新規登録 ログイン

18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

オスマン帝国とは わかりやすい世界史用語2313

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
オスマン帝国の起源と建国

オスマン帝国は、13世紀末のアナトリア北西部で誕生しました。 この地域は、当時衰退期にあったビザンツ帝国と、モンゴルの侵攻によって弱体化したセルジューク朝の間に位置していました。 オスマン帝国の名は、その創始者であるオスマン1世に由来します。 オスマンは、中央アジアから移住してきたトルコ人の部族長であり、1299年頃にセルジューク朝からの独立を宣言し、自身の君侯国(ベイリク)を建国したとされています。 ただし、1299年という年は象徴的なものであり、特定の歴史的出来事と一致するわけではありません。 オスマンとその戦士たちは、当初はビザンツ帝国領への襲撃を繰り返すガーズィー(イスラムの戦士)集団でした。 1301年か1302年のバフェウスの戦いでビザンツ軍に勝利したことで、オスマンの名声は高まり、多くの戦士が彼のもとに集まりました。
オスマンの出自や、彼がどのようにして君侯国を築いたかについては、同時代の記録が存在しないため、不明な点が多く残されています。 確かなことは、13世紀末に彼がビザンツ帝国との国境地帯であるビテュニア地方のソユトを中心とする小規模な勢力の指導者として台頭したということです。 この君侯国は、アナトリアにあった他の多くのトルコ系君侯国の一つに過ぎませんでした。 しかし、オスマンとその息子オルハンの指導のもと、この小国は急速に勢力を拡大していくことになります。
オスマンの死後、息子のオルハンが後を継ぎました。オルハンは、父の拡大政策を継承し、1326年にビザンツ帝国の重要な都市であったブルサを征服しました。 この征服は、オスマン君侯国にとって大きな転換点となり、ブルサは新たな首都として整備され、この地域のビザンツ帝国の支配に終止符を打ちました。 オルハンは、国家の基盤を固めるため、軍事組織の整備や税制の導入など、制度的な改革も進めました。 彼の治世において、オスマン君侯国はアナトリア北西部における支配を確立し、ヨーロッパへの進出の足掛かりを築いたのです。
1345年、オスマン軍は初めてヨーロッパに侵攻しました。 1354年には、ダーダネルス海峡のヨーロッパ側にあるチンペ城を恒久的な拠点として確保し、1369年にはアドリアノープル(現在のエディルネ)を征服して、ブルサから首都を移しました。 これにより、オスマン君侯国はアナトリアとバルカン半島にまたがる国家へと変貌を遂げました。 オルハンの息子であるムラト1世は、この拡大をさらに推し進め、制度化されたオスマン国家の基礎を築きました。 彼の治世下で、オスマン軍はバルカン半島を席巻し、1389年のコソボの戦いでセルビアを中心とするキリスト教連合軍を破りました。 この戦いでムラト1世は戦死しましたが、オスマン軍は勝利を収め、セルビアはオスマン帝国の支配下に入りました。 コソボの戦いは、オスマン帝国のバルカン半島における支配を決定づける重要な出来事となりました。
ムラト1世の後を継いだバヤズィト1世は、「雷光」と称されるほどの迅速な軍事行動で知られ、アナトリアとバルカン半島における支配領域をさらに拡大しました。 彼はアナトリア東部のトルコ系君侯国を次々と併合し、西ではビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを包囲しました。 1396年には、ニコポリスの戦いでハンガリー王ジギスムントが率いるヨーロッパ十字軍を撃破し、オスマン帝国の軍事力をヨーロッパに知らしめました。 しかし、バヤズィト1世の急速な拡大は、東方から現れた新たな脅威、ティムール朝の創始者ティムールとの衝突を招くことになります。



