バヤジット1世とは
バヤジット1世は、オスマン帝国の第4代スルタンであり、その治世は1389年から1402年まで続きました。彼はその迅速かつ決定的な軍事行動から「ユルドゥルム」(雷光)という異名で知られています。彼の治世は、オスマン帝国の領土をバルカン半島とアナトリアの両方で大幅に拡大し、中央集権的な国家機構の基礎を築いた点で重要です。しかし、その輝かしい成功は、中央アジアの征服者ティムールとの破滅的な衝突によって終わりを告げました。アンカラの戦いでの敗北と捕虜生活は、オスマン帝国を内戦の時代へと突き落とし、彼の生涯は劇的な栄枯盛衰の物語として歴史に刻まれています。
出自と若き日
バヤジット1世は、1360年頃、オスマン帝国の第3代スルタンであるムラト1世とその妃ギュルチチェク・ハトゥンの息子として生まれました。 彼の母親であるギュルチチェク・ハトゥンはギリシャ系の出自であったとされています。 彼は、当時のオスマン帝国の慣習に従い、幼少期をブルサの宮殿で兄弟たちと共に過ごし、著名な学者たちからイスラム哲学、戦争術、国家統治に関する教育を受けました。 若き日のバヤジットは、王子としてキュタヒヤの知事を務めました。 この地位は、1378年にゲルミヤン侯国の君主の娘と結婚したことによって得られたものです。 この結婚は、ゲルミヤン侯国の広大な領土をオスマン家の支配下にもたらすという政治的な意味合いも持っていました。
彼は衝動的で大胆な戦士として知られ、カラマン侯国との戦いにおける彼の迅速な行動から「ユルドゥルム」(雷光)という異名を得ました。 この名は、彼の軍事指導者としての特徴を的確に表しており、その後の彼のキャリアを通じて広く知られることになります。王子としての彼の役割は、単に領土を統治するだけでなく、父ムラト1世の軍事作戦において一翼を担うことでもありました。 彼は父の指揮下で数々の戦いに参加し、実践的な軍事経験を積みました。この経験は、彼が後にスルタンとして自ら軍を率いる上で大きな財産となりました。若き日のバヤジットは、野心的で大胆な性格を持つ一方で、衝動的な側面も持ち合わせていたとされています。 彼のこの性格は、後の治世における迅速な領土拡大という成功と、ティムールとの破滅的な対立という悲劇の両方につながっていくことになります。彼の夢は、自身の王朝の力を拡大し、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服することでした。 この野心は、預言者ムハンマドのハディース(言行録)に影響された可能性も指摘されており、そこでは偉大なイスラムの軍隊と征服者がいつかコンスタンティノープルを征服すると予言されていました。 しかし、王子としての彼の立場は、スルタンである父に従順であることが求められるものでした。
スルタンに即位
バヤジット1世がオスマン帝国のスルタンとして即位したのは、1389年のコソボの戦いの直後のことでした。 この戦いで、彼の父であるムラト1世は、セルビアの騎士ミロシュ・オビリッチによって戦いの最中または直後に殺害されました。 父の突然の死により、バヤジットは戦場でスルタンの座を継承しました。即位後、彼は直ちに弟のヤクブ・チェレビーを処刑しました。 これは、王位継承を巡る潜在的な陰謀や内紛を防ぐための冷徹な決断であり、その後のオスマン帝国における兄弟殺しの慣習の先駆けとなるものでした。
コソボの戦いの結果、セルビアはオスマン帝国の属国となりました。 1390年、バヤジットは、コソボで命を落としたセルビア公ラザルの娘であるオリヴェラ・デスピナを妃として迎えました。 この結婚は、セルビアとの関係を安定させるための政略結婚であり、オスマン帝国のバルカン半島における支配を固める上で重要な役割を果たしました。バヤジットは、ラザルの息子であるステファン・ラザレヴィッチを新たなセルビアの指導者として認め、彼にかなりの自治権を与えました。 この寛容な政策により、セルビアはオスマン帝国の忠実な属国となり、ステファン・ラザレヴィッチとその精鋭な騎士たちは、後のバヤジットの軍事作戦において重要な戦力となりました。
バヤジットは即位後、首都をブルサからバルカン半島の中心に近いエディルネ(アドリアノープル)に移しました。 これは、帝国の重心がヨーロッパへと移りつつあることを象徴する出来事でした。彼は「スルタン・イ・ルーム」(ルームのスルタン)という称号を採用しました。 「ルーム」とは、アラビア語で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を指す言葉であり、この称号は、バヤジットが自身をアナトリアにおけるローマ帝国の後継者と位置づけていたことを示しています。彼の即位は、オスマン帝国が新たな段階に入ったことを告げるものでした。父ムラト1世が築いた基盤の上に、バヤジットはより中央集権的で強力な帝国を築き上げることを目指しました。彼の治世は、迅速な領土拡大と、それに伴う内外の勢力との絶え間ない闘争によって特徴づけられることになります。
