ヒンディー語とは
ムガル帝国時代のヒンディー語は、単一の言語として存在するのではなく、多様な言語的要素が混じり合った複合的な状況を示しています。この時代は、デリー周辺で話されていた土着のインド・アーリア語派の言語、特にカーリー・ボリーが、ペルシア語、アラビア語、そしてテュルク諸語の影響を強く受けて、ヒンドゥスターニー語として知られる新しい共通語へと発展していく重要な過渡期でした。 ムガル帝国の支配者たちはテュルク・モンゴル系の出自でしたが、文化的にはペルシア化しており、宮廷の公用語としてペルシア語を採用しました。 このペルシア語の庇護は、管理、文学、そしてエリート層のコミュニケーションの主要言語としての地位を確立させましたが、同時に、北インドの広範な地域で話されていた現地の言語との接触を通じて、新しい言語の形成を促しました。
この過程で生まれたヒンドゥスターニー語は、デリー・スルターン朝時代(1206年-1526年)にその萌芽が見られ、ムガル帝国時代(1526年-1858年)に大きく発展しました。 その文法構造と基本的な語彙は、デリー周辺の地域方言であったカーリー・ボリーに由来しています。 しかし、ペルシア語からの膨大な借用語彙が加わることで、その表現力は豊かになり、文化的、法律的、政治的な概念を表すための新しい言葉がもたらされました。 ムガル帝国の拡大に伴い、この言語は軍隊や行政官、商人などを通じて北インドの広範囲に広まり、多様な言語を話す人々の間のリンガ・フランカ(共通語)としての役割を担うようになりました。
この言語は、時代や地域、話者の社会的背景によって、ヒンダヴィー、ヒンディー、デリー、レークタなど、さまざまな名称で呼ばれていました。 特に「レークタ」は、詩作に用いられた高度にペルシア化された文語体を指し、後のウルドゥー語の基礎を築きました。 一方で、ムガル帝国の宮廷では、ペルシア語だけでなく、ブラジ・バーシャーのような地域の文芸言語も庇護を受け、独自の文学的伝統を育んでいました。 これらの言語は、音楽や詩作の分野で重要な役割を果たし、ペルシア文化とインド土着の文化が融合した、複合的な「ガンガ・ジャムニ・テヘジブ」として知られる文化の形成に貢献しました。
ムガル帝国後期になると、帝国の衰退とともにペルシア語の卓越性は次第に薄れ、ヒンドゥスターニー語がエリート層の間でも主要なコミュニケーション手段として台頭しました。 この言語は、口語レベルではヒンディーとウルドゥーの間に明確な区別はありませんでしたが、書き言葉としては、ペルシア・アラビア文字を用いるウルドゥーと、デーヴァナーガリー文字を用い、サンスクリットからの語彙を多く取り入れるヒンディーという、二つの異なる標準化の道を歩み始めることになります。 このように、ムガル帝国時代の「ヒンディー語」とは、今日の標準ヒンディー語に直接つながる単一の言語ではなく、ペルシア語の影響を受けながら形成されたヒンドゥスターニー語という大きな枠組みの中で、多様な方言や文体、そして後のヒンディー語とウルドゥー語へと分化していく萌芽を内包した、複雑で動的な言語状況そのものを指すものと言えます。
ムガル帝国における言語の多様性とペルシア語の役割
ムガル帝国は、16世紀初頭から19世紀半ばにかけてインド亜大陸の大部分を支配した、文化的に豊かで多面的な帝国でした。その言語状況は、帝国の多民族的・多文化的性格を反映し、非常に複雑な様相を呈していました。帝国の支配者層は中央アジアのテュルク・モンゴル系であるティムール朝の血を引いていましたが、彼らは高度にペルシア化されており、帝国の設立者であるバーブル以降、ペルシア語が公用語および宮廷言語としての地位を確立しました。 このペルシア語の採用は、ムガル帝国以前のデリー・スルターン朝などのテュルク・アフガン系王朝がすでにインド亜大陸にペルシア語の使用基盤を築いていたことを受けて、さらに強化される形となりました。
ペルシア語は、行政、外交、法律、そして高級文化の言語として、帝国の隅々にまでその影響を及ぼしました。 ムガル帝国の貴族や官僚の多くは、ペルシア語を母語としない者であっても、教養と社会的地位の証としてペルシア語を習得し、流暢に使いこなしました。アクバル帝の時代には、それまで地域の言語で記録されていた歳入記録をペルシア語に統一するなど、行政言語としてペルシア語の普及が積極的に進められました。 これにより、北インドではペルシア語の知識が広範に浸透しました。 文学の分野でも、ペルシア語は支配的な言語であり、イラン本国にも匹敵する、あるいは時にはそれを凌駕するほどの質の高い詩や散文がインドの地で生み出されました。 ムガル宮廷は、イランや中央アジアから多くの詩人、学者、芸術家を惹きつけ、彼らがインドの文化に新たな刺激を与えました。
しかし、ペルシア語が公用語であった一方で、ムガル帝国は広大な領土と多様な民族を抱えており、人々の日常生活では無数の地域言語が話されていました。 これらには、インド・アーリア語派に属するブラジ・バーシャー、アワディー、パンジャービー、グジャラーティー、ラージャスターニー、ベンガル語や、ドラヴィダ語族のテルグ語、カンナダ語、タミル語などが含まれます。 ムガル帝国の支配者たちは、これらの地域言語の重要性を認識しており、特に文学や音楽の分野では、ペルシア語以外の言語も積極的に庇護しました。 例えば、アクバル帝はサンスクリットの重要な文献をペルシア語に翻訳させる大規模な事業を後援し、ヒンドゥー教の聖典であるウパニシャッドが孫のダーラー・シコーによってペルシア語に翻訳されるなど、異なる言語文化間の交流を促進しました。
