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18_80 西アジア・地中海世界の形成 / ローマ帝国

「3世紀の危機」とは わかりやすい世界史用語1119

著者名: ピアソラ
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「3世紀の危機」とは

ローマ帝国の3世紀の危機は、235年から284年にかけて約50年間にわたって、帝国が深刻な内外の問題に直面した時期を指します。この時期、帝国は外国からの侵略、内戦、経済の崩壊など、さまざまな圧力により、ほぼ崩壊の危機に瀕しました。

危機の始まり

3世紀の危機は、235年に皇帝アレクサンデル=セウェルスが軍隊によって暗殺されたことから始まりました。この事件は、軍が政治に深く関与する時代の到来を示しました。その後、帝国は次々と現れた皇帝候補者による内戦に見舞われ、統治が不安定になり、経済的混乱が広がりました。



外国からの侵略

この期間、ローマ帝国は多くの外国勢力からの侵略に直面しました。ゲルマン部族やゴート族、サーサーン朝ペルシアなどがローマの領土に侵入し、各地で戦闘が続きました。特にゴート族はバルカン半島やギリシャに侵入し、大きな被害をもたらしました。

経済の崩壊

3世紀の危機は、経済的な崩壊も引き起こしました。貨幣の価値が急落し、インフレーションが進行しました。セウェルス朝の時代には、貨幣の銀含有量が減少し、これが経済の不安定化を招きました。また、農業生産の低下や貿易の停滞も経済危機をさらに深刻にしました。

内戦と政治的混乱

この時期、ローマ帝国は内戦と政治的混乱に見舞われました。235年から284年の間に、少なくとも26人の皇帝が即位し、その多くが短期間で暗殺または廃位されました。このような政治的不安定は、帝国の統治機構を弱体化させ、さらなる混乱を引き起こしました。

疫病の流行

3世紀の危機をさらに悪化させたのが、疫病の流行です。特に「キュプリアヌスの疫病」と呼ばれる病が広がり、ローマ帝国全体で多くの死者を出しました。この疫病は社会的な不安を増大させ、経済活動にも大きな影響を与えました。

帝国の分裂

3世紀の危機の最中、ローマ帝国は一時的に分裂しました。ガリア帝国(現在のフランス、イギリス、スペインの一部)とパルミラ帝国(現在のシリア、エジプトの一部)が独立し、ローマ本国と対立しました。これにより、帝国の統一はさらに脅かされました。

危機の終焉と再統一

3世紀の危機は、皇帝アウレリアヌス(270年 - 275年)の治世において転機を迎えました。アウレリアヌスは、ガリア帝国とパルミラ帝国を再統一し、帝国の安定を取り戻しました。その後、ディオクレティアヌス(284年 - 305年)が即位し、帝国の行政改革と軍事改革を行い、危機を終息させました。ディオクレティアヌスは、帝国を東西に分割し、共同統治者を設けることで、統治の効率化を図りました。

ローマ帝国の3世紀の危機は、外国からの侵略、内戦、経済の崩壊、疫病の流行など、複数の要因が重なり合った結果として現れました。この危機は帝国の統治機構を弱体化させ、一時的な分裂を引き起こしましたが、アウレリアヌスとディオクレティアヌスの改革によって再統一と安定がもたらされました。この時期の経験は、ローマ帝国の後の歴史に大きな影響を与えました。
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・「3世紀の危機」とは わかりやすい世界史用語1119

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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