バルカン半島における征服活動
スルタンに即位したバヤジット1世は、直ちにバルカン半島におけるオスマン帝国の支配を拡大、強化するための精力的な軍事活動を開始しました。彼の治世の初期は、バルカン半島の広大な領域を支配下に置くための連続した遠征に費やされました。 1389年から1395年にかけて、彼はブルガリアと北ギリシャを征服しました。
オスマン帝国のバルカン半島への進出は、ムラト1世の時代に始まっていましたが、バヤジットの代になってそのペースは飛躍的に加速しました。1391年、オスマン軍はスコピエを占領し、この都市をバルカン半島における重要な作戦基地としました。 これにより、セルビア北部における抵抗は終焉を迎えました。
1393年、バヤジットはブルガリアに対して大規模な遠征を行い、首都タルノヴォを包囲、陥落させました。これにより、第二次ブルガリア帝国は事実上滅亡し、その領土はオスマン帝国の直接統治下に置かれることになりました。 この征服は、オスマン帝国がバルカン半島において恒久的な支配を確立する上で決定的な一歩となりました。
1394年、バヤジットはドナウ川を渡り、ミルチャ老公が統治するワラキア公国へ侵攻しました。 オスマン軍は数で勝っていましたが、1394年10月10日(または1395年5月17日)のロヴィネの戦いにおいて、森林と沼地の多い地形でワラキア軍の激しい抵抗に遭いました。 ワラキア軍はこの戦いに勝利し、バヤジットの軍勢がドナウ川を越えてさらに進軍するのを阻止しました。 この戦いは、バヤジットがバルカン半島で経験した数少ない敗北の一つであり、ワラキアの抵抗の激しさを示すものでした。
ヨーロッパにおけるバヤジットの領土は、彼の治世の頂点には、コンスタンティノープルを除くトラキア、マケドニア、ブルガリア、そしてセルビアの一部にまで及んでいました。 彼はこれらの征服において、セルビアやビザンツといったキリスト教徒の属国の軍隊に大きく依存していました。 これは、イスラム教徒であるトルコ系の家臣たちの忠誠心に完全には信頼を置いていなかったためとも言われています。
バヤジットのバルカン半島における急速な拡大は、西ヨーロッパのキリスト教諸国に深刻な脅威と受け止められました。特にハンガリー王国は、自国の国境にオスマン帝国の勢力が迫っていることに強い危機感を抱きました。この脅威が、後にニコポリス十字軍の結成へとつながっていくことになります。
アナトリアの統一
バヤジット1世は、バルカン半島での征服活動と並行して、アナトリア(小アジア)の統一という壮大な目標にも着手しました。 彼の父祖たちは、ヨーロッパでのガーズィ(イスラムの戦士)活動に重点を置き、アナトリアの他のトルコ系イスラム君侯国(ベイリク)との全面的な衝突を避ける傾向にありました。 しかし、バヤジットは、オスマン帝国をアナトリアにおける唯一の支配者とすることを目指し、積極的な併合政策を推し進めました。
イスラム教徒の領土への武力侵攻は、オスマン帝国の戦士たちの重要な供給源であったガーズィたちとの関係を損なう危険性がありました。 そのため、バヤジットはこれらのイスラム国家に対する戦争を正当化するために、まずイスラム法学者からファトワ(法的な見解)を得るという手法を用いました。 しかし、彼はアナトリアのトルコ系家臣たちの忠誠心を疑っており、これらの征服においては、セルビアやビザンツといったキリスト教徒の属国軍に大きく依存していました。
彼の統一事業は驚異的な速さで進みました。1390年の夏から秋にかけてのわずか一回の遠征で、彼はアイドゥン、サルハン、メンテシェといったアナトリア西部の主要なベイリクを征服しました。 彼の主要なライバルであったカラマン侯国の君主アラーエッディン・ベイは、スィヴァスの支配者であったカディ・ブルハンエッディンや他のベイリクと同盟を結んで対抗しようとしました。
しかし、バヤジットの勢いは止まりませんでした。彼はさらに進軍を続け、ハミド、テケ、ゲルミヤンといったベイリクを次々と制圧しました。 そして、カラマン侯国からアクシェヒル、ニーデ、さらにはその首都コンヤといった重要都市を奪い取りました。 1391年、カラマン侯国は和平を申し入れ、バヤジットはこれを受け入れました。 これは、さらなる進軍が彼のトルコマン系の家臣たちを刺激し、カディ・ブルハンエッディンとの同盟に走らせることを懸念したためでした。