音楽の分野では、特に北インドの古典音楽であるヒンドゥスターニー音楽がムガル宮廷の庇護の下で大きく発展しました。 この音楽で用いられる歌詞の多くは、アグラ周辺で話されていたブラジ・バーシャーで書かれており、ムガル宮廷がこの言語の詩人や音楽家を支援したことを示しています。 アクバル帝の宮廷にいた伝説的な音楽家タンセンは、ブラジ・バーシャーで多くのドゥルパドを作曲したことで知られています。 このように、ペルシア語が行政とエリート文化の頂点に君臨する一方で、地域言語もまた、特に宗教、音楽、そして民衆文化の領域で力強く生き続け、宮廷文化にも影響を与えていました。
このペルシア語とインドの土着言語との長年にわたる接触から、新しい共通語が生まれることになります。それがヒンドゥスターニー語です。 この言語は、デリー周辺で話されていたカーリー・ボリーと呼ばれるインド・アーリア語の方言を文法的な基盤としながら、ペルシア語、アラビア語、そしてテュルク諸語から膨大な数の語彙を借用したものでした。 ムガル軍の野営地(オルドゥー)や市場、スーフィーの聖者たちの活動などを通じて、異なる言語を話す人々が交流する中で自然に形成され、帝国の拡大とともに北インド全域に広まっていきました。 ヒンドゥスターニー語は、当初は主に口語として用いられ、兵士、商人、巡礼者など、さまざまな階層の人々によって話されるリンガ・フランカ(共通語)としての役割を果たしました。
ムガル帝国後期になると、帝国の政治的権威が衰え始めるとともに、ペルシア語の卓越性にも陰りが見え始めます。 18世紀には、ペルシア語に代わって、ヒンドゥスターニー語の一変種が北インドの教養あるエリート層の間でさえ、共通語としての地位を確立し始めました。 この言語は、ペルシア語の洗練された語彙や表現を取り込みつつも、インド土着の言語構造を持つ、まさにインドとペルシアの文化が融合した「ガンガ・ジャムニ・テヘジブ」を象徴する存在でした。
結論として、ムガル帝国時代の言語状況は、ペルシア語という単一の公用語によって支配されていたわけではなく、ペルシア語を頂点としながらも、多数の地域言語が併存し、相互に影響を与え合うダイナミックな多言語社会でした。そして、この多言語状況の中から、ペルシア語とインドの言語が融合したヒンドゥスターニー語が生まれ、後の近代標準ヒンディー語と近代標準ウルドゥー語の直接の祖先となったのです。 ムガル帝国時代の「ヒンディー語」を理解するためには、このペルシア語の圧倒的な影響と、それと共存・融合したインドの多様な言語の歴史的背景を抜きにしては語ることはできません。
ヒンドゥスターニー語の形成:デリー・スルターン朝からムガル帝国へ
今日のヒンディー語とウルドゥー語の共通の祖先であるヒンドゥスターニー語の形成は、ムガル帝国の時代に大きく進展しましたが、その起源はさらに遡り、デリー・スルターン朝(1206年-1526年)の時代にまでたどることができます。 この言語の発展は、インド亜大陸におけるイスラーム勢力の到来と定着によって引き起こされた、長期間にわたる文化的・言語的接触の産物です。
ヒンドゥスターニー語の地理的・言語的基盤となったのは、デリーとその周辺地域、特にガンジス川とヤムナー川に挟まれたドアーブ地方で話されていた「カーリー・ボリー」として知られる言語でした。 カーリー・ボリーは、7世紀から13世紀にかけて北インドで話されていた中期インド・アーリア語のアパブランシャ諸方言から発展した、西ヒンディー語群に属する方言の一つです。 13世紀初頭にデリー・スルターン朝が成立し、デリーが北インドの政治的中心地となると、この地域は必然的に多様な言語が交錯する場所となりました。
デリー・スルターン朝の支配者たちは、主に中央アジア出身のテュルク系やアフガン系の民族であり、彼らの母語はテュルク諸語でしたが、公用語としてはペルシア語を採用しました。 軍隊、行政官、学者、商人、そしてスーフィーの聖者たちが、イラン、アフガニスタン、中央アジアからデリーへと移住し、ペルシア語、アラビア語、テュルク諸語をインドにもたらしました。 このような状況下で、デリーの土着言語であったカーリー・ボリーを話す人々と、外来の言語を話す人々との間で、日常的なコミュニケーションのための共通言語が必要とされるようになりました。 こうして、カーリー・ボリーの文法構造と基本的なサンスクリット・プラークリット由来の語彙を保持しつつ、ペルシア語、アラビア語、テュルク諸語からの借用語を大量に取り入れた接触言語として、ヒンドゥスターニー語の初期の形が生まれました。
