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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

『新約聖書』のドイツ語訳とは わかりやすい世界史用語2562

著者名: ピアソラ
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新約聖書のドイツ語訳とは

マルティン=ルターが歴史の舞台に登場する以前、中世後期ヨーロッパの精神世界は、カトリック教会の厳格な管理下にありました。その権威の根幹をなしていたのが、聖書の言葉に対する独占的な支配です。当時の教会が唯一公認していた聖書は、4世紀末にヒエロニムスがヘブライ語とギリシャ語からラテン語に翻訳した「ウルガタ」でした。ウルガタは千年以上にわたり、西ヨーロッパにおける神の言葉の唯一の公式な形であり、その権威は絶対的なものと見なされていました。しかし、このラテン語という言語は、もはや一般民衆の日常語ではありませんでした。古代ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパ各地ではロマンス語、ゲルマン語、スラブ語など、多様な民衆語が発展し、ラテン語は聖職者、学者、貴族といったごく一部のエリート層だけが解する、古典言語となっていたのです。



この言語的な断絶は、聖職者階級と一般信徒との間に、乗り越えがたい知識と権威の格差を生み出しました。ミサはすべてラテン語で執り行われ、信徒たちはその意味をほとんど理解できないまま、荘厳な儀式に参加するしかありませんでした。聖書の朗読も同様で、神の言葉は司祭の口を通して語られるものの、その内容は信徒の心に直接届くことはありませんでした。信仰の核心であるはずの聖書の教えは、教会の公式な教義や、聖人伝、奇跡物語といった二次的なフィルターを通して、断片的に伝えられるに過ぎなかったのです。聖書の解釈権は完全に聖職者階級に掌握されており、彼らは自らの権威を維持するために、この知の独占を積極的に利用しました。信徒にとって、聖書は祭壇の上に飾られた、触れることのできない聖なる「モノ」であり、その中身を自ら探求することは許されていませんでした。
もちろん、聖書を民衆の言葉で読みたいという欲求が全くなかったわけではありません。中世を通じて、聖書を民衆語に翻訳しようとする試みは散発的に存在しました。しかし、教会はこうした動きを極めて危険なものと見なしていました。その最大の理由は、聖書の言葉が信徒自身の手に渡ることによって、教会の公式見解から外れた「誤った」解釈、すなわち異端思想が生まれることを恐れたからです。聖書の言葉は多義的であり、専門的な訓練を受けていない者が読めば、容易に教会の教えに反する結論に至る可能性があると考えられていました。12世紀の南フランスでヴァルド派を率いたピエール=ヴァルドは、聖書をプロヴァンス語に翻訳させ、清貧の教えを説きましたが、教会から異端として破門されました。14世紀のイギリスでは、オックスフォード大学の神学者ジョン=ウィクリフが、聖書の権威が教皇の権威に優先すると主張し、弟子たちと共に聖書全体の英語訳を完成させました。彼の思想はロラード派と呼ばれる運動に受け継がれましたが、教会と国家による厳しい弾圧を受け、ウィクリフ自身も死後に異端として断罪され、その遺骨は掘り起こされて焼かれました。15世紀初頭のボヘミアでは、プラハ大学の学長であったヤン=フスがウィクリフの影響を受け、チェコ語訳聖書の普及に努めましたが、コンスタンツ公会議で異端とされ、火刑に処せられました。
