新規登録 ログイン

18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

ウォルポールとは わかりやすい世界史用語2731

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
ウォルポールとは

ノーフォークの郷紳

ロバート=ウォルポールは1676年8月26日、イングランド東部のノーフォーク州にあるホートンという村で生まれました。彼の家系はジェントリ、すなわち地方の名士である郷紳階級に属していました。父のロバート=ウォルポール大佐はホイッグ党に所属する庶民院議員であり、地元の有力者でした。母のメアリー=バーウェルもまた、ノーフォークのジェントリの家系の出身です。ロバートは19人兄弟の5番目の子供であり、三男でした。当時の慣習として、長男が家督と土地を継ぐことが決まっていたため、三男である彼には聖職者としての道が期待されていました。
このため、彼は名門イートン校で古典教育を受けた後、1696年にケンブリッジ大学のキングス=カレッジに進学し、神学を学び始めます。しかし、彼の運命は予期せぬ形で変わることになります。1698年、兄のエドワードが亡くなり、ロバートが父の跡継ぎとなりました。これにより、彼は聖職者への道を断念し、大学を中退して故郷ノーフォークに戻り、地主としての経営を学ぶことになります。
1700年、彼はキャサリン=ショーターと結婚します。彼女は裕福なバルト海方面の材木商の娘であり、この結婚はウォルポール家にかなりの持参金をもたらしました。同年11月、父であるウォルポール大佐が亡くなり、ロバートは24歳の若さでホートンの荘園と、父が持っていたキャッスル=ライジング選挙区の議席を相続しました。こうして、彼の政治家としてのキャリアが始まったのです。



ホイッグ党の若手政治家

1701年1月、ウォルポールは庶民院に初登院しました。当時のイギリス政界は、王権に対する議会の優位を主張し、プロテスタントの王位継承を支持するホイッグ党と、伝統的な王権とイングランド国教会を重んじるトーリー党という二大政党が激しく対立していました。ウォルポール家は代々ホイッグ党を支持しており、彼もまた自然にホイッグ党員として活動を始めます。
彼はすぐに頭角を現しました。弁舌に優れ、複雑な財政問題に対する鋭い理解力を持っていた彼は、ホイッグ党の重鎮たちの注目を集めるようになります。特に、ホイッグ党の中心人物であったゴドルフィン伯シドニー=ゴドルフィンやマールバラ公ジョン=チャーチルといった実力者たちにその才能を認められました。
1702年にアン女王が即位すると、スペイン継承戦争が本格化します。この戦争を積極的に推進したのはマールバラ公率いるホイッグ党でした。ウォルポールもまた、戦争遂行を強く支持する主戦派の一人として活動しました。彼の能力はすぐに政府内で評価され、1705年には海軍卿委員会の一員に任命されます。これは彼の最初の公職であり、海軍の財政と管理に携わる重要な役職でした。彼はここで実務能力を存分に発揮し、その評判をさらに高めました。
1708年、ウォルポールは戦時大臣に任命されます。これは陸軍の管理と財政を担当する極めて重要なポストであり、30代前半の彼にとっては大抜擢でした。彼はマールバラ公と緊密に連携し、大陸で戦うイギリス陸軍への兵站と資金供給を円滑に行うという困難な任務を遂行しました。この経験を通じて、彼は国家財政の複雑なメカニズムと、戦争がいかに国家の経済に重い負担をかけるかを痛感することになります。この時の経験が、後の彼の平和主義的な外交政策の原点となったとも言われています。
権力の座への浮き沈み

