ウァレリアヌスとは
ウァレリアヌスは、ローマ帝国の皇帝であり、253年から260年まで在位しました。彼の治世は、ローマ帝国の歴史の中でも特に困難な時期である「3世紀の危機」にあたります。
生い立ちと経歴
ウァレリアヌスは貴族出身であり、元老院議員の家系に属していました。彼の初期の経歴についてはあまり詳しくは知られていませんが、エグナティア・マリニアナと結婚し、後に共同皇帝となるガッリエヌスと小ウァレリアヌスという二人の息子をもうけました。
皇帝への道
ウァレリアヌスは、238年にプリンケプス・セナトゥスに選出され、元老院の指導的立場に立ちました。251年には、皇帝デキウスによってケンソル(監察官)に任命されましたが、この職務を辞退しました。その後、トレボニアヌス・ガッルスの治世下で軍の指揮を執り、253年にアエミリアヌスの反乱を鎮圧するために南下しましたが、ガッルスが殺害された後、ウァレリアヌス自身が皇帝に選ばれました。
皇帝としての治世
ウァレリアヌスが皇帝に即位した後、彼は息子のガッリエヌスを共同皇帝として任命し、ローマ帝国の西半分を統治させました。ウァレリアヌス自身は東半分を統治し、特にペルシア(ササン朝)との戦いに注力しました。
ペルシアとの戦いと捕虜
ウァレリアヌスの治世の最大の出来事は、260年のエデッサの戦いでの敗北です。この戦いで、ウァレリアヌスはペルシアのシャープール1世に捕らえられ、ローマ皇帝として初めて敵国に捕虜となるという前代未聞の事態に陥りました。彼のその後の運命については諸説あり、ビシャプールで奴隷として扱われたとも、皮剥ぎの刑に処されたとも言われています。
ウァレリアヌスの影響と評価
ウァレリアヌスが捕虜となった事件は、ローマ帝国に大きな衝撃を与えました。この出来事は、帝国の国力低下を象徴するものであり、以後のローマ帝国はさらに混迷を深めていくこととなりました。彼の治世は短かったものの、その影響は長く続きました。
ウァレリアヌスは、ローマ帝国の歴史において重要な人物であり、その治世は帝国の危機的な時期と重なります。彼の生涯と業績は、ローマ帝国の歴史において重要な位置を占めています。