カラマンとの和平が成立すると、バヤジットは北方に転じ、彼の軍から逃れた多くの人々を受け入れていたカスタモヌを攻撃し、この都市とスィノプを征服しました。 しかし、その後のカディ・ブルハンエッディンに対する作戦は、クルクディリムの戦いで阻止されました。
1397年、バヤジットは再びカラマン侯国に目を向け、アクチャイの戦いでその君主を破り、殺害してその領土を併合しました。 1398年には、ジャニク侯国と、かつてティムールとの合意に違反してカディ・ブルハンエッディンの領土を征服しました。 最終的に、エルビスタンとマラティヤも占領しました。
これらの征服活動を通じて、バヤジットはアナトリアの大部分をオスマン帝国の支配下に置くことに成功しました。彼の帝国は東はユーフラテス川にまで達しました。 彼は、オスマン家がアナトリアにおけるかつてのセルジューク朝の後継者であると信じており、この信念が彼の積極的な統一政策の原動力となっていました。 しかし、この急速な拡大、特にティムールが宗主権を主張していたアナトリア東部の君侯たちを追放したことは、中央アジアの強大な支配者ティムールとの破滅的な対立を招く直接的な原因となりました。
コンスタンティノープル包囲
アナトリアとバルカン半島で急速に勢力を拡大したバヤジット1世にとって、その両大陸にまたがる帝国の中心に位置するビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは、戦略的にも象徴的にも征服すべき最終目標でした。彼の治世中、コンスタンティノープルは数回にわたりオスマン軍による包囲を受けました。
最初の本格的な包囲は1394年に始まりました。 この包囲に備え、バヤジットは1393年から1394年にかけて、ボスポラス海峡のアジア側にアナドル・ヒサル(アナトリア城塞)を建設しました。 この城塞は、海峡の交通を遮断し、黒海からコンスタンティノープルへの補給路を断つことを目的としていました。包囲は長期にわたり、都市は深刻な食糧不足と困難に直面しました。
ビザンツ皇帝マヌエル2世パレオロゴスは、西ヨーロッパ諸国に必死の救援要請を送りました。この要請に応える形で、ハンガリー王ジギスムントが主導する大規模な十字軍が組織されることになります。バヤジットは、この十字軍の脅威に対応するため、一時的にコンスタンティノープルの包囲を緩めざるを得ませんでした。
1396年のニコポリスの戦いで十字軍に壊滅的な勝利を収めた後、バヤジットは再びコンスタンティノープルへの圧力を強めました。包囲は再開され、都市はさらに厳しい状況に追い込まれました。 彼は、この勝利を記念してブルサに壮大なウル・ジャミ(大モスク)を建設しました。
包囲は1402年まで断続的に続きました。 ビザンツ帝国は絶体絶命の危機に瀕し、その命運は尽きるかに見えました。しかし、東方から新たな脅威が迫っていました。中央アジアの征服者ティムールがアナトリアに侵攻したのです。 バヤジットは、このティムールの侵攻に対処するため、コンスタンティノープルの包囲を解き、全軍を東方へ向けることを余儀なくされました。 ティムールの出現は、皮肉にも、滅亡寸前だったビザンツ帝国に予期せぬ救いの手をもたらすことになったのです。バヤジットがコンスタンティノープルを征服するという長年の野望は、ティムールとの決戦を前にして、ついえることとなりました。
ニコポリスの戦い (1396年)
1396年9月25日に行われたニコポリスの戦いは、バヤジット1世の治世における最も輝かしい軍事的勝利であり、中世における最後の大規模な十字軍の試みを打ち砕いた戦いとして歴史に刻まれています。
背景
バヤジットによるバルカン半島での急速な領土拡大と、1394年から始まったコンスタンティノープル包囲は、西ヨーロッパのキリスト教世界に深刻な危機感をもたらしました。 特に、オスマン帝国の脅威を直接受けていたハンガリー王ジギスムント(後の神聖ローマ皇帝)は、教皇ボニファティウス9世に働きかけ、対オスマン十字軍の結成を呼びかけました。 この呼びかけに応じ、フランス、ブルゴーニュ、ドイツ、イングランド、ワラキアなど、ヨーロッパ各地から騎士たちが集結しました。 十字軍の兵力は、歴史的記述によって大きく異なりますが、数万人に達したと考えられています。 彼らの目的は、オスマン帝国をバルカン半島から駆逐し、包囲されているコンスタンティノープルを解放することでした。
戦闘の経過
ジギスムントの指揮下にあったものの、十字軍は内部の統制が取れていませんでした。特に、経験豊富だが規律に欠けるフランス騎士団は、ジギスムントの慎重な作戦指導に従おうとせず、功名心に逸っていました。 十字軍はドナウ川を下り、いくつかのオスマン帝国の拠点を攻略した後、1396年9月12日にニコポリス(現在のブルガリア、ニコポル)の要塞に到着し、包囲を開始しました。
