バタヴィアとは
17世紀以降のバタヴィアは、現在のインドネシアの首都ジャカルタの旧称です。 1619年にオランダ東インド会社(VOC)がジャヤカルタの遺跡の上に設立したこの都市は、アジアにおけるオランダの植民地支配と商業ネットワークの中心地として、約320年間にわたり繁栄と衰退の歴史を刻みました。 その歴史は、都市計画、多民族社会の形成、経済活動、そして環境問題といった、植民地都市が抱える様々な側面を映し出す複雑なものでした。
バタヴィアの建設と都市計画
オランダ東インド会社による設立
17世紀初頭、ヨーロッパでは香辛料貿易が莫大な利益を生む源泉となっていました。 ポルトガルやスペインに対抗するため、オランダは1602年にオランダ東インド会社(VOC)を設立し、アジア貿易への独占的な権利を与えました。 VOCは当初、ジャワ島西部のバンテンなどに交易所を設けていましたが、より強固な拠点とアジア貿易網の管理センターを必要としていました。
1618年、野心的な総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、ジャワ島北岸の港町ジャヤカルタをその拠点として選びました。 彼は1619年5月30日、19隻の艦隊を率いてジャヤカルタを攻撃し、街を破壊しました。 そして、その焼け跡に新たな都市を建設することを決定したのです。 クーンは当初、故郷にちなんで「ニュー・ホールン」と名付けようとしましたが、最終的にはオランダ人の祖先とされる古代ゲルマンの一部族の名前に由来する「バタヴィア」という名称が選ばれました。 このバタヴィアの設立は、VOCが単なる貿易会社から、領土を支配する植民地勢力へと変貌していく画期となる出来事でした。
オランダ式都市計画の導入
バタヴィアの都市計画は、母国オランダの都市、特にアムステルダムを模範としていました。 チリウン川をまっすぐな運河(後のカリ・ブサール)に改修し、それを中心に格子状の街路網が整備されました。 この計画は、当時著名だった数学者・技術者のシモン・ステヴィンの「理想都市」の概念に影響を受けていたと考えられています。 ステヴィンの計画では、都市は長方形のグリッドで構成され、中央を水路が貫き、役所や教会などの公共施設が中心軸に沿って配置されるという特徴がありました。
バタヴィアでは、この格子状の区画に、オランダ風の切妻屋根を持つ背の高い家々が建てられました。 都市全体は城壁と堀で囲まれ、外部からの攻撃に備える要塞都市としての機能も持っていました。 バタヴィア城は権力の中心として最も目立つ建物であり、市庁舎や市場なども計画的に配置されました。 このオランダ式の都市景観は、熱帯の地にありながら、オランダ人にとっては馴染み深く、安心感を与えるものでした。 しかし、その整然とした計画の裏には、植民地支配を強化し、多様な住民を階層的に管理するという明確な意図が隠されていました。
運河の役割と変容
バタヴィアの象徴ともいえる運河は、多岐にわたる役割を担っていました。 当初、運河は都市の防衛線として、また物資を輸送するための水路として、さらには都市の美観を高める要素として機能していました。 裕福なヨーロッパ人は運河沿いに邸宅を構え、その景観は「東洋の女王」というバタヴィアのニックネームの由来ともなりました。
しかし、このオランダ式の運河は、熱帯の環境には必ずしも適していませんでした。 オランダ本国の運河が定期的に海水の流れによって浄化されるのに対し、バタヴィアの運河は内陸からの水の流れが不規則で、水が滞留しやすかったのです。 その結果、都市の生活排水やゴミが溜まり、運河は次第に汚染されていきました。 17世紀後半には、富裕層は運河の汚染と、アラック(蒸留酒)製造所から出る煙を嫌い、より健康的で高台にある南方へと移住し始めました。 18世紀に入ると、運河の状況はさらに悪化し、堆積物によって水路が塞がれ、浚渫のための頻繁な閉鎖が必要となりました。 かつては都市の誇りであった運河は、悪臭と病気の温床へと変わり果ててしまったのです。
バタヴィアの社会構造
多民族共存と隔離政策
バタヴィアは、その設立当初から極めて国際的な多民族都市でした。 VOCは貿易と行政の中心地としてバタヴィアを建設しましたが、オランダ人の植民地として意図していたわけではありませんでした。 オランダ人、特に女性の移住は少なく、オランダ人男性とアジア人女性との関係から、メスティーソと呼ばれる混血の集団が形成されました。
