前漢・後漢で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
漢王朝とは
・秦の滅亡後、
垓下の戦いで
項羽に勝利した
劉邦は、 自ら
高祖(在位紀元前202〜紀元前195)となり、
漢を建国した。漢は間に
新という王朝をはさみ、
前漢と
後漢にわかれる。漢王朝は紀元前
202年から紀元後
220年まで続き、約
400年間安定した統一王朝となった。
前漢(紀元前202〜紀元後8)
・漢の初代皇帝となった高祖は、都を
長安に定め、帝国の基礎を築いていった。高祖は長安周辺の直轄地には
郡県制を、地方には功臣を諸侯に封じた
封建制を併用した。これを
郡国制という。また郷里組織として
郷・亭・里をつくった。
・前漢第
6代皇帝の
景帝(在位紀元前157〜紀元前141)の時代になると、皇帝の力を強め、諸侯を抑圧するため、各地の諸侯の領土が削減された。こうした状況を受けて、紀元前
154年、呉と楚の諸侯を中心とした7カ国が、
呉楚七国の乱を起こした。この乱は漢により短期間で平定され、
郡国制は事実上
郡県制に移行していき、次の
武帝の時代に中央集権体制が確立した。
・高祖の
曾孫にあたる前漢第
7代皇帝の
武帝(在位紀元前141〜紀元前87年)の時代に入ると、儒家の
董仲舒が重用され、
儒教が国家正統の官学となった。また、
匈奴遠征、
張騫の
大月氏派遣、
西域・南越・朝鮮の経営、
塩・鉄・酒の専売、
均輸・平準法、売位・売官・贖罪、五銖銭の鋳造などを実施した。
・漢と長年対立していたのが、騎馬民族の
匈奴である。紀元前
3世紀に
冒頓単于(ぼくとつぜんう)が部族を統合し、内モンゴルを支配した。
高祖が匈奴に
敗北した後、親和政策が取られていたが、
武帝は
衛青と
霍去病という武将に匈奴遠征を命じ、匈奴への攻撃を再開した。また、匈奴を挟撃するために紀元前
139年に
張騫を
ソグディアナ・バクトリア地方の
大月氏に派遣した。
・
大月氏との同盟には失敗したものの、
張騫の派遣により西域の事情が明らかとなり、以後、
烏孫との同盟や
汗血馬の産地
大宛国(フェルガナ)との交流が始まった。武帝は
李広利を
大宛国に派遣し
汗血馬を獲得し、紀元前
121年には
敦煌郡が設置され、西域進出が始まった。
・紀元前
111年には、ベトナムの
南越を滅ぼし、
南海郡や
交趾郡など
南海9郡が設置され、南越経営が始まった。
・紀元前
108年には、
衛氏朝鮮を滅ぼし、
楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の
朝鮮4郡が設置され、朝鮮経営が始まった。
・官吏任用制度としては、武帝が
郷挙里選を制定した。
・紀元前7年には、地方の豪族勢力をそぐため、
哀帝が土地制限令である
限田策を発布したが、反対にあい実施されなかった。
・前漢末期になると、皇后の親族の
外戚が力をもつようになった。紀元後
8年に外戚の
王莽により前漢が倒され、
新という王朝が建てられた。新は外征の失敗や重税を取り立てるなど中国社会を混乱させ、
赤眉の乱(18〜27)によって短期間で滅んだ。
後漢(25〜220)
・
赤眉の乱で
新が崩壊すると、漢王室の一員だった
劉秀が反乱をおさめ、自ら
光武帝となり、
後漢を建国した。
光武帝は都を
洛陽に移し、前漢を滅亡に追い込んだ
外戚を退け、
儒教を元にした政策を行った。洛陽はその後も、
魏・西晋・北魏の都となった。
・後漢時代、ベトナムで
徴姉妹の反乱がおこったものの、光武帝が
倭国(日本)に
漢委奴国王の金印を授けるなど、周辺諸国の
朝貢をベースとする
冊封体制という国際体制が成立していった。
・後漢第
2代の
明帝(在位57〜75)の時代には、インドから
仏教が伝来し、
匈奴征討や
西域経営が活発となった。
・西域経営を担ったのが後漢の武将
班超で、
91年に
和帝により
西域都護に命ぜられ、以後西域を後漢の影響下に置いた。また、その部下
甘英は、97年に
大秦国(ローマ帝国)に派遣され、その途上
安息(パルティア)や
条支国(シリア)に至った。この様子は『
後漢書』に書かれ、ローマ帝国五賢帝の一人
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161〜180)が
大秦王安敦という名で出てくる。
・後漢は
2世紀以降幼少の皇帝が相次いで即位し、
外戚や
宦官が政治の実権を握るようになった。こうした状況の中、
儒家を中心とした知識人である
党人が宦官に対抗しようとした結果、逆に公職追放にあった
党錮の禁という事件が起こった。これ以降、宦官の専横は強まり、中央の政治は混乱し、加えて度重なる飢饉がおこり、農民の反乱が相次いだ。
・中国社会が混乱する中、救いを求める人々を信徒にし、
張角が創始した
太平道や、
張陵が創始した
五斗米道など各地に宗教結社が次々と成立していった。この2つの結社は、のちに
道教の源流となる。
・
張角率いる
太平道は、紀元前
184年に
黄巾の乱を起こした。
黄巾の乱は大反乱となり、混乱に乗じて各地に有力者がでて、後漢は衰退し、
220年、
魏によって滅ぼされ、三国時代が始まった。
漢代の文化
・漢代、
黄老思想と
儒学が国を支える重要な思想となった。儒学は前漢の儒家
董仲舒の建議で
武帝が正式に正当教義とした。
・武帝は儒学の経典の
五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)の研究と普及を進める機関として
五経博士を設置した。五経は
経書ともいわれる。
・次第に『
経書』の字句解釈を目的として、
後漢の
馬融・鄭玄が中心となり
訓詁学が成立した。
・歴史家としては、
前漢の
司馬遷が
黄帝から
武帝までを記した『
史記』を、
後漢の
班固(班超の兄)が
高祖から
王莽滅亡までを記した『
漢書』を著した。『
漢書』地理志に初めて倭の名前が出てくる。『
史記』にはじまり、『
漢書』で完成された歴史記述の形式を、
紀伝体という。また、その後
南朝宋の
范曄が『
後漢書』を編纂し、倭の奴国が光武帝から金印を授かったことが描かれている。
・自然学者として、天球儀や地震計を発明した
張衡がいる。
・この時代の文字は
篆書に始まり、
隷書・草書・楷書・行書などに発展していき、
後漢の
許慎が『
説文解字』という文書を編纂した。
・文字を記すために、
木簡や竹簡、帛(絹布)などが使用されたが、
蔡倫が製紙法を発明し、
105年に
和帝に献上し、紙が文字を記す素材となった。製紙技術は、その後
751年に
タラス河畔の戦いをきっかけとしてイスラム世界、ヨーロッパ世界に伝わった。