アーヤーンとは
オスマン帝国の歴史において、アーヤーンは16世紀から19世紀初頭にかけて地方の町や地区で様々な程度の権威を保持した地方名士または王朝の階級でした。 この用語は、アラビア語の「アイン」の複数形であり、「著名人」や「高官」を意味します。 当初、15世紀のオスマン帝国での用法では、都市に住む名士を指す言葉でした。 この時期のアーヤーンという称号は、主に名誉的なものであり、地方行政への影響力はほとんどありませんでした。 しかし、18世紀初頭までには、アーヤーンという言葉は、単なる町の著名人以上の、政治的影響力を行使し、その地位が公式に認められた人々を指す、より重要な意味合いを持つようになりました。
アーヤーンの台頭は、16世紀に始まったオスマン帝国の地方分権化の傾向と密接に関連しています。 それ以前は、スルタンに近い者だけが政治的な力を持っていました。 ティマール制の下では、スルタンによって任命された地方の軍事総督が税金を徴収し、領土を統治していましたが、彼らはその権力を乱用して私腹を肥やし、影響力を蓄積することがありました。 17世紀から18世紀にかけて、地方総督と中央政府との間の闘争が顕著な現象として現れました。 これに対応して、中央政府は地方の富裕な個人に、総督に対抗するためのより大きな権力と自治権を与えました。 この地方分権化により、富が地方の影響力と権力においてより重要な要素となりました。
アーヤーンは多様な背景を持っていました。裕福な商人、イェニチェリ守備隊の長、重要な職人ギルドの指導者、イスタンブール政府の徴税権を購入した者、そしてワクフ(宗教的寄進財団)によって生み出された富の分配と維持を監督する者などが含まれていました。 エジプト、シリア、イラクなどの州では、アーヤーンは通常マムルークや地方のオスマン官僚でした。 アナトリア東部では、彼らはデレベイ(谷の領主)と呼ばれ、有力な氏族と連携していました。 アーヤーンの称号はイスラム教徒にのみ与えられましたが、その機能は世俗的なものでした。 彼らは、オスマン帝国の支配階級であるアスケリ(軍人・官僚階級)と、被支配階級であるレアーヤー(一般臣民)の間に位置する、新たな社会階層として台頭しました。
経済的役割と徴税請負制度
アーヤーンの台頭と権力基盤の形成において、イルティザーム制として知られる徴税請負制度が決定的な役割を果たしました。 オスマン帝国は、自らの資源を使って税金を徴収する代わりに、最高額の入札者に徴税権を競売にかけ、落札者は中央政府に一定額を納めた後、残りの利益を保持することができました。 この制度は、17世紀後半の財政改革の一環として、特に1695年に生涯にわたる徴税権(マリキャーネ)が導入されたことで、アーヤーンの経済的地位を飛躍的に高めました。
マリキャーネ制度は、アーヤーンに安定した収入源を提供するだけでなく、彼らが地方社会で経済的・政治的影響力を拡大するための基盤となりました。 徴税権は分割して私的に取引されるようになり、軍人、宗教関係者、都市の名士、イェニチェリなど、様々な社会集団がこの市場に参加しました。 これにより、以前は厳格に区別されていた軍人・官僚階級(アスケリ)と一般臣民(レアーヤー)の間の壁が崩れ、レアーヤー出身の者も政府の行政に参加する道が開かれました。
アーヤーンは、徴税請負人として、中央政府に対してはティマール制下の総督よりも効率的に税収を納めました。 彼らは地域に根ざしていたため、その土地の状況をより深く理解しており、地域の繁栄に直接的な利害関係を持っていました。 徴税官としての役割は、アーヤーンの地域における地位をさらに高めました。 彼らは広大な土地を支配し、徴税プロセスを管理するために階層的な組織を構築しました。 アーヤーン自身はイスラム教徒でなければなりませんでしたが、彼らの下で働く行政官にはその限りではありませんでした。
アーヤーンは、徴税請負を通じて得た富を、さらなる土地の取得や商業活動への投資に用いました。特に、チフトリクと呼ばれる農地の獲得は、彼らの経済力を強化する上で重要な手段でした。 チフトリクは、もともとオスマン帝国の農地制度の基本単位でしたが、17世紀以降、ティマール制の崩壊に伴い、多くのチフトリクがスルタンの寵臣やイェニチェリ、そしてアーヤーンの手に渡りました。 アーヤーンは、これらの土地から得られる地代収入や、市場向けの農産物生産を通じて、莫大な富を蓄積しました。 このようにして、徴税請負制度と土地所有の拡大は、アーヤーンが地方で支配的な経済勢力となるための両輪となったのです。
軍事的役割と私兵の形成
