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18_80 西アジア・地中海世界の形成 / 古代オリエント世界

下エジプトとは 世界史用語144

著者名: ピアソラ
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下エジプトとは

下エジプトとは、ナイル川のデルタ地帯を中心とした地域のことで、北は地中海、南は現代のカイロの南部までを含んでいました。古代エジプト語では「北」を意味するmḥwと呼ばれていました。後にギリシャ語やローマ語では「下エジプト」を意味するΚάτω ΑἴγυπτοςやAegyptus Inferiorと呼ばれましたが、コプト語では「北」に関連する古い名前であるTsakhet(コプト語: ⲧⲥⲁϧⲏⲧ)やPsanemhit(コプト語: ⲡⲥⲁⲛⲉⲙϩⲓⲧ)が使われ続けました。

下エジプトは、上エジプトとともにエジプトの二大地域を構成しており、それぞれの地域はノモスと呼ばれる行政区画に分けられていました。下エジプトには最大で20のノモスがありましたが、環境の変化によってその数は時代によって異なっていました。下エジプトの首都はメンフィスで、その守護女神はコブラの姿をしたワジェトでした。下エジプトは赤い王冠で象徴され、上エジプトは白い王冠で象徴されていました。両地域の統一者であるファラオは、両地域の王冠を合わせた二重王冠を被り、両地域の主として称されました。

下エジプトは、ナイル川が複数の支流に分かれてデルタを形成する肥沃な地域でした。この地域は水路や運河で縦横に切り裂かれており、農業や漁業に適していました。地中海に近いことから、下エジプトの気候は上エジプトよりも温和で、気温は高くなりすぎず、降水量も多かったと考えられています。下エジプトは、外国との交流や貿易の拠点としても重要な役割を果たしました。下エジプトの主要な港町には、ラシード(ロゼッタ)、ダミエッタ、アレクサンドリアなどがありました。

下エジプトは、紀元前3000年頃に上エジプトと統一されたとされるメネス王(ナルメル王と同一視されることが多い)の時代から、古代エジプトの歴史において重要な地域でした。下エジプトのノモスは、古王国時代から新王国時代にかけて、エジプトの政治や宗教に大きな影響力を持つ地方勢力として台頭しました。特に第6ノモスのサイスは、第24王朝と第26王朝の王朝の発祥地となり、下エジプトの覇権を握りました。下エジプトは、外国の侵略にも直面しました。紀元前664年には、アッシリアのアッシュールバニパル王が下エジプトを征服し、テーベを破壊しました。紀元前525年には、ペルシアのカンビュセス2世が下エジプトを征服し、エジプトをアケメネス朝の属州としました。紀元前332年には、アレクサンドロス大王が下エジプトを征服し、アレクサンドリアを建設しました。その後、プトレマイオス朝が下エジプトを支配し、ローマ帝国の支配下に入りました。

下エジプトは、古代エジプトの文化や文明に多大な貢献をした地域でした。下エジプトのデルタ地帯は、エジプトの神話や伝説の舞台となった場所も多くありました。例えば、オシリス神の殺害と復活の物語では、オシリス神の体の一部が下エジプトの各ノモスに散らばり、それぞれのノモスの守護神となったとされています。また、ホルス神とセト神の争いの物語では、下エジプトのラシードでホルス神がセト神に勝利したとされています。下エジプトは、エジプトの芸術や科学にも多くの発展をもたらしました。下エジプトのアレクサンドリアは、古代世界の知の中心地として有名で、アレクサンドリア図書館やアレクサンドリア灯台などの偉大な建造物がありました。下エジプトの人々は、ナイル川の水位や洪水を観測するためにニロメーターと呼ばれる装置を発明しました。下エジプトの人々は、パピルスと呼ばれる紙の原料を作る技術を発明し、文字や絵を書くために用いました。
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・下エジプトとは 世界史用語144

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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