この新しい混合言語の初期の姿は、13世紀後半から14世紀初頭にかけて活躍したデリー・スルターン朝時代の詩人アミール・フスローの作品に見ることができます。 フスローは、ペルシア語で高度な詩作を行う一方で、「ヒンダヴィー」(「インドの」または「インド人の」を意味するペルシア語)と彼が呼んだ言語を用いて、民衆向けの歌やなぞなぞ、二行連詩なども創作しました。 彼は、ペルシア語とブラジ・バーシャー(当時、文芸言語として有力だった別の方言)を巧みに組み合わせた詩も残しており、これは後のレークタ(混合された詩の言語)の先駆けと見なされています。 フスローの功績は、それまで口語に過ぎなかったこの言語に文学的な表現の可能性を与えた点にあり、彼はしばしば「ウルドゥー文学の父」と呼ばれます。
デリー・スルターン朝の支配が南インドのデカン高原に及ぶと、この言語もまた南へと伝わりました。14世紀にムハンマド・ビン・トゥグルクが首都をデリーからダウラターバードへ一時的に遷都した際の大規模な人口移動は、この言語がデカン地方に根付く大きなきっかけとなりました。 デカンで発展したこの言語は「デッカニー」と呼ばれ、ペルシア語からの影響に加え、現地のマラーティー語、テルグ語、カンナダ語といったドラヴィダ語族の言語からも語彙を取り入れ、独自の文学的伝統を築き上げました。 デッカニーは、北インドのヒンドゥスターニー語とは異なる発展を遂げましたが、後の時代に北インドの文学、特にウルドゥー語の発展に影響を与えることになります。
1526年にバーブルがデリー・スルターン朝を破り、ムガル帝国を建国すると、ヒンドゥスターニー語の発展は新たな段階に入ります。 ムガル帝国もまた、デリー・スルターン朝と同様にペルシア語を公用語としましたが、帝国の安定と拡大に伴い、ヒンドゥスターニー語はリンガ・フランカとしての役割をさらに強固なものにしていきました。 ムガル軍は、インド各地から徴兵された兵士たちで構成されており、彼らの共通言語は「ラシュカリー・ザバーン」(軍隊の言語)とも呼ばれるヒンドゥスターニー語でした。 「ウルドゥー」という名称自体が、テュルク語で「軍隊」や「野営地」を意味する「オルドゥー」に由来するという説は、この言語と軍隊との深い関わりを示唆しています。
シャー・ジャハーン帝(在位1628年-1658年)がデリーに新たな首都シャージャハーナーバード(現在のオールド・デリー)を建設し、赤の城塞(ラール・キラー)の近くに「ウルドゥー・バーザール」(軍隊市場)が形成されると、この言語はデリーの都市文化と深く結びつき、より洗練された形へと発展していきました。 この時代、ヒンドゥスターニー語は、ヒンディー、ヒンダヴィー、ヒンドゥスターニー、そしてレークタなど、さまざまな名前で呼ばれ続けました。 特に、詩作に用いられるペルシア語化された文体は「レークタ」(「混ぜ合わされた」の意)として知られ、18世紀にはミール・タキー・ミールやミールザー・ガーリブといった偉大な詩人たちによって、高度な芸術的表現の域にまで高められました。
このように、ヒンドゥスターニー語はデリー・スルターン朝時代にデリー周辺で生まれ、ムガル帝国の下で北インド全域、さらにはデカン高原へと広がり、多様な文化と言語が接触するるつぼの中で、豊かな語彙と表現力を持つ共通語として成熟していきました。それは、単なる外来語の寄せ集めではなく、インド土着の言語的基盤の上に、ペルシア文化の洗練を取り入れた、新しい複合文化の象徴ともいえる言語だったのです。
カーリー・ボリー:ヒンディー語の文法的基盤
ムガル帝国時代に形成され、現代の標準ヒンディー語と標準ウルドゥー語の直接の祖先となったヒンドゥスターニー語は、その文法構造と音韻体系の核となる部分を、デリー周辺で話されていた「カーリー・ボリー」と呼ばれる地域方言に負っています。 カーリー・ボリー(「直立した、あるいは硬い話し方」の意)は、インド・アーリア語派の中央語群、西ヒンディー語に分類される言語で、デリー、メーラト、サハーランプルなどを含む、ガンジス川とヤムナー川上流のドアーブ地方がその発祥地です。 この言語が、後に亜大陸規模の共通語の基盤となった背景には、地理的・歴史的な要因が深く関わっています。
カーリー・ボリーの起源は、中世インドで話されていた中期インド・アーリア語の一種であるシャウラセーニー・プラークリット、そしてそれがさらに変化したシャウラセーニー・アパブランシャにまで遡ることができます。 7世紀頃から13世紀にかけて、これらのアパブランシャ諸方言から、ブラジ・バーシャー、アワディー、そしてカーリー・ボリーといった、現代の北インド諸言語の直接の祖先となる言語(古ヒンディー語)が分化していきました。 当初、これらの言語の中で文学的に優勢だったのは、クリシュナ信仰の中心地であるマトゥラー周辺で話され、豊かな詩的伝統を持つブラジ・バーシャーや、ラーマ物語の叙事詩で知られるアワディーでした。 これに対し、カーリー・ボリーは、主に日常会話で用いられる一地方言に過ぎませんでした。
しかし、13世紀にデリーがデリー・スルターン朝の首都として確立されると、カーリー・ボリーが話される地域は北インドの政治・経済・文化の中心地となりました。 支配者層であったテュルク・アフガン系の人々がペルシア語を公用語として持ち込み、中央アジアやイランからの移住者が増加する中で、デリーの市井では、土着のカーリー・ボリーと外来のペルシア語、アラビア語、テュルク諸語との接触が日常的に起こりました。 この言語接触の結果、カーリー・ボリーの文法的な骨格はそのままに、ペルシア語を中心とする外来語彙を大量に取り込んだ新しい混合言語、すなわちヒンドゥスターニー語が誕生したのです。