アンカラの戦いとオスマンの空位期間

15世紀初頭、オスマン帝国は東方から急速に勢力を拡大してきたティムール朝の脅威に直面しました。ティムールは中央アジアを拠点とするモンゴル系の支配者で、その軍事力は絶大でした。オスマン帝国のスルタン、バヤズィト1世は、アナトリア東部における領土を巡ってティムールと対立しました。 バヤズィトがティムールに忠誠を誓う君侯に貢納を要求したことが、直接的な戦争の引き金となったとされています。
1400年から1401年にかけて、ティムールはオスマン領のスィヴァスを攻略し、シリアの一部をマムルーク朝から奪い、アナトリアへと進軍しました。 一方、バヤズィト1世は当時、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの包囲を行っていましたが、ティムールの進軍を受けて包囲を解き、アナトリアへ軍を戻しました。 1402年の夏、ティムールは軍を南東に進め、オスマン軍の背後に回り込むという巧妙な機動を見せました。
両軍は1402年7月28日(いくつかの資料では7月20日)、アンカラ近郊のチュブク平原で激突しました。 このアンカラの戦いは、オスマン帝国の歴史における重大な転換点となりました。ティムール軍は約14万人、対するオスマン軍は約8万5千人と、兵力ではティムールが優勢でした。 さらに、オスマン軍は長距離の行軍と夏の暑さで疲弊しており、ティムール軍はオスマン軍が以前使用していた宿営地と水源を確保するという有利な状況にありました。 ティムールは戦闘に先立ち、オスマン軍が利用できる唯一の水源であった小川を堰き止めるという戦略をとりました。
戦闘はオスマン軍の大規模な攻撃で始まりましたが、ティムール軍の騎馬弓兵による矢の雨に阻まれました。 セルビアの騎士団はオスマン軍の同盟軍として奮戦し、ティムール軍の攻撃を何度も撃退しましたが、戦況を覆すには至りませんでした。 戦いの最中、オスマン軍に加わっていたタタール兵やアナトリアのトルコ系部隊がティムール側に寝返るという決定的な裏切りが発生しました。 これによりオスマン軍の戦線は崩壊し、バヤズィト1世は騎兵隊と共に戦場から脱出を図りましたが、ティムール軍の追撃を受けて捕虜となりました。 バヤズィト1世は、オスマン帝国の歴史上、敵に捕らえられた唯一のスルタンです。
アンカラの戦いでの壊滅的な敗北は、オスマン帝国を崩壊の危機に瀕させました。 ティムールはアナトリア西部を蹂躙し、バヤズィト1世によって併合されていた多くのトルコ系君侯国を復活させました。 バヤズィト1世は捕囚の身のまま翌1403年に死去し、彼の4人の息子たち(スレイマン、イーサー、ムーサー、メフメト)の間で後継者を巡る内戦が勃発しました。 この約10年間(1402年~1413年)にわたる内戦期間は「オスマンの空位期間」として知られています。
この空位期間中、帝国は分裂の危機に瀕しましたが、最終的にメフメト1世が兄弟たちを打ち破り、1413年に帝国の単独支配者として即位しました。彼は帝国の再統一に尽力し、失われた領土の一部を回復しました。ティムールはアンカラの戦いの後、アナトリアに関心を失い、東方の中国遠征に向かったため、オスマン帝国は再興の機会を得ることができました。 ティムールが1405年に死去すると、彼の帝国もまた後継者争いによって衰退していきました。
アンカラの戦いはオスマン帝国に甚大な被害をもたらしましたが、同時に帝国の強靭さをも示す結果となりました。壊滅的な敗北からわずか10年余りで内戦を終結させ、再統一を成し遂げたことは、オスマン国家の制度的な基盤がいかに強固であったかを物語っています。メフメト1世とその息子ムラト2世の治世を通じて、帝国は再びバルカン半島とアナトリアにおける支配を確立し、さらなる拡大の時代へと向かうことになります。

