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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

セリム1世とは わかりやすい世界史用語2326

著者名: ピアソラ
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セリム1世とは

セリム1世(1470年10月10日 - 1520年9月22日)は、オスマン帝国の第9代スルタンであり、その治世は1512年から1520年までのわずか8年間でした。 この短い期間にもかかわらず、彼の治世はオスマン帝国の歴史において極めて重要な転換点として位置づけられています。 セリム1世は、その冷徹かつ断固たる性格から「ヤヴズ」(トルコ語で「厳格」「冷酷」の意)という異名で知られています。 彼の時代、オスマン帝国はヨーロッパとアナトリアの境界に位置する一地域大国から、中東のイスラム世界の心臓部を支配する広大な世界帝国へと劇的な変貌を遂げました。 彼の治世下で、帝国はその領土を70%も拡大させ、彼の死の直前には約340万平方キロメートルに達しました。
セリム1世の最大の功績は、1516年から1517年にかけて行われたマムルーク朝に対する軍事遠征の成功です。 この遠征により、シリア、パレスチナ、エジプト、そしてイスラム教の聖地であるメッカとメディナを擁するヒジャーズ地方がオスマン帝国の版図に加わりました。 この征服は、オスマン帝国に広大な領土と富をもたらしただけでなく、イスラム世界における最高権威としての地位を確立させる決定的な出来事でした。 聖地の守護者となったことで、オスマン帝国のスルタンはスンニ派イスラム世界の指導者としての役割を担うことになり、帝国の重心はバルカン半島から中東へと大きく移行しました。
また、セリム1世は東方のサファヴィー朝ペルシャとの対決にも力を注ぎました。 1514年のチャルディラーンの戦いでは、サファヴィー朝のシャー・イスマーイール1世に決定的勝利を収め、シーア派の脅威を退けて東アナトリアにおけるオスマン帝国の支配を固めました。 この勝利は、オスマン軍が火器を駆使した近代的な軍事大国であることを証明するものでした。
セリム1世の治世は、冷酷な権力闘争によって始まりました。彼は父であるバヤズィト2世を退位させ、兄弟や甥たちを粛清することで、帝位を確固たるものにしました。 この非情な手段は、彼に「冷酷者」の評判をもたらしましたが、同時に帝国内の安定を確保し、大規模な遠征を可能にするための基盤を築いたとも評価されています。
わずか8年という短い治世でしたが、セリム1世が成し遂げた領土拡大と権威の確立は、彼の後継者であるスレイマン1世(壮麗帝)の治世におけるオスマン帝国の黄金時代の礎を築いたと広く認識されています。 彼の軍事的才能、行政手腕、そしてイスラム世界における帝国の地位を根本から変えたその功績は、オスマン帝国史、ひいては世界史において非常に大きな意味を持っています。