ヒンドゥスターニー語がカーリー・ボリーから受け継いだ文法的な特徴には、以下のような点が挙げられます。まず、名詞の性(男性・女性の2つ)、数(単数・複数)、格(直接格・斜格)の区別があります。動詞は、主語の性や数に応じて変化します。また、時制や相(アスペクト)を表すために、助動詞を多用する複合動詞のシステムが発達している点も大きな特徴です。例えば、完了相を表す動詞は、主語ではなく目的語の性・数に一致するという能格構文的な振る舞いを過去時制で見せることがあります。これらの基本的な文法規則は、サンスクリットやプラークリットから受け継がれたインド・アーリア語本来の性質であり、ペルシア語からの影響はほとんど見られません。
語彙の面では、ヒンドゥスターニー語の核となる部分はカーリー・ボリー、ひいてはサンスクリットやプラークリットに由来する語彙(タツァマ、タドバヴァと呼ばれる)で構成されています。 日常生活で使われる基本的な動詞、代名詞、数詞、身体の部位や親族名称を表す単語の多くは、インド固有のものです。しかし、ムガル帝国時代を通じて、行政、法律、軍事、学問、芸術、料理といった、より高度で文化的な領域では、ペルシア語と、ペルシア語を経由したアラビア語からの借用語が圧倒的な数を占めるようになりました。 これらの外来語は、カーリー・ボリーの音韻体系に合わせて発音が調整され、言語の一部として完全に同化していきました。
18世紀から19世紀にかけて、それまで文学の主要言語であったブラジ・バーシャーやアワディーの人気が衰退し始めると、デリーの宮廷周辺で話され、ペルシア語の影響で洗練されたカーリー・ボリー(ヒンドゥスターニー語)が、新たな威信方言としての地位を獲得していきました。 イギリス植民地時代になると、この言語は行政や教育の場で採用され、標準語としての地位を確立します。 そして、この標準化の過程で、主にペルシア・アラビア語彙を保持し、ペルシア・アラビア文字で書かれるウルドゥーと、ペルシア・アラビア語彙をサンスクリット語彙に置き換え、デーヴァナーガリー文字で書かれるヒンディーという、二つの異なる文語体へと分化していくことになったのです。
したがって、カーリー・ボリーは、ムガル帝国時代にペルシア語との融合によってヒンドゥスターニー語へと姿を変え、北インドの共通語として広まるための言語的な土台を提供した、極めて重要な方言であったと言えます。その文法構造は、今日のヒンディー語とウルドゥー語の中に、今なお明確な形で生き続けています。
ペルシア語、アラビア語、テュルク諸語からの語彙的影響
ムガル帝国時代に形成されたヒンドゥスターニー語の最も顕著な特徴の一つは、その語彙におけるペルシア語、アラビア語、そしてテュルク諸語からの甚大な影響です。 この言語は、文法的にはデリー周辺の土着方言であるカーリー・ボリーを基盤としていましたが、数世紀にわたるイスラーム王朝の支配下で、支配者層の言語であったペルシア語を中心に、膨大な数の外来語を吸収しました。 この語彙の流入は、ヒンドゥスターニー語を単なる地方の方言から、広範な文化的・政治的概念を表現できる洗練された共通語へと変貌させる上で決定的な役割を果たしました。
影響の中心となったのはペルシア語でした。ペルシア語は、デリー・スルターン朝からムガル帝国に至るまで、長きにわたり宮廷の公用語であり、行政、法律、文学、学問の世界で広く用いられていました。 その結果、これらの分野に関連する語彙のほとんどがペルシア語から借用されました。 文化・芸術に関する語彙もペルシア語由来のものが数多くあります。これらの単語はヒンドゥスターニー語の語彙体系に深く根付き、多くの話者にとってはもはや外来語とは認識されないほど日常的な言葉となっています。
ペルシア語の影響は単語の借用にとどまらず、文法的な要素にも及びました。その代表例が「イザーファ」と呼ばれる構造です。これは、修飾される名詞の後に短い母音「-e-」を置き、その後に修飾する語(名詞または形容詞)を続けることで、所有や修飾の関係を示すペルシア語の文法機能です。 このように、ペルシア語はヒンドゥスターニー語の表現の幅を広げ、より洗練された文体を生み出すための資源を提供しました。
アラビア語からの借用語も多数存在しますが、その多くは直接ではなく、ペルシア語を介してヒンドゥスターニー語に入ってきました。 アラビア語はイスラームの宗教言語であったため、宗教、哲学、科学、論理学に関連する抽象的な概念を表す語彙が中心です。これらの語彙は、ヒンドゥスターニー語に知的な深みと宗教的なニュアンスを与えました。
テュルク諸語からの影響は、ペルシア語やアラビア語ほど広範ではありませんが、特定の分野において重要な語彙を提供しています。ムガル帝国の創始者であるバーブルをはじめとする初期の支配者たちは、テュルク系の中央アジア出身であり、彼らの母語はチャガタイ・トルコ語でした。 そのため、軍事に関連する語彙にテュルク語起源のものが多く見られます。これらの語彙は、ムガル帝国の支配者層の出自と、軍事組織における彼らの役割を言語的に反映しています。