これらの先例は、聖書の民衆語訳がいかに危険で、命がけの行為であったかを物語っています。教会は、聖なる言葉の管理権を手放すことを断固として拒否し、翻訳行為そのものを異端と結びつけて厳しく弾圧したのです。しかし、こうした教会の強硬な姿勢とは裏腹に、社会の底流では大きな変化が進行していました。14世紀からイタリアで始まったルネサンスは、古典古代の文芸復興を通じて、神中心の中世的な世界観から、人間中心の新しい価値観への移行を促しました。特にアルプス以北で展開した北方ルネサンスは、キリスト教人文主義と呼ばれる潮流を生み出し、エラスムスに代表される学者たちは、「福音書に帰れ」を合言葉に、教会の腐敗を批判し、聖書の原典研究の重要性を説きました。彼らは、中世のスコラ神学的な解釈ではなく、原典そのものに立ち返ることで、より純粋なキリスト教の姿を再発見しようとしたのです。
この知的な潮流と時を同じくして、15世紀半ばにヨハネス=グーテンベルクが発明した活版印刷技術は、情報伝達のあり方を根底から覆す革命を引き起こしました。それまで、書物は高価な羊皮紙に手で書き写すしかなく、その製作には膨大な時間と費用を要するため、ごく一部の富裕層や修道院しか所有できませんでした。しかし、活版印刷は、比較的安価な紙を使い、同じ書物を短時間で大量に複製することを可能にしました。この技術革新は、知識の爆発的な普及を促し、人々の知的好奇心を大いに刺激しました。印刷された書物を手にした人々は、新しい思想や情報に触れ、自らの頭で考える習慣を身につけ始めました。この「読む文化」の広がりは、聖書に対しても、もはや教会が一方的に与える教えを鵜呑みにするのではなく、その根拠となる神の言葉そのものを自らの目で確かめたいという、抑えがたい渇望を一般信徒の間に育んでいきました。ラテン語の壁の向こう側にある聖なる言葉への憧れと、それを知りたいという民衆の知的渇望は、宗教改革前夜のヨーロッパ社会において、静かに、しかし確実にマグマのように蓄積されていたのです。ルターのドイツ語訳聖書は、まさにこのマグマが噴出するための、決定的な火口となる運命にありました。
ヴァルトブルク城の奇跡

1521年春、マルティン=ルターの運命は風前の灯火でした。神聖ローマ皇帝カール5世の前で行われたヴォルムス帝国議会において、彼は自説の撤回を断固として拒否し、「我、ここに立つ。他になし能わず。神よ、我を助けたまえ」という有名な言葉を残しました。この勇敢な態度は、彼の支持者たちを熱狂させましたが、同時に皇帝と教会の怒りを買い、帝国追放令(ヴォルムス勅令)が発布されることが確実な情勢となりました。この勅令は、ルターを法益の保護外に置くものであり、誰もが彼を殺害しても罪に問われないことを意味していました。ヴォルムスからヴィッテンベルクへの帰路、ルターの身に危険が迫ることは明らかでした。
この絶体絶命の窮地からルターを救い出したのが、彼の領主であるザクセン選帝侯フリードリヒ(賢公)でした。フリードリヒは、ルターの神学を全面的に支持していたわけではありませんでしたが、自らが創設したヴィッテンベルク大学の教授であり、自領の臣民であるルターが、公正な手続きを経ずに断罪されることを許すことはできませんでした。彼は、ルターの身の安全を確保するため、極秘裏に大胆な計画を実行します。1521年5月4日、テューリンゲンの森を馬車で進んでいたルターの一行は、武装した騎士の一団に襲撃されました。これは、フリードリヒの命令を受けた兵士たちによる偽装誘拐でした。ルターは仲間たちから引き離され、森の奥深くへと連れ去られました。彼の支持者たちはルターが殺されたと信じ、悲しみに暮れましたが、実際には彼は安全な場所へと移送されていたのです。その場所こそ、アイゼナハの町を見下ろす山上に聳え立つ、ヴァルトブルク城でした。