生い立ちと権力への道

セリム1世は1470年10月10日、後にスルタン・バヤズィト2世となるシェフザーデ(皇子)・バヤズィトの息子として、オスマン帝国の都市アマスィヤで生まれました。 彼の母親はギュルバハル・ハトゥンであり、彼女はドゥルカディル侯国の君主の娘でした。 セリムは、祖父であるメフメト2世(征服王)の治世下に生まれ、幼少期はオスマン帝国の皇子として伝統的な教育を受けました。これには、統治術、軍事訓練、イスラム学などが含まれていました。
1481年に祖父メフメト2世が崩御し、父バヤズィトがスルタンに即位すると、オスマン帝国の伝統に従い、皇子たちは地方のサンジャク(県)の知事として赴任し、統治経験を積むことになりました。 1487年、セリムは黒海沿岸の戦略的に重要な都市であるトラブゾンの知事に任命されました。 この地は、東方に勃興しつつあったサファヴィー朝ペルシャとの国境に近く、セリムにとって軍事的および政治的な手腕を磨く絶好の機会となりました。
トラブゾン知事としてのセリムは、単なる行政官にとどまりませんでした。彼はサファヴィー朝のシーア派勢力がオスマン帝国のスンニ派体制に与える脅威を早くから認識し、積極的な軍事行動を展開しました。 彼の父バヤズィト2世が比較的平和主義的で慎重な外交政策をとっていたのとは対照的に、セリムは好戦的で断固たる態度を示しました。 1505年、彼は自身の兵力(約450人)をはるかに上回るシャー・イスマーイールの兄弟が率いるサファヴィー軍(約3000人)に対して奇襲をかけ、圧倒的な勝利を収めました。 この勝利は、彼の戦術的な才能と、困難な状況下で兵士を鼓舞する指導力を示すものでした。 さらに1507年のエルズィンジャンの戦いや1508年のカフカス遠征でもサファヴィー軍に勝利し、グルジア西部をオスマン帝国の影響下に置くなど、その軍事的な名声は高まる一方でした。 これらの勝利は、彼を強力な軍事指導者として際立たせ、イェニチェリ(常備歩兵軍団)からの支持を集める重要な要因となりました。
一方で、スルタン・バヤズィト2世の治世末期には、後継者を巡る深刻な対立が表面化していました。バヤズィト2世にはセリムの他に、コルクトとアフメトという二人の兄がいました。 オスマン帝国では、長子相続制が確立されておらず、スルタンの死後、皇子たちが帝位を巡って争う「兄弟殺し」の慣習が存在しました。バヤズィト2世は、温厚な性格のアフメトを後継者として考えていたとされています。 これに対し、軍事的成功によって自信を深め、イェニチェリからの支持も厚いセリムは、父の決定に強く反発しました。
セリムの野心は、ついに父に対する公然たる反乱へと発展しました。 彼は自身が統治するトラブゾンから軍を率いて、首都イスタンブールに近いヨーロッパ側の領土への赴任を要求しました。 これは、父の死後、速やかに首都に入り帝位を確保するための戦略的な動きでした。この要求が拒否されると、セリムは父の軍隊と直接対決する道を選びます。最初の戦いでセリムはバヤズィト2世の優勢な軍隊に敗北し、クリミアへの逃亡を余儀なくされましたが、彼の闘志は衰えませんでした。
この間、イスタンブールではイェニチェリたちが、アフメトの即位に反対する動きを見せていました。 彼らは、バヤズィト2世の穏健な政策よりも、セリムの持つ断固とした軍事指導者の資質を支持していたのです。イェニチェリの反乱により、アフメトは首都に入ることができず、後継者問題は膠着状態に陥りました。 この状況を好機と見たセリムは、クリミアから戻り、イェニチェリの強力な支持を背景に、1512年4月24日、父バヤズィト2世に退位を強制しました。 バヤズィト2世は退位後、隠居先のディメトカへ向かう途中で死去しましたが、その死についてはセリムによる毒殺説も根強く残っています。
スルタンとして即位したセリム1世は、直ちに権力基盤の確立に着手しました。 彼は、将来の帝位争いの芽を摘むため、兄弟であるアフメトとコルクト、そして彼らの息子たちを含む多くの男性親族を処刑しました。 この冷酷な措置は、オスマン帝国の伝統的な「兄弟殺し」の慣習に則ったものでしたが、その徹底ぶりは彼に「ヤヴズ(冷酷者)」の異名を与える一因となりました。 しかし、この非情な決断によって、セリムは国内の対抗勢力を一掃し、帝国の全権を掌握することに成功しました。これにより、彼は自身の治世を通じて行われる大規模な対外遠征に、帝国の資源と軍事力を集中させることが可能になったのです。トラブゾンでの軍事経験、イェニチェリとの強い結びつき、そして冷徹な権力闘争の末に、セリム1世はオスマン帝国の絶対的な支配者として君臨することになりました。

