ヴァレンヌ逃亡事件
国民議会の改革が次々と行われる中、議会と王室をつなぐ役割を果たしていた穏健派議員の
ミラボーが死去すると、革命は急速に勢いを増していきました。
急進する革命に危機感を覚えた国王一家は、密かに
オーストリアと連絡を取り、亡命を望むようになります。
ここでなぜオーストリアが出てくるのか疑問に思うかもしれませんが、その背景は、ルイ16世の王妃
マリー=アントワネットの出身が関係しています。
マリー=アントワネットは、神聖ローマ皇帝フランツ1世と大公マリア=テレジアの娘でした。政略結婚によってルイ16世と結婚した彼女は、革命の被害を受ける前に、王と共に実家のオーストリアに亡命しようとしたわけです。
1791年6月20日、国王一家はオーストリアへの亡命を決行します。しかし、翌日21日には国境近くの
ヴァレンヌで捕まり、パリへ連れ戻されてしまいました。
(パリに連行される国王一家の馬車)
この事件により、それまで国王に対して中立的意見を持っていた国民も、国を捨て逃亡を試みた君主の姿に落胆し、革命勢力は一層急進する結果となりました。
一方、マリー=アントワネットの兄で、当時のオーストリア皇帝だった
レオポルト2世は、プロイセン王
フリードリヒ=ヴィルヘルム2世と共に
ピルニッツ宣言を出します。
これは、ヴァレンヌ事件の後、フランス国王一家を救う内容で、仮に国王一家に危害が加えられた場合、オーストリア・プロイセン両国がフランスに干渉するというものでした。
ここでのフリードリヒ=ヴィルヘルム2世は、フリードリヒ大王(フリードリヒ2世)の甥で別人です。
緊迫した状況が続く中、国民議会は1791年9月3日に憲法を採択します。これを
1791年憲法というのですが、その内容は立憲君主制や財産資格選挙、一院制の規定等でした。この憲法の特徴は、政治参加を
裕福なブルジョワジー以上に限定するというもので、下層市民の支持を得ることのできるものではありませんでした。