この中世の堅牢な城塞で、ルターの約10か月にわたる潜伏生活が始まります。彼は修道士の服を脱ぎ、髪と髭を伸ばして「ユンカー=イェルク」という騎士に変装しました。世間からはその姿を完全に消したルターでしたが、この強制された孤独と静寂の期間は、彼にとって精神的な苦闘の時であると同時に、驚くべき創造性の爆発をもたらす、実り豊かな時間となりました。彼は、悪魔の誘惑や深刻な鬱状態(彼が「アンフェヒトング」と呼んだ霊的試練)に苦しめられながらも、膨大な量の書簡を書き、神学的な著作を執筆し続けました。そして、このヴァルトブルクでの隠遁生活が生み出した最も偉大で、後世に決定的な影響を与えることになる成果が、新約聖書のドイツ語への翻訳でした。
ルターがこの前人未到の事業に着手した背景には、彼の神学思想の核心がありました。彼は、人間は善行や儀式によってではなく、「信仰のみによって」義とされる(義認される)と確信していました。そして、その信仰を育む唯一の源泉は、神の言葉である聖書そのものに他なりません。であるならば、すべての信徒が、聖職者の仲介なしに、自らの言葉で聖書を読み、神の言葉と直接対話できる環境を整えることが、真のキリスト教信仰を回復するための不可欠の前提となります。この信念が、ルターを聖書翻訳という困難な使命へと駆り立てたのです。
彼の翻訳作業が、それ以前の試みと一線を画す画期的なものであった理由は、何よりもまず、その底本(テキスト)の選択にありました。ルターは、カトリック教会が千年以上にわたって権威の拠り所としてきたラテン語ウルガタ聖書を翻訳の底本とすることを拒否しました。ウルガタは、長年の写本作成の過程で多くの誤りや不明瞭な箇所が蓄積しており、もはや信頼できるテキストではないと彼は考えたのです。その代わりにルターが手にしたのは、当代随一の人文主義者デジデリウス=エラスムスが1516年に出版した、ギリシャ語とラテン語対訳の『校訂新約聖書』でした。エラスムスは、ヨーロッパ各地の図書館に眠っていた複数のギリシャ語写本を比較検討し、本文批評の手法を用いて、よりオリジナルのテキストに近いと判断されるギリシャ語本文を再構築しました。これは、聖書研究の歴史における一大金字塔であり、ルターは「福音書に帰れ」という人文主義の精神に則り、この最新の学問的成果を自らの翻訳の基礎としたのです。これにより、彼はウルガタというラテン語のフィルターを介さずに、より直接的に新約聖書の原典の言葉に触れることが可能になりました。
深い学識と、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語を自在に操る卓越した語学力、そして何よりも神の言葉を民衆に届けたいという燃えるような使命感に支えられ、ルターは驚異的な集中力で翻訳作業に没頭しました。彼は、1521年12月から翻訳を開始し、わずか11週間後の1522年2月末には、新約聖書全27巻の翻訳草稿を完成させました。この驚異的なスピードは、彼が単に言葉を機械的に置き換えていたのではなく、聖書のメッセージが彼の魂のうちに完全に血肉化しており、それがドイツ語という新しい器へと溢れ出るかのように翻訳が進められたことを物語っています。ヴァルトブルク城の孤独な一室で行われたこの作業は、まさに歴史を動かす「奇跡」であり、一人の人間の不屈の精神が、ヨーロッパの精神史の新たな扉をこじ開けた瞬間でした。
「九月聖書」の衝撃

1522年3月、ルターはヴィッテンベルクで起こっていた急進的な改革運動を収拾するため、危険を顧みずヴァルトブルク城を出て、公の活動を再開しました。彼はすぐさま、城で完成させた新約聖書の翻訳原稿の推敲に取り掛かります。この時、彼は一人で作業を進めるのではなく、フィリップ=メランヒトンをはじめとするヴィッテンベルク大学の同僚たちの協力を仰ぎました。メランヒトンはルターに勝るとも劣らないギリシャ語の碩学であり、彼の助言は翻訳の正確性を高める上で大きな助けとなりました。ルターは、神学的な正確さだけでなく、ドイツ語としての自然さや響きの美しさにも細心の注意を払いました。