サファヴィー朝との対決:チャルディラーンの戦い

セリム1世がスルタンとして即位した当時、オスマン帝国にとって最大の脅威の一つは、東方に台頭したサファヴィー朝ペルシャでした。 16世紀初頭にイスマーイール1世によって建国されたサファヴィー朝は、シーア派の一派である十二イマーム派を国教とし、その影響力を急速に拡大していました。 これは、スンニ派を国教とするオスマン帝国にとって、単なる政治的・軍事的な脅威だけでなく、深刻なイデオロギー上の挑戦でもありました。 特に、アナトリア東部に住む多くのトルクメン系遊牧民(クズルバシュとして知られる)がシャー・イスマーイールのカリスマ的な指導力とシーア派の教えに強く惹かれ、オスマン帝国の支配に対して公然と反乱を起こす事態となっていました。
セリム1世は、トラブゾン知事時代からこのサファヴィー朝の脅威を肌で感じており、スルタンとして即位すると、この問題に最優先で取り組む決意を固めました。 彼は、サファヴィー朝との全面対決に先立ち、まず国内のシーア派支持者、特に反乱の温床となっていたクズルバシュに対する徹底的な弾圧を行いました。 1514年、セリムはイランへの遠征を開始する直前に、アナトリアのシーア派教徒数千人を迫害したと伝えられています。 この冷酷な措置は、遠征中に背後から攻撃される危険を未然に防ぐためのものでした。
国内の脅威を制圧した後、セリム1世は1514年の夏、約6万人から10万人と推定される大軍を率いて東方へ進軍しました。 この軍隊には、オスマン帝国の精鋭であるイェニチェリ歩兵部隊やシパーヒー(封建騎士)騎兵隊が含まれていました。 セリムの軍隊は、当時の最新兵器である大砲やマスケット銃で武装しており、これが来るべき戦いで決定的な役割を果たすことになります。 一方、シャー・イスマーイール1世が率いるサファヴィー軍は、約4万人から8万人とされ、伝統的な騎兵を中心とした編成で、火器はほとんど装備していませんでした。
両軍は1514年8月23日、アナトリア東部のチャルディラーンの平原で激突しました。 シャー・イスマーイールは、自軍の騎兵の機動力と勇猛さに絶対的な自信を持っており、オスマン軍の火器の威力を軽視していたとされます。 戦闘が始まると、サファヴィー軍の精鋭騎兵は猛烈な突撃を敢行し、一時はオスマン軍の両翼を脅かしました。 しかし、オスマン軍は中央に大砲部隊を配置し、その前面に荷車をつないで防御壁(ワゴンブルク戦術)を築いていました。 サファヴィー騎兵がこの防御陣に阻まれている間に、機動的に運用されたオスマン軍の野戦砲とイェニチェリのマスケット銃が一斉に火を噴きました。
伝統的な武器しか持たないサファヴィー軍は、オスマン軍の圧倒的な火力の前に壊滅的な打撃を受けました。 戦いはオスマン軍の決定的勝利に終わり、シャー・イスマーイール自身も負傷し、かろうじて戦場から離脱しました。 彼の妻たちを含む多くの者が捕虜となりました。 この敗北は、これまで不敗神話を誇ってきたシャー・イスマーイールの権威を大きく失墜させました。 彼はこの敗戦のショックから立ち直れず、二度と自ら軍を率いることはなかったと言われています。
チャルディラーンの戦いの勝利後、セリム1世は進軍を続け、サファヴィー朝の首都タブリーズを一時的に占領し、ペルシャの王室の財宝を略奪しました。 しかし、冬の到来とイェニチェリ内部からの不満(長距離の遠征に対する疲労)により、長期的な占領は断念し、軍を撤退させました。
それにもかかわらず、チャルディラーンの戦いがもたらした戦略的影響は計り知れないものでした。第一に、この勝利によってオスマン帝国は東アナトリアと北イラクを併合し、サファヴィー朝の西方への拡大を阻止しました。 第二に、これまでサファヴィー朝に従っていたアナトリア東部のクルド人諸侯が、オスマン帝国に忠誠を誓うようになり、両帝国の間に新たな国境線が形成されました。この国境線は、現代のトルコとイランの国境の基礎となっています。 第三に、この戦いは火器の優位性を明確に示し、サファヴィー朝もその後の軍制改革で火器の導入を本格化させるきっかけとなりました。
セリム1世は、この勝利によって東方の脅威を当面の間封じ込めることに成功し、帝国の目を次なる目標である南のマムルーク朝へと向けることが可能になりました。 チャルディラーンの戦いは、オスマン帝国を中東における支配的な軍事大国として確立させ、その後のセリムの征服活動の道を開いた重要な戦いでした。

