七年戦争と独立の気運
1756年から、ヨーロッパで
七年戦争という戦争がはじまりました。これはプロイセン・イギリス陣営と、オーストリア・フランス・スペイン・ロシア陣営の戦いでした。
このイギリスとフランスの対立は、七年戦争の一環として新大陸でも
フレンチ=インディアン戦争(1756~63年)を引き起こします。
(フレンチ=インディアン戦争)
カナダからミシシッピ川流域に植民地を建設していたフランスは、新大陸でもイギリスの敵でした。この戦争にイギリスは圧勝し、この勝利が本国の七年戦争を集結させるきっかけになりました。
戦後の
パリ条約で、イギリスは
カナダ・ミシシッピ川以東を獲得します。
戦争に勝利したものの、イギリス本国は戦争で疲弊した経済を復活させるため、新大陸の植民地に重税を課す
重商主義政策を行うようになります。
この重商主義政策は、本国の利益を最優先させるために、植民地の産業や貿易の自由を制限するものでした。また本国は、さまざまな課税政策を実行し、植民地から搾取するようになっていったのです。
この戦争前からも、航海法、羊毛品法、帽子法、糖蜜法、製鉄品法など、重商主義政策の一環として制定された法律がありました。
七年戦争以後、これらに加え、1764年に砂糖法、1765年に印紙法と次々に課税対象が広がります。
特に、印紙法は、法的書類や許可証、商取引の証書以外に、新聞やパンフレット等、一般の人々が必要とするものにも印紙が必要になるという法律であったため、植民地の人々の多くはこれに反発しました。
当時の植民地は、議会を持ち、民主的な政治が行われていたにも関わらず、イギリス本国の議会に代表者を送っていなかったので、本国の政策の意思決定に参加する事ができませんでした。
このことを別の視点で解釈し、「
代表なくして課税なし」という論理を展開し、植民地側は抵抗するようになりました。これは、本国に代表者を送っていない植民地側に対し、本国議会は課税する権利は無いとしたものです。
しかし、このような植民地の抵抗に対し、1767年、本国は新たに茶、ガラス、ペンキなどに輸入関税を課す
タウンゼント諸法を制定します。
これに対し、植民地の不買運動が始まったため、タウンゼント諸法は茶法を残し撤廃されました。しかし、それでも反対派が多かったマサチューセッツ植民地である事件が起こります。
1773年、茶法に反対した急進派の市民が、ボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲い、積荷の茶葉を海に投棄するという事件でした。これを
ボストン茶会事件と言います。
(ボストン茶会事件)
この事件の後、本国は植民地弾圧を徹底的に行うようになり、本国と植民地の対立は深まっていきます。