正徳の政治
1709年(宝永6年)、5代将軍徳川綱吉が死去した後、甥で甲府藩主だった
徳川家宣(1662〜1712)が6代将軍となりました。徳川家宣は徳川綱吉の政治を支えた柳沢吉保を退け、代わりに側用人
間部詮房と儒学者
新井白石を重用しました。生類憐れみの令は廃止され、賄賂を禁止しました。しかし、服忌令は継続され、朝廷との関係性もより協調的になりました。朝廷では霊元天皇をおさえた
近衛基熙が太政大臣となり、子の
近衛家熙が関白となり朝廷政治を握っていました。近衛基熙の娘は徳川家宣の正室でもあったため、幕府と朝廷の協調の高まりから、それまでの宮家(世襲親王家)の
伏見・桂・有栖川以外に、
閑院宮家が創設されました。
幕府は、物価高騰の原因となった元禄小判を改鋳し、
乾字金を発行しました。これは金の含有率を慶長小判に戻したものでしたが、量は半分の目方しかなく、乾字金への交換は進まず、荻原重秀が