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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)

カスティリオーネ(郎世寧)とは わかりやすい世界史用語2478

著者名: ピアソラ
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カスティリオーネとは

カスティリオーネは、18世紀の中国において、西洋と東洋の芸術的伝統を融合させ、清王朝の宮廷で活躍したイタリア人イエズス会士であり画家です。 彼の中国名は郎世寧として知られています。 カスティリオーネは、康熙帝、雍正帝、そして乾隆帝という3代の皇帝に仕え、その芸術的才能を通じて、中国美術史に特異な足跡を残しました。 彼の作品は、ヨーロッパの写実主義的な技法と中国伝統の画題や様式を組み合わせたものであり、宮廷絵画に新たな様式をもたらしました。



初期の人生と召命

カスティリオーネは1688年7月19日、ミラノ公国のミラノ、サン・マルチェッリーノ地区で生まれました。 当時の裕福な家庭では一般的であったように、彼は家庭教師から教育を受けました。 また、幼い頃から絵画の才能を示し、専門の師匠のもとで絵画を学びました。 彼の父親も画家兼彫版師であったとされ、芸術的な環境で育ったことが、彼の才能を育む土壌となったと考えられます。
1707年、19歳になったカスティリオーネは、ジェノヴァでイエズス会に入会しました。 彼は司祭として叙階される道を選ばず、平修士(助修士)として会に加わりました。 イエズス会は当時、世界各地へ宣教師を派遣しており、特に中国での布教活動に力を入れていました。 17世紀後半から、康熙帝の宮廷では、絵画を含む様々な分野の専門知識を持つヨーロッパ人イエズス会士が仕えていました。 18世紀初頭、北京の宮廷に仕える画家を求める中国のイエズス会からの要請があり、カスティリオーネはその有望な候補者として選ばれ、その任を受け入れました。
中国へ向かう旅の途中、カスティリオーネはポルトガルのコインブラに数年間滞在しました。 1710年、リスボンへ向かう途中で立ち寄ったこの地で、彼はノビシャド(修練院)の教会(現在のコインブラ新大聖堂)にある聖フランシスコ・ボルハ礼拝堂の装飾を手がけました。 彼はこの礼拝堂のためにいくつかのパネル画と、主祭壇のために「イエスの割礼」を描きました。 このポルトガルでの活動は、彼が中国で宮廷画家として活躍する前の重要な経験となりました。
中国への渡航と康熙帝の宮廷

1715年8月、カスティリオーネはマカオに到着し、同年のうちに北京に到達しました。 北京では、東堂(ドンタン)としても知られる聖ヨセフ伝道所のイエズス会教会に滞在しました。 彼は康熙帝に謁見する機会を得て、その場で犬の絵を描いてみせ、別の資料によれば鳥も描いたとされています。 皇帝は彼の画才を認め、宮廷に迎え入れました。 しかし、当初は画家としてではなく、宮殿のエナメル工房の職人として配属されました。 彼は数人の弟子を与えられましたが、康熙帝の時代に描かれた彼の作品は現存していません。
康熙帝は西洋の科学技術や芸術に強い関心を示した皇帝であり、彼の治世下で多くのイエズス会士が宮廷で活躍しました。 カスティリオーネもその一人として、中国でのキャリアをスタートさせましたが、彼の才能が本格的に開花するのは次の雍正帝の時代を待たなければなりませんでした。
雍正帝の治世と才能の開花

1723年に雍正帝が即位すると、カスティリオーネの運命は大きく変わりました。 彼はエナメル工房での作業が視力に悪影響を及ぼしているとして、工房を離れることを許可されました。 そして同年、彼は雍正帝から壮大な絵画の制作を命じられます。 それが、彼の最高傑作の一つとされる「百駿図」です。 この長さ約8メートルにも及ぶ絹本着色の長大な絵巻物は、完成までに5年を要しました。 しかし、何らかの理由で、この作品が雍正帝の目に触れることはありませんでした。
雍正帝はカスティリオーネの才能を高く評価し、多くの作品を依頼しましたが、彼の治世はイエズス会士にとって困難な時期でもありました。 キリスト教が弾圧され、皇帝に仕えていない宣教師は国外追放の対象となったのです。 このような厳しい状況下でも、カスティリオーネは宮廷画家としての地位を維持し、創作活動を続けました。 彼の現存する最も初期の作品は、雍正元年(1723年)に制作されたもので、この頃から彼はヨーロッパの画法を中国の主題や好みに合わせて応用し始めていました。
乾隆帝の時代と宮廷画家としての絶頂期

