婚は当初から無効であったと宣言し、6月にはアンが正式に王妃として戴冠しました。モアは、アンの戴冠式への出席を求められましたが、病気を理由にこれを拒否しました。この欠席は、国王に対する明確な侮辱と受け取られました。
事態をさらに深刻化させたのが、1534年3月に議会で可決された「後継者法(第一継承法)」でした。この法律は、ヘンリーとキャサリンの娘であるメアリーを庶子とし、ヘンリーとアンの間に生まれる子供(この時アンはエリザベスを妊娠中)を正統な王位継承者と定めるものでした。そして、この法律の最も重要な点は、イングランドの全ての臣民に対して、この法律の内容を支持し、その維持に協力することを誓う「宣誓」を義務付けたことでした。
この宣誓を拒否することは、反逆罪と見なされ、財産没収と終身禁固の刑が科されることになっていました。宣誓文には、アンの子孫への忠誠を誓う部分だけでなく、ヘンリーとキャサリンの結婚の無効性を認め、教皇の権威を否定する内容が含まれていました。
ロンドン塔への投獄と裁判
1534年4月13日、トマス=モアは、ロチェスター司教ジョン=フィッシャーらと共に、ランベス宮殿に召喚され、後継者法への宣誓を求められました。フィッシャー司教は、モアと同様に、国王の離婚と教会の首長化に反対していた高名な聖職者でした。
モアは、宣誓文を注意深く読んだ後、宣誓を拒否しました。ただし彼は、アンの子孫が王位を継承すること自体には、議会が定めたこととして従う用意があると述べました。彼がどうしても受け入れられなかったのは、宣誓文の前文に含まれている、教皇の権威を否定し、国王の最初の結婚を無効とする部分でした。これは、彼のカトリック信仰の根幹に関わる問題だったからです。
宣誓を拒否したモアは、その日のうちに逮捕され、ロンドン塔に投獄されました。彼がかつて大法官として君臨した国の、最も厳しい牢獄に囚われることになったのです。
ロンドン塔での獄中生活は、1年以上に及びました。彼は、肉体的には衰弱していきましたが、その精神は揺らぐことがありませんでした。彼は、家族、特に愛する長女マーガレットからの、宣誓を受け入れて自由になるようにという涙ながらの説得にも、決して首を縦に振りませんでした。彼は、獄中で『悲しみの対話』などの宗教的な著作を執筆し、自らの信仰を深め、来るべき運命に備えました。
一方、国王とクロムウェルは、モアを屈服させるために、あるいは彼を合法的に処刑するために、新たな法律を制定しました。1534年11月に可決された「国王至上法(首長令)」は、国王が「イングランド国教会の地上における唯一最高の首長」であることを宣言し、これを否定する者を反逆罪として死刑に処すことを定めたものでした。
1535年7月1日、トマス=モアはウェストミンスター=ホールで裁判にかけられました。皮肉にも、そこは彼がかつて大法官として公正な裁きを行っていた場所でした。裁判は、初めから結論ありきの茶番劇でした。モアは、国王至上法について沈黙を守り続けてきたため、法的には反逆罪に問えないはずだと、法律家らしく冷静に主張しました。
しかし、検察側は、法務長官リチャード=リッチによる偽証という切り札を用意していました。リッチは、獄中でモアと会話した際に、モアが「議会は国王を教会の首長にすることはできない」と明確に語った、と証言したのです。モアは、神に誓ってそのような発言はしていないと激しく反論し、リッチの人間性を糾弾しましたが、陪審員はわずか15分ほどの審議で、モアに有罪の評決を下しました。
最後の言葉と処刑
有罪判決が下された後、もはや沈黙を守る必要がなくなったモアは、初めて自らの信念を法廷で堂々と語りました。彼は、国王至上法は、神の法と、マグナ=カルタ以来保障されてきた教会の自由に反するものであり、無効であると宣言しました。そして、いかなる世俗の君主も、キリスト教世界全体の公会議で認められてきた教皇の首位権を覆すことはできないと主張しました。
1535年7月6日、トマス=モアは、タワー=ヒルに設けられた処刑台に登りました。彼は、集まった群衆に対して、自分は国王の良き僕として死ぬが、しかし何よりもまず神の良き僕として死ぬのだ、という有名な言葉を残しました。彼は、最後までユーモアの精神を失わず、処刑人に「私の首は短いから、狙いを外さないように頼む。私の名誉に関わるからな」と冗談を言ったと伝えられています。そして、斧が一閃し、彼の生涯は終わりを告げました。享年57歳でした。
トマス=モアの死は、ヨーロッパ中の人文主義者たちに衝撃と悲しみを与えました。エラスムスは、友の死を悼み、「モアの魂は、あらゆる雪よりも白く、彼のような天才を世界は二度と持つことはないだろう」と書きました。
彼の生涯は、自らの良心と信仰に忠実であるために、地上の最高権力者に立ち向かい、ついには命を捧げた人間の尊厳の証として、後世に語り継がれることになります。カトリック教会は、1886年に彼を福者に、そして1935年には、ジョン=フィッシャーと共に聖人に列しました。