推敲を終えた原稿は、ヴィッテンベルクの印刷業者メルヒオール=ロッテルの工房へと持ち込まれ、活版印刷による出版準備が急ピッチで進められました。そして1522年9月21日、ついにその成果がドイツ語新約聖書として世に送り出されました。後に「九月聖書」として知られることになるこの書物は、ドイツ、そしてヨーロッパの歴史に巨大な衝撃を与えることになります。
その衝撃の第一の要因は、活版印刷という当時の最先端メディアと結びついたことによる、前例のない普及のスピードと規模でした。初版は3,000部から5,000部印刷されたと推定されています。これは、手書き写本の時代には考えられないほどの部数でした。価格は1.5グルデンで、これは当時の熟練工の数週間分の給料に相当する高価なものでしたが、聖書の言葉を自らの言葉で読みたいという人々の渇望はそれほどまでに強く、初版はわずか数週間で完売したと言われています。その後も版を重ね、海賊版も横行し、ルターの存命中に、彼の新約聖書だけで少なくとも10万部以上が印刷されたと推計されています。この数字は、ルターの思想が、単なる神学論争に留まらず、社会現象として爆発的に広がっていったことを示しています。グーテンベルクの印刷革命がなければ、宗教改革はヴィッテンベルクの一地方的な運動で終わっていたかもしれません。ルターの言葉は、印刷機という翼を得て、ドイツ語圏の隅々にまで飛翔し、人々の心に直接語りかけたのです。
第二に、この「九月聖書」の登場は、カトリック教会の権威構造そのものを根底から揺るがすものでした。千年にわたり、教会は聖書の解釈権を独占することで、信徒に対する絶対的な精神的支配を維持してきました。神の言葉は、ラテン語を解する聖職者という特権的な仲介者を通してのみ、信徒に与えられるものでした。しかし、ルターのドイツ語訳聖書は、この仲介者を不要にしました。農民も、職人も、商人やその妻たちも、文字さえ読めれば、誰でも直接、神の言葉に触れることができるようになったのです。これは、信仰の世界における真の革命でした。ルターが提唱した「万人祭司」の理念、すなわち、すべてのキリスト者は洗礼によって祭司に叙階されており、神の前に立つために特別な聖職者を必要としないという思想が、具体的な形となって人々の手に渡された瞬間でした。信徒はもはや、教会の教えを盲目的に受け入れるだけの存在ではなく、聖書という絶対的な基準に照らして、教会の教えや慣行が正しいかどうかを自ら判断する主体となったのです。贖宥状(免罪符)の販売、聖人崇拝、煉獄の教えといった、ルターが聖書に根拠がないと批判したカトリックの教義は、民衆が自ら聖書を読むことで、その正当性を急速に失っていきました。聖書の言葉は、教会の権威を打ち破るための、最も強力な武器となったのです。
第三に、ルターの聖書は、人々の信仰のあり方を深く内面的なものへと変容させました。中世の信仰生活は、ミサへの参加、巡礼、聖遺物崇拝といった、共同体的で外面的な儀式が中心でした。しかし、家庭の食卓や個人の書斎で、家族や自分自身が聖書を読むという新しい習慣は、信仰を個人の内面における神との静かな対話へと変えていきました。人々は、聖書の物語やイエスの言葉に直接触れることで、個人的な慰めや道徳的な指針を見出し、自らの良心と向き合うようになりました。この信仰の個人化と内面化のプロセスは、近代的な自我意識、すなわち、外部の権威から自立し、自らの内的な確信に基づいて行動する個人の誕生を促す上で、計り知れないほど重要な役割を果たしました。ルターの聖書を読んだ人々は、単に新しい教義を学んだだけでなく、世界と自分自身を見る新しい方法を発見したのです。「九月聖書」の登場は、まさにヨーロッパ精神史における分水嶺であり、中世的な共同体の時代から、近代的な個人の時代への扉を開いた画期的な出来事でした。