一方、バヤジットは十字軍の接近を知ると、コンスタンティノープルの包囲を解き、驚異的な速さで軍を北上させました。 9月25日、オスマン軍がニコポリス近郊に到着したという知らせは、十字軍に衝撃と混乱をもたらしました。
戦端は、ジギスムントの制止を振り切ったフランス騎士団の無謀な突撃によって開かれました。 彼らはオスマン軍の前衛部隊を突破しましたが、その先には巧妙に配置された杭の柵と、その背後に控えるオスマン軍の主力部隊が待ち構えていました。疲弊し、隊列を乱したフランス騎士団は、オスマン軍の反撃を受けて壊滅的な打撃を受けました。
続いて、ジギスムント率いるハンガリー軍主力が攻撃を開始しましたが、すでに戦況はオスマン側に有利に傾いていました。バヤジットは、セルビアの君主ステファン・ラザレヴィッチ率いる重装騎兵を含む予備兵力を適切な時期に投入し、十字軍を包囲、殲滅しました。
結果と影響
ニコポリスの戦いは、十字軍の完全な敗北に終わりました。 数千人の十字軍兵士が戦死し、フランスのジャン・ド・ヌヴェール(ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の息子)を含む多くの貴族が捕虜となりました。 捕虜たちは、莫大な身代金と引き換えに解放された一部を除き、その多くが処刑されたと伝えられています。ジギスムント王は、ヴェネツィアの船で辛くも戦場から脱出しました。
この決定的な勝利により、バヤジットは「雷光」の名を不動のものとし、バルカン半島におけるオスマン帝国の支配を確立しました。 ヨーロッパ諸国はオスマン帝国に対する大規模な連合軍を結成する意欲を失い、その後数十年にわたり、オスマン帝国のヨーロッパへの進出を阻む有効な手立てを打つことができなくなりました。 ニコポリスの戦いは、第二次ブルガリア帝国の復活の望みを完全に断ち切り、コンスタンティノープルの孤立をさらに深める結果となりました。バヤジットはこの勝利を祝して、ブルサに壮大なウル・ジャミ(大モスク)を建設しました。 この勝利は、バヤジットの治世の頂点を示す出来事でした。
ティムールとの対立
ニコポリスでの輝かしい勝利の後、バヤジット1世の力は絶頂に達したかに見えました。しかし、彼の急速なアナトリア統一政策は、東方から現れたもう一人の強大な征服者、ティムールとの運命的な対立を引き起こすことになります。
対立の原因
ティムールは、中央アジアのトランスオクシアナを拠点に、モンゴル帝국의再興を目指して広大な帝国を築き上げたトゥルク・モンゴル系の支配者でした。 彼の征服活動はペルシャ、ロシア南部、インドにまで及び、その過程でアナトリア東部のいくつかの君侯国を自らの宗主権下に置いていました。
両者の対立の直接的な原因は、バヤジットのアナトリア政策にありました。バヤジットは、ティムールが宗主権を主張していたアナトリアの君侯たちを次々と征服し、その領土を併合していきました。 1398年、バヤジットがスィヴァスの支配者カディ・ブルハンエッディンの領土を征服したことは、ティムールとの間の緩衝地帯を消滅させ、両帝国の国境を直接接触させる結果となりました。 さらに、バヤジットに追われたアナトリアの君侯たちがティムールのもとに亡命し、彼にバヤジットへの攻撃を促したことも、緊張を高める一因となりました。
侮辱的な書簡の応酬
対立は、両君主間で交わされた侮辱に満ちた書簡の応酬によって、さらにエスカレートしました。 これらの手紙の中で、彼らはお互いの出自や正統性を非難し合い、軍事的な威嚇を繰り返しました。バヤジットはティムールを成り上がりの野蛮人と見下し、一方のティムールはバヤジットをキリスト教徒の属国に頼る不誠実なイスラム教徒と罵りました。この書簡のやり取りは、両者のプライドを深く傷つけ、武力による決着を不可避なものにしていきました。
ティムールの侵攻
1400年、ティムールはついにアナトリアへの侵攻を開始しました。 彼は、かつてオスマン帝国の属国であった地元のトルコ系ベイリクたちを扇動し、自軍に加わらせることに成功しました。 ティムール軍はまず、オスマン帝国の重要都市スィヴァスを攻略し、略奪しました。 その後、シリアやイラク方面へと転進し、マムルーク朝の都市アレッポやダマスカスを破壊しましたが、これはバヤジットを油断させるための戦略だったとも言われています。
1402年夏、ティムールは再び大軍を率いてアナトリアに侵攻しました。 当時、コンスタンティノープルを包囲していたバヤジットは、ティムールの侵攻の報を受けると、急遽包囲を解き、全軍を率いて東へ向かいました。 イスラム世界で最も強力な二人の支配者の激突は、もはや避けられない状況となっていました。