マムルーク朝の征服

チャルディラーンの戦いで東方のサファヴィー朝に対する優位を確立したセリム1世は、次なる目標として、南に広がるマムルーク朝に目を向けました。 当時、マムルーク朝はエジプトとシリアを支配し、イスラム教の二大聖地であるメッカとメディナの保護権を掌握する、スンニ派イスラム世界の有力な国家でした。 オスマン帝国とマムルーク朝の関係は、長年にわたり緊張状態にありました。両国は香辛料貿易の支配権を巡って競合し、アナトリア南東部の緩衝地帯であるドゥルカディル侯国のような小君主国の宗主権を巡っても対立していました。
セリム1世は、マムルーク朝がサファヴィー朝と密かに同盟を結んでいると非難し、これを口実として遠征の正当性を主張しました。 彼は、イスラム世界の指導者たちから「異端者を助ける者は、自らも異端者である」というファトワ(宗教令)を取り付け、マムルーク朝との戦いを聖戦と位置づけました。 1516年、セリムはサファヴィー朝への再度の遠征を装いながら、実際には南下してマムルーク領シリアへと進軍しました。
最初の大きな衝突は、1516年8月24日にシリア北部の都市アレッポ近郊のマルジュ・ダービクの平原で起こりました。 マムルーク朝のスルタン、アシュラフ・カーンスーフ・アル=ガウリー自らが率いる軍隊がオスマン軍を迎え撃ちました。マムルーク軍は伝統的な騎兵戦術を誇りとしていましたが、オスマン軍が配備した大砲やマスケット銃といった近代的な火器の前には無力でした。 戦いはオスマン軍の圧倒的な勝利に終わり、スルタン・ガウリーは戦死しました。 この戦いにおいて、アレッポの知事であったマムルークの司令官ハイール・ベイが戦闘中にオスマン側に寝返ったことも、マムルーク軍の崩壊を早める一因となりました。 マルジュ・ダービクの戦いでの一回の勝利により、シリア全土がオスマン帝国の支配下に入りました。
シリアを制圧したセリム1世は、エジプトへの進軍を続けました。 マムルーク側では、ガウリーの後継者としてトゥーマーン・ベイ2世が新たなスルタンに選出され、首都カイロの防衛準備を進めました。 トゥーマーン・ベイはカイロ郊外のリダニヤに防御陣地を築き、オスマン軍を迎え撃つ作戦を立てました。
1517年1月22日、リダニヤの戦いが始まりました。 マムルーク軍はオスマン軍の火器に対抗するため、ある程度の数の大砲を準備していましたが、セリム1世は巧みな戦術でこれを打ち破りました。彼は軍の一部を迂回させてマムルーク軍の側面を突かせ、正面からの攻撃と連携させることで防御線を突破しました。 この戦いでもオスマン軍の火力が決定的な役割を果たし、マムルーク軍は再び敗北を喫しました。 オスマン軍の大宰相(最高位の宰相)であったハドゥム・シナン・パシャがこの戦いで戦死しましたが、全体的な戦局には影響しませんでした。
リダニヤでの勝利後、オスマン軍は抵抗を受けることなくカイロに入城しました。 トゥーマーン・ベイは逃亡し、ゲリラ的な抵抗を試みましたが、最終的に捕らえられ、1517年4月にカイロの城門で処刑されました。 これにより、約2世紀半にわたってエジプトとシリアを支配したマムルーク朝は完全に滅亡しました。
マムルーク朝の征服は、オスマン帝国に計り知れない影響をもたらしました。まず、シリア、パレスチナ、エジプトという広大で豊かな領土が帝国の版図に加わりました。 これにより、帝国は東地中海の交易路と、ナイル川流域の肥沃な穀倉地帯を完全に掌握しました。
さらに重要なのは、宗教的な権威の獲得でした。マムルーク朝の支配下にあったヒジャーズ地方(メッカとメディナを含むアラビア半島西部)もオスマン帝国の宗主権下に入りました。 カイロにおいて、メッカのシャリーフ(太守)は聖地の鍵をセリム1世に献上し、彼をイスラム世界の新たな指導者として認めました。 セリムはこれ以降、「二聖都のしもべ」という敬虔な称号を名乗るようになりました。
また、この征服に伴い、カイロに庇護されていたアッバース朝の末裔であるカリフ、アル=ムタワッキル3世がイスタンブールへ移送されました。 後世の伝承では、この時にムタワッキル3世がカリフの称号とそれに伴う聖遺物(預言者ムハンマドのマントや剣など)を正式にセリム1世に譲渡したとされています。 この「カリフ職の譲渡」という話は、後の時代にオスマン家のスルタンがカリフを名乗る正当性を強化するために創作された可能性が高いと指摘されていますが、セリム1世がイスラム世界の心臓部を征服したことで、事実上、オスマン帝国のスルタンがスンニ派イスラム世界の最高指導者としての地位を確立したことは間違いありません。
この征服により、オスマン帝国はアナトリアとバルカンを基盤とする国家から、アラブ世界の中核を含む三大陸にまたがる世界帝国へと変貌を遂げました。 帝国の地理的、文化的重心は中東へと大きくシフトし、その後の帝国の性格を決定づけることになったのです。
統治と行政