言葉の錬金術

マルティン=ルターの聖書翻訳が持つ歴史的意義は、宗教や社会の領域に留まりません。彼が成し遂げたもう一つの、そしておそらく最も永続的な功績は、ドイツ語という言語そのものを形作り、近代標準ドイツ語の事実上の創始者となったことです。彼の翻訳は、単にギリシャ語の聖書をドイツ語に置き換えるという作業ではなく、分裂していたドイツの言語状況の中から、一つの統一された書き言葉を鋳造する「言葉の錬明術」とも言うべき、創造的な営みでした。
16世紀初頭のドイツは、政治的に数百の領邦国家に分裂していただけでなく、言語的にも極めて多様な状況にありました。北ドイツで話される低地ドイツ語、南ドイツのバイエルン方言やアレマン方言、そしてその中間に位置する中部ドイツ語など、地域ごとに大きく異なる方言が話されており、しばしば相互の意思疎通さえ困難なほどでした。書き言葉においても、地域ごとに異なる慣習が存在し、帝国全体で通用するような統一された標準語は存在しませんでした。このような言語的な混沌の中から、ルターは、できるだけ多くのドイツ語話者に理解され、受け入れられるような、普遍性のある言語を意識的に創り出そうと試みたのです。
彼の言語戦略の基盤となったのは、彼自身が生まれ育ち、活動の拠点としていたザクセン選帝侯領で用いられていた公用語、すなわち東中部ドイツ語でした。この地域は、地理的にドイツ語圏の南北の中間に位置し、その言語も北と南の特徴を併せ持っていたため、比較的広い地域で理解されやすいという利点がありました。また、ザクセン選帝侯領の宰相府は、帝国内でも洗練された事務言語を発展させており、ルターはこの既存の書き言葉の伝統を巧みに活用しました。しかし、彼は単にザクセンの言葉をそのまま用いたわけではありません。彼は、北ドイツの力強い表現や、南ドイツの情緒豊かな語彙を積極的に取り入れ、様々な方言の要素を融合させることで、特定地域の色が強すぎない、より中立的で普遍的な言語を構築していったのです。
ルターの言語創造における最大の天才性は、彼が学者の書斎に閉じこもることなく、常に民衆の日常の言葉に耳を傾け続けた点にあります。彼は後に、自らの翻訳方法について、「家庭の母親、道で遊ぶ子供たち、市場の商人たちの口を見て、彼らがどのように話すかを聴き、それに従って翻訳しなければならない。そうすれば、彼らはそれが自分たちのために語られていると理解するだろう」と述べています。彼は、ラテン語の構文に引きずられた硬直的な直訳を徹底的に避け、ドイツ語として自然で、生き生きとしたリズムを持つ言葉を探し求めました。例えば、有名なマタイによる福音書の「山上の垂訓」の一節、「心の貧しい人々は、幸いである」という箇所で、彼はギリシャ語の「プネウマティ(霊において)」という副詞句を、単に「im Geist」と訳すのではなく、文脈全体からその意味を汲み取り、ドイツ語の聴衆の心に響く、より具体的で力強い表現を追求しました。
さらに、ルターは聖書の抽象的な神学概念や、ドイツ語に存在しなかった言葉を表現するために、多くの新しい単語や表現を創造しました。彼は既存のドイツ語の単語を組み合わせたり、比喩的な意味を転用したりすることで、ドイツ語の表現力を飛躍的に豊かにしました。また、彼は聖書のヘブライ語やギリシャ語の慣用句を、ドイツ人の感性に合った、土の匂いのする諺や言い回しに巧みに置き換えました。
