楚とは
楚(楚国)は、紀元前223年まで存在した古代中国の国家です。楚は周王朝の時代に成立し、春秋戦国時代を通じて重要な役割を果たしました。楚の最初の支配者は、紀元前8世紀初頭の楚の武王でした。楚は周の中心地の南に位置し、春秋時代にはその勢力を拡大しました。戦国時代の終わりには、紀元前223年に秦によって滅ぼされました。
楚は、荊(けい)や荊楚(けいそ)とも呼ばれ、現在の湖北省と湖南省の大部分、および重慶、貴州、河南、安徽、江西、江蘇、浙江、上海の一部を含んでいました。楚の首都は、最初は河南省西川県付近の丹陽にありましたが、その後、郢に移されました。
楚の支配者は、黄帝とその孫である顓頊(せんぎょく)の子孫であると伝えられています。顓頊の曾孫である呉回(ごかい)は、帝嚳(ていこく)によって火の神に任命され、祝融(しゅくゆう)の称号を与えられました。呉回の子である陸終(りくしゅう)は、帝嚳の命令で楚の封地を与えられ、楚の初代君主となりました。
楚は、周王朝の西周時代には、周の諸侯国の一つとして存在していましたが、春秋時代にはその勢力を拡大し、独自の王を称するようになりました。楚の王は、周の支配を形式的に認めつつも、実質的には独立した国家として振る舞いました。
楚の文化は、他の中国の諸侯国とは異なる独自の特徴を持っていました。楚の人々は、独自の宗教儀式や祭りを行い、独自の言語や文字を使用していました。楚の文化は、周辺の諸侯国や後の中国の文化に大きな影響を与えました。
楚の歴史は、戦争と征服の連続でした。楚は、周辺の小国を次々と征服し、その領土を拡大しました。楚の勢力は、紀元前7世紀には一時的に北方の小国連合によって阻止されましたが、その後も勢力を拡大し続けました。
戦国時代には、楚は他の六大国とともに中国全土を支配しようとする熾烈な争いを繰り広げました。楚は、紀元前223年に秦によって滅ぼされるまで、中国の主要な勢力の一つとして存在し続けました。
楚の滅亡後、秦は中国全土を統一し、秦王朝を樹立しました。しかし、秦王朝はわずか15年で崩壊し、楚の旧王族の一人が新たな皇帝として擁立されました。しかし、この新しい楚の政府も数ヶ月しか続かず、劉邦によって打倒され、漢王朝が成立しました。