新規登録 ログイン

18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

アステカ王国滅亡とは わかりやすい世界史用語2293

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
アステカ王国滅亡とは

1519年、コルテス率いるスペインの小規模な遠征隊がメキシコ湾岸に上陸したとき、それはメソアメリカの歴史、ひいては世界の歴史における決定的な転換点の始まりを告げる出来事でした。 この出来事は、ヨーロッパとアメリカ大陸という、それまで互いの存在を知らなかった二つの複雑な社会の劇的な衝突を引き起こしました。 この衝突の先には、当時メソアメリカで最も強大な勢力を誇ったアステカ王国の滅亡が待っていました。 1519年から1521年にかけて繰り広げられたこの征服活動は、少数のスペイン人征服者(コンキスタドール)と、彼らが巧みに利用した数多くの先住民同盟軍が、アステカ王国を打倒するという驚くべき結果に終わります。 この過程は、単なる軍事的な勝利に留まらず、政治的、社会的、そして疫学的な要因が複雑に絡み合った結果であり、アメリカ大陸の歴史に永続的な影響を及ぼすことになります。



アステカ王国(帝国)は、1428年にテノチティトラン、テスココ、トラコパンの三都市同盟として成立しました。 その中心は、メキシコ中央高原のテスココ湖に浮かぶ壮麗な首都テノチティトランでした。 帝国は軍事的な征服と複雑な同盟関係を通じて中央メキシコに覇権を確立し、その支配は間接的なものでした。 支配下の都市国家や部族は、貢納と忠誠を誓う限り、地元の統治者による自治がある程度認められていました。 この貢納システムは、帝国の富と権力、そして社会階層を維持するための根幹をなしていましたが、同時に被支配民族の間に深い不満を蓄積させる原因ともなっていました。 皇帝は神聖な存在とされ、絶対的な権力を持つと信じられていましたが、その支配体制は本質的に不安定な要素を内包していたのです。
一方、コルテスはスペインのエストレマドゥーラ地方出身の下級貴族で、富と名声を求めて新世界へと渡りました。 19歳で新世界に渡り、キューバ遠征に参加した後、1518年にメキシコ内陸部の探検と植民地化を目的とする遠征隊の指揮官に任命されます。 しかし、キューバ総督ディエゴ・ベラスケスとの対立から、出発直前にその任務を取り消されてしまいます。 コルテスはこの命令を無視し、反逆罪に問われることを覚悟の上で、1519年2月、約11隻の船、500人の兵士、13頭の馬、そして少数の大砲と共にユカタン半島へ向けて出帆しました。 これは、彼の野心と大胆さを示す最初の行動でした。
この遠征は、当初から多くの記録によって多様な視点から文書化されています。 スペイン人征服者による記録、彼らの同盟者となった先住民による記録、そして敵対したアステカ側からの記録が存在します。 中でも、フランシスコ会修道士ベルナルディーノ・デ・サアグンがナワ族の知識人や芸術家と協力して編纂した『フィレンツェ絵文書』は、アステカの文化やメキシコ征服に関する最も信頼性の高い情報源の一つとされています。 また、コルテス自身の書簡や、彼の部下であったベルナル・ディアス・デル・カスティージョの『メキシコ征服記』なども、征服の過程を理解する上で重要な一次資料です。 ただし、これらの記録は、スペイン側、先住民側を問わず、それぞれの立場からの偏見や誇張が含まれていることを念頭に置く必要があります。 例えば、スペイン側の記録の多くは、勝利における先住民同盟軍の貢献を軽視する傾向があります。
アステカ王国の滅亡は、ヨーロッパの先進的な軍事技術、スペイン人が持ち込んだ病気の壊滅的な影響、そしてコルテスが帝国内の不満を巧みに利用して築き上げた先住民との同盟という、三つの主要な要因が複合的に作用した結果でした。 この物語は、単なる征服者の英雄譚ではなく、文化の衝突、政治的策略、そして予期せぬ生物学的要因が織りなす、複雑で悲劇的な歴史の一章なのです。

征服前夜のアステカ王国

16世紀初頭、スペイン人が到来する直前のアステカ王国は、メソアメリカにおいて最も広大で強力な政治的・軍事的勢力として君臨していました。 その最盛期は、1502年に即位した9代目の皇帝モクテスマ2世の治世と重なります。 帝国の支配は中央メキシコ高原の広範囲に及び、その影響力は遠く離れた地域にまで達していました。 しかし、その壮麗な外観の裏側では、帝国を脆弱にする多くの内部的な緊張と構造的な問題を抱えていました。

政治構造と統治

アステカ王国の政治構造は、皇帝(ウエイ・トラトアニ、「偉大なる話者」の意)を頂点とする階層的なものでした。 皇帝は神々によって任命されたと信じられ、神聖な権威を持つ絶対的な支配者と見なされていました。 彼は戦争の開始を決定し、服属させた領土としてアステカに支払うべき貢物を定めました。 皇帝の下には、4人の強力な貴族と軍の将軍からなる四人評議会が存在し、皇帝への助言や、次期皇帝の選出において重要な役割を果たしました。
帝国の統治形態は、しばしば「帝国」と呼ばれますが、その実態は単一の中央集権的な政府というよりも、貢納制度に基づいた間接的な支配体制でした。 帝国内のほとんどの地域は、アルテペトルと呼ばれる都市国家として組織されていました。 これらの都市国家は、それぞれトラトアニと呼ばれる世襲の王によって統治されていました。 アステカは、征服した都市の支配者をその地位に留めることを常としました。彼らが半期ごとの貢納を滞りなく支払い、アステカの戦争努力に必要な軍事力を提供する限り、アステカは地方の事柄に干渉しませんでした。 このシステムは、被征服地の既存の権力構造を維持することで、抵抗を最小限に抑え、統治を容易にするという利点がありました。
しかし、この間接統治は本質的に不安定なものでした。 服属民の忠誠心は、彼ら自身の利益か、あるいはアステカの軍事力に対する恐怖心に基づいていたためです。 帝国の支配は、心理的な威圧と、それを裏付ける軍事力によって維持されていましたが、現状を揺るがすような何らかの変化があれば、この状況は容易に覆る可能性がありました。 実際に、モクテスマ2世の治世下では、服属部族の不満が高まり、絶え間ない反乱が起きていました。 モクテスマはこれらの反乱を鎮圧しましたが、それは帝国を徐々に疲弊させていきました。

貢納制度とその影響

アステカ王国の経済と権力の基盤をなしていたのが、貢納制度です。 この複雑な経済的・政治的枠組みは、服属させた領土に対して、物品、サービス、労働力の形で帝国に貢物を支払うことを義務付けていました。 貢物は、首都テノチティトランとそのエリート層に必要な資源を供給し、帝国の富、権力、社会階層を維持するために不可欠でした。
貢納品は多岐にわたり、食料品(トウモロコシ、豆など)、織物、貴金属、贅沢品(羽毛、翡翠など)、さらには戦士の軍服、動物の皮、建築資材、陶器、薪なども含まれていました。 遠隔地の被征服民は、カカオ豆や金、銅、香、紙といった貴重な産物を納めることを要求されました。 モクテスマ2世の治世の記録によれば、毎年7,000トンのトウモロコシと4,000トンの豆が首都に運び込まれていたとされます。 これらの貢物は、帝国の軍事行動、公共事業、そして貴族階級の贅沢な生活を支えるために使われました。
貢物の徴収は、カルピシュケと呼ばれる帝国の徴税官によって監督されていました。 彼らは被征服地に駐在し、貢物の徴収を監督し、記録を保持し、中央政府に報告しました。 各都市国家には、その資源と生産性に基づいて独自の貢納量が割り当てられており、帝国全体で貢献のレベルは様々でした。
この貢納制度は、富と権力を貢物徴収を管理するエリート層に集中させることで、アステカ社会内の社会階層を著しく強化しました。 しかし、同時に、このシステムによって生み出された格差は、異なる都市国家間の緊張を引き起こしました。 より多くの貢献を強いられた都市国家は、しばしば憤りや抑圧を感じていました。 貢納の負担に対するこの根深い不満は、多くの被征服民がアステカの支配に反感を抱く主な原因となり、帝国に対する反乱が頻発する一因となりました。 このような状況は、後にスペイン人が到来した際に、彼らがアステカに敵対する先住民と同盟を結ぶことを容易にする、決定的な脆弱性となったのです。

社会と宗教

アステカ社会は、厳格な階層構造を持っていました。 社会の基盤は家族であり、血縁関係にある家族の集まりがカルプリと呼ばれる一種の地区やギルドを形成していました。 各カルプリは、地域の学校や祠を組織し、集団全体の世話をし、貢物の徴収を管理する責任を負っていました。
宗教はアステカ社会のあらゆる側面に浸透しており、特に人身御供の儀式は、彼らの宇宙観において中心的な役割を果たしていました。 アステカ人は、神々が人間を創造するために自らの血を捧げたと信じていました。 そのため、帝国を維持するためには、神々に血を返す義務があると信じられていました。 戦争で捕らえた捕虜や、時には女性や子供までもが、神々の渇望を満たすための犠牲として捧げられました。 1487年のテンプロ・マヨール(大寺院)の奉献式では、4日間で数千人もの人々が犠牲になったとされています。
これらの儀式は、アステカの力を誇示し、被征服民や自国の民衆に畏怖の念を抱かせることで、支配者エリート層への挑戦を防ぐという政治的な目的も持っていました。 しかし、この人身御供の習慣は、周辺の民族に強烈な恐怖と憎悪を植え付けました。 スペイン人が後にこの習慣を目の当たりにしたとき、彼らはアステカを邪悪な文化とみなし、それを征服を正当化する理由の一つとしました。 そして何よりも、この習慣によって敵意を募らせていた被支配民族は、アステカを打倒する機会を窺っていました。
このように、スペイン人の到来前夜、アステカ王国は外見上の繁栄とは裏腹に、貢納システムへの不満、絶え間ない反乱、そして人身御供への憎悪といった、多くの内部的矛盾と脆弱性を抱えていました。 これらが、コルテスという外部からの触媒によって、帝国の急速な崩壊へとつながっていく土壌を形成していたのです。

エルナン・コルテスの到来と初期の接触

1519年2月、エルナン・コルテスはキューバ総督の命令を無視してメキシコへの遠征に出発しました。 この大胆な行動が、アステカ王国の運命を永遠に変える一連の出来事の幕開けとなります。彼の遠征隊は、約500人の兵士、100人の船員、16頭の馬、そして少数の大砲という、広大な帝国を征服するにはあまりにも小規模な戦力でした。 しかし、コルテスは軍事力だけでなく、外交、策略、そして彼の成功に不可欠となる一人の女性の助けを借りて、この圧倒的な戦力差を覆していくことになります。
ユカタン半島への上陸とマリンチェとの出会い

コルテスの船団は、まずユカタン半島沖のコスメル島に到着しました。 その後、1519年3月にタバスコ地方のグリハルバ川に到達します。 ここで彼らはポトンチャンという町でマヤ系先住民と接触し、やがて戦闘へと発展しました。 馬や先進的な武器、戦術を駆使したスペイン人は、短期間で先住民を打ち負かしました。 和平を求めたポトンチャンの領主は、スペイン人に様々な贈り物をしましたが、その中に20人の奴隷の女性が含まれていました。
この女性たちの中に、後に「ラ・マリンチェ」として知られることになる、ナワ族の女性マリナ(またはマリンツィン)がいました。 彼女は元々、ナワトル語を話す地域の貴族の娘でしたが、幼い頃に奴隷として売られ、マヤ語も習得していました。 この二つの言語を操る能力が、征服の過程で計り知れない価値を持つことになります。 当初、コルテスの主要な通訳は、マヤ族の捕虜として数年間を過ごしマヤ語を習得したスペイン人のフランシスコ会修道士、ヘロニモ・デ・アギラールでした。 しかし、アギラールはアステカ王国の公用語であるナワトル語を話せませんでした。 マリンチェは、ナワトル語をマヤ語に通訳し、それをアギラールがスペイン語に訳すという形で、スペイン人とアステカ側の間のコミュニケーションの架け橋となったのです。 やがてマリンチェはスペイン語も習得し、コルテスの専属通訳、顧問、そして側近として、征服において不可欠な役割を果たすようになります。 彼女は単なる通訳に留まらず、現地の文化や政治状況に関する深い知識でコルテスを助け、敵の策略を暴き、重要な同盟の締結を仲介しました。 コルテス自身も、神に次いで、彼の成功における最も重要な要因はマリンチェであったと述べています。

ベラクルスの建設と反逆

タバスコを離れたコルテスは、海岸線に沿って北上し、1519年の聖金曜日に現在のベラクルスに近い場所に上陸しました。 ここで彼はアステカ皇帝モクテスマ2世の使者と初めて接触します。 使者たちは豪華な贈り物を持参しましたが、それはスペイン人たちの黄金への渇望を煽る結果となりました。 コルテスはモクテスマとの会見を要求しますが、繰り返し断られます。
この時、コルテスは法的に極めて大胆な行動に出ます。彼はキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの権威から完全に独立するため、ベラクルス市(Villa Rica de la Vera Cruz)を設立し、自ら任命した市議会を通じて、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に直属する遠征隊の最高司令官に任命されるという手続きを踏みました。 これは、ベラスケスに対する完全な反逆行為でした。 さらに、部下の中にキューバへ帰還しようとする動きがあることを察知すると、コルテスは帰りの船を沈めるという有名な決断を下します。 これにより、兵士たちは前進する以外に道はなくなり、彼らの運命はメキシコ征服の成否と完全に結びついたのです。

トトナク族との同盟

ベラクルス近郊のセンポアラで、コルテスはトトナク族と接触します。 トトナク族はアステカの支配下にあり、重い貢納に苦しんでいました。 コルテスは彼らの不満を巧みに利用し、アステカの支配から解放することを約束して、最初の重要な先住民同盟を結びます。 トトナク族は、スペイン人に食料や兵士を提供するだけでなく、アステカ王国の内部事情に関する貴重な情報をもたらしました。この同盟は、コルテスが帝国内の亀裂を利用して勢力を拡大していく戦略の最初の成功例となりました。
内陸への進軍とトラスカラとの戦い

1519年8月半ば、コルテスはベラクルスに100人の兵を残し、数百人のトトナク族の戦士と共に、首都テノチティトランへ向けて内陸への進軍を開始しました。 彼らの行く手には、アステカと長年にわたり敵対してきた、独立した強力な都市国家であるトラスカラの領土が広がっていました。 トラスカラ人はメキシコでも屈指の戦士として知られ、アステカの支配を頑なに拒み続けてきた誇り高い民族でした。
当初、トラスカラ人はスペイン人を敵とみなし、約3週間にわたって激しく戦いました。 しかし、スペイン人の馬、鋼鉄の武器、そして大砲の威力、そして何よりも彼らの粘り強い戦いぶりに感銘を受け、和平交渉に応じます。 1519年9月23日、コルテスはトラスカラの街で歓迎され、彼らの指導者たちと会見しました。 トラスカラ人は、スペイン人を憎きアステカを最終的に打ち破るための手段と見なし、コルテスと決定的に重要な軍事同盟を結びました。 この同盟は、征服の全過程を通じてスペイン人にとって最も重要な支えとなります。 数万人に及ぶトラスカラの戦士たちがコルテスの軍に加わり、彼の戦力を劇的に増強しました。 この同盟なくして、後のテノチティトラン包囲戦の成功はあり得なかったでしょう。

チョルーラの虐殺

トラスカラを後にしたコルテス一行は、アステカ王国と同盟関係にあり、ケツァルコアトル神信仰の中心地として知られる聖なる都市、チョルーラへと向かいました。 チョルーラへの進路を選んだ理由については諸説ありますが、モクテスマがスペイン人をそこへ誘い込み、待ち伏せ攻撃を計画していたという情報がコルテスにもたらされたことが大きな要因とされています。
1519年10月、コルテスと彼の軍隊、そしてトラスカラの同盟軍はチョルーラに入りました。 当初は歓迎されたように見えましたが、やがて敵意の兆候が現れ始めます。 マリンチェは、チョルーラの貴族の妻との会話から、スペイン人を眠っている間に殺害する計画があることを突き止め、コルテスに警告しました。 この情報が真実かどうかは定かではありませんでしたが、コルテスはトラスカラ人からの強い進言もあり、先制攻撃を命じる決断を下します。
コルテスはチョルーラの貴族たちを主要な神殿の中庭に集め、彼らが裏切りを企てていると非難しました。 貴族たちがモクテスマからの命令であったことを認めた直後、マスケット銃の発砲を合図に、武装したスペイン兵たちが非武装の群衆に襲いかかりました。 同時に、街の外に待機していたトラスカラの戦士たちも攻撃に加わりました。 数時間のうちに、チョルーラの貴族のほとんどを含む数千人の住民が殺害されました。 この「チョルーラの虐殺」は、メキシコ中に衝撃を与え、特にアステカの皇帝モクテスマに対して、スペイン人がいかなる裏切りも容赦しないという強力なメッセージを送ることになりました。 この残虐な行為は、コルテスの冷酷さと、目的のためには手段を選ばない決意を明確に示しました。
チョルーラでの虐殺を経て、コルテスと彼の増強された軍隊は、ついにアステカ王国の心臓部、テノチティトランへの最後の道のりを進むことになります。彼の到来は、もはや避けられない運命として、帝都に暗い影を落とし始めていました。
テノチティトランへの入城とモクテスマの虜囚

チョルーラでの恐ろしい出来事の後、エルナン・コルテスと彼の軍隊は、ついにアステカ王国の壮大な首都テノチティトランへと向かいました。 1519年11月8日、彼らは湖上に浮かぶこの驚異的な都市に到着し、皇帝モクテスマ2世自身による出迎えを受けます。 この出会いは、二つの文明の指導者が初めて顔を合わせる歴史的な瞬間であり、その後の征服の行方を決定づける一連の出来事の始まりでした。

首都テノチティトランの壮麗さ

スペイン人たちが目にしたテノチティトランは、彼らの想像を絶する都市でした。テスココ湖の中央にある人工島の上に築かれ、3つの大きな土手道によって本土と結ばれていました。 水路と運河が網の目のように走り、壮大な神殿、広大な宮殿、美しい庭園、そして活気に満ちた巨大な市場が広がっていました。 人口は20万人から30万人に達したと推定され、当時のヨーロッパの多くの都市を凌ぐ規模と壮麗さを誇っていました。 コルテスの部下であったベルナル・ディアス・デル・カスティージョは、その光景を「魔法にかけられたようだった」と記しています。しかし、この都市の美しさとは裏腹に、スペイン人たちは人身御供の儀式を目の当たりにして戦慄しました。
モクテスマの不可解な対応

モクテスマは、コルテスとその部下たちを平和的に首都へ迎え入れました。 彼はスペイン人たちを賓客として扱い、豪華な宮殿に滞在させ、惜しみなく黄金の贈り物をしました。 なぜモクテスマが、潜在的な脅威である外国の軍隊を、防御の固い首都の中心部に招き入れたのか、その理由は歴史家たちの間で長く議論されてきました。
一つの説は、アステカの神話に関連しています。伝説によれば、ケツァルコアトルという神が東の海から再来すると予言されており、一部では、モクテスマが当初コルテスをこの神、あるいはその使者ではないかと考えたのではないかと推測されています。 また、別の見方では、モクテスマは極めて慎重な指導者であり、スペイン人の弱点を見極め、後で一網打尽にするために、あえて彼らを懐深く招き入れたのだとも考えられています。 彼はスペイン人の軍事力と、彼らが道中で結んできた同盟関係を警戒しており、正面からの衝突を避けたかったのかもしれません。しかし、彼がスペイン人に与えた黄金の贈り物は、彼らを懐柔するどころか、略奪への野心をさらに掻き立てる結果となりました。

皇帝の捕縛

テノチティトランでの平穏な日々は長くは続きませんでした。コルテスは、沿岸部に残してきた部下の一部がアステカ人によって殺害されたという報告を口実に、大胆な行動に出ます。 1519年11月14日、コルテスは少数の部下と共にモクテスマの宮殿に乗り込み、皇帝自身を人質として捕らえました。 彼はモクテスマをスペイン人たちが滞在している宮殿に連行し、軟禁状態に置いたのです。
驚くべきことに、モクテスマはこの屈辱的な状況にほとんど抵抗しませんでした。彼は帝国の統治者としての権威を保ちながらも、事実上コルテスの操り人形となりました。 この強力な人質を手に入れたことで、コルテスはその後数ヶ月間、ほとんど抵抗を受けることなく、モクテスマを通じてアステカ王国を間接的に支配しました。 この出来事は、アステカの権力構造の中心に深刻な亀裂を生じさせ、帝国の指導者層と民衆の間に混乱と不信感をもたらしました。

ナルバエス遠征隊との対決

この比較的平穏な状況は、1520年の春に新たな脅威が到来したことで破られます。コルテスの反逆行為に激怒したキューバ総督ディエゴ・ベラスケスは、パンフィロ・デ・ナルバエス率いる、コルテスの軍勢をはるかに上回る規模の遠征隊をメキシコに派遣しました。 ナルバエスの任務は、コルテスを捕縛し、遠征の指揮権を奪うことでした。
この危機に際し、コルテスは再びその大胆さと決断力を発揮します。彼は、腹心のペドロ・デ・アルバラードにテノチティトランの守りとモクテスマの監視を任せ、自身は少数の兵を率いて沿岸部へと急行しました。 1520年5月下旬、コルテスは夜陰に乗じてセンポアラのナルバエスの陣営に奇襲をかけ、見事な勝利を収めます。 彼はナルバエスの兵士たちを説得し、黄金の約束とアステカ征服の栄光をちらつかせて、彼らのほとんどを自分の軍隊に組み入れることに成功しました。 この勝利により、コルテスの兵力と装備は大幅に増強され、彼は以前にも増して強力な軍隊を率いてテノチティトランへと戻ることになります。しかし、彼が首都を留守にしている間に、事態は致命的な方向へと転がっていきました。

トシュカトル祭りの虐殺と「悲しき夜」

コルテスがナルバエスとの対決に向かっている間、テノチティトランではペドロ・デ・アルバラードが指揮を執っていました。1520年5月、アステカの貴族や戦士たちがトシュカトルという重要な宗教儀式のために大寺院の境内に集まっていた時、アルバラードは彼らが反乱を企てていると疑い、恐慌状態に陥りました。 彼は部下に命じて、儀式に没頭していた非武装の群衆を攻撃させました。 この一方的な虐殺は、何千人ものアステカのエリート層を死に至らしめ、テノチティトランの住民の怒りを爆発させました。
1520年6月24日、増強された軍隊を率いて意気揚々と首都に戻ったコルテスが目にしたのは、戦争状態にある都市でした。 スペイン人たちは宮殿に立てこもり、激しい攻撃にさらされていました。 コルテスはモクテスマに民衆を鎮めるよう命じますが、皇帝が宮殿のバルコニーから民衆に語りかけたとき、彼は石や矢を投げつけられて致命傷を負い、数日後に死亡しました。 モクテスマの死の状況については、スペイン側の記録では民衆によって殺されたとされていますが、アステカ側の情報源は、もはや利用価値がなくなった彼をスペイン人が殺害したと主張しています。
皇帝の死により、和解の望みは完全に絶たれました。食料も水も尽きかけ、絶え間ない攻撃にさらされたコルテスは、街からの脱出を決意します。 1520年6月30日から7月1日にかけての夜、スペイン人とその同盟軍は、闇に紛れてテノチティトランから脱出を試みました。 しかし、彼らの動きはすぐに察知され、湖上の土手道でアステカの戦士たちによる猛烈な追撃を受けます。 このパニックに満ちた逃走劇は「ノチェ・トリステ(悲しき夜)」として知られています。 スペイン人たちは多くの兵士、同盟軍、そしてそれまでに略奪した莫大な量の黄金を失いました。 ディアス・デル・カスティージョによれば、コルテスの兵力の半分以上がこの夜に失われたとされています。

オトゥンバの戦いとトラスカラへの退却

壊滅的な打撃を受けながらも、コルテスと生き残った部下たちは、同盟国であるトラスカラを目指して退却を続けました。1520年7月7日頃、オトゥンバの平原で、彼らは追撃してきた大規模なアステカ軍に包囲されます。 数的に圧倒的に不利な状況で、スペイン人たちは絶体絶命の危機に陥りました。しかし、コルテスは少数の騎兵を率いて敵陣の中心に突撃し、アステカ軍の総司令官を討ち取るという離れ業を演じます。指導者を失ったアステカ軍は混乱に陥り、退却しました。 この奇跡的な勝利により、スペイン人たちは辛うじて全滅を免れ、1520年7月11日、疲弊しきった状態でトラスカラにたどり着くことができました。
トラスカラでは、彼らの同盟者たちが忠誠を守り、スペイン人たちを温かく迎え入れました。ここでコルテスは軍隊を再編成し、テノチティトラン奪還のための周到な準備を開始します。 「悲しき夜」の敗走は、コルテスにとって最大の敗北でしたが、それは彼の征服への決意を打ち砕くどころか、むしろ復讐の炎を燃え上がらせる結果となったのです。
テノチティトラン包囲戦

「悲しき夜」の壊滅的な敗北の後、エルナン・コルテスは同盟国トラスカラで軍の再建に着手しました。 彼は決して諦めませんでした。むしろ、この敗北は彼の決意を固めさせ、より周到で冷酷な戦略へと彼を駆り立てました。一方、テノチティトランでは、モクテスマの弟であるクイトラワクが新たな皇帝として即位していました。 しかし、アステカ王国は目に見えない、より恐ろしい敵に直面することになります。

天然痘の猛威

コルテスたちが退却した後、スペイン人が持ち込んだ天然痘がメソアメリカ全土で猛威を振るい始めました。 先住民たちはこの新しい病気に対して全く免疫を持っておらず、その影響は壊滅的でした。 1520年の秋、天然痘の流行はテノチティトランを襲い、人口の大部分を死に至らしめました。 ある推計によれば、帝国の人口の25%から50%がこの病気だけで失われたとされています。 多くの家では全員が死亡し、遺体を埋葬する時間もなく、家ごと取り壊されるほどでした。 この疫病は、一般市民だけでなく、アステカの指導者層にも壊滅的な打撃を与えました。新皇帝クイトラワク自身も天然痘で死亡し、多くの上級指揮官や貴族も命を落としました。
この疫病の蔓延は、いくつかの点でスペイン人に決定的な利益をもたらしました。第一に、アステカの軍事力と社会組織を内部から崩壊させ、抵抗する能力を著しく低下させました。 第二に、スペイン人自身は、何世紀にもわたってヨーロッパで天然痘が流行していたため、ある程度の免疫を持っており、被害は比較的軽微でした。 第三に、この病気が先住民だけに壊滅的な被害をもたらしたことは、スペイン人の神がアステカの神々よりも強力であるという印象を与え、心理的な影響も大きかったと考えられます。

同盟の再構築と包囲網の形成

トラスカラで体勢を立て直したコルテスは、テノチティトランを孤立させるための戦略を開始します。

同盟の再構築と包囲網の形成

トラスカラで体勢を立て直したコルテスは、テノチティトランを孤立させるための戦略を開始しました。 彼は、アステカ王国の支配下にある都市国家を一つずつ服従させ、自らの同盟網を拡大していくという、体系的かつ冷酷な作戦を展開します。 この戦略の成功は、単に軍事力によるものではなく、外交、脅迫、そしてアステカ支配に対する既存の不満を巧みに利用した結果でした。
まず、彼はテスココ湖周辺の主要な都市国家に目を向けました。 これらの都市は、テノチティトランの食料供給と軍事支援の要でした。 コルテスは、トラスカラの大軍と共にこれらの都市を次々と攻撃しました。 抵抗する都市は容赦なく破壊され、住民は奴隷にされましたが、降伏し同盟を結ぶことを選んだ都市は、アステカからの貢納の免除と保護を約束されました。 このアメとムチの政策は非常に効果的でした。
特に重要な転機となったのが、アステカ三都市同盟の一角であり、文化の中心地でもあったテスココの征服です。 コルテスはテスココ内の王位継承争いに介入し、親スペイン派のイクストリルショチトルを新たな君主として擁立しました。 イクストリルショチトルはコルテスに忠実な同盟者となり、テノチティトラン包囲戦において数万の兵士と膨大な物資を提供しました。 テスココを新たな作戦基地としたことで、コルテスはテノチティトランを湖の東側から完全に封鎖することに成功しました。
この過程で、コルテスの軍勢は雪だるま式に膨れ上がりました。 トラスカラからの数万の戦士に加え、ウェショツィンゴ、チョルーラ、そしてテスココ湖周辺の多くの都市国家が彼の旗の下に集結しました。 最終的に、コルテスの指揮下にあった先住民同盟軍の数は20万人に達したとも言われています。 彼らは、アステカへの長年の恨みを晴らすという共通の目的のために戦いました。 この大規模な先住民の協力がなければ、スペイン人だけでは到底テノチティトランを攻略することはできなかったでしょう。

ブリガンティンの建造

テノチティトランが湖上の都市であることを熟知していたコルテスは、湖を制圧することが勝利の鍵であると理解していました。 そこで彼は、トラスカラの森で13隻の小型の帆船(ブリガンティン)を建造するという、前代未聞の計画を実行に移します。 船大工のマルティン・ロペスの指揮の下、何千人もの先住民労働者が動員され、船体は分解可能な部品として作られました。
1521年初頭、これらの船の部品は、数千人のポーターによって山を越え、50マイル以上離れたテスココまで運ばれました。 テスココで船は再び組み立てられ、武装が施されました。 各ブリガンティンには約25人の兵士と大砲が搭載され、湖上でのアステカのカヌー部隊に対して圧倒的な優位性を発揮しました。 これらの船は、テノチティトランへの食料や水の補給路を断ち、本土との連絡を遮断し、土手道での戦闘においてスペイン軍を支援するという、包囲戦における決定的な役割を果たしました。

包囲戦の開始と凄惨な戦闘

1521年5月下旬、準備を整えたコルテスは、ついにテノチティトランへの最終攻撃を開始しました。 彼の軍隊は三つに分かれ、それぞれが都市に通じる主要な土手道を占拠しました。 ペドロ・デ・アルバラードはトラコパンへの西の土手道を、クリストバル・デ・オリッドはコヨアカンへの南の土手道を、そしてゴンサロ・デ・サンドバルはイスタパラパへの南東の土手道を攻撃しました。 コルテス自身はブリガンティン船団を率いて湖上から全軍を指揮し、攻撃を支援しました。
アステカ側では、クイトラワクの死後、若く勇敢なクアウテモックが最後の皇帝として即位していました。 彼は徹底抗戦の構えを見せ、アステカの戦士たちは絶望的な状況にもかかわらず、驚くべき勇気と粘り強さで都市を防衛しました。 彼らは土手道に罠を仕掛け、夜間に奇襲をかけ、スペイン兵を生け捕りにしては神殿の頂上で生贄に捧げ、包囲軍の士気をくじこうとしました。
戦闘は熾烈を極めました。 スペイン軍と同盟軍は日中に土手道を進み、市内に侵入しようとしますが、夜になるとアステカ軍の反撃によって押し戻されるという一進一退の攻防が続きました。 コルテスは、このままでは犠牲が増えるだけだと判断し、より冷酷な戦術へと切り替えます。 彼は、占領した地区の建物を一つ残らず破壊し、運河を埋め立てて騎兵と大砲が活動できる平地を作り出すよう命じました。 これは、壮麗な都市テノチティトランを組織的に破壊していくことを意味しました。

飢餓、渇き、そして疫病の再燃

包囲が長引くにつれて、テノチティトランの状況は絶望的になりました。 ブリガンティン船団によって湖からの補給路は完全に断たれ、都市は深刻な食料と水の不足に陥りました。 住民は木の皮や根、虫、さらには土まで食べることを余儀なくされました。 清潔な水がなくなったことで、衛生状態は極度に悪化し、天然痘に加えて赤痢などの病気が再び蔓延し始めました。
街は死体で埋め尽くされ、悪臭が立ち込めました。 それでもクアウテモックとアステカの戦士たちは降伏を拒み、最後まで戦い続けました。 しかし、飢えと病によって彼らの抵抗力は日に日に弱まっていきました。 スペイン軍と同盟軍は、破壊された瓦礫の上をゆっくりと、しかし着実に前進し、都市の中心部へと迫っていきました。

クアウテモックの捕縛とテノチティトランの陥落

1521年8月13日、93日間にわたる壮絶な包囲戦の末、ついにテノチティトランは陥落しました。 スペイン軍と同盟軍は、最後の抵抗拠点であったトラテロルコ市場になだれ込み、残ったアステカの戦士たちを掃討しました。 皇帝クアウテモックは、カヌーで湖上へ脱出を試みましたが、スペインのブリガンティンによって捕らえられました。
ベルナル・ディアス・デル・カスティージョの記録によれば、クアウテモックはコルテスの前に連れてこられると、その短剣を指し示し、「私は自分の民を守るために全力を尽くした。もはやこれまでだ。この短剣で私を殺し、早く楽にしてくれ」と威厳を失わずに語ったとされています。 コルテスは彼を殺さず、当初は敬意をもって扱いましたが、後にアステカの隠された財宝のありかを突き止めるために拷問にかけました。
テノチティトランの陥落は、アステカ王国の事実上の終焉を意味しました。 かつて壮麗を誇った首都は、瓦礫と死体の山と化していました。 包囲戦による死者数は、アステカ側だけで20万人以上にのぼると推定されています。 この勝利は、スペイン人とその同盟者であるトラスカラ人やテスココ人によるものでしたが、その後の歴史は、勝者であるはずの先住民同盟者にとっても、決して明るいものではありませんでした。

征服後の世界:ヌエバ・エスパーニャの誕生

アステカ王国の首都テノチティトランの陥落は、メソアメリカの歴史における画期的な出来事でした。 それは一つの時代の終わりであり、同時に「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」として知られることになる、新たな植民地時代の幕開けでした。 この移行期は、破壊、再建、そしてヨーロッパとアメリカ大陸の文化が複雑に混じり合うプロセスによって特徴づけられます。

メキシコシティの建設と植民地統治の確立

コルテスは、廃墟と化したテノチティトランの跡地に、新たな植民地の首都を建設することを決定しました。 これは象徴的な意味を持つ決断でした。かつての帝国の中心地にスペインの権力の座を築くことで、征服の永続性を視覚的に示す狙いがありました。 アステカの神殿は破壊され、その石材はカトリック教会や政府の建物を建てるために再利用されました。 テンプロ・マヨール(大寺院)の跡地には、後にメトロポリタン大聖堂が建設されました。 こうして、湖上の壮麗な先住民の都市は、ヨーロッパ風の碁盤目状の都市、メキシコシティへと姿を変えていきました。
政治的には、コルテスは初代ヌエバ・エスパーニャ総督に任命され、旧アステカ王国の広大な領土の統治を開始しました。 彼は、征服に協力した部下たちにエンコミエンダ制を通じて土地と先住民の労働力を分配しました。 エンコミエンダ制は、スペイン人のエンコメンデロ(受託者)が、一定地域の先住民を保護し、キリスト教の教義を教える見返りに、彼らから貢納や労働力を徴収する権利を国王から与えられるという制度でした。 しかし、実際にはこれは偽装された奴隷制度であり、多くの先住民が過酷な労働や虐待によって命を落とす原因となりました。

キリスト教への強制改宗

スペインによる植民地化は、軍事的・政治的な征服であると同時に、宗教的な征服でもありました。 スペイン国王とローマ教皇は、新世界の先住民をカトリックに改宗させることを征服の正当化の根拠としていました。 1524年にはフランシスコ会を皮切りに、ドミニコ会、アウグスティノ会などの修道会が次々とヌエバ・エスパーニャに到着し、大規模な布教活動を開始しました。
修道士たちは、先住民の言語を学び、絵や劇を用いてキリスト教の教義を広めようとしました。 彼らは先住民の神殿を破壊し、偶像を燃やし、代わりに教会を建てました。 人身御供などの習慣は根絶されましたが、この強制的な改宗は、先住民の伝統的な信仰や宇宙観を根底から覆すものでした。 多くの先住民は、表面的にはキリスト教を受け入れながらも、水面下では古来の神々への信仰を続けるというシンクレティズム(宗教混淆)の形で、自らの文化的アイデンティティを保とうとしました。

人口の激減と社会構造の変化

メキシコ征服が先住民社会に与えた最も壊滅的な影響は、人口の激減でした。 戦争による直接的な死者はさることながら、スペイン人が持ち込んだ天然痘、はしか、インフルエンザといった病気は、免疫を持たない先住民の間で繰り返し大流行し、壊滅的な被害をもたらしました。 16世紀初頭に約2500万人いたと推定される中央メキシコの人口は、1世紀後には100万人以下にまで激減したと考えられています。
この人口崩壊は、先住民社会のあらゆる側面に深刻な影響を及ぼしました。 労働力が失われ、農地は放棄され、伝統的な社会構造や家族制度は崩壊しました。 エンコミエンダ制による過酷な労働も、人口減少に拍車をかけました。

征服の遺産と歴史的評価

アステカ王国の滅亡は、ヨーロッパの軍事技術、疫病、そして帝国内の政治的対立という三つの要素が複雑に絡み合った結果でした。 エルナン・コルテスの指導力、大胆さ、そして外交的手腕が征服の原動力であったことは間違いありません。 しかし、彼の成功は、アステカの圧政に苦しんでいたトラスカラ人やその他の先住民同盟軍の決定的な支援なしにはあり得ませんでした。 彼らはアステカを打倒するという共通の目的のためにスペイン人と手を結びましたが、その結果として、自らもスペインの支配下に置かれることになりました。
アステカ征服の歴史的評価は、今日に至るまで複雑で多面的です。 一方では、コルテスを新世界に文明をもたらした英雄と見なす伝統的なヨーロッパ中心の視点があります。 他方では、彼を貪欲で残虐な侵略者であり、高度な文明を破壊した張本人と見なす視点も強く存在します。 特にメキシコでは、コルテスは複雑な人物として捉えられており、彼の功績を称える記念碑はほとんど存在しません。 むしろ、最後の皇帝クアウテモックが、侵略に抵抗した英雄として記憶されています。
アステカ王国の滅亡は、グローバル化の初期段階における文化の衝突がもたらした、悲劇的で変革的な出来事でした。 それは、アメリカ大陸の先住民社会を変え、のちのメキシコという国家と文化の基礎を築くことになった、世界史における重大な転換点となりました。
Tunagari_title
・アステカ王国滅亡とは わかりやすい世界史用語2293

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 27 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。