このようにしてルターが生み出した言語は、明晰さ、力強さ、そして詩的な美しさを兼ね備えていました。彼の聖書が印刷技術によって爆発的に普及するにつれて、彼が用いた語彙、綴り、文法は、事実上の「標準ドイツ語」として、ドイツ語圏全体に広まっていきました。他の地域の作家や印刷業者も、自らの出版物をより広く流通させるために、ルターの言語スタイルを模倣するようになりました。こうして、政治的には分裂したままのドイツに、初めて言語という共通の絆が生まれたのです。ルターの聖書は、単に宗教的な書物であるだけでなく、近代ドイツ語の礎を築き、ドイツという文化共同体の形成を促した、言語史における不滅の記念碑となったのです。ゲーテが後にルターを「言語の巨人」と称賛したように、彼の言葉の力は、ドイツ人の思考様式や感性そのものを、後戻りできない形で深く形作ったと言えるでしょう。
教育と識字率の革命

マルティン=ルターのドイツ語訳聖書がもたらした影響は、信仰や言語の領域に留まらず、教育の歴史においても根本的な革命を引き起こしました。聖書の言葉をすべての信徒の手に解放したことは、必然的に、「読む」という能力そのものを、エリート層の特権から、一般民衆が獲得すべき基本的なスキルへと変容させる強力な動因となったのです。
ルターの神学の中心には、「聖書のみ」という原則がありました。すなわち、信仰に関するすべての事柄の唯一の権威は聖書であり、すべての信徒は聖書を通して神の言葉を直接聞くべきである、という考えです。この原則を実践するためには、信徒自身が聖書を読めなければなりません。ここから、ルターは教育の重要性を強く訴えるようになります。彼は、子供たちに読み書きを教えることは、単に世俗的な成功のためだけでなく、彼らの魂の救済に関わる、親と社会の重大な宗教的義務であると考えました。1524年に発表した『ドイツのすべての都市の市長と市参事会員に、キリスト教学校を設立し維持することを勧告する書』の中で、彼は、教会が財産を失い、修道院が衰退していく中で、教育の責任は世俗の権力者、すなわち都市の参事会や領邦君主が担うべきであると主張しました。これは、教育が教会の管轄から国家の管轄へと移行する、近代公教育システムの思想的源流となる画期的な提言でした。
ルターの呼びかけに応じ、プロテスタント信仰を受け入れた多くのドイツの都市や領邦では、次々と新しい学校が設立されました。これらの学校は、従来の教会付属の学校とは異なり、聖職者の養成だけでなく、将来、商人、職人、役人、そして家庭の主婦となるであろう一般の子供たちに、読み書き、算数、そして何よりも聖書に基づくキリスト教の教え(カテキズム)を教えることを目的としていました。特筆すべきは、ルターが女子教育の重要性を強調した点です。彼は、女性もまた家庭内で子供たちに信仰を教えるという重要な役割を担っており、そのためには彼女たち自身が聖書を読める必要があると考えました。この思想に基づき、多くのプロテスタント地域で、世界でも最初期の公的な女子学校が設立されました。
ルターの聖書翻訳と、それに伴う教育改革が、人々の識字率に与えた影響は絶大でした。歴史人口学的な研究によれば、16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパのプロテスタント地域(ドイツ、スカンジナビア、オランダ、スコットランドなど)の識字率は、カトリック地域(イタリア、スペイン、フランスなど)に比べて、一貫して著しく高い水準で推移したことが示されています。聖書を読むという宗教的な動機付けが、人々の学習意欲を強力に刺激したのです。家庭では、父親が子供たちにルターの聖書やカテキズムを読み聞かせ、読み方を教える光景が日常的なものとなりました。こうして、読み書きの能力は、世代から世代へと着実に受け継がれ、社会の隅々にまで浸透していきました。