トーリー党政権下での受難

長引くスペイン継承戦争は国民に重い負担を強いており、厭戦気分が国内に広まっていました。1710年の総選挙で、和平を公約に掲げたトーリー党が圧勝し、ロバート=ハーレー(後のオックスフォード伯)とヘンリー=シンジョン(後のボリングブルック子爵)を中心とするトーリー党政権が誕生しました。これにより、ウォルポールをはじめとするホイッグ党員は軒並み政権から追放されました。
新政権は前政権の戦争指導を厳しく追及し始めます。ウォルポールは野党の論客として、トーリー党の和平交渉を激しく批判しましたが、それは彼自身を危険な立場に追いやることになりました。トーリー党は彼を政治的に失脚させるため、彼が戦時大臣だった時代の会計に不正があったとして告発しました。1712年1月、トーリー党が多数を占める庶民院は、ウォルポールが二つの秣の契約に際して不正な利益を得たとして、「重大な汚職」で有罪と議決しました。彼は議員資格を剥奪され、ロンドン塔に投獄されました。
この告発が正当なものであったかについては議論があります。ウォルポール自身は一貫して無実を主張し、これは政敵による政治的な迫害であると訴えました。実際に、彼が受け取ったとされる金額は比較的小さなものであり、当時の慣行の範囲内であった可能性も指摘されています。しかし、この事件は彼の政治キャリアにおける最大の屈辱となりました。彼は6ヶ月間ロンドン塔に収監されましたが、この経験は彼をホイッグ党の殉教者として英雄に仕立て上げ、彼の不屈の精神を人々に印象付ける結果ともなりました。彼は獄中からパンフレットを執筆し、トーリー党政権を攻撃し続けました。
ハノーヴァー朝の成立と復権

1714年8月、アン女王が子供のないまま崩御しました。王位継承法に基づき、ステュアート家の血を引く最も近いプロテスタントの親族として、ドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク=ルートヴィヒがジョージ1世としてイギリス王位に就きました。これがハノーヴァー朝の始まりです。
ジョージ1世は、トーリー党の一部が追放されたカトリックのジェームズ=ステュアート(「老僭王」)を支持していることを疑っており、ホイッグ党を全面的に信頼しました。これにより、ホイッグ党は長期にわたる政権の座に就くことになります。ウォルポールもまた完全に復権し、新政権で再び戦時大臣に任命され、枢密院のメンバーにも選ばれました。
1715年、スコットランドでジェームズを支持するジャコバイトの反乱が勃発します。ウォルポールはこの危機に際して、反乱を鎮圧するための資金と軍隊を迅速に手配し、政府内での地位を不動のものにしました。彼は第一大蔵卿に任命され、事実上の首相として政府を率いる立場となりました。また、彼は秘密委員会を設置して前トーリー党政権の指導者たちを弾劾し、オックスフォード伯をロンドン塔に送り、ボリングブルック子爵をフランスへの亡命に追い込むなど、政敵に対する徹底的な報復を行いました。
しかし、ホイッグ党内でも権力闘争が始まります。ウォルポールは、タウンゼンド子爵チャールズ=タウンゼンドと協力していましたが、彼らの一派は、サンダーランド伯チャールズ=スペンサーやジェームズ=スタンホープといった別の有力なホイッグ党指導者たちと対立するようになります。この対立は、国王ジョージ1世の外交政策をめぐって激化しました。ウォルポールとタウンゼンドは、イギリスの利益にならないハノーファーのための外交政策に批判的でした。1717年、国王がハノーファーに滞在している間にこの対立は頂点に達し、タウンゼンドが更迭され、ウォルポールもこれに抗議して辞任しました。彼は再び野党の立場に身を置くことになったのです。
南海泡沫事件と権力掌握

投機熱とその崩壊

ウォルポールが野党にいた1720年、イギリス経済を根底から揺るがす大事件が発生しました。それが「南海泡沫事件」です。
南海会社は、スペイン継承戦争で生じた巨額の国債を引き受ける見返りとして、南米との奴隷貿易を含む貿易独占権を与えられた会社でした。1720年、スタンホープとサンダーランド伯が率いる政府は、南海会社がさらに多くの国債を引き受けるという計画を承認しました。この計画の核心は、国債の保有者にその債券を非常に有利な条件で南海会社の株式と交換させるというものでした。南米との貿易による莫大な利益への期待から、南海会社の株価は熱狂的な投機によって異常なまでに高騰しました。1720年の初めに100ポンド前後だった株価は、夏には1000ポンドを超えるまでに跳ね上がりました。
この熱狂は社会のあらゆる階層に広がり、貴族から庶民までが全財産を投じて南海会社の株を買い漁りました。しかし、約束された貿易利益はほとんど実現せず、株価は完全に実態からかけ離れたバブル(泡沫)でした。夏を過ぎると、一部の投資家が利益を確定させようと売り始め、株価は下落に転じます。すると、パニック的な売りが殺到し、株価は数週間のうちに暴落しました。秋には株価は元の水準にまで戻り、多くの投資家が一夜にして破産しました。イギリス経済は未曾有の金融危機に見舞われたのです。
ウォルポールの手腕