経済的な力を蓄えたアーヤーンは、やがて自らの軍隊、すなわち私兵を組織するようになりました。 これらの私兵は、名目上はスルタンに仕える軍隊であり、オスマン帝国が17世紀から18世紀にかけて繰り広げた数多くの戦争において、スルタンの要請に応じて参戦することもありました。 特に、1768年から1774年の露土戦争では、オスマン政府は軍事的・財政的支援をアーヤーンに頼らざるを得ず、その見返りとして彼らを人民の代表として公式に認めました。 1787年に再びロシアとの戦争が勃発すると、政府は再びアーヤーンに支援を求め、1790年には彼らの地方における権威を回復させました。
しかし、アーヤーンの私兵は、スルタンへの奉仕だけでなく、彼ら自身の領土と権益を守り、拡大するための重要な手段でもありました。 彼らは、他の名士から領土を奪い、支配権を確立するために、これらの軍隊を頻繁に使用しました。 アーヤーンは、一方ではスルタンの軍事的な家臣でありながら、他方では自らの領地において事実上の自治権を保持していました。 彼らの私兵の存在は、オスマン帝国の中央集権体制を弱体化させる一因となりました。
アーヤーンの軍事力は、地域によってその規模や構成が異なりました。バルカン半島では、パスヴァーノグル・オスマン・パシャのように、数万人に及ぶ大規模な軍隊を擁する者もいました。 アナトリアでは、デレベイと呼ばれる領主たちが、氏族的な結びつきを基盤とした私兵を率いていました。 これらの私兵は、イェニチェリの脱走兵や、地方の若者たちを徴募して編成されることが多く、彼らはアーヤーンに忠誠を誓い、その支配を支える中核的な存在となりました。
アーヤーンの軍事力の増大は、中央政府との緊張関係を生み出しました。スルタンは、アーヤーンの力を抑制しようと試みましたが、帝国の内外で続く戦争のために、彼らの軍事力に依存せざるを得ないというジレンマに陥りました。 アーヤーンは、この状況を巧みに利用し、中央政府からの自立性を高めていきました。彼らは、スルタンの命令に従う一方で、自らの利益に反する場合には、それを公然と無視することも厭いませんでした。 このように、アーヤーンの軍事力は、彼らが地方における支配者として君臨し、時には中央政府と対峙するための強力な武器となったのです。
中央政府との関係:協力と対立
アーヤーンとオスマン帝国中央政府との関係は、協力と対立が織りなす複雑なものでした。 一方で、アーヤーンは地方行政の重要な担い手であり、中央政府にとって不可欠な存在でした。 彼らは、地方総督の権力を抑制する役割を果たすとともに、徴税や兵士の徴募といった、帝国の維持に不可欠な機能を担っていました。 18世紀には、地方行政は、現地のカーディー(裁判官)、イェニチェリの司令官、要塞の司令官、そしてアーヤーンの指導者たちからなる地方評議会によって運営されるのが一般的でした。 中央から派遣される総督は1年任期であり、地方のアーヤーンとの協力なしには、効果的な統治を行うことは困難でした。
しかし、他方で、アーヤーンの権力増大は、中央政府にとって深刻な脅威となりました。 彼らは、自らの権威に対する中央政府の制限に抵抗し、徴税権を世襲化したり、イスタンブールへの税収送付を停止したりするなど、公然と中央政府に反抗するようになりました。 エジプトのムハンマド・アリー・パシャのように、事実上の独立国家を築き上げる者も現れました。 また、弱体化したオスマン帝国から領土を切り取り、独立運動を主導するアーヤーンもいました。
セリム3世(在位1789-1807)の治世下では、特にバルカン半島のアーヤーンがオスマン帝国の内政に重要な役割を果たし、しばしば中央の権威に反抗しました。 ヤニナのアリ・パシャ、ヴィディンのパスヴァーノグル、セレスのイスマイル・ベイなどは、独自の私兵を維持し、税を徴収し、裁判を行うなど、独立した君主のように振る舞いました。 彼らは、セリム3世が創設した新式軍隊ニザーム・ジェディドへの徴兵を拒否するなど、スルタンの改革政策にも抵抗しました。
1807年、改革に反対する勢力と協力したヨーロッパ州のアーヤーンは、セリム3世を退位に追い込みました。 これに対し、ルセのアーヤーンであったバイラクタル・ムスタファ・パシャは、クーデターを起こし、セリム3世の甥であるマフムト2世をスルタンの位に就けました。 バイラクタルは大宰相となり、1808年にイスタンブールでアーヤーンとデレベイの会議を招集し、マフムト2世の代表者との間で相互援助協定である「同盟憲章(セネディ・イッティファーク)」を締結させました。 この憲章は、アーヤーンの地位と世襲権を認め、スルタンの権力を制限するものであり、オスマン帝国の歴史における画期的な出来事でした。