都市の住民は、ヨーロッパ人(主にVOCの職員や兵士)、中国人、マレー人、インドから来たイスラム教徒やヒンドゥー教徒の商人、そしてインドネシア諸島各地から連れてこられた人々など、非常に多様でした。 中でも中国人は、商人や労働者として都市の発展に不可欠な役割を果たしました。 当初、これらの異なる民族集団は混在して居住していましたが、1688年に先住民に対する隔離政策が導入されると状況は一変します。 各民族は城壁の外にあるそれぞれの村(カンポン)に住むことを強制され、民族を識別するための札を身につけることが義務付けられました。 この隔離政策は、オランダによる支配を容易にし、社会を階層的に管理するための手段でした。 城壁に囲まれた都市の内側は、主にオランダ人と、一部の非オランダ人(中国人やマルダイケルと呼ばれる解放奴隷など)の居住区となりました。
奴隷制度という土台
バタヴィアの社会と経済は、大規模な奴隷労働によって支えられていました。 18世紀には、バタヴィアの人口の60%以上がVOCに仕える奴隷だったと推定されています。 VOCは事業の完全な管理を望んだため、自由労働者よりも奴隷を多用することを好みました。 これらの奴隷は、インドやアラカン(現在のミャンマー・ラカイン州)、後にはバリ島やスラウェシ島など、アジアの広範な地域から連れてこられました。
奴隷の仕事は多岐にわたり、城の建設や運河の浚渫といった公共事業から、家事労働まで様々でした。 女性の奴隷は「バブー」と呼ばれ、料理や子育てを担いました。 奴隷の生活は主人の裁量に大きく左右されましたが、過度に過酷な扱いから奴隷を保護する法律も存在しました。 例えば、キリスト教徒の奴隷は主人の死後に解放され、他の奴隷も自分の店を持ち、自由を買い取るためにお金を稼ぐことが許される場合がありました。 しかし、全体として見れば、奴隷制度はバタヴィア社会の基盤をなす搾取的なシステムであり、その繁栄の暗い側面を物語っています。 奴隷所有は富と社会的地位の象徴であり、ヨーロッパ人だけでなく、裕福な中国人やアラブ人も多くの奴隷を所有していました。
ヨーロッパ人社会とクレオール文化
バタヴィアのヨーロッパ人社会は、決して一枚岩ではありませんでした。VOCの高官と一般職員、兵士、自由市民との間には明確な階層が存在しました。 VOC政庁は、贅沢禁止令(奢侈禁止令)をたびたび発布し、服装や振る舞いにおける身分誇示を規制しようと試みました。 例えば、日傘は総督とその家族など、ごく一部の最高位の役人だけが従者に持たせることが許されていました。 このような規制は、少数派であるオランダ人内部の結束を保ち、被支配層に対して統一された支配者層として君臨するための戦略であったと考えられます。
一方で、オランダ人男性とアジア人女性との間に生まれた子供たちや、アジアで生まれ育ったヨーロッパ人は、ヨーロッパとアジアの文化が融合した独自の「インド・ダッチ文化」あるいは「クレオール文化」を形成しました。 彼らの生活様式、言語(ポルトガル語やマレー語が広く使われた)、食事、服装は、ヨーロッパのそれとは異なる独特のものでした。 このハイブリッドな文化は、バタヴィア社会の複雑さと多層性を象徴しています。
経済と貿易の中心地
VOCのアジア貿易ネットワークの拠点
バタヴィアは、設立当初からオランダ東インド会社(VOC)のアジアにおける貿易ネットワークの中心地として機能しました。 17世紀、VOCはナツメグ、メース、クローブといった香辛料の独占に成功し、ヨーロッパ市場で莫大な利益を上げました。 バタヴィアは、これらの香辛料をアジア各地から集め、ヨーロッパへ送り出すための中継基地でした。
VOCの貿易は香辛料だけにとどまりませんでした。 胡椒、絹、磁器、金属、茶、米、サトウキビ、コーヒー、アヘンなど、多種多様な商品がバタヴィアを行き交いました。 バタヴィアは、アジア域内貿易(イントラ・アジア貿易)においても重要なハブであり、インド、中国、日本、そして東南アジアの各地を結ぶ結節点でした。 この広大な貿易網を管理するため、バタヴィアには総督とインド評議会からなる中央政府が置かれ、アジア全域のVOCの活動を統括していました。
中国人コミュニティの経済的役割
バタヴィアの経済において、中国人移民は極めて重要な役割を担っていました。 彼らは商人、職人、そして労働者として、都市の経済活動のあらゆる側面に深く関わっていました。 特に、城壁の外に広がる周辺地域では、中国人がサトウキビ栽培を始め、製糖業を発展させました。
