宗教改革運動
このように、ドイツ国内で様々な支持層を獲得したルター派ですが、その後どのような運動が起こったのでしょうか。
まず、1522年に騎士戦争が起こります。これは当時没落していった下級騎士たちが、ジッキンゲンやフッテンという指導者の元で起こした反乱です。
しかし、この反乱は下級騎士が宗教改革の混乱に乗じて教会や諸侯の領土を簒奪するという目的があったのでその他の支持が得られず、失敗に終わりました。
続いて1524年から、ドイツ各地の農民が諸侯や教会に対して反乱を起こします。これをドイツ農民戦争といいます。指導者は宣教師
トマス=ミュンツァーです。
農民たちは
シュヴァーベン農民十二ヵ条に自分たちの要求をまとめました。内容は
賦役の軽減、十分の一税の廃止、聖職者を選ぶ権利などでした。
当初ルターはこの反乱を支持していましたが、農民たちが破壊活動をおこすようになると支持を取り消し、一転して諸侯たちに武力弾圧を行うよう要請しました。
結果として反乱は鎮圧されましたが、農民層の中には反旗を翻したルター派を離れるものも多かったと言われています。
このように宗教改革はルターの純粋な思惑とは別に、政治的な運動となっていきました。
プロテスタントの誕生
政治的運動が続いたドイツの宗教改革ですが、ルター派は徐々に拡大していきました。
ルター派の拡大に危機感を覚えたカール5世は、1529年に
シュパイエル帝国議会でルター派を禁止します。
この決定にルター派諸侯たちが抗議(protest)したため、ルター派は
プロテスタント(抗議者)と言われるようになりました。(後にカトリック以外の宗派をすべてプロテスタントと呼ぶようになります。)
その後宗派の禁止決定にもかかわらず、ルター派は拡大を続けます。また、プロテスタントたちがシュマルカルデン同盟という軍事同盟で反皇帝派として結束します。その後シュマルカルデン戦争が起こりますが、同盟内部の分裂で皇帝側が勝利します。
しかし、カール5世は窮地に立たされます。というのも、ドイツそのものがフランスのフランソワ1世や、ローマ教皇、オスマントルコの外圧にさらされるんです。
その結果、1555年に
アウグスブルクの宗教和議が結ばれ、諸侯にルター派かカトリック派かの選択をする権利が与えられました。つまり、ルター派の信仰の自由が認められたのです。
(アウグスブルクの宗教和議)
おわりに
以上が宗教改革の序章、ドイツの出来事でした。このあと宗教改革はヨーロッパ各地に広がり、近代ヨーロッパの礎を築いていくことになります。