国民の怒りは、この計画を推進した政府と、不正な利益を得たとされる南海会社の重役たち、そして宮廷関係者に向けられました。政府は崩壊の危機に瀕し、国中がパニックに陥りました。
この国家的な危機を収拾する人物として白羽の矢が立ったのが、ロバート=ウォルポールでした。彼は個人的には南海会社の計画に懐疑的であり、投機には深入りしていませんでした。彼は危機の解決者として政権に呼び戻され、1721年4月、第一大蔵卿および財務大臣に任命されました。この時から、彼の21年間にわたる長期政権が事実上始まったのです。
ウォルポールは巧みな手腕でこの危機を乗り切りました。彼はまず、議会に秘密調査委員会を設置して国民の怒りをなだめ、南海会社の不正に関与した者たちを追及する姿勢を見せました。実際に、一部の政府高官や会社重役は弾劾され、その財産は没収されて被害者の救済に充てられました。
しかし、彼は同時に、このスキャンダルが国王ジョージ1世やその愛人、さらには王室全体に及ぶことを防ぐために細心の注意を払いました。彼は調査を巧みにコントロールし、王室への追及が深まる前に幕引きを図ったのです。この手腕は、彼がハノーヴァー朝の守護者としての信頼を国王から勝ち取る上で決定的な役割を果たしました。
さらに彼は、破綻した金融システムを再建するための現実的な解決策を打ち出しました。彼は南海会社の資産をイングランド銀行と東インド会社に分割して引き受けさせ、株主の損失を部分的に補填しました。また、国債の信頼性を回復させるための財政再建策を実施しました。彼のこれらの措置によって、金融パニックは徐々に沈静化し、イギリス経済は崩壊の淵から立ち直ることができたのです。
南海泡沫事件は、ウォルポールにとって最大の好機となりました。彼はこの危機を乗り切ることで、ライバルであったサンダーランド伯やスタンホープ(事件の渦中で急死)を失脚させ、ホイッグ党内での指導権を完全に確立しました。そして何よりも、国王と議会、そして国民からの信頼を一身に集め、イギリスで最も権力のある政治家としての地位を不動のものにしたのです。
ウォルポール体制

安定の政治

1721年から1742年までの21年間、ウォルポールは第一大蔵卿としてイギリスの政治を主導しました。この時代は「ウォルポール体制」または「ロビノクラシー(ロビンの支配)」と呼ばれます。彼の統治の基本方針は、国内外における安定の維持でした。彼は南海泡沫事件の教訓から、投機的な冒険を避け、着実な経済成長を目指しました。
内政において、彼は土地所有者であるジェントリ階級の支持を得ることを重視しました。そのために、彼は土地税を低く抑えることを公約し、それを実行しました。土地税はジェントリにとって最も重い負担であり、これを軽減することは彼らの歓心を買う上で非常に効果的でした。その代わりに、彼は消費税、特に麦芽や塩、蝋燭といった生活必需品に対する物品税(エクスサイズ)からの歳入を重視しました。
彼の財政政策のもう一つの柱は、国債の整理と償還を目的とした「減債基金」の活用でした。彼はこの基金を着実に運用し、国家の信用を回復させ、長期的な財政の安定を図りました。
1727年にジョージ1世が崩御し、息子のジョージ2世が即位した際、ウォルポールの地位は一時的に危ぶまれました。ジョージ2世は皇太子時代からウォルポールと対立しており、彼を罷免しようと考えていました。しかし、ジョージ2世の妃であり、非常に聡明で政治的な影響力を持っていたキャロライン王妃が、ウォルポールの有能さを高く評価し、夫を説得しました。キャロライン王妃の強力な支持を得て、ウォルポールは政権を維持することに成功し、その後も国王夫妻の厚い信頼を得て権力を振るい続けました。
平和外交