帝国の拡大とコンスタンティノープルの征服

アンカラの戦いとそれに続く空位期間という深刻な危機を乗り越えたオスマン帝国は、メフメト1世とその息子ムラト2世の治世下で再建と再拡大の時代を迎えました。ムラト2世は、バルカン半島におけるオスマン帝国の支配を再確立し、ハンガリーやヴェネツィアといったキリスト教勢力との戦いを続けました。1444年にはヴァルナの戦いで、ハンガリー王ヴワディスワフ3世が率いる十字軍を撃破し、バルカンにおけるオスマン帝国の優位を不動のものとしました。
ムラト2世の後を継いだのが、彼の息子であるメフメト2世です。 「征服者」として知られるメフメト2世は、父が果たせなかった目標、すなわちビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの征服を成し遂げることを固く誓っていました。 コンスタンティノープルは、かつては広大な帝国の中心でしたが、その頃にはオスマン領に囲まれた小さな都市国家に過ぎませんでした。しかし、その戦略的な位置と象徴的な重要性は依然として絶大でした。
メフメト2世は、コンスタンティノープル攻略のために周到な準備を進めました。彼はハンガリー人の技術者ウルバンを雇い、当時世界最大級の大砲を鋳造させました。 また、ボスポラス海峡のヨーロッパ側にルメリ・ヒサルと呼ばれる要塞を建設し、黒海からコンスタンティノープルへの補給路を遮断しました。さらに、セルビア人の鉱夫を動員して城壁の下にトンネルを掘らせるなど、最新の攻城技術を駆使しました。
1453年4月、オスマン軍によるコンスタンティノープルの包囲が開始されました。ビザンツ側は、ジェノヴァ人傭兵隊長のジョヴァンニ・ジュスティニアーニの指揮のもと、頑強に抵抗しました。特に、金角湾の入り口に張られた巨大な鉄の鎖は、オスマン艦隊の侵入を阻んでいました。 これに対し、メフメト2世は艦隊の船を陸路で丘を越えさせて金角湾内に運び込むという、前代未聞の作戦を実行しました。
数週間にわたる激しい砲撃と攻撃の末、1453年5月29日、オスマン軍はついに城壁を突破し、コンスタンティノープルは陥落しました。 最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世は、市街戦の中で戦死したと伝えられています。この出来事は、1000年以上続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の終焉を意味し、オスマン帝国が単なる君侯国から真の帝国へと移行した象徴的な瞬間と見なされています。
コンスタンティノープルを征服したメフメト2世は、この都市を帝国の新たな首都とし、イスタンブールと改称しました。 彼は、戦争で荒廃した都市の復興に努め、ギリシャ人、トルコ人、アルメニア人、ペルシャ人、アラブ人、ブルガリア人、アルバニア人、セルビア人など、帝国各地から人々を移住させ、都市の再活性化を図りました。 彼の治世下で、イスタンブールは再び政治、経済、文化の中心地として繁栄を取り戻しました。 建築家ミマール・シナンをはじめとする多くの芸術家や職人がスルタンの庇護のもとで活動し、壮麗なモスクや宮殿が次々と建設されました。
コンスタンティノープルの征服後も、メフメト2世の拡大政策は続きました。彼はセルビア、ボスニア、アルバニアを完全にオスマン帝国の支配下に置き、ヴェネツィアとの戦争でエーゲ海の島々を奪いました。アナトリアでは、最後まで抵抗していたカラマン君侯国を併合し、黒海南岸のトレビゾンド帝国(ビザンツ帝国の亡命政権)を滅ぼしました。 1475年には、クリミア・ハン国を宗主権下に置き、黒海をオスマン帝国の内海とすることに成功しました。
メフメト2世の征服活動により、オスマン帝国はアナトリアとバルカン半島の大部分を支配する広大な領土を持つに至りました。 彼の治世は、オスマン帝国が世界的な大国へと飛躍する上で決定的な役割を果たしました。