セリム1世の治世は、軍事的な征服活動にその大部分が費やされましたが、彼は同時に有能な行政家でもありました。 わずか8年という短い期間で帝国を急激に拡大させた彼は、新たに獲得した広大な領土を効率的に統治するための基盤を築くことにも注力しました。彼の行政手腕は、その後のオスマン帝国の繁栄、特に息子スレイマン1世の治世における黄金時代を準備する上で不可欠なものでした。
セリム1世の統治における最も重要な側面の一つは、新たに征服したマムルーク朝の領土、すなわちシリアとエジプトの統治体制の構築でした。彼はこれらの地域を完全にオスマン帝国の直轄州として組み込む一方で、現地の状況に合わせた柔軟な統治方法を採用しました。例えばエジプトでは、マムルーク朝時代からの支配階級であったマムルークの勢力を完全には排除しませんでした。 彼は、オスマン帝国に忠誠を誓うマムルークの有力者たちに、地方の行政や徴税において一定の役割を与え続けることを認めました。 この政策は、現地の支配構造を急激に変えることによる混乱を避け、比較的スムーズな統治の移行を可能にしました。オスマン帝国から派遣された総督が最高権力者として君臨し、軍事的な支配を確立する一方で、日常的な行政の一部は旧来のエリート層に委ねられたのです。
また、セリム1世は帝国の財政基盤の強化にも大きく貢献しました。マムルーク朝の征服は、エジプトの豊かな穀物生産と、紅海や地中海を通じた香辛料貿易の莫大な利益をオスマン帝国にもたらしました。 セリムは、これらの富を確実に国庫に収めるための徴税システムを整備しました。彼の治世の終わりには、帝国の国庫は黄金で満ち溢れていたと伝えられています。 ある有名な逸話によれば、セリムは満杯になった国庫を自身の印で封印し、「この私以上に国庫を満たした者だけが、自らの印でこれを封印することを許す」と宣言したといいます。 そして、その国庫はオスマン帝国が崩壊するまでの400年間、セリムの印で封印されたままであったとされています。 この逸話は、彼の治世がいかに帝国に富をもたらしたかを象徴しています。
セリム1世は、帝国の官僚機構に対しても厳格な姿勢で臨みました。彼は有能な人材を登用する一方で、自身の期待に応えられない者や、少しでも反抗の兆しを見せた高官を容赦なく処刑しました。 彼の下で大宰相を務めることは極めて危険な職務であり、「セリムのスルタンの宰相にならんことを」という言葉が、当時のオスマン社会で一種の呪いの言葉として使われたほどでした。 この冷酷さは、彼の「ヤヴズ(冷酷者)」という異名を裏付けるものですが、同時に宮廷内に規律と緊張感をもたらし、スルタンの絶対的な権威を確立する効果もありました。 彼の宮廷は、リスクが高い一方で、成功すれば大きな報酬が約束されるダイナミックな場所でした。
宗教政策においては、セリム1世はスンニ派イスラムの熱心な擁護者でした。彼のサファヴィー朝に対する強硬な姿勢は、シーア派の拡大を防ぐという宗教的な動機に強く裏打ちされていました。 マムルーク朝を征服し、メッカとメディナの二聖都を保護下に置いたことで、彼はスンニ派世界の指導者としての地位を不動のものとしました。 彼はまた、ダマスカスを征服した後、著名なスーフィー(イスラム神秘主義者)であるイブン・アラビーの墓を修復するよう命じるなど、スンニ派の宗教的権威を高めるための事業も行いました。
セリム1世の治世は、オスマン帝国の海軍力の強化においても重要な時期でした。マムルーク朝を征服し、エジプトと紅海沿岸を手に入れたことで、オスマン帝国はインド洋におけるポルトガルの勢力と直接対峙することになりました。セリムは、紅海に艦隊を配備し、ポルトガルの海上交易に対抗するための準備を進めました。 また、彼の治世下で、後の地中海で活躍する海賊(コルセア)のバルバロス・ハイレッディンがオスマン帝国の庇護下に入り、北アフリカ沿岸におけるオスマン帝国の影響力拡大の基礎が築かれました。
このように、セリム1世は軍事的な征服者であると同時に、帝国の構造を再編し、その後の発展の礎を築いた統治者でした。彼の行政改革と財政基盤の強化、そしてスンニ派世界の指導者としての権威の確立は、彼の死後、オスマン帝国が黄金時代を迎えるための重要な布石となったのです。
人物像と遺産