しかし、中国人コミュニティの経済的な成功は、オランダ植民地政府との間に緊張を生む原因ともなりました。 18世紀に入り、砂糖産業が衰退し、失業や社会不安が増大すると、植民地政府は中国人移民を制限し、セイロン(現在のスリランカ)や南アフリカへ強制送還しようと試みました。 これに対し、船から海に突き落とされることを恐れた中国人が暴動を起こすと、1740年10月9日から22日にかけて、オランダ兵と現地住民による大規模な中国人虐殺事件が発生しました。 この事件で約1万人の中国人が殺害され、生き残った人々は城壁の外のグロドック地区に強制的に移住させられました。 この悲劇は、バタヴィアの多民族社会に潜む緊張と暴力性を浮き彫りにする出来事でした。
18世紀における経済の変容とVOCの衰退
18世紀に入ると、VOCの繁栄にも陰りが見え始めます。 その要因は複数ありました。第一に、ヨーロッパにおける消費者の嗜好の変化により、香辛料の需要が相対的に低下しました。 第二に、アジア域内貿易における競争の激化や、貴金属の供給減により、貿易の収益性が悪化しました。 第三に、イギリス東インド会社など、他のヨーロッパ勢力との競争が激しくなり、VOCは各地で貿易独占を維持するための軍事費増大に苦しみました。
さらに、バタヴィアを中心とする中央集権的な管理システムも、非効率性を露呈し始めました。 全ての商品を一度バタヴィアに集めてから再分配する方式は、情報収集の面で利点がありましたが、18世紀になると輸送コストの増大を招きました。 そして、後述するバタヴィアの劣悪な衛生環境による高い死亡率も、兵士や職員の補充コストを増大させ、VOCの財政を圧迫する深刻な要因となりました。 汚職や密輸の蔓延も会社の経営を蝕み、18世紀末にはVOCは破産状態に陥り、1799年に正式に解散しました。 その負債と広大な海外領土は、オランダ本国政府(当時はバタヴィア共和国)に引き継がれ、バタヴィアは会社の拠点から植民地の首都へとその性格を変えていくことになります。
「ヨーロッパ人の墓場」:病気と環境問題
マラリアの蔓延
18世紀のバタヴィアは、「ヨーロッパ人の墓場」という不名誉な名で知られるようになりました。 その最大の原因は、マラリアをはじめとする伝染病の蔓延でした。 バタヴィアは元々、湿地帯の上に建設された都市であり、蚊が繁殖しやすい環境でした。 特に1733年以降、未知の致死性の高い病気(現在では悪性マラリアと考えられている)が大流行し、VOCの職員や兵士の死亡率が急激に上昇しました。
この大流行以前、バタヴィアは比較的健康な都市と見なされており、年間の死者数は500人程度でした。 しかし1733年以降、その数は年間2,000人、時には3,000人にまで跳ね上がったのです。 この驚異的な死亡率は、ヨーロッパから新たに到着した人々にとって特に深刻で、彼らは免疫を持つ前に病に倒れていきました。 この人的損失はVOCにとって大きな打撃となり、兵士や船員の不足は軍事拠点の維持を困難にし、貴重な積荷をバタヴィアに留め置かざるを得ない状況さえ生み出しました。 18世紀を通じて、この「バタヴィアの不健康さ」はVOCの財政を圧迫し続け、その衰退の一因となったと考えられています。
環境悪化の進行
マラリアの蔓延は、都市の環境悪化と密接に関連していました。前述の通り、運河は生活排水やゴミで汚染され、水の流れが滞ることで蚊の絶好の繁殖地となりました。 さらに、都市周辺でのサトウキビの大規模栽培も環境に悪影響を及ぼしました。 森林伐採は土壌流出を引き起こし、それが運河の堆積を加速させました。 また、沿岸部では侵食が進むなどの問題も発生しました。
富裕なヨーロッパ人たちは、この不健康な環境を避けるため、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、より高台で涼しい南部のウェルテフレーデン(「満ち足りた」の意)と呼ばれる地域へと移住を進めました。 これにより、旧市街(ベネデンスタット、低地都市)は商業の中心地としての役割は維持しつつも、居住地としては衰退していきました。 この都市中心部の移動は、バタヴィアの都市構造を大きく変えることになります。旧市街の不衛生な環境と、新しく開発された南部の健康的な郊外という対比は、19世紀以降のバタヴィアを特徴づけるものとなりました。
19世紀から20世紀初頭の変貌
VOC解散とオランダ領東インドの首都