帝国の統治機構と社会

オスマン帝国の長きにわたる繁栄は、その精緻で柔軟な統治機構と社会構造によって支えられていました。帝国は、イスラム法(シャリーア)と、スルタンが発布する世俗法(カヌーン)という二つの法体系を基盤としていました。最高権力者はスルタンであり、政治的・軍事的な権威を一身に集めていました。セリム1世以降のスルタンは、イスラム世界全体の精神的指導者であるカリフの称号も兼ねるようになりました。
スルタンを補佐する最高位の官職は、大宰相(サドラザム)でした。大宰相は、スルタンの名において帝国行政の全般を統括し、御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)を主宰しました。この会議には、他の宰相(ヴェズィール)や軍事、財務、司法の最高責任者たちが参加し、帝国の重要政策が審議されました。
オスマン帝国の統治における際立った特徴の一つが、デヴシルメ制度です。これは、バルカン半島などのキリスト教徒の臣民から、定期的に優秀な青少年を徴集し、イスラム教に改宗させた上で、宮廷や軍隊で教育・訓練を施す制度でした。 この制度によって育成された人材は、カプクル(御門の僕)と呼ばれ、スルタンに絶対的な忠誠を誓うエリート官僚や軍人として帝国の根幹を支えました。彼らは出身や家柄に関係なく、能力次第で大宰相などの最高位にまで昇進することが可能であり、帝国に活力と安定をもたらしました。
デヴシルメ制度によって編成された軍隊の中核が、イェニチェリ(新しき兵)と呼ばれる常備歩兵軍団でした。 イェニチェリは、ヨーロッパで最も早くから火器を導入した精鋭部隊であり、その規律と戦闘力はオスマン帝国の軍事的成功に大きく貢献しました。彼らはスルタン直属の軍隊として、帝国の拡大と維持に不可欠な存在でした。このほか、ティマール制(封土制)に基づいて軍役を負う騎兵(スィパーヒー)も、帝国の主要な軍事力を構成していました。
オスマン帝国は、広大な領土に多様な民族や宗教を抱える多文化帝国でした。 帝国は、これらの非ムスリム臣民をミッレト制と呼ばれる制度を通じて統治しました。 ミッレトとは宗教共同体を意味し、ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒などの各共同体は、それぞれの宗教指導者の下で、信仰、教育、言語、法(結婚や相続など)に関する自治を認められていました。 この制度により、非ムスリム臣民は自らの文化やアイデンティティを維持しながら、帝国の臣民として生活することができました。ミッレト制は、オスマン帝国の長期にわたる安定と、多様な文化の共存を可能にした重要な要因の一つです。
また、ワクフ(寄進財産)制度もオスマン社会において重要な役割を果たしました。 ワクフとは、個人や団体が所有する財産(土地、建物、現金など)を、宗教的・慈善的な目的のために寄進する制度です。 ワクフによって得られる収益は、モスク、学校、病院、橋、隊商宿(キャラバンサライ)などの建設や運営、貧しい人々への施しなどに充てられました。 この制度は、国家の財政を補完し、教育、医療、福祉といった社会サービスの提供に大きく貢献しました。 帝国全土に張り巡らされたワクフのネットワークは、社会の安定と人々の生活を支えるセーフティーネットとして機能していました。
このように、オスマン帝国は、中央集権的な官僚機構と強力な常備軍を基盤としながらも、デヴシルメ制による人材登用、ミッレト制による多様性の許容、ワクフ制度による社会福祉の充実といった、独創的で柔軟なシステムを構築することで、広大な領域を効率的に統治し、数百年にわたる繁栄を享受したのです。