アンカラの戦い (1402年)
1402年7月20日(いくつかの資料では7月28日)、アンカラ近郊のチュブク平原で繰り広げられたアンカラの戦いは、オスマン帝国の歴史における最も壊滅的な敗北であり、バヤジット1世の治世に悲劇的な終止符を打った戦いです。
両軍の兵力と布陣
ティムール軍は、歴史家によって推定値が異なりますが、約14万人の兵力を有し、その大部分が騎兵で、32頭の戦象も含まれていました。 ティムール自身が中央後方の予備兵力を指揮し、息子のシャー・ルフとミラン・シャーがそれぞれ左翼と右翼を、孫のムハンマド・スルタンが中央前衛を率いました。
一方、バヤジット率いるオスマン軍は、約8万5千人でした。 バヤジットは中央で精鋭部隊であるイェニチェリを率い、長男スレイマン・チェレビーが左翼、セルビア公ステファン・ラザレヴィッチがバルカン半島の兵を率いて右翼、そして息子のメフメトが後衛を担当しました。
戦闘の経過
ティムールは巧妙な戦略家でした。彼はバヤジット軍が酷暑の中アナトリアを東進している間に、密かに南西に迂回し、オスマン軍の背後に回り込んでアンカラを包囲しました。 これにより、疲弊し、喉の渇きに苦しむオスマン軍は、自国の都市を解放するために引き返して戦うことを余儀なくされました。 さらにティムールは、戦場の唯一の水源であったチュブク川の流れを変え、オスマン軍を水不足に陥らせました。
戦闘はオスマン軍の総攻撃で始まりましたが、ティムール軍の騎馬弓兵による矢の雨によって阻まれました。 戦いの序盤、ステファン・ラザレヴィッチ率いるセルビア重装騎兵は奮戦し、ティムール軍の左翼を押し返すほどの活躍を見せました。 ステファンはバヤジットに共に戦場から脱出するよう進言しましたが、バヤジットはこれを拒否しました。
しかし、戦いの趨勢を決定づけたのは、オスマン軍内部からの裏切りでした。ティムールの事前の調略により、オスマン軍の左右両翼に配置されていたタタール兵や、かつてバヤジットに征服されたアナトリアのベイリク出身の兵士たちが、次々とティムール側に寝返ったのです。 これによりオスマン軍の戦線は崩壊し、中央の歩兵部隊が剥き出しになりました。
バヤジットは、残ったイェニチェリとセルビア兵と共に最後まで抵抗を続けましたが、ティムール軍の圧倒的な数に包囲されました。 バヤジットは数人の騎兵と共に戦場からの脱出を図りましたが、追撃を受け、馬が倒れたところを捕らえられました。 彼は、オスマン帝国のスルタンとして、敵に捕虜にされた唯一の君主となりました。
敗北の影響
アンカラでの敗北は、オスマン帝国にとって破滅的なものでした。 バヤジット自身が捕虜となり、彼の息子たちのうち、スレイマン、イーサー、メフメト、ムーサーは戦場から逃れましたが、ムスタファは父と共に捕らえられました。 ティムールは、バヤジットが征服したアナトリアのベイリクを復活させ、オスマン帝国の領土はオルハン時代の小規模な君侯国程度にまで縮小されました。
この敗北は、オスマン帝国を約11年間にわたる内戦、すなわち「オスマン空位時代」(フェトレット・デヴリ)へと突き落としました。 バヤジットが一代で築き上げたかに見えた統一帝国は、一瞬にして崩壊の危機に瀕したのです。
捕虜生活と死
アンカラの戦いでティムールに捕らえられたバヤジット1世の晩年は、屈辱と謎に包まれています。彼の捕虜生活と死については、様々な、時には矛盾する記述が残されています。
捕虜としての待遇
西欧の年代記作家や後世の物語では、バヤジットがティムールによって過酷な扱いを受けたという話が広く流布しました。 最も有名な逸話は、彼が鉄の檻や黄金の格子に入れられて見世物にされ、ティムールが彼を踏み台として馬に乗り降りしたというものです。 また、彼の妃であるオリヴェラ・デスピナが、ティムールの宴席で裸で給仕をさせられたという屈辱的な物語も伝えられています。
しかし、これらの話の信憑性は高くありません。ティムール自身の宮廷にいた歴史家や作家たちは、バヤジットが丁重に扱われ、ティムールは彼の死を悼みさえしたと記録しています。 当時の目撃者であるドイツ人旅行者のヨハン・シルトベルガーや、1404年にティムールの宮廷を訪れたスペインの使節ルイ・ゴンサレス・デ・クラビホなども、檻や過酷な扱いについては言及していません。 ティムールは、捕らえた君主を丁重に遇することで自らの寛大さを示し、オスマン帝国を自らの属国としてコントロールしようとした可能性があります。バヤジットに敬意を払うことは、その息子たちを懐柔するための政治的な計算であったとも考えられます。
死