しかし、この同盟憲章は短命に終わりました。 バイラクタルの死後、後継の大宰相たちはこの条約を批准せず、マフムト2世自身もこれを自らの権威への挑戦と見なしていました。 マフムト2世は、治世の後半を通じて、アーヤーンの自治権を弱体化させ、中央集権化を推し進めることに専念し、最終的にはほとんどのアーヤーンを鎮圧することに成功しました。 このように、アーヤーンと中央政府の関係は、協力と依存、そして対立と反抗が絶えず繰り返される、緊張に満ちたものでした。
同盟憲章(セネディ・イッティファーク)
1808年に締結された同盟憲章(セネディ・イッティファーク)は、オスマン帝国の歴史において、スルタンの絶対的な権力が初めて公式に制限された文書として、極めて重要な意味を持っています。 この憲章は、大宰相バイラクタル・ムスタファ・パシャの主導の下、マフムト2世と、アナトリアおよびルメリア(バルカン半島)の有力なアーヤーンたちとの間で結ばれました。 その背景には、17世紀後半から続くオスマン帝国の財政、行政、軍事制度の変化によって、アーヤーンが地方で絶大な権力を握るに至ったという状況がありました。
1807年のカバクチュ・ムスタファの反乱によってセリム3世が退位させられた後、バイラクタル・ムスタファ・パシャは、地方で揺らいでいた中央の権威を再確立するために、アーヤーンとの合意形成を模索しました。 こうして生まれたのが、前文、7つの条項、そして付属文書からなる同盟憲章です。
憲章の主な内容は以下の通りです。
アーヤーンはスルタンに敬意を払うことを約束しました。
アーヤーンは自らの軍事部隊をスルタンの軍隊に編入することに同意しました。
アーヤーンはスルタンの国庫を保護するために協力することを約束しました。
アーヤーンは、大宰相から与えられる命令が違法でない限り、それに従うことを約束しました。
アーヤーンは、他のアーヤーンの影響圏に干渉しないことに同意しました。
オスマン政府(至高の門)は、アーヤーンとその領地を正当なものとして認め、さらにその領地は世襲可能であると宣言しました。
アーヤーンは、反乱に対してスルタンを支援することを約束しました。
この憲章は、アーヤーンの権力を法的に認め、彼らと中央政府との関係を規定しようとする試みでした。 一部の歴史家は、これをトルコ版のマグナ・カルタと見なし、オスマン帝国における立憲制への第一歩であったと評価しています。 実際に、憲章には、拷問の禁止、不正行為の禁止、不当な課税の禁止など、人権の第一世代に属する市民的・政治的権利に関する表現が見られます。
しかし、同盟憲章の影響は限定的であり、その効力は長続きしませんでした。 スルタン・マフムト2世は、この憲章を自らの権威に対する挑戦と見なし、内心ではその成立を快く思っていませんでした。 憲章を主導したバイラクタル・ムスタファ・パシャが失脚し死を遂げると、後継の大宰相たちは憲章を批准せず、事実上、その内容は無視されることになりました。 その後、マフムト2世は精力的にアーヤーンの鎮圧に乗り出し、帝国の大部分において中央集権的な支配を再確立しました。
それにもかかわらず、同盟憲章がオスマン帝国の政治史に残した足跡は大きいものです。それは、スルタンの絶対権力が揺らぎ、地方の有力者が中央政府と対等な立場で交渉し、合意文書を取り交わすという前例を作ったからです。 短命に終わったとはいえ、同盟憲章は、後のタンジマート改革時代へと続く、オスマン帝国の近代化と憲政への道を切り開く、象徴的な出来事として記憶されています。
アーヤーンの社会構成と多様性
アーヤーンと呼ばれる地方名士層は、決して均質な集団ではなく、その出自、富の源泉、権力の規模は多岐にわたっていました。 16世紀から19世紀にかけてのオスマン帝国の社会経済史そのものを反映する存在であり、その構成は地域や時代によって大きく異なりました。
アーヤーンの出自は様々で、裕福な商人、ウラマー(イスラム法学者)、イェニチェリの将校などがその代表的な例です。 また、サンジャク・ベイ(県の長官)やベイレルベイ(州総督)といった高位の官職を退いた者、カーディー(裁判官)、ムデリス(宗教学者)、ムフティー(イスラム法の最高権威者)、ムルテジム(徴税請負人)、ムカーター・エミン(徴税区の管理者)、ギルドの長などもアーヤーン層を形成しました。 このように、アーヤーンは軍人、官僚、宗教関係者、商人など、既存の社会階層の枠を超えて形成されたエリート層でした。
地域的な多様性も顕著でした。エジプト、シリア、イラクといったアラブ諸州では、アーヤーンの多くはマムルーク出身者や、現地のオスマン官僚でした。 アナトリア東部では、デレベイ(谷の領主)と呼ばれる、強力な氏族と結びついた地方領主がアーヤーンとして君臨していました。 バルカン半島では、露土戦争などを通じて軍事的に台頭した人物が、広大な領域を支配する大アーヤーンへと成長しました。
権力の規模によっても、アーヤーンは二つのグループに大別できます。第一は、富と地域的な影響力によって、一般の住民とは一線を画す存在となった小規模な地方名士です。 第二は、州全体に影響力を及ぼし、政府から公式に称号や栄誉を与えられた大アーヤーンです。 この両方のグループが帝国全土に存在し、オスマン帝国の地方行政において重要な役割を果たしていました。
アーヤーンは、当初は都市や地区に住む名士を指す言葉でしたが、18世紀になると、その意味合いは大きく変化しました。 彼らは単なる名士ではなく、政治的な影響力を行使し、その地位が「アーヤーン・ベルデ(州の名士)」、「アーヤーン・ヴィライェト(都市の名士)」、「アーヤーン・メムレケト(国の名士)」といった公式な称号で認められるようになりました。
アーヤーンの選出方法は、表向きには合意に基づく選挙の形をとることがありましたが、実際には有力な候補者間の暴力的な闘争によって決着することが少なくありませんでした。 個人が自らの富と私兵を用いて、この重要な地位への選出を確実にしようとすることは、頻繁に見られた光景でした。
このように、アーヤーンは多様な背景を持つ人々で構成されており、その権力基盤も経済力、軍事力、社会的名声など様々でした。彼らは、オスマン帝国後期の地方社会における権力構造の複雑さと流動性を象徴する存在だったのです。
アーヤーン時代の終焉と遺産
18世紀を「アーヤーンの時代」と呼ぶならば、19世紀初頭は、その時代の終わりを告げる転換期でした。 スルタン・マフムト2世(在位1808-1839)の治世は、アーヤーンの自治権を解体し、帝国の中央集権体制を再確立するための、断固とした闘争の時代として特徴づけられます。
1808年の同盟憲章(セネディ・イッティファーク)は、アーヤーンの権力が頂点に達したことを示す象徴的な出来事でしたが、皮肉にもそれは彼らの衰退の始まりでもありました。 憲章を自らの権威への屈辱的な挑戦と受け止めたマフムト2世は、憲章を主導した大宰相バイラクタル・ムスタファ・パシャの死後、アーヤーンの力を削ぐための政策を次々と実行に移しました。 彼は、かつてアーヤーンが担っていた徴税や行政の権限を、中央から派遣された官僚の手に取り戻そうとしました。
マフムト2世は、長年にわたり地方で半独立的な勢力を築いてきた強力なアーヤーンやデレベイに対して、軍事的な遠征を繰り返しました。 彼は、ヤニナのアリ・パシャのような、かつては帝国を脅かすほどの力を持っていた大アーヤーンを一人また一人と討伐し、その領地を没収していきました。アナトリアのデレベイたちも、19世紀半ばまでには次々と鎮圧され、中央政府の支配下に置かれました。 この中央集権化のプロセスは、マフムト2世の後継者たちによるタンジマート改革(1839-1876)の時代にも引き継がれ、さらに推し進められました。
アーヤーンの衰退には、いくつかの要因が考えられます。第一に、マフムト2世による中央集権化政策の成功が挙げられます。彼は、西洋式の近代的な軍隊と官僚機構を育成し、地方勢力に対抗するための力を着実に蓄えました。第二に、アーヤーン間の内紛や抗争が、彼ら自身の力を弱める結果につながりました。 第三に、ナショナリズムの台頭など、帝国の内外で起こっていた社会経済的な変化も、アーヤーンが依拠していた旧来の権力基盤を揺るがしました。
しかし、アーヤーンがオスマン帝国の歴史から完全に姿を消したわけではありません。彼らの多くは、新たな時代に適応し、形を変えてその影響力を保持し続けました。かつてのアーヤーン一族は、土地所有者、商人、あるいは新しい官僚機構の一員として、地方社会におけるエリートとしての地位を維持しました。 1876年に制定されたオスマン帝国憲法では、帝国議会の上院が「アーヤーン院」と名付けられ、スルタンによって任命された名士たちが議員となりました。 これは、アーヤーンという言葉が、かつての地方豪族から、国家に仕えるエリート層を指す言葉へと意味合いを変えていったことを示しています。
アーヤーンの時代は、オスマン帝国が中央集権的な帝国から、地方分権的な国家へと変容していく過渡期を象徴しています。 彼らは、帝国の衰退と解体を加速させた破壊的な勢力であったと同時に、地方の安定と経済発展に貢献し、中央政府と地方社会とを結ぶ重要な仲介者でもありました。