セリム1世とスレイマン1世の時代:帝国の絶頂期

16世紀は、オスマン帝国がその歴史の頂点を極めた時代でした。 この黄金時代は、セリム1世と、その息子であるスレイマン1世の治世によって築かれました。
バヤズィト2世の息子であるセリム1世(在位1512-1520)は、「冷酷者」として知られる一方、極めて有能な君主でした。 彼は、それまでの西への拡大政策から一転し、帝国の目を東方と南方へと向けました。 当時、東方ではサファヴィー朝ペルシアがシーア派を国教として勢力を拡大しており、アナトリア東部のシーア派住民を扇動してオスマン帝国の支配を脅かしていました。セリム1世はこれを重大な脅威とみなし、1514年、チャルディラーンの戦いでサファヴィー朝のシャー・イスマーイール1世の軍隊を決定的に打ち破りました。 この勝利により、アナトリア東部におけるオスマン帝国の支配は確固たるものとなり、サファヴィー朝の西進は阻止されました。
次にセリム1世は、当時シリアとエジプトを支配していたマムルーク朝に目を向けました。マムルーク朝は、イスラム世界の聖地であるメッカとメディナの保護者であり、長らく中東の覇者として君臨していました。1516年から1517年にかけてのオスマン・マムルーク戦争において、セリム1世はマルジュ・ダービクの戦いとリダニヤの戦いでマムルーク軍を壊滅させ、シリア、パレスチナ、そしてエジプトを征服しました。 この征服により、オスマン帝国はイスラム世界の二大聖地をその保護下に置き、セリム1世はイスラム世界の最高権威であるカリフの称号をアッバース朝の末裔から継承したとされています。 これにより、オスマン帝国のスルタンは、スンニ派イスラム世界の指導者としての地位を確立しました。また、エジプトの征服は、紅海への出口を確保し、インド洋におけるポルトガルとの交易競争に参入する道を開きました。 セリム1世のわずか8年間の治世で、帝国の領土はほぼ2倍に拡大しました。
セリム1世の死後、唯一の息子であったスレイマン1世(在位1520-1566)が帝位を継承しました。 ヨーロッパでは「壮麗帝」、オスマン帝国では「立法帝(カーヌーニー)」として知られるスレイマン1世の治世は、オスマン帝国の最盛期とされています。 彼は父が築いた強固な基盤の上に、帝国のさらなる拡大と文化的繁栄をもたらしました。
軍事面では、スレイマン1世はヨーロッパ方面での征服活動を再開しました。1521年には、バルカン半島におけるキリスト教勢力の重要な拠点であったベオグラードを攻略。1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王国軍に壊滅的な打撃を与え、ハンガリー国王ラヨシュ2世を戦死させました。 この勝利により、ハンガリーの大部分がオスマン帝国の支配下に入りました。 1529年には、ハプスブルク家の本拠地であるウィーンを包囲しましたが、悪天候と補給の困難さから攻略には至りませんでした。 それでも、このウィーン包囲はヨーロッパ全土に衝撃を与え、オスマン帝国の脅威を強く印象付けました。東方では、サファヴィー朝との戦いを続け、イラクの大部分(バグダードを含む)を征服しました。
スレイマン1世の時代は、オスマン帝国の海軍力が地中海で頂点に達した時期でもあります。 彼は、ギリシャ出身の海賊からオスマン海軍の提督となったハイレッディン・バルバロッサを重用しました。 バルバロッサの指揮のもと、オスマン艦隊は1538年のプレヴェザの海戦で、スペイン、ヴェネツィア、教皇庁からなるキリスト教連合艦隊を破り、地中海の制海権を確立しました。 これにより、オスマン帝国は北アフリカ沿岸のアルジェリアやチュニジアにまで影響力を及ぼし、地中海貿易の支配権を巡ってヨーロッパ諸国と激しく争いました。
スレイマン1世は軍事的な成功だけでなく、内政においても大きな功績を残しました。彼は「立法帝」の名の通り、帝国の法典(カヌーン)を体系的に編纂し、行政、財政、社会制度を整備しました。彼の治世下で、イスタンブールは建築家ミマール・シナンの手によるスレイマニエ・モスクをはじめ、数多くの壮麗な建築物で飾られ、芸術、文学、科学が花開きました。オスマン文化は、この時代に独自の発展を遂げ、黄金期を迎えました。
スレイマン1世の死後、帝国は緩やかな変容の時代へと入っていきますが、彼の治世に築かれた広大な領土、強固な統治システム、そして豊かな文化は、その後も長くオスマン帝国の基盤となりました。

帝国の変容とヨーロッパとの抗争

スレイマン1世の死後、オスマン帝国はかつてのような急速な拡大期を終え、長期にわたる変容と停滞の時代に入ったと長らく考えられてきました。しかし、近年の研究では、16世紀後半から18世紀にかけての帝国は、衰退したのではなく、内外の新たな状況に適応し続ける、柔軟で強靭な経済、社会、軍事力を維持していたとされています。 この時代は、スルタンの母や后妃たちが政治に大きな影響力を持った「女人政治の時代」や、有能な大宰相が輩出された「キョプリュリュ時代」など、特徴的な時期を含んでいます。
16世紀後半、オスマン帝国の地中海における覇権に陰りが見え始めます。1571年、オスマン艦隊はレパントの海戦で、スペイン、ヴェネツィア、教皇庁の連合艦隊に壊滅的な敗北を喫しました。 この敗北は、オスマン海軍にとって初めての大きな敗北であり、ヨーロッパ世界では大いに祝われました。 しかし、オスマン帝国の国力は依然として強大であり、わずか1年後には同規模の艦隊を再建し、1574年にはスペインからチュニスを奪還するなど、その回復力の高さを示しました。 レパントの海戦は、オスマン帝国の地中海支配を即座に終わらせたわけではありませんでしたが、その無敵神話を揺るがし、地中海の勢力均衡に変化をもたらすきっかけとなりました。
17世紀に入ると、帝国は東方ではサファヴィー朝との長期にわたる戦争、西方ではハプスブルク家との断続的な戦争に直面しました。ムラト4世は1638年にサファヴィー朝からバグダードを再奪還するなど、一時的に帝国の威信を回復させました。 17世紀後半、キョプリュリュ家出身の大宰相たちが実権を握ると、帝国は再び積極的な対外政策に転じます。特に、大宰相カラ・ムスタファ・パシャは、1683年に大規模な軍隊を率いてウィーンを再び包囲しました(第二次ウィーン包囲)。 この包囲は、オスマン帝国がヨーロッパの心臓部に到達した最後の試みとなりました。しかし、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いるキリスト教連合軍の救援によりオスマン軍は惨敗し、この敗北は帝国の歴史における重大な転換点となりました。
第二次ウィーン包囲の失敗をきっかけに、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアは「神聖同盟」を結成し、オスマン帝国に対して大規模な反攻を開始しました。 これに続く「大トルコ戦争」(1683-1699)は、オスマン帝国にとって壊滅的な結果をもたらしました。 特に1697年のゼンタの戦いでの大敗は決定的でした。 度重なる敗北により、オスマン帝国は和平交渉の席に着かざるを得なくなりました。
1699年、オスマン帝国は神聖同盟諸国との間でカルロヴィッツ条約を締結しました。 この条約により、オスマン帝国は初めてヨーロッパ列強との交渉において敗北を認め、広大な領土を割譲しました。 ハンガリーとトランシルヴァニアの大部分はオーストリアに、ポドリアはポーランドに、ペロポネソス半島とダルマチアの大部分はヴェネツィアにそれぞれ譲渡されました。 カルロヴィッツ条約は、約4世紀にわたるオスマン帝国のヨーロッパにおける拡大に終止符を打ち、帝国の後退が始まる画期となりました。 これ以降、ハプスブルク朝オーストリアが中央ヨーロッパにおける支配的な勢力として台頭し、オスマン帝国は守勢に立たされることが多くなりました。
18世紀に入っても、オスマン帝国はオーストリアや、黒海方面への南下を目指す新興勢力ロシアとの間で戦争を繰り返しました。 これらの戦争を通じて、帝国はさらに領土を失い、その軍事的・経済的な弱体化が露呈していきました。 しかし、帝国は依然として広大な領土と多様な人民を抱える大国であり続け、外交や同盟関係を駆使して国際政治の中で生き残りを図りました。 この時期は、単なる衰退ではなく、帝国が新たな国際秩序の中で自らの立場を再定義しようと模索した、複雑な変革の時代であったと言えます。

改革の時代:タンジマートと憲政の試み

19世紀に入ると、オスマン帝国は内外からの深刻な圧力に直面しました。ヨーロッパでナショナリズムが高まる中、バルカン半島のキリスト教徒臣民の間で独立運動が激化しました。 1821年にはギリシャが独立戦争を開始し、1830年に独立を達成。その後もセルビア、ルーマニア、ブルガリアなどが次々と自治権を獲得、あるいは独立していきました。 一方で、エジプト総督ムハンマド・アリーの台頭や、ロシアの南下政策など、外部からの軍事的脅威も深刻化していました。これらの危機に対し、帝国は「東方問題」としてヨーロッパ列強の干渉を受けるようになり、「ヨーロッパの病人」と揶揄されるに至りました。
このような状況を打開するため、オスマン帝国の指導者たちは、国家の近代化を目指す一連の大規模な改革に着手しました。この改革運動は「タンジマート(再編成)」として知られています。タンジマートは、1839年にスルタン・アブデュルメジト1世が発布したギュルハネ勅令によって本格的に開始されました。この勅令は、全ての臣民の生命、名誉、財産の安全を保障し、公平な徴税、正規の徴兵制度の確立などを約束するものでした。
タンジマート改革の目的は、行政、軍事、司法、教育など、国家のあらゆる分野をヨーロッパのモデルに倣って近代化し、中央集権的な国家体制を構築することにありました。具体的には、近代的法典の編纂、新しい裁判所の設置、西洋式の教育を行う学校の設立、官僚制度の改革、インフラ整備(電信、鉄道など)が進められました。
タンジマートの重要な理念の一つが「オスマン主義」でした。これは、宗教や民族の違いに関わらず、帝国内の全ての臣民を法の下で平等な「オスマン人」として統合し、帝国への忠誠心を育むことを目指す思想でした。 1856年に発布された改革勅令は、非ムスリム臣民の権利をさらに拡大し、彼らが公職に就くことや軍隊に入隊することも認めました。しかし、この平等化政策は、ムスリム保守層からの反発を招くと同時に、ナショナリズムに目覚めた非ムスリム臣民の独立要求を抑えることもできませんでした。
改革の努力にもかかわらず、帝国の財政は悪化の一途をたどりました。クリミア戦争(1853-1856)ではイギリスやフランスの支援を得てロシアに勝利したものの、戦費の増大と近代化政策のための多額の借款により、帝国は深刻な財政難に陥り、1875年には事実上の財政破綻を宣言するに至りました。
このような内外の危機が深まる中、ミドハト・パシャをはじめとする改革派官僚たちは、スルタンの専制を抑制し、立憲政治を導入することが帝国の再生に不可欠だと考えるようになりました。 1876年、彼らはスルタン・アブデュルアズィズを退位させ、アブデュルハミト2世を即位させました。アブデュルハミト2世は即位にあたり、憲法の制定と議会の開設を約束しました。
1876年12月23日、アジアのイスラム国家として初となる「オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)」が公布されました。 この憲法は、二院制議会の設立、臣民の基本的な権利の保障などを謳っており、オスマン帝国の歴史における画期的な出来事でした。しかし、この第一次立憲制は長続きしませんでした。1877年にロシアとの戦争(露土戦争)が勃発すると、アブデュルハミト2世はこれを口実に憲法を停止し、議会を閉鎖してしまいました。 彼はその後約30年間にわたり、専制政治を行いました。
アブデュルハミト2世の統治下では、憲政は停止されたものの、タンジマート以来の近代化政策、特に教育やインフラ整備は継続されました。 彼は、オスマン主義に代わり、スルタン=カリフの権威を強調するパン・イスラム主義を掲げ、帝国の結束を維持しようと試みましたが、帝国の領土縮小と内部の不満を食い止めることはできませんでした。 タンジマートと第一次立憲制の試みは、帝国を根本的に立て直すには至りませんでしたが、後の時代の改革運動やトルコ革命につながる重要な遺産を残したのです。

青年トルコ人革命と帝国の解体

アブデュルハミト2世による30年間の専制政治は、帝国内外で多くの不満を生み出しました。特に、近代的な教育を受けた官僚や軍人、知識人の間では、憲政の復活と改革の再開を求める声が高まっていきました。これらの改革派は「青年トルコ人」として知られるようになり、秘密結社を結成して反体制運動を展開しました。 その中でも最も影響力を持ったのが、「統一と進歩委員会(CUP)」でした。
1908年7月、マケドニアに駐留していたオスマン帝国第3軍団の将校たちが、「統一と進歩委員会」の主導のもとで反乱を起こしました。 アフメト・ニヤーズィ少佐やエンヴェル・ベイ(後のエンヴェル・パシャ)らが率いるこの反乱は急速に広がり、スルタン・アブデュルハミト2世に憲法の復活を要求しました。反乱が帝国全土に波及することを恐れたアブデュルハミト2世は、反乱軍の要求を受け入れ、1908年7月24日、1876年憲法の復活を宣言し、議会の再開を約束しました。これが「青年トルコ人革命」です。
革命の成功は帝国全土で熱狂的に歓迎され、人々は「自由、平等、友愛」を叫び、オスマン帝国の新たな時代の到来を祝いました。しかし、この楽観的な雰囲気は長くは続きませんでした。革命直後から、「統一と進歩委員会」と、より自由主義的な立場をとる派閥との間で政治的な対立が表面化しました。また、革命による混乱に乗じて、ブルガリアが完全独立を宣言し、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合するなど、領土のさらなる喪失が続きました。
1909年4月、イスタンブールでイスラム保守派や専制政治への復帰を望む勢力に扇動された兵士たちが反乱を起こしました(「3月31日事件」)。彼らはシャリーアの回復と青年トルコ人指導者の追放を要求しました。この反革命の試みに対し、「統一と進歩委員会」はマケドニアから「行動軍」を派遣して反乱を鎮圧しました。この事件を機に、「統一と進歩委員会」はアブデュルハミト2世が反乱の背後にいたとして彼を退位させ、弟のメフメト5世を新たなスルタンとして即位させました。これにより、「統一と進歩委員会」は事実上、帝国の実権を掌握しました。
権力を握った「統一と進歩委員会」は、当初掲げたオスマン主義による多民族共存路線から、次第にトルコ民族主義的な政策へと傾斜していきました。彼らは帝国の行政や軍隊をトルコ化しようと試みましたが、これはアラブ人やアルバニア人など、非トルコ系臣民の反発を招き、帝国各地で民族主義的な分離運動をかえって激化させる結果となりました。
この内政の混乱と並行して、帝国は立て続けに壊滅的な戦争に見舞われました。1911年から1912年にかけての伊土戦争では、イタリアにリビアとドデカネス諸島を奪われました。さらに、1912年から1913年にかけてのバルカン戦争では、ブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロのバルカン同盟軍に惨敗し、アルバニアを含むヨーロッパ大陸における領土のほぼ全てを失いました。首都イスタンブールは陥落の危機に瀕し、帝国の威信は地に落ちました。
この相次ぐ敗北と領土喪失は、「統一と進歩委員会」内部の急進派の台頭を促しました。1913年1月、エンヴェル・パシャ、タラート・パシャ、ジェマル・パシャの3人(「三頭政治」)がクーデターによって全権を掌握しました。彼らは独裁的な権力を行使し、帝国を第一次世界大戦へと導いていくことになります。
1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国は当初中立を保ちましたが、長年の宿敵ロシアへの対抗と、失われた領土の回復を目指して、同年11月にドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国側の中央同盟国として参戦しました。オスマン軍は、カフカス戦線でロシアと、メソポタミアとパレスチナ戦線でイギリスと、そしてガリポリ半島で連合軍(イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド)と、複数の戦線で死闘を繰り広げました。特に1915年のガリポリの戦いでは、ムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)の指揮のもと、連合軍の上陸作戦を阻止し、首都イスタンブールを防衛するという大きな勝利を収めました。
しかし、戦争中、オスマン政府は国内のアルメニア人を敵国ロシアと内通しているとみなし、強制移住と虐殺を行いました。この「アルメニア人虐殺」により、多数のアルメニア人が命を落としたとされています。この事件は、オスマン帝国末期の最も悲劇的な出来事の一つとして、今日まで続く論争の的となっています。
戦争が長期化するにつれて、オスマン帝国の国力は消耗し、各地で敗北を重ねました。1918年秋、ブルガリアの降伏によって中央同盟国の戦線が崩壊すると、オスマン帝国も連合国との休戦交渉に入らざるを得なくなりました。1918年10月30日、ムドロス休戦協定が調印され、オスマン帝国は第一次世界大戦に敗北しました。協定に基づき、連合国軍はイスタンブールを含む帝国の戦略的要所を占領し、オスマン帝国は事実上の解体状態に陥りました。三頭政治の指導者たちは国外へ逃亡し、スルタン・メフメト6世の政府は連合国のなすがままとなりました。
1920年8月、スルタン政府は連合国との間でセーヴル条約に調印しました。この条約は、アナトリアの中心部を除く帝国の領土をギリシャ、アルメニア、フランス、イギリス、イタリアなどに分割するという、極めて過酷な内容でした。しかし、この屈辱的な条約は、ムスタファ・ケマル・パシャに率いられたトルコ国民運動の激しい抵抗を呼び起こしました。彼らはアンカラに新たな政府(大国民議会)を樹立し、セーヴル条約の批准を拒否して、国土の解放と独立を目指す「トルコ独立戦争」を開始しました。
1922年、ケマル率いるトルコ軍は侵攻してきたギリシャ軍に決定的な勝利を収め、アナトリアから外国勢力を一掃しました。この勝利により、トルコ国民運動の威信は不動のものとなり、イスタンブールのスルタン政府は完全にその権威を失いました。1922年11月1日、アンカラの大国民議会は、600年以上続いたオスマン帝国のスルタン制を廃止することを決議しました。最後のスルタン、メフメト6世はイギリスの軍艦で国外へ亡命し、オスマン帝国はその歴史に幕を閉じました。そして1923年10月29日、ローザンヌ条約によって国際的な承認を得た新たな国家、トルコ共和国が建国を宣言するのです。
Tunagari_title
・オスマン帝国とは わかりやすい世界史用語2313

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 26 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。