バヤジットは捕虜となってから約8ヶ月後の1403年3月8日、アクシェヒルで亡くなりました。 彼の死因については、今日でも明確にはなっていません。病死であったとする説が有力ですが、絶望のあまり自ら指輪に隠していた毒を飲んで自殺したという説や、ティムールによって毒殺されたという説も存在します。 オスマン側の歴史家メフメト・ネシュリは、ティムールがバヤジットを檻に入れたと記述していますが、これも後世の創作である可能性が高いです。 いずれにせよ、かつて「雷光」と恐れられたスルタンは、捕囚の身のまま失意のうちにその生涯を終えました。
彼の遺体はティムールによって丁重に扱われ、後に息子のムーサー・チェレビーによってブルサに運ばれ、彼が建てたモスクの隣にある霊廟に埋葬されました。 バヤジットの死は、オスマン帝国の後継者争いをさらに激化させ、空位時代を決定的なものにしました。
オスマン空位時代 (1402-1413)
バヤジット1世のアンカラでの敗北と捕虜、そしてその後の死は、オスマン帝国を建国以来最大の危機に陥れました。 彼の息子たちの間で繰り広げられた約11年間にわたる後継者争いは、「オスマン空位時代」または「フェトレット・デヴリ」として知られています。
後継者たちの争い
アンカラの戦場から逃れたバヤジットの4人の息子、スレイマン、イーサー、ムーサー、そしてメフメトは、それぞれがスルタンの座を主張し、帝国を分割して支配しようとしました。
長男のスレイマン・チェレビーは、ヨーロッパ側の領土(ルメリア)を掌握し、エディルネに首都を置きました。 彼はビザンツ帝国や他のキリスト教徒の属国君主たちの支持を得て、父の東方への征服政策を批判した人々の代表となりました。
イーサー・チェレビーは、アナトリアの旧都ブルサを拠点とし、アナトリアの支配権を主張しました。
メフメト・チェレビー(後のメフメト1世)は、アナトリア北東部のアマスィヤを拠点としました。彼は、オスマン帝国の初期の征服を支えたトルクメン系の有力者たちの支持を得ていました。 ティムールはアンカラの戦いの後、メフメトをスルタンとして承認しましたが、彼の兄弟たちはその権威を認めませんでした。
ムーサー・チェレビーは、当初兄のメフメトと行動を共にしていましたが、後に独自の野心を持つようになります。
内戦の展開
空位時代は、兄弟間の複雑な同盟と裏切り、そして絶え間ない戦闘によって特徴づけられます。当初、メフメトはイーサーを破り、アナトリアにおける主要な競争相手を排除しました。
その後、対立の焦点はヨーロッパのスレイマンとアナトリアのメフメトの間に移りました。1410年、メフメトは弟のムーサーをバルカン半島に送り込み、スレイマンの支配を揺さぶりました。 ムーサーは当初苦戦しましたが、1411年にスレイマンの軍隊が彼に寝返ったことで形勢は逆転します。スレイマンは逃亡中に捕らえられ、殺害されました。
これにより、ムーサーがルメリアの支配者となりましたが、彼の統治は過酷なものであり、かつてスレイマンを支持していた勢力やビザンツ帝国との関係を悪化させました。この状況を利用したのがメフメトでした。彼はビザンツ皇帝やセルビア君主ステファン・ラザレヴィッチと同盟を結び、ムーサーに挑みました。
内戦の終結とメフメト1世の勝利
1413年7月5日、メフメトとムーサーの軍隊は、現在のブルガリアにあるチャムルルで激突しました。 この戦いでムーサー軍の有力者たちがメフメト側に寝返り、ムーサーは敗北。逃亡中に捕らえられ、処刑されました。
これにより、メフメト・チェレビーはバヤジットの息子たちのうち唯一の生存者となり、メフメト1世としてオスマン帝国の単独支配者となりました。 彼は帝国の「第二の創始者」と称され、内戦で荒廃した国家を再建し、失われた領土の大部分を回復させるという困難な課題に取り組み始めました。アンカラの戦いがもたらした壊滅的な打撃にもかかわらず、オスマン帝国が完全に崩壊しなかったのは、バヤジットと彼の先代たちが築いた国家機構、特にルメリアにおける支配が比較的強固であったためです。空位時代は、オスマン帝国がその驚異的な回復力と政治的弾力性を証明した試練の時代でもありました。
政策と統治
バヤジット1世の治世は、軍事的な征服だけでなく、オスマン帝国の国家機構を中央集権化し、より洗練された帝国へと変貌させるための重要な改革が行われた時代でもありました。
中央集権化
バヤジットは、父ムラト1世が始めた中央集権化の政策をさらに推し進めました。彼は、伝統的に大きな力を持っていたトルコ系の有力貴族の影響力を削ぎ、スルタンの絶対的な権威を確立しようとしました。その一環として、彼は国家の行政において、デヴシルメ制度によって徴用され、スルタン個人に忠誠を誓うカプクル(門の奴隷)出身者をますます重用するようになりました。これにより、世襲の貴族階級に代わる、スルタン直属の官僚・軍人エリート層が形成されていきました。この政策は、一部のトルコ系有力者からの反発を招き、彼らがアンカラの戦いでティムール側に寝返る一因ともなりました。
