元寇が幕府に与えた影響
文永の役と
弘安の役の後、鎌倉幕府は衰退の一歩をたどることになります。
元寇後の御家人に対する
報奨が十分でなかったことと、3度目の元の襲来に備えて、
九州北部での警備に多くの人材が割かれたためです。
そもそも鎌倉幕府と御家人の関係は、
ご恩と奉公といって、戦で活躍したぶんだけ褒美がもらえるといったシステムでした。
国内での戦の場合、勝者が敗者の土地や財産を分配することで、部下に報酬を与えることができていました。しかしながら元寇は、元が襲来しそれを追い払っただけの戦にすぎません。そのために
幕府側が元から得た物はなく、御家人たちに十分な報酬を与えることができませんでした。(
竹崎季長のように、自らの活躍を絵に描いて報奨を訴える者もいたほどです。)
報酬が少ない中で、御家人たちは九州北部での警備の仕事に動員されてしまいます。ただでさえ生活が困窮している御家人たちは、借金に苦しむようになっていきます。幕府はこれに対して
徳政令(借金をなかったことにできる)を発し打開を図りますが、御家人の没落をとめることはできませんでした。
以上のような背景から、御家人たちは幕府に対して不満を募らせ反発を抱くようになり、幕府は衰退へと向かっていくことになったのです。
元寇の後、幕府が衰退に陥った理由
報酬が十分ではなかった
疲れきっているのに幕府から離れた九州に赴任させられた