これらの外来語彙の流入は、ヒンドゥスターニー語を非常に豊かな混合言語にしました。 インド土着のサンスクリット・プラークリット系の語彙が日常生活の基盤を支える一方で、ペルシア語、アラビア語、テュルク語からの借用語が、より公式で、文化的、知的な表現の層を形成しました。この語彙の二層構造、あるいは多層構造は、ヒンドゥスターニー語の大きな特徴であり、後のヒンディー語とウルドゥー語の分岐点ともなりました。ウルドゥー語がペルシア・アラビア語彙を保持し、さらに積極的に取り入れる傾向を強めたのに対し、ヒンディー語はこれらの語彙をサンスクリット語彙に置き換えることで、独自の標準語を形成しようとしました。 とはいえ、口語レベルのヒンドゥスターニー語においては、これらのペルシア語やアラビア語由来の単語は、ヒンディー話者とウルドゥー話者の双方によって、ごく自然に使用され続けています。
文芸言語としての発展:レークタと詩作
ムガル帝国時代、口語としてのヒンドゥスターニー語が北インド全域でリンガ・フランカ(共通語)として広まる一方で、この言語は次第に洗練された文芸言語としても発展を遂げました。この文学的発展の頂点に位置するのが、「レークタ」として知られる詩の言語です。 レークタは、ヒンドゥスターニー語、特にそのペルシア化された変種を用いて詩作を行う様式を指し、後の近代標準ウルドゥー語の文学的伝統の直接の基礎を築きました。
「レークタ」という言葉はペルシア語で「混ぜ合わされた」「散らばった」あるいは「崩れた」といった意味を持ちます。 これは、当時、文学の最高峰とされていたペルシア語の洗練された構造と比較して、インド土着の言語(カーリー・ボリー)の文法構造とペルシア・アラビア語の語彙を「混ぜ合わせて」作られた言語であるという認識を反映しています。 また、音楽用語として、ペルシア語とヒンディー語の旋律を融合させた楽曲を指す言葉としても使われていました。 この名称自体が、レークタが二つの異なる文化と言語の伝統の交差点に生まれたハイブリッドな存在であることを示唆しています。
レークタの起源は、デリー・スルターン朝時代のアミール・フスローにまで遡ることができます。 彼はペルシア語とヒンダヴィー(彼が呼んだ土着の言語)を一つの詩の中で巧みに織り交ぜる試みを行いました。 しかし、レークタが本格的な文学運動として開花したのは、ムガル帝国後期、特に18世紀のデリーでした。帝国の政治的権威が衰退し、社会が不安定化する中で、デリーの宮廷や貴族のサロンでは、ペルシア語に代わる新たな文学的表現媒体として、この土着の言語への関心が高まりました。
当初、レークタはペルシア語の詩にヒンディー語の単語やフレーズを散りばめる程度のものから始まりましたが、次第にヒンドゥスターニー語の文法構造を基盤とし、ペルシア語の詩で用いられるガザル、カスィーダ、マスナヴィーといった詩形や、比喩、恋愛観、世界観などの文学的伝統を全面的に取り入れた、独立した詩の言語へと発展していきました。 詩人たちは、インドの風景や季節(例えば雨季「バルサート」)に由来する伝統的な詩的イメージを捨て、ペルシア詩の伝統的なモチーフ(例えば春「バハール」やナイチンゲールと薔薇)を好んで用いるようになりました。 これにより、レークタはインドの地で詠まれながらも、より広範なペルシア文化圏の文学的感性と共鳴する言語となったのです。
17世紀には、デカン地方で発展したデッカニー文学が北インドのレークタの発展に重要な刺激を与えました。ワリー・デッカニー(またはワリー・アウランガーバーディー)のようなデカンの詩人が18世紀初頭にデリーを訪れ、彼のデッカニー語による詩集(ディーワーン)がデリーの詩人たちに紹介されると、それは大きな衝撃を与えました。 それまでペルシア語での詩作こそが至高であると考えていた北インドの詩人たちは、自分たちの母語であるヒンドゥスターニー語でも高度な詩的表現が可能であることを認識し、こぞってレークタでの創作活動に乗り出しました。
この動きは18世紀のデリーで一大ブームとなり、「四大詩人」と称されるミール・タキー・ミール、ミールザー・ムハンマド・ラフィー・サウダー、フワージャ・ミール・ダルド、そしてマズハル・ジャーネジャーナーンといった巨匠たちを生み出しました。特にミール・タキー・ミールは、「フダーイェ・スハン」(詩の神)と称され、日常的な言葉遣いの中に深い情感と哀愁を込めた彼のガザルは、レークタ詩の頂点と見なされています。 彼の詩は、崩壊しつつあるムガル帝国の首都デリーの荒廃と、そこに生きる人々の無常感を反映しており、多くの後進の詩人たちに絶大な影響を与えました。
18世紀末から19世紀にかけて、デリーの政治的中心性が失われると、多くの詩人がアワド藩王国の首都ラクナウなどに移住し、そこでもレークタの伝統は受け継がれ、独自の発展を遂げました。そして、19世紀のデリーで活躍したミールザー・ガーリブの登場によって、レークタ詩は再びその頂点を迎えます。 彼の詩は、哲学的思索と複雑な比喩、そして言語に対する革新的なアプローチで知られ、近代ウルドゥー詩の扉を開いたと評価されています。