法と行政
バヤジットは、帝国の拡大に伴い、より体系的な法制度と行政機構の整備を進めました。彼は初めて、オスマン帝国全土にわたるカザスケル(大法官)の職を設け、帝国の司法制度を統一しようと試みました。また、彼はティマール制(軍事奉仕と引き換えに徴税権を与える制度)を再編し、国家の財政基盤と軍事力を強化しました。彼の治世において、最初のオスマン帝国の法典(カヌーンナーメ)が編纂されたとも考えられていますが、現存する最古のものは後の時代のものであり、その詳細は不明です。
建築活動
バヤジットの治世は、オスマン建築の発展においても重要な時期でした。彼の最も有名な建築事業は、ニコポリスの戦勝を記念してブルサに建設されたウル・ジャミ(大モスク)です。20個のドームを持つこの壮大なモスクは、初期オスマン建築の最高傑作の一つとされています。また、彼はボスポラス海峡の戦略的な位置にアナドル・ヒサル(アナトリア城塞)を建設し、後のコンスタンティノープル征服の布石を打ちました。ブルサやエディルネなど、帝国の主要都市には、彼の名で多くのモスク、マドラサ(神学校)、橋、その他の公共施設が建設され、帝国の威信と繁栄を示しました。
経済政策
バヤジットの統治下で、オスマン帝国は経済的にも大きく発展しました。ブルサは絹織物産業の中心地として国際的な名声を得て、ジェノヴァやヴェネツィアの商人たちが頻繁に訪れる商業都市となりました。彼は東西交易路の安全を確保し、商業活動を奨励することで、帝国の歳入を増加させました。しかし、彼の度重なる軍事遠征と大規模な建築事業は国家財政に大きな負担をかけ、時には特別な税金が課されることもありました。
家族
バヤジット1世の家族、特に彼の妃たちと息子たちは、彼の治世とその後継者争いにおいて重要な役割を果たしました。
妃たち
バヤジットは、政治的同盟を強化するために多くの結婚をしました。彼の妃の中で特に有名なのは以下の人物です。
デヴレトシャー・ハトゥン: ゲルミヤン侯国の君主の娘で、バヤジットの最初の妃の一人です。この結婚により、ゲルミヤン侯国の領土の大部分がオスマン家の持参金として譲渡されました。彼女はイーサー・チェレビーの母です。
オリヴェラ・デスピナ・ハトゥン(またはマリア・デスピナ): セルビア公ラザルの娘で、コソボの戦いの後にバヤジットのハレムに加わりました。この結婚は、セルビアをオスマン帝国の忠実な属国とする上で決定的な役割を果たしました。彼女はバヤジットに寵愛され、宮廷で大きな影響力を持っていたと言われています。彼女はアンカラの戦いで夫と共に捕虜となりましたが、後に解放され、兄のステファン・ラザレヴィッチのもとに戻りました。
ギュルチチェク・ハトゥン: 彼の母であり、ギリシャ系の出自であったとされています。
息子たち
バヤジットには多くの息子がいましたが、その中でも特に歴史的に重要なのは、オスマン空位時代に帝位を争った5人の息子たちです。
エルトゥールル・チェレビー: 長男でしたが、父の治世中に亡くなりました。
スレイマン・チェレビー: アンカラの戦いの後、ルメリア(ヨーロッパ側領土)を支配しました。彼はビザンツ帝国と協調的な政策を取りましたが、弟のムーサーに敗れ、1411年に殺害されました。
イーサー・チェレビー: アナトリアのブルサを拠点としましたが、弟のメフメトとの戦いに敗れ、殺害されました。
メフメト・チェレビー(後のメフメト1世): アマスィヤを拠点とし、最終的に兄弟間の内戦を勝ち抜いて帝国を再統一しました。彼は「第二の創始者」として知られています。
ムーサー・チェレビー: 当初はメフメトと協力しましたが、後に独立してルメリアを支配しました。しかし、その過酷な統治が反発を招き、1413年にメフメトに敗れて処刑されました。
ムスタファ・チェレビー: アンカラの戦いで父と共に捕虜となりました。ティムールの死後サマルカンドから解放され、後にメフメト1世とその息子ムラト2世の治世において帝位を主張し、「偽ムスタファ」と呼ばれて反乱を起こしました。
バヤジットの息子たちの間の激しい争いは、彼が築き上げた帝国を崩壊の瀬戸際に追い込みましたが、同時に、最も有能で強靭な指導者(メフメト1世)を次のスルタンとして選別する過程でもありました。
人物像と評価
バヤジット1世は、オスマン帝国の歴史の中でも特に複雑で、毀誉褒貶の激しい人物として記憶されています。彼の人物像は、その輝かしい成功と悲劇的な末路という両極端な側面から評価されます。