1735年に乾隆帝が即位すると、カスティリオーネは宮廷画家として絶頂期を迎えます。 雍正帝の時代に制作された「百駿図」は、新帝となった乾隆帝に献上され、皇帝はこの作品を傑作と絶賛し、カスティリオーネを首席宮廷画家に任命しました。 乾隆帝は芸術の偉大な後援者であり、特にカスティリオーネの写実的な画風を高く評価しました。 カスティリオーネはその後30年以上にわたって乾隆帝に仕え、宮廷内での地位も次第に高まっていきました。
乾隆帝の治世下で、カスティリオーネは皇帝や皇后の肖像画、皇帝に献上された貢ぎ物の馬、軍事遠征の記録画など、多岐にわたる主題の作品を制作しました。 特に乾隆帝は馬に強い関心を示し、カスティリオーネは「アフガニスタンの四駿」など、一連の馬の絵を描いています。 これらの作品は、馬の解剖学的な正確さと生き生きとした姿を見事に捉えており、皇帝を大いに喜ばせました。
また、1765年には、乾隆帝の軍事遠征を記念して、カスティリオーネをはじめとするイエズス会士の画家たちが一連の「戦勝銅版画」の制作を命じられました。 彼の描いた下絵はパリに送られ、そこでエッチングによる銅版画にされてから中国に送り返されるという、国際的な共同作業によって制作されました。
カスティリオーネは絵画制作だけでなく、建築の分野でもその才能を発揮しました。 彼は北京郊外にあった離宮、円明園の西洋楼地区の庭園の設計と建設において、主要な役割を果たしました。 この西洋楼は、バロック様式の宮殿や噴水などを備えた、ヨーロッパ風の建築群であり、カスティリオーネの西洋建築に関する知識がいかんなく発揮された場所でした。
乾隆帝はカスティリオーネの仕事に個人的な関心を寄せ、しばしば彼の工房を訪れました。 カスティリオーネは1737年と1746年の二度にわたり、皇帝の訪問を受けた際に、キリスト教徒への迫害を解くようひざまずいて嘆願したと伝えられています。 皇帝はカスティリオーネの70歳の誕生日には、自ら書いた碑文と贈り物を公の儀式をもってイエズス会の住居に届けさせるなど、彼に対して特別な敬意を払いました。
芸術様式と技法

カスティリオーネの芸術様式は、ヨーロッパの絵画技法と中国の芸術的感性を独創的に融合させた点に最大の特徴があります。 彼はイタリアで学んだバロック様式の写実主義、特にキアロスクーロ(明暗法)や遠近法といった技法を中国の画材と主題に応用しました。
しかし、彼はヨーロッパの様式をそのまま持ち込んだわけではありません。 中国の皇帝や宮廷の人々の好みに合わせるために、彼は自身の画法を巧みに調整しました。 例えば、肖像画において強い影を用いるキアロスクーロの技法は、乾隆帝が影を「汚れ」のように見えると考えたため、受け入れられませんでした。 そのため、カスティリオーネは皇帝を描く際に、光の強度を和らげて顔に影ができないようにし、それでいて顔の特徴がはっきりとわかるように描きました。 また、皇帝たちは正面を向いた威厳のある姿で描かれることを好んだため、彼の描く皇帝の肖像画はほとんどが正面観の構図をとっています。
彼は中国の伝統的な絵画の素材である絹や紙に、顔料を用いて描きました。 絹に描く場合、油絵のように修正や上塗りができないため、カスティリオーネはまず紙に詳細な下絵を描き、それを絹に写し取ってから彩色するという周到な手順を踏みました。 この方法は、自発性を抑制する一方で、助手の参加を促すことにもつながりました。
彼の作品は、中国の伝統的な山水画や花鳥画の構図を取り入れつつも、対象を立体的に、そして極めて写実的に描写する点で、それまでの中国絵画にはない新しいものでした。 例えば、彼の描く馬は、中国の伝統的な馬の絵の名手である李公麟の作品を想起させますが、李公麟の生き生きとした書道的な線描と比較すると、カスティリオーネの線はより堅く、緻密な印象を与えます。 また、構図を分割するために描かれる巨大な松の木は、中国絵画から借用したモチーフですが、その複雑な枝の構造や巧みな短縮法、表面の質感へのこだわりには、明らかにヨーロッパ的な感覚が見られます。
このようにして生まれた彼の画風は「線法画」とも呼ばれ、清朝の宮廷絵画に大きな影響を与えました。 それは、西洋の科学的な観察眼と、東洋の詩的な感性が融合した、まったく新しい芸術様式だったのです。
主要な作品

カスティリオーネの長い画業の中で、数多くの傑作が生み出されました。その中でも特に重要な作品をいくつか紹介します。
百駿図

1723年から5年をかけて制作されたこの作品は、カスティリオーネの最高傑作と広く見なされています。 長さ8メートル近くに及ぶ長大な絵巻に、様々な品種、様々なポーズの100頭の馬が、広大な風景の中に生き生きと描かれています。 この作品は、西洋の遠近法と写実的な描写が、中国伝統の絵巻物の形式と見事に融合しており、彼の芸術の集大成ともいえる作品です。 3つの消失点を用いることで、鑑賞者は絵巻を繰り広げながら、それぞれの場面のリズムに没入しつつ、全体との調和も感じることができます。
乾隆帝戎装騎馬像

この作品は、若き日の乾隆帝が儀式用の鎧をまとい、馬に乗った勇壮な姿を描いた肖像画です。 カスティリオーネの西洋画法が頂点に達した時期の傑作とされています。 皇帝の顔貌、馬、そして背景の雲や前景の植物に至るまで、光と影を巧みに用いて描かれており、画家のイタリアでの修練の跡を色濃く反映しています。 一方で、遠景の山々は清朝宮廷の伝統的な山水画の様式に則っており、ここにも東西の技法の融合が見られます。
心写治平図