18世紀の終わり頃から、「レークタ」という名称は次第に使われなくなり、「ヒンディー」「ヒンドゥスターニー」、そして最終的には「ウルドゥー」という名称が一般的になっていきました。 こうして、当初はペルシア語とインドの言語の「混ぜ物」と見なされていたレークタは、ムガル帝国が生んだ最も洗練された文化的遺産の一つとして、ウルドゥー語という形でその文学的生命を受け継いでいくことになったのです。
地域文芸言語の共存:ブラジ・バーシャーとアワディー
ムガル帝国時代、宮廷の公用語であるペルシア語と、共通語として台頭しつつあったヒンドゥスターニー語が存在する一方で、インドの各地域では古くからの豊かな文学的伝統を持つ地域文芸言語が力強く生き続けていました。 ムガル宮廷は、これらの言語、特にブラジ・バーシャーとアワディーを無視することなく、むしろ庇護の対象とすることで、インドの多様な文化を取り込み、帝国の文化的権威を高めようとしました。 これらの言語の存在は、ムガル帝国時代の言語状況が単一的ではなく、重層的であったことを示しています。
ブラジ・バーシャーは、デリーの南東、アグラやマトゥラー、ヴリンダーヴァンを含むブラジ地方で話されていた西ヒンディー語群の方言です。 この言語は、15世紀から19世紀にかけて、北インドで最も重要な文芸言語の一つでした。 特に、クリシュナ神への愛と献身を歌うバクティ(信愛)文学の主要な言語として発展し、スールダースといった盲目の詩人によって、その詩的表現は頂点に達しました。 彼の作品『スールサーガル』は、ブラジ・バーシャー文学の金字塔とされています。
ムガル帝国との関わりは、帝国の初期の首都がブラジ地方の中心都市であるアグラに置かれたことから、ごく自然な形で始まりました。 ムガル皇帝たちは、ブラジ・バーシャーで歌われる音楽、特にドゥルパド形式の歌曲に深い魅力を感じていました。アクバル帝(在位1556年-1605年)の宮廷は、この分野の才能が集まる中心地となり、伝説的な音楽家タンセンもその一人でした。タンセンは、ブラジ・バーシャーで数多くのドゥルパドを作曲し、ヒンドゥスターニー古典音楽の発展に不滅の功績を残しました。アクバル帝自身も、ブラジ・バーシャーの詩を理解し、楽しんだと言われています。また、アクバル帝の宮廷にいた有力な貴族で詩人でもあったアブドゥル・ラヒーム・ハーン・イ・ハーナーンは、ペルシア語の達人であると同時に、ブラジ・バーシャーやアワディーでも優れた詩作を行いました。彼の作品は、イスラーム文化とヒンドゥー文化の融合を体現するものであり、ムガル宮廷の複合的な文化環境を象徴しています。
ムガル宮廷によるブラジ・バーシャーの庇護は、アクバル帝以降も続きました。シャー・ジャハーン帝の時代には、宮廷がデリーに移った後も、ブラジ・バーシャーの詩人や音楽家は支援を受け続けました。この言語は、宮廷音楽の歌詞としてだけでなく、ラージプートの諸侯の宮廷でも盛んに用いられ、英雄譚や恋愛詩の主題となりました。18世紀に入ると、ムガル帝国の衰退とともに宮廷からの庇護は弱まりますが、ブラジ・バーシャーは依然として北インドの広範な地域で文学言語としての地位を保ち続けました。しかし、19世紀になると、散文の媒体としてより適していたカーリー・ボリー(ヒンドゥスターニー語)が台頭するにつれて、ブラジ・バーシャーは次第に詩作、特に宗教詩の領域に限定されるようになり、その影響力は相対的に低下していきました。
もう一つの重要な地域文芸言語は、アワディーです。アワディーは、ラクナウやアヨーディヤーを含むアワド地方で話されていた東ヒンディー語群に属する言語です。この言語は、16世紀に活躍したスーフィー詩人マリク・ムハンマド・ジャーヤスィーによって文学的な高みに引き上げられました。彼がアワディーで著した長編の寓意的な恋愛叙事詩『パドマーヴァト』は、ペルシア語のマスナヴィー形式とインドの物語の伝統を融合させた傑作であり、後のスーフィー文学に大きな影響を与えました。この作品は、イスラーム神秘主義の思想を、ヒンドゥーの王侯の物語を借りて表現するという、文化融合の顕著な例です。
アワディー文学のもう一つの頂点は、16世紀後半にトゥルスィーダースによって書かれた『ラームチャリットマーナス』です。これは、サンスクリットの叙事詩『ラーマーヤナ』を、民衆の言葉であるアワディーで翻案したもので、ラーマ神へのバクティを主題としています。この作品は、北インドのヒンドゥー教徒社会に絶大な影響を与え、今日に至るまで最も広く読まれ、敬愛されている宗教文学の一つです。『ラームチャリットマーナス』の成功は、アワディーが宗教的な思想や物語を表現するための強力な媒体であることを証明しました。
ムガル宮廷は、アワディーで書かれたこれらの文学作品にも敬意を払っていました。特にスーフィーの伝統から生まれた『パドマーヴァト』のような作品は、ペルシア文化に親しんだムスリムのエリート層にも読まれ、評価されました。ムガル帝国後期にアワド藩王国が半独立国家として繁栄すると、その首都ラクナウは北インドの新たな文化の中心地となり、そこではアワディーの口語が広く話されていましたが、文芸活動の中心はペルシア語と、次第に台頭してきたウルドゥー語(レークタ)へと移っていきました。