ウォルポールの外交政策の基本理念は「Quieta non movere(静かなるものを動かすな)」という言葉に集約されます。これは「触らぬ神に祟りなし」という意味のラテン語で、彼の平和主義的な姿勢を象徴しています。彼は、戦争が国家財政を破綻させ、国内の政治的安定を脅かす最大の要因であると考えていました。そのため、彼は可能な限りヨーロッパ大陸の紛争に関与することを避け、外交交渉による問題解決を優先しました。
彼の主な外交パートナーは、フランスの宰相フルーリー枢機卿でした。フルーリーもまた平和を志向する現実的な政治家であり、二人は協力して英仏関係を安定させ、ヨーロッパにおける大規模な戦争の勃発を防ぎました。この英仏協調体制は、ウォルポール時代におけるヨーロッパの相対的な平和の基盤となりました。
しかし、この平和政策は、常に国益を最優先するものでした。彼はイギリスの貿易と植民地の利益を守るためには断固とした態度を取りました。例えば、スペインとの間では、西インド諸島におけるイギリス商人の貿易活動をめぐって緊張が続いていましたが、ウォルポールは粘り強い外交交渉によって、1729年のセビリア条約などで何度も戦争を回避しました。
彼の平和外交は、イギリスに長期の安定と経済的繁栄をもたらしました。戦争による重税から解放されたことで、商業や製造業が発展し、国富が増大しました。この経済的な成功が、ウォルポール政権の長期安定を支える最大の要因でした。
初代首相として

議会運営とパトロネージ

ウォルポールは、イギリス史上初の「首相(プライム=ミニスター)」と見なされることが多いですが、彼自身はそのような称号で呼ばれることを嫌いました。当時は「首相」という言葉には、王を差し置いて権力を弄ぶ独裁者という否定的なニュアンスがあったからです。しかし、彼が果たした役割は、実質的に近代的な首相のそれでした。
彼の権力の源泉は、国王の信頼と、庶民院における多数派の支配という二つの要素にありました。彼は、政府の政策が庶民院の支持なしには実行できないことを理解しており、議会における多数派工作に心血を注ぎました。
その主要な手段が「パトロネージ(恩顧関係)」でした。彼は、政府が任命権を持つ数多くの官職、例えば税関吏、軍の士官、聖職者の地位などを、自らを支持する議員やその親族、友人たちに分け与えました。これにより、彼は多くの議員を「恩」で縛り付け、安定した支持基盤を築き上げたのです。これらの支持者は「コート=ホイッグ(宮廷派ホイッグ)」と呼ばれ、彼の意のままに動く投票機械となりました。
このような政治手法は、政敵から激しい汚職批判を浴びることになります。彼らは、ウォルポールが官職と金銭によって議会の独立性を破壊し、自由を脅かす腐敗した独裁者であると非難しました。ウォルポール自身もまた、南海泡沫事件の際に不正な利益を得ていたという噂が絶えず、その莫大な富と豪華な邸宅ホートン=ホールは、彼の腐敗の象徴として攻撃の的となりました。
彼はまた、閣議を主宰し、閣僚間の意見を調整して政府の方針を統一しました。国王への報告は彼を通じて行われ、国王と議会をつなぐ重要なパイプ役を果たしました。このように、国王の信任を得て内閣を率い、議会に責任を負うという、後の議院内閣制の基本的な仕組みは、ウォルポールの時代にその原型が形作られたと言えます。
物品税法案の危機

ウォルポールの長期政権における最大の政治的危機は、1733年の「物品税法案」をめぐって起こりました。
前述の通り、ウォルポールは土地税を低く抑える代わりに、消費に対する間接税を重視していました。彼は、当時大きな問題となっていたワインとタバコの密輸を取り締まり、税収を確保するため、これらの品物に対する関税を廃止し、代わりに国内の倉庫で管理される物品税(エクスサイズ)を導入しようと計画しました。この制度では、商品は倉庫から国内で販売される時点で課税されるため、密輸が困難になると考えられました。論理的には、これは効率的で公正な税制改革でした。
しかし、この法案は猛烈な反対運動を引き起こしました。野党は、「物品税」という言葉が持つ否定的なイメージを巧みに利用し、「暴君ウォルポールが、我々の家にまで税金取り(エクスサイズマン)を送り込み、全ての食料品に税金をかけ、イギリス人の自由を奪おうとしている」という大規模なプロパガンダを展開しました。ロンドンの商人たちは、この制度が自分たちの商売を不当に束縛するものだと信じて激しく反発し、民衆は「物品税反対、木の靴(奴隷の象徴)反対!」というスローガンを叫んで街頭で暴動を起こしました。
議会内でも、ウォルポールの支持者の一部が離反し、法案の先行きは極めて不透明になりました。庶民院の外には怒れる群衆が詰めかけ、ウォルポール自身も身の危険を感じるほどでした。
ここでウォルポールは、彼の政治家としての現実的な判断力を示します。彼は、この法案を強行採決すれば、たとえ可決できたとしても、国を二分する深刻な混乱を招き、政権の安定そのものを揺るがしかねないと判断しました。1733年4月11日、彼は庶民院で法案の撤回を宣言しました。彼は「私は国民の父である。息子たちの頑固さのために、家族を犠牲にするつもりはない」と語ったと言われています。
この敗北はウォルポールの威信に大きな傷をつけましたが、同時に彼の柔軟性と危機管理能力を示すものでもありました。彼は一つの政策に固執するよりも、政権全体の安定を優先したのです。この危機を乗り越えたことで、彼はさらに数年間、政権を維持することができました。
政権の終焉