この一連の肖像画は、乾隆帝とその皇后、側室たちを描いたものです。カスティリオーネは、皇帝や后妃たちの顔を非常に写実的に描きながらも、中国の肖像画の伝統に則り、威厳と気品を損なわないように配慮しました。特に、強い陰影を避けることで、顔が平面的に見えすぎないようにしつつ、柔らかな光で立体感を表現する独自の技法を確立しました。
阿玉錫持矛蕩寇図

乾隆帝のジュンガル部平定の戦役で活躍した勇士の姿を描いた作品です。馬上で槍を構え、敵陣に突撃する瞬間のダイナミックな情景が、劇的な構図と写実的な描写で捉えられています。この種の記録画は、皇帝の武功を称揚する目的で制作され、カスティリオーネの画才がプロパガンダの役割も果たしていたことを示しています。
花鳥画・動物画

カスティリオーネは、馬だけでなく、犬、鷹、鹿、孔雀など、様々な動物や鳥を主題とした作品も数多く残しています。 また、牡丹や蓮などの花々を描いた静物画も得意としました。 これらの作品においても、西洋的な写実性と東洋的な装飾性、象徴性が見事に調和しています。 例えば、「聚瑞図」では、磁器の花瓶に生けられた花々が描かれていますが、花瓶の釉薬の輝きや花の立体感が、西洋画の技法であるハイライトを用いて巧みに表現されています。
建築家として、そして文化の仲介者として

カスティリオーネの貢献は絵画だけにとどまりませんでした。彼は建築家としても重要な役割を果たし、特に円明園の西洋楼の設計でその才能を発揮しました。 西洋楼は、バロック様式の宮殿、精巧な噴水、迷路などで構成されたヨーロッパ風の庭園建築群であり、当時の中国の人々にとっては驚異の的でした。 カスティリオーネは、イエズス会士のジャン=ドニ・アティレらと共に、この壮大なプロジェクトの中心人物として活躍しました。
さらに、彼は中国で初めて透視図法に関する論文「視学」を1729年に共同で出版しました。 また、ヨーロッパの聖堂や劇場で流行していたトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法を紫禁城の壁画に取り入れ、空間が奥に続いているかのような錯覚を生み出す効果をもたらしました。
カスティリオーネは、単なる芸術家ではなく、西洋と中国の文化をつなぐ重要な仲介者でもありました。 彼は天文学、数学、建築など、様々な分野における西洋の知識を中国の宮廷に紹介する役割も担いました。 皇帝たちはしばしば西洋の科学技術について彼に助言を求め、彼は皇帝の信頼できる顧問としての地位を築きました。 彼の中国文化、歴史、言語に対する深い理解が、皇帝たちとの強い信頼関係を築く上で大きな助けとなったのです。
彼の存在は、18世紀の東西文化交流の象徴であり、彼の作品は、異なる文化が出会い、互いに影響を与え合うことで、いかに豊かで新しい創造が生まれるかを示す好例です。
晩年と死

カスティリオーネは、半世紀以上にわたって中国の宮廷に仕え、1766年7月17日に北京でその生涯を閉じました。 78歳の誕生日を迎える2日前のことでした。 彼の死に際し、乾隆帝は深い哀悼の意を表し、皇帝の特別な布告によって彼に名誉が与えられ、北京のザラン墓地に帝国葬をもって埋葬されるという、外国人としては異例の厚遇を受けました。
晩年、乾隆帝はカスティリオーネが描いた若い頃の自身の肖像画を見て、「彼は私の若い頃を描いた。今日部屋に入ってきた白髪の翁(カスティリオーネ)は、これが誰であるか気づかないだろう」という言葉を書き残したと伝えられています。 この逸話は、二人の間に長年にわたる深い関係があったことを物語っています。
後世への影響と遺産

カスティリオーネの作品は、清朝の宮廷絵画に西洋の影響を明確にもたらしました。 彼の後にもヨーロッパ人の画家が続き、中国と西洋の手法を組み合わせた新しい絵画の流派が生まれました。 西洋美術が清朝の宮廷絵画に与えた影響は、特に光と影の扱い、遠近法、そして同時代の出来事を記録することを重視する点に顕著に表れています。
彼の芸術は、中国美術の発展に永続的な影響を与えました。 彼が確立した写実的でありながら中国的な詩情を失わない画風は、後の宮廷画家たちに受け継がれ、清代絵画の一つの様式として定着しました。
カスティリオーネの作品の多くは、1949年に蒋介石の国民党軍によって北京から台湾へ移され、現在は台北の国立故宮博物院に収蔵されています。 これらの作品は、中国美術の至宝として大切に保管され、世界中の人々を魅了し続けています。 また、北京の故宮博物院や、1860年の円明園焼き討ちの際に略奪されヨーロッパに渡った作品も存在します。
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・カスティリオーネ(郎世寧)とは わかりやすい世界史用語2478

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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