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セレウコス朝シリアとは わかりやすい世界史用語892

著者名: ピアソラ
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セレウコス朝シリアとは

セレウコス朝シリアは、アレクサンドロス大王の死後、その帝国の一部を継承したセレウコス1世ニカトールによって紀元前312年に設立されました。この帝国は、最大の範囲でトラキアからインドの国境まで広がり、シリア、メソポタミア、ペルシャ、中央アジアの一部を含む広大な領土を支配しました。

歴史的背景

アレクサンドロス大王の死後、彼の帝国はディアドコイ(後継者)と呼ばれる将軍たちの間で分割されました。セレウコス1世は、バビロニアのサトラップ(総督)としてスタートし、紀元前312年にガザの戦いでデメトリオスを破り、バビロニアを奪還しました。これがセレウコス朝の始まりです。

セレウコス1世は、その後も領土を拡大し、紀元前301年のイプソスの戦いでアンティゴノス1世を破り、シリアとアナトリアの大部分を手に入れました。彼の死後、息子のアンティオコス1世ソテルが後を継ぎました。



セレウコス朝の拡大と統治

セレウコス朝は、アレクサンドロス大王の征服地を継承し、ギリシャ文化と東方文化の融合を推進しました。セレウコス朝の支配下では、ギリシャ語が公用語として使用され、ギリシャ風の都市が建設されました。

アンティオキア: セレウコス朝の主要な都市であり、シリアの首都として機能しました。アンティオキアは、文化、商業、政治の中心地として繁栄しました。

セレウキア: メソポタミアの主要都市であり、セレウコス朝の東部の中心地として重要な役割を果たしました。

主要な王とその治世

セレウコス朝の歴史には、多くの重要な王が登場します。以下に、いくつかの主要な王とその治世を紹介します。

セレウコス1世ニカトール(紀元前312年〜281年): セレウコス朝の創設者であり、広大な領土を築き上げました。

アンティオコス1世ソテル(?〜261年): セレウコス1世の息子であり、父の遺産を引き継ぎました。

アンティオコス3世大王(紀元前223年〜187年): セレウコス朝の最盛期を築いた王であり、広範な行政改革を行いました。

アンティオコス4世エピファネス(紀元前175年〜163年): ユダヤのマカバイ戦争を引き起こした王であり、宗教的な迫害を行いました。

セレウコス朝の衰退と崩壊

セレウコス朝は、内紛や外敵の侵攻により次第に衰退しました。特に、ローマとの戦争やパルティアの台頭が大きな打撃となりました。

ローマとの戦争: 紀元前192年から188年にかけてのローマ・セレウコス戦争で敗北し、アパメア条約により領土を大幅に削減されました。

パルティアの台頭: パルティアはセレウコス朝の東部領土を次第に奪い、最終的にはメソポタミアを支配しました。

紀元前63年、ローマの将軍ポンペイウスがシリアを征服し、セレウコス朝は正式に滅亡しました。

文化的影響

セレウコス朝は、ギリシャ文化と東方文化の融合を推進し、ヘレニズム文化の発展に大きく寄与しました。

都市建設: セレウコス朝は、多くのギリシャ風の都市を建設し、これらの都市は文化、商業、学問の中心地となりました。

学問と科学: セレウコス朝の支配下では、学問と科学が発展し、多くの学者が活動しました。

セレウコス朝シリアは、アレクサンドロス大王の死後に成立した広大な帝国であり、ギリシャ文化と東方文化の融合を推進しました。この帝国は、内紛や外敵の侵攻により次第に衰退し、最終的にはローマによって滅亡しました。しかし、その文化的影響は後世にわたって残り、ヘレニズム文化の発展に寄与しました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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