しかし、この教育革命の意義は、単に識字率の向上という量的な側面に留まるものではありません。より重要なのは、それが人々の思考様式に与えた質的な変化です。自らの目で聖書を読み、その意味について考え、家族や友人と議論するという経験は、人々から、権威を無批判に受け入れるという中世的な精神的態度を剥ぎ取りました。彼らは、教皇や司祭の言葉でさえ、聖書の記述と矛盾するならば、それを疑い、批判する権利があることを学びました。聖書という絶対的なテクストを前にして、人々は自らの理性を働かせ、解釈し、判断するという、近代的な批判的精神を訓練したのです。この精神は、当初は宗教的な領域に向けられていましたが、やがてその射程を政治や社会の領域にまで広げていくことになります。君主の権力は本当に神から与えられたものなのか、社会の不平等は神の意志によるものなのか、といった問いが、聖書の言葉を武器として提起されるようになるのです。
このように、ルターの聖書翻訳は、単に宗教的な文書を民衆語に置き換えただけでなく、人々の知性を解放し、自律的な思考の主体へと変えるための、強力な触媒として機能しました。それは、近代市民社会の基礎となる、批判的で理性的な公衆の形成を促す、深遠な教育革命の出発点であったと言えるでしょう。後の啓蒙思想や科学革命がヨーロッパで花開くことができた背景には、宗教改革によってもたらされた、この「読む力」と「考える力」の広範な普及があったことを見逃すことはできません。
芸術と文化への深遠なる影響

ルターのドイツ語訳聖書は、ドイツの芸術と文化のあらゆる領域に、まるで肥沃な大地に降り注ぐ雨のように深く浸透し、その後の数世紀にわたる創造活動のための尽きることのないインスピレーションの源泉となりました。彼の言葉と、彼が民衆に解放した聖書の物語は、ドイツ文化のDNAそのものに組み込まれ、その精神性を表現するための基本的な語彙となったのです。
その影響が最も顕著に、そして最も崇高な形で現れたのが、音楽の分野でした。ルター自身、音楽を「神学に次ぐ神からの最高の賜物」と見なし、その力を高く評価していました。彼は、ラテン語の聖歌を歌う聖歌隊をただ傍観するだけだった会衆が、自らの言葉で、自らの声で神を賛美することの重要性を説きました。この理念に基づき、彼は聖書の詩篇や信仰告白的なテクストを、民衆が親しみやすいシンプルな旋律に乗せた、多くの賛美歌(コラール)を自ら作詞・作曲しました。その中でも、「神はわがやぐら」は、宗教改革の力強い戦闘歌として、プロテスタントのアイデンティティを象徴する曲となりました。これらのコラールは、ルターの聖書と同様に、印刷されて広く普及し、プロテスタント教会の礼拝の中心的な要素となりました。家庭でも歌われ、学校でも教えられ、人々の心に深く刻み込まれていきました。
このルター派コラールの伝統は、ドイツ音楽の発展における豊かな鉱脈となります。ハインリヒ=シュッツを経て、その流れは18世紀の巨匠、ヨハン=ゼバスティアン=バッハにおいて、西洋音楽史上の頂点の一つに達します。バッハの200曲に及ぶ教会カンタータ、そして「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」といった壮大なオラトリオは、そのほとんどがルター派コラールの旋律と、ルターの聖書の言葉をその根幹に据えています。バッハは、ルターの言葉の一つ一つに、精緻で表現力豊かな音楽的解釈を施し、聖書の物語が持つドラマと神学的な深みを、聴く者の魂を揺さぶる音響として現出させました。バッハの音楽は、しばしば「音による説教」と評されますが、その説教のテクストを提供したのが、まさにルターの聖書だったのです。ルターの言葉なくして、バッハの音楽は生まれ得なかったと言っても過言ではありません。