人物像
同時代の記録によれば、バヤジットは非常に野心的でエネルギッシュな君主でした。彼の「ユルドゥルム」(雷光)という異名は、その迅速な意思決定と電光石火の軍事行動を的確に表しています。彼は優れた軍事指導者であり、戦場では自ら先頭に立って戦う勇敢な戦士でした。
一方で、彼は傲慢で短気、そして衝動的な性格であったとも言われています。アナトリアの他のトルコ系君侯に対する彼の容赦ない政策や、ティムールとの間の侮辱的な書簡の応酬は、彼の誇り高さと自信過剰な一面を示しています。彼はまた、快楽を好み、豪華な宮廷生活を送ったとされ、一部の保守的なイスラム教徒からはその生活様式を批判されることもありました。しかし、彼は同時に、ブルサのウル・ジャミのような壮大な宗教施設を建設するなど、敬虔なイスラム教徒としての一面も持っていました。
歴史的評価
バヤジット1世の歴史的評価は、主に二つの側面に分かれます。
帝国の拡大者として: 彼の治世は、オスマン帝国の領土をバルカン半島とアナトリアの両方で劇的に拡大させた時代として高く評価されています。彼はアナトリアのトルコ系ベイリクのほとんどを統一し、オスマン帝国を単なる辺境の君侯国から、広大な領土を持つ帝国へと飛躍させました。ニコポリスでの十字軍に対する決定的な勝利は、オスマン帝国のヨーロッパにおける地位を不動のものにしました。彼が推し進めた中央集権化政策は、その後の帝国の統治機構の基礎を築きました。
帝国を危機に陥れた君主として: 彼の成功は、その破滅的な結末によって影を落としています。ティムールとの対立を回避できなかったこと、そしてアンカラの戦いでの壊滅的な敗北は、彼の政治的判断の誤りとして厳しく批判されます。アナトリアでの急速すぎる拡大は、地元のトルコ系有力者の反感を買い、ティムールに付け入る隙を与えました。彼の敗北と捕囚は、帝国を10年以上にわたる内戦(オスマン空位時代)へと突き落とし、彼が一代で築いたものの多くを水泡に帰させました。
結論として、バヤジット1世は、オスマン帝国を偉大な帝国へと押し上げた立役者であると同時に、その傲慢さと判断の誤りによって帝国を最大の危機に晒した悲劇の君主でもありました。彼の生涯は、権力の頂点からの劇的な転落という、歴史における普遍的な教訓を体現しています。彼の遺産は、その後のオスマン帝国がどのようにして危機を乗り越え、より強固な国家として再生していくかという物語の重要な序章となっています。
バヤジット1世の治世は、オスマン帝国の初期の歴史において、最もダイナミックかつ劇的な一章を形成しています。彼は「ユルドゥルム」(雷光)という異名が示す通り、驚異的な速さで軍を動かし、アナトリアとバルカン半島にまたがる広大な領域を征服しました。彼の軍事的才能は、1396年のニコポリスの戦いでヨーロッパの連合十字軍を壊滅させたことで頂点に達し、オスマン帝国を当代随一の軍事大国としての地位に押し上げました。彼はまた、国家機構の中央集権化を進め、スルタンの権威を強化し、後の帝国の行政システムの基礎を築きました。
しかし、その輝かしい功績は、彼の傲慢さと政治的判断の誤りによってもたらされた悲劇的な結末によって、大きくその価値を問われることになります。アナトリアにおける性急な統一政策は、地元のトルコ系君侯たちの反感を買い、彼らを東方の征服者ティムールの陣営へと走らせました。ティムールとの破滅的な対決となった1402年のアンカラの戦いでの敗北と、オスマン史上唯一のスルタンの捕囚という屈辱は、彼が一代で築き上げた帝国を崩壊の瀬戸際に追い込みました。
彼の死後、帝国は息子たちによる血で血を洗う内戦、すなわち「オスマン空位時代」に突入しました。この危機は、オスマン国家の脆弱性を露呈させると同時に、その驚異的な回復力を証明する試練ともなりました。バヤジットが築いたルメリア(ヨーロッパ側領土)の支配基盤と、彼が育成した行政機構は、帝国が完全に瓦解するのを防ぐ上で重要な役割を果たしました。そして、内戦を勝ち抜いた息子メフメト1世によって帝国は再統一され、「第二の創始」を遂げることになります。
バヤジット1世の生涯は、個人の野心と才能が国家の運命をいかに大きく左右するか、そして権力の頂点がいかに脆いものであるかを示す力強い物語です。彼はオスマン帝国を真の帝国へと飛躍させた拡大者であったと同時に、その帝国を最大の危機に陥れた悲劇の英雄でもありました。彼の栄光と挫折の物語は、その後のオスマン帝国の歴史、特に彼の曾孫であるメフメト2世によるコンスタンティノープル征服という偉業を理解する上で、不可欠な前史として位置づけられています。バヤジット1世の遺産は、成功と失敗の両面において、オスマン帝国の永続的な記憶の中に深く刻み込まれているのです。