このように、ムガル帝国時代には、ペルシア語やヒンドゥスターニー語だけでなく、ブラジ・バーシャーやアワディーといった地域文芸言語もまた、それぞれ独自の領域で重要な役割を果たしていました。ブラジ・バーシャーは音楽とクリシュナ・バクティ文学の言語として、アワディーはスーフィー文学とラーマ・バクティ文学の言語として、豊かな文化的成果を生み出しました。ムガル宮廷がこれらの言語を庇護したことは、帝国が単なる軍事・政治的な支配者ではなく、インドの多様な文化のパトロンとしての役割も担っていたことを示しています。これらの地域言語の存在と発展は、ムガル帝国時代の「ヒンディー語」という概念を、単一の標準語ではなく、多様な方言や文体が共存し、相互に影響を与え合っていたダイナミックな言語生態系として捉えることの重要性を教えてくれます。
口語としてのヒンドゥスターニー語:リンガ・フランカの役割
ムガル帝国時代、ペルシア語が宮廷と行政の公式言語として君臨し、ブラジ・バーシャーやレークタが洗練された文芸言語として発展する一方で、帝国の広大な領土を結びつける上で極めて重要な役割を果たしたのが、口語としてのヒンドゥスターニー語でした。この言語は、特定の地域や社会階層に限定されず、兵士、商人、職人、行政官、巡礼者など、さまざまな背景を持つ人々によって話されるリンガ・フランカ(共通語)として機能し、帝国の社会統合と経済活動の基盤を支えました。
ヒンドゥスターニー語がリンガ・フランカとして広まった最大の要因は、ムガル帝国の軍事活動と行政機構にありました。ムガル軍は、中央アジア出身のテュルク・モンゴル系、イラン系の貴族、アフガン人、ラージプートの戦士、そしてインド各地から徴兵された兵士など、非常に多民族的な構成でした。彼らが共通の指揮系統の下で活動するためには、意思疎通のための言語が不可欠でした。デリー周辺のカーリー・ボリーを基盤とし、ペルシア語やテュルク語の軍事用語を多く取り入れたヒンドゥスターニー語は、このニーズに応える理想的な言語でした。軍の野営地(オルドゥー)は、まさに言語接触のるつぼであり、この言語が形成され、兵士たちの移動とともにインド各地へ運ばれていきました。「ウルドゥー」という言語名がテュルク語の「オルドゥー(軍隊)」に由来するという説は、この歴史的背景を物語っています。
同様に、帝国の行政機構もヒンドゥスターニー語の普及に貢献しました。公的な記録はペルシア語で書かれましたが、帝国の隅々に派遣された役人たちが現地の住民とコミュニケーションをとる際には、地域の方言か、あるいはより広域で通じるヒンドゥスターニー語が用いられました。特に、下級の役人や徴税官など、民衆と直接接する機会の多い人々にとっては、ヒンドゥスターニー語の知識は実務上不可欠でした。これにより、ヒンドゥスターニー語は、支配者層と被支配者層をつなぐ橋渡しの役割を担うことになりました。
経済活動の活発化も、ヒンドゥスターニー語の拡大を後押ししました。ムガル帝国時代は、比較的平和で安定した統治の下、広域的な商業ネットワークが発展しました。北はカーブルから南はデカン、東はベンガルから西はグジャラートまで、商人たちはキャラバンを組んで長距離を移動し、各地の市場で交易を行いました。異なる言語を話す商人たちが円滑に取引を行うためには、共通の商業言語が必要であり、その役割をヒンドゥスターニー語が果たしました。市場(バーザール)は、軍の野営地と並んで、この言語が日常的に使われ、磨かれていく重要な場所でした。
さらに、宗教的な活動、特にスーフィズム(イスラーム神秘主義)の普及も、ヒンドゥスターニー語の伝播に寄与しました。スーフィーの聖者たちは、高尚なペルシア語だけでなく、民衆の言葉を用いて教えを説き、人々との精神的な交流を図りました。彼らのハーンカー(道場)は、宗教や身分に関係なく人々が集まる場所であり、そこで語られる説教や歌われる宗教歌(カッワーリーなど)は、しばしばヒンドゥスターニー語で表現されました。これにより、ヒンドゥスターニー語は、イスラームの教えをインドの文化的文脈に根付かせるための重要な媒体となり、その過程で宗教的な語彙や表現を豊かにしていきました。
この口語としてのヒンドゥスターニー語は、書き言葉であるレークタやブラジ・バーシャーとは異なり、高度に標準化されたものではありませんでした。地域によって発音や語彙に違いがあり、話者の社会的背景や教育レベルによって、ペルシア・アラビア語彙の使用頻度も異なりました。例えば、宮廷に近いエリート層が話すヒンドゥスターニー語はより多くのペルシア語彙を含んでいたのに対し、農村部で話されるそれは土着の語彙の割合が高かったと考えられます。しかし、この柔軟性と多様性こそが、ヒンドゥスターニー語が広範な地域と階層に受け入れられ、リンガ・フランカとして機能することを可能にした要因でした。
ムガル帝国後期、18世紀になると、帝国の政治的な力が衰え、ペルシア語の威信が相対的に低下する中で、口語としてのヒンドゥスターニー語の重要性はさらに増していきました。それはもはや単なる兵士や商人の言葉ではなく、デリーやラクナウといった都市の教養あるエリート層の間でも、日常的な会話や非公式な書簡で用いられる主要な言語となっていきました。この段階に至って、口語のヒンドゥスターニー語は、書き言葉としてのウルドゥー(レークタ)や、後に標準化されるヒンディーの発展のための、豊かで広範な社会的基盤を提供したのです。