野党の台頭

1730年代後半になると、ウォルポールに対する野党の攻撃はますます激しくなりました。野党勢力は、ウォルポールに個人的な恨みを持つ離反したホイッグ党員(ウィリアム=パルトニーなど)と、ボリングブルック子爵に率いられたトーリー党員、そしてウィリアム=ピット(大ピット)やジョージ=グレンヴィルといった若手の「愛国派(パトリオット)」議員たちによって構成されていました。
彼らは、新聞、パンフレット、風刺画といったあらゆるメディアを駆使して、ウォルポールを汚職と腐敗の権化として描き出し、彼の平和外交をイギリスの国益を損なう臆病な政策だと非難しました。特に、フレデリック皇太子が父であるジョージ2世と対立し、野党勢力の拠点となったことは、ウォルポールにとって大きな打撃でした。
1737年に、ウォルポールの最大の庇護者であったキャロライン王妃が亡くなると、国王に対する彼の影響力にも陰りが見え始めました。長年の政権担当によって、彼の政策は新鮮味を失い、国民の間にも変化を求める空気が広まっていました。
ジェンキンスの耳の戦争と辞任

ウォルポール政権にとどめを刺すことになったのは、外交問題でした。西インド諸島におけるスペイン沿岸警備隊によるイギリス商船への臨検と暴力行為は、長年の懸案でした。1738年、ロバート=ジェンキンスという船長が議会に喚問され、7年前にスペイン人に拿捕された際に切り落とされたという自分の耳を塩漬けの瓶に入れて提示し、スペインの非道を訴えました。
この「ジェンキンスの耳」事件は、野党によって巧みに利用され、イギリス国民の反スペイン感情を一気に煽り立てました。世論はスペインに対する強硬な報復を求め、主戦論が国中を席巻しました。ウォルポールは最後まで戦争を回避しようと外交努力を続けましたが、議会と世論の圧力に抗しきれなくなりました。彼は自らの信念に反して、1739年10月、スペインに宣戦布告せざるを得ませんでした。こうして「ジェンキンスの耳の戦争」が始まったのです。
ウォルポールは、この戦争の遂行に乗り気ではありませんでした。彼の予測通り、戦争はイギリスにとって有利には進まず、カリブ海での作戦は失敗を重ねました。戦争の不手際は、全てウォルポール政権の無能さのせいにされました。
1741年の総選挙で、ウォルポール派はかろうじて多数を維持したものの、その議席は大幅に減少しました。選挙結果をめぐる論争で、ウォルポールはついに議会での多数を失いました。1742年2月2日、彼は庶民院での採決に敗れ、辞任を決意しました。国王ジョージ2世は涙ながらに彼の辞任を受け入れたと言われています。
辞任後、彼は国王からオーフォード伯の爵位を与えられ、貴族院に移りました。彼はその後も国王の非公式な相談役として政治に影響力を持ち続けましたが、二度と権力の中枢に戻ることはありませんでした。
ロバート=ウォルポールは、1745年3月18日にロンドンで亡くなり、故郷ホートンの教会に埋葬されました。彼の21年間にわたる長期政権は、イギリスに政治的な安定と経済的な繁栄をもたらし、議院内閣制や首相職といった近代イギリスの政治システムの基礎を築きました。彼は巧みな現実主義者であり、偉大な議会人でしたが、その権力維持の手法は、後世に至るまで汚職とパトロネージ政治の象徴としても記憶されることになったのです。
Tunagari_title
・ウォルポールとは わかりやすい世界史用語2731

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 243 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。