セリム1世は、その冷酷で断固とした行動から「ヤヴズ(厳格者、冷酷者)」として歴史に名を残していますが、その人物像は多面的でした。 彼は非常にエネルギッシュで勤勉な君主であり、短い治世の間、休むことなく帝国の拡大と統治に身を捧げました。 多くの記録が、彼を背が高く、屈強な体格の持ち主で、剣術、弓術、レスリングの名手であったと伝えています。
彼の性格は、激しい気性と英雄的な気質を併せ持っていたと評価されています。 部下に対しては非常に高い期待を寄せ、些細なことでも容赦なく処罰を下す冷酷な一面を持つ一方で、国家の大事においてはその厳格さと威厳を発揮しました。 しかし、私生活では物静かで内気な人物であったとも言われています。 彼はその絶大な権力にもかかわらず、質素で謙虚な生活を好んだとされます。 他のスルタンが顎髭を伸ばしていたのとは異なり、彼は顎髭を剃り、長い口髭をたくわえていたという特徴的な外見でも知られています。
意外なことに、この猛々しい戦士スルタンは、優れた詩人でもありました。 彼は「マフラス・セリーミー」という筆名で、トルコ語とペルシャ語の両方で詩作を行いました。 特にペルシャ語に堪能で、話すことを非常に好んだと記録されており、彼のペルシャ語詩集は今日まで現存しています。 この文化的な素養は、彼の人物像に深みを与えています。
セリム1世の治世がオスマン帝国に残した遺産は、計り知れないほど大きいものです。彼の最大の功績は、帝国の領土をわずか8年で約2.5倍から3倍に拡大したことです。 特にマムルーク朝の征服は、帝国の性格を根本的に変えました。 それまでバルカン半島とアナトリアを中心とし、キリスト教徒の住民を多く抱えていた帝国は、シリア、エジプト、アラビア半島といったイスラム世界の伝統的な中心地を組み込むことで、名実ともに中東の支配者となりました。 この征服により、オスマン帝国はスンニ派イスラム世界の指導的国家としての地位を確立し、スルタンは聖地メッカとメディナの守護者、そしてカリフとして、イスラム世界全体に対する宗教的権威を主張するようになりました。
セリム1世の征服活動は、帝国の経済的基盤を飛躍的に強化しました。エジプトの穀倉地帯と東西交易路の支配は、帝国に莫大な富をもたらし、彼の後継者であるスレイマン1世の治世における壮麗な文化の開花やさらなる軍事遠征を財政的に支えました。
軍事面では、チャルディラーンの戦いにおける勝利が、火器を効果的に使用した近代的な軍隊の優位性を証明しました。 これにより、オスマン帝国は「火薬帝国」としての中東における覇権を確立しました。
セリム1世の治世は、彼の息子であり後継者であるスレイマン1世(壮麗帝)の黄金時代の完璧な序章であったと、多くの歴史家が評価しています。 セリムが築き上げた広大な領土、潤沢な国庫、そして確立された権威がなければ、スレイマンの治世における輝かしい成功はあり得なかったでしょう。
1520年9月22日、セリム1世は新たな遠征の準備中に、滞在先のチョルルで病のため49歳で急死しました。 その死因については、皮膚の感染症である炭疽、癌、あるいは毒殺など、様々な説が唱えられています。 また、当時帝国で流行していたペストに罹患した可能性を指摘する史料もあります。
セリム1世はイスタンブールに運ばれ、息子のスレイマン1世が父を偲んで建立を命じたヤヴズ・セリム・モスクに埋葬されました。
セリム1世の治世は短期間であったにもかかわらず、オスマン帝国を地域大国から世界帝国へと押し上げ、その後の数百年にわたる帝国の方向性を決定づけた、極めて重要な時代でした。彼の冷徹な決断力と軍事的天才は、オスマン帝国の歴史、そして世界の歴史の流れを大きく変えたのです。彼の遺産は、壮麗帝スレイマンの治世を通じて受け継がれ、オスマン帝国の最盛期を現出させるための強固な土台となりました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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