1799年のVOC解散後、バタヴィアとその周辺地域はオランダ政府の直接統治下に置かれ、オランダ領東インドの首都としての地位を確立しました。 この移行は、単なる行政上の変化以上の意味を持っていました。VOCが主として商業的利益を追求する会社であったのに対し、19世紀の植民地国家は、領土の拡大と資源の体系的な搾取をより重視するようになりました。
ナポレオン戦争の時代、オランダ本国がフランスの支配下に置かれたため、バタヴィアも一時的にフランスの影響下にありました。 1808年には、総督ヘルマン・ウィレム・ダーンデルスが派遣され、イギリスの侵攻に備えてジャワ島の防衛強化と行政改革を行いました。 彼の政策には、ジャワ島を横断する軍用道路(ジャワ大郵便道路)の建設などが含まれますが、その建設は過酷な強制労働によって成し遂げられました。
イギリスによる一時占領とラッフルズの改革
1811年、イギリスはフランスの勢力拡大を阻止するため、ジャワ島に侵攻し、バタヴィアを占領しました。 このイギリス統治時代(1811年~1816年)に副総督として赴任したのが、後にシンガポールを建設することになるトーマス・スタンフォード・ラッフルズです。 ラッフルズは、ダーンデルスの強制労働的な政策を批判し、土地所有制度の改革(ランドレント・システム)などを試みました。 彼はまた、旧市街の不健康な環境を問題視し、行政の中心をさらに南のウェルテフレーデンへと移すことを推進しました。 イギリスによる占領は短期間で終わりましたが、ラッフルズによる改革や都市計画の思想は、その後のバタヴィアの発展に影響を与えました。
「倫理政策」と都市の近代化
19世紀末から20世紀初頭にかけて、オランダ本国では「倫理政策」と呼ばれる新しい植民地統治理念が提唱されました。これは、現地住民の福祉向上や教育にも配慮すべきだという考え方で、バタヴィアの都市開発にも反映されました。 この時期、バタヴィアでは鉄道網が整備され、学校、病院、郵便局、工場などが次々と建設されました。 1877年から1883年にかけては、増大する国際貿易に対応するため、タンジュンプリオクに新しい港が建設されました。
都市の近代化と商業活動の活発化は、オランダ本国からの新たな移住者(トトックと呼ばれる)や、ジャワ島の農村部からの労働者を惹きつけ、バタヴィアの人口は急増しました。 19世紀末の人口は約11万6千人でしたが、1930年には50万人以上に達しました。 この急激な人口増加は、住宅需要の逼迫と地価の高騰を招き、既存の家々の間にカンポンと呼ばれる密集居住区が形成されるなど、新たな都市問題も生み出しました。 1924年には法学校、1941年にはバタヴィア大学(後のインドネシア大学)が設立されるなど、高等教育機関も整備されていきました。
終焉と遺産
日本軍政と「ジャカルタ」への改称
バタヴィアの3世紀以上にわたるオランダ植民地としての歴史は、第二次世界大戦によって突如として終わりを告げます。1942年3月5日、日本軍がバタヴィアを占領し、オランダは降伏しました。 日本軍政下で、バタヴィアは「ジャカルタ特別市」と改称されました。 この名称変更は、植民地的な影響を排除し、現地の民族意識を高揚させるという日本軍の政策の一環でした。
インドネシア独立と首都ジャカルタへ
1945年8月17日、日本の降伏後、インドネシアの民族主義者たちは独立を宣言し、ジャカルタがその舞台となりました。 しかし、その後もオランダとの独立戦争が続き、都市は混乱期を経験します。 国際的には、1949年12月27日にオランダがインドネシアの主権を完全に承認するまで、「バタヴィア」という名称が使われ続けました。 この日をもって、ジャカルタは正式に独立国家インドネシアの首都となり、「バタヴィア」の名は公式に歴史から姿を消したのです。
バタヴィアの遺産
バタヴィアという都市は消滅しましたが、その遺産は現代のジャカルタの随所に色濃く残っています。ジャカルタの旧市街(コタ・トゥア)には、かつての市庁舎(現在のジャカルタ歴史博物館)や運河、オランダ風の建物が保存されており、植民地時代の面影を伝えています。 格子状の街路や運河の跡は、VOC時代の都市計画の名残です。
また、バタヴィアの多民族的な社会構造は、「ブタウィ」と呼ばれるジャカルタ先住民の文化形成に大きな影響を与えました。 ブタウィ文化は、マレー、スンダ、ジャワ、中国、アラブ、ヨーロッパなど、バタヴィアに集まった多様な民族の文化が融合して生まれたものです。
一方で、バタヴィアの歴史は植民地支配の負の遺産も残しました。人種に基づく社会階層や空間的な隔離、天然資源の搾取、そして奴隷制度といった問題は、その後のインドネシア社会にも複雑な影響を及ぼしています。