ヒンディーとウルドゥーへの分化の萌芽
ムガル帝国時代に形成され、発展したヒンドゥスターニー語は、口語レベルではヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の双方によって共有される一つの言語でした。しかし、その末期からイギリス植民地時代にかけて、この共有された言語遺産は、主に書き言葉と文学的伝統において、二つの異なる方向性へと分化していくことになります。それが、現代の標準ヒンディー語と標準ウルドゥー語への道です。この分化の萌芽は、ムガル帝国後期の社会・文化的変化の中にすでに見出すことができます。
分化の根底にあったのは、言語と宗教的・文化的アイデンティティとの結びつきです。ヒンドゥスターニー語は、カーリー・ボリーというインド土着の言語を文法基盤としながら、ペルシア・アラビア語彙を大量に借用することで発展しました。この混合的な性格は、長年にわたりインドの複合文化「ガンガ・ジャムニ・テヘジブ」の象徴とされてきました。しかし、19世紀に入り、社会の近代化とナショナリズムの意識が高まる中で、言語の「純化」や標準化を求める動きが生まれました。
一方の極として形成されたのがウルドゥー語です。ウルドゥーは、ムガル帝国後期に「レークタ」として知られた詩の言語の直接の後継者です。この伝統は、ペルシア語の詩形、比喩、世界観を深く内面化しており、語彙の面でもペルシア語とアラビア語からの借用語を積極的に用いることを特徴としていました。書き言葉としてのウルドゥーは、ペルシア・アラビア文字を改良した書体で表記されました。この文字体系は、イスラーム世界の文化的なつながりを象徴するものでした。18世紀から19世紀にかけて、ウルドゥーはデリーやラクナウの宮廷文化と結びつき、洗練されたエリート文化の言語としての地位を確立しました。イギリス植民地政府が北インドの一部地域でペルシア語に代わる公用語としてウルドゥーを採用したことも、その地位をさらに強固なものにしました。ウルドゥーは、特に北インドの都市部に住むムスリムのエリート層や、伝統的なペルシア語教育を受けたヒンドゥー教徒(例えばカーストの一つであるカーヤスタなど)によって、文化的なアイデンティティの重要な一部と見なされるようになりました。
もう一方の極として台頭したのがヒンディー語です。ヒンディー標準語の形成運動は、ウルドゥーのペルシア・アラビア語への傾斜に対する反動として、19世紀初頭に本格化しました。この運動の推進者たちは、ヒンドゥスターニー語からペルシア・アラビア語系の語彙を意識的に排除し、代わりにサンスクリットから語彙を借用(あるいはサンスクリットの語根に基づいて新語を造語)することで、より「インド的」で「純粋な」言語を創り出すことを目指しました。この新しい文語体は、古代インドの聖典や古典文学の言語であるサンスクリットとの連続性を強調し、ヒンドゥーの文化的・宗教的アイデンティティと強く結びつけられました。表記には、サンスクリットやその子孫である多くのインド諸言語で用いられるデーヴァナーガリー文字が採用されました。この運動の初期の中心地の一つが、カルカッタ(現在のコルカタ)のフォート・ウィリアム大学でした。イギリス人の行政官に現地の言語を教育するために設立されたこの大学で、ラルー・ラールのような学者が、ブラジ・バーシャーの作品をサンスクリット化されたカーリー・ボリー(ヒンディー語)に翻訳し、『プレーム・サーガル』といった初期のヒンディー散文の重要な作品を生み出しました。
この分化は、言語的な差異だけでなく、政治的な対立の様相も帯びていきました。ヒンディーの推進者たちは、デーヴァナーガリー文字で書かれたヒンディー語を公的な場でウルドゥーと同等の地位に引き上げるよう求める運動(ヒンディー運動)を展開しました。これに対し、ウルドゥーの支持者たちは、既得権益と文化的伝統を守ろうとしました。このヒンディー・ウルドゥー論争は、19世紀後半から20世紀前半にかけて激化し、ヒンドゥーとムスリムのコミュニティ間の亀裂を深め、最終的にはインド・パキスタンの分離独立にも影響を与える一因となりました。
しかし、この二つの標準語への分化は、主に書き言葉、特にフォーマルな散文や学術的な文章において顕著であったことを強調しておく必要があります。口語レベル、特に非公式な日常会話においては、ヒンディー話者とウルドゥー話者の間の差異は依然として小さく、彼らが話す言葉は「ヒンドゥスターニー語」として、ほぼ完全に相互理解可能です。基本的な文法構造は同一であり、日常的な語彙の多くも共有されています。ムガル帝国時代に育まれたこの共有の言語遺産は、政治的な分断にもかかわらず、人々の生活の中に深く根付いているのです。
したがって、ムガル帝国時代の「ヒンディー語」は、単一の言語を指すのではなく、ヒンドゥスターニー語という共通の幹から、後にヒンディーとウルドゥーという二つの大きな枝へと分かれていく、その発展のまさに途上にあった動的な言語状況そのものであったと言えます。その内部には、ペルシア文化への憧憬と、インドの土着文化への回帰という、二つの異なる志向性がすでに萌芽として存在していたのです。