視覚芸術の分野においても、ルターの聖書は大きな変革をもたらしました。ルター自身は、一部の急進的な改革派とは異なり、教会からすべての画像を撤去する聖像破壊運動には批判的でした。彼は、画像そのものが問題なのではなく、それを偶像として崇拝することが問題なのだと考えました。むしろ彼は、教育的な目的のために、画像を積極的に活用することを奨励しました。この思想を最もよく体現したのが、ルターの親しい友人であった画家、ルーカス=クラナッハ(父)とその工房でした。クラナッハは、ルターの「九月聖書」をはじめとする多くの聖書出版物や宗教的なパンフレットに、数多くの木版画の挿絵を提供しました。これらの挿絵は、文字を読むことができない人々にとっても、聖書の物語を生き生きと伝える上で重要な役割を果たしました。クラナッハの描くモーセやキリスト、そして黙示録の劇的な場面は、聖書の言葉と一体となって、人々の心に強烈なイメージを刻み付けました。また、彼はカトリックの伝統的な図像とは異なる、福音主義的なメッセージを込めた新しい祭壇画の形式(例えば、ルターが説教壇でキリストを指し示し、会衆がそれを受け取る、といった構図)を創り出し、プロテスタントの視覚文化の基礎を築きました。
文学の世界におけるルターの影響は、さらに根源的です。彼が鋳造した力強く、詩的な響きを持つドイツ語は、その後のドイツ文学が依って立つ大地そのものとなりました。17世紀のバロック文学から、18世紀の啓蒙主義、そしてゲーテやシラーに代表されるヴァイマル古典主義、さらにはロマン主義に至るまで、ドイツの偉大な作家たちは皆、意識的か無意識的かにかかわらず、「ルターの言葉の子供たち」でした。彼らは、ルターの聖書を幼い頃から読み聞かされ、その格調高い文体、鮮やかな比喩、そして深遠な物語を血肉として育ちました。ゲーテの『ファウスト』における善と悪の葛藤、シラーの戯曲に見られる自由への渇望、そしてヘルダーリンの詩に響く預言者的な響き。これらの根底には、ルターの聖書がドイツ人の精神に刻み込んだ、原風景とも言うべき世界観と感受性が流れています。ルターの聖書は、単に一つの文学作品である以上に、ドイツ文学という森全体を育む、豊かな腐葉土の役割を果たしたのです。
ドイツ・ナショナリズムの源泉

マルティン=ルターのドイツ語訳聖書が歴史に与えた影響の中で、最も複雑で、光と影の両面を色濃く持つのが、ドイツの国民意識、すなわちドイツ・ナショナリズムの形成に果たした役割です。宗教改革以前、「ドイツ」という言葉は、神聖ローマ帝国の下に緩やかに結びついた、地理的・文化的な領域を指すに過ぎませんでした。そこには、数百もの独立した領邦国家、自由都市、騎士領がモザイク状に存在し、人々は自らをまず第一にバイエルン人、ザクセン人、あるいはケルン市民として認識しており、政治的に統一された「ドイツ国民」という意識は希薄でした。この分裂した地に、初めて言語と文化という共通の絆をもたらし、一つの精神的な共同体としての「ドイツ」という観念を育む上で、ルターの聖書は決定的な役割を果たしました。
その最大の要因は、前述の通り、ルターの聖書が事実上の標準ドイツ語を創出し、それが印刷技術によってドイツ語圏全体に普及したことです。数百年にわたり、政治的な統一を達成できなかったドイツの人々は、ルターの聖書を通じて、初めて地域や身分、方言の壁を越えて共有できる、一つの統一された言語を持つに至りました。ミサで、学校で、そして家庭で、人々は同じ言葉で聖書を読み、同じコラールを歌いました。この共通の言語体験は、人々の間に、それまで存在しなかった一体感と連帯感を生み出しました。「我々は同じ言葉を話し、同じ聖書を読む民である」という意識は、政治的な分裂を超えた、文化的な共同体としての「ドイツ」というアイデンティティの礎となったのです。歴史家の中には、ルターこそが「最初のドイツ人」であり、彼の聖書がドイツ国民の「出生証明書」であると評する者さえいます。
さらに、ルター自身の生涯と闘いが、ドイツ・ナショナリズムの物語における原型的な英雄譚として機能するようになります。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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