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18_80 イスラーム世界の形成と拡大 / インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化

デリーとは わかりやすい世界史用語1484

著者名: ピアソラ
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デリーとは

デリーの歴史は、その地理的・文化的な重要性からインド史の中でも特筆すべき場所を占めています。北インドに位置し、豊かな文化的遺産と政治的な中心地としての役割を果たしてきました。その歴史は古代、特に『マハーバーラタ』に登場するインドラプラスタの伝説から始まるとされています。この都市は、紀元前1400年頃にパンチャーラ王国の首都として建設されたと伝えられていますが、考古学的な証拠は残っていません。

デリーという名称は、1世紀ごろにラージャ・ディルによって築かれた都市に由来します。ラール・コートと呼ばれる要塞都市は、10世紀にトマラ王朝によって設立され、デリー地域の初期の重要な都市の一つでした。トマラ王朝が11世紀に終焉を迎えると、その後チャンハン王朝が支配し、プラティヴィーラージ3世(ラージ・ピトーラ)によって城壁が強化され、城砦都市キラ・ライ・ピトーラとなりました。



12世紀末には、デリーはムスリム勢力によって征服され、クトゥブ・アル・ディーン・アイバクがラール・コートを首都としました。彼はクトゥブ=ミナールを建設し、その後のデリー=スルタン朝の基礎を築きました。デリー=スルタン朝は、13世紀から16世紀にかけて、ムスリムの支配者によって北インドを統治する最も重要な王朝となり、5つの異なる王朝がこの地域を治めました。

デリー=スルタン朝が終焉を迎えると、ムガル帝国が北インド全体を統一しました。ムガル帝国時代のデリーは政治、文化、経済の中心として繁栄し、多くの壮大な建造物が築かれました。その中でも、シャー=ジャハーンによって建設されたシャー・ジャハーナーバード(現在の旧デリー)は、ムガル帝国の最盛期を象徴する都市の一つです。この時代に建設された建物の中で最も有名なのは、赤い城(ラール・キラー)です。

ムガル帝国が衰退すると、デリーは一時的にマラーターやアフガン勢力に占領されましたが、最終的には1803年にイギリス東インド会社の支配下に入りました。イギリス植民地時代、デリーはパンジャーブの一部として統治されていましたが、1911年にはインドの首都がカルカッタ(現在のコルカタ)からデリーに移され、ニューデリーの建設が始まりました。ニューデリーは、イギリスの建築家エドウィン・ラチェンスによって設計され、インド統治の新たな象徴となりました。

独立後のインドにおいても、デリーは引き続き国の政治的中心地であり、インド政府の三権(立法、行政、司法)の全てがこの都市に集中しています。また、デリーは急速に発展を遂げ、国際的な経済・文化都市としてもその重要性を増してきました。しかし、その急速な都市化と人口の増加に伴い、インフラの問題や環境への影響も懸念されています。

デリーの歴史は、様々な王朝や文化が交差し、影響を与え合う過程で形成されました。この都市は、古代から現代に至るまで、インドの歴史の重要な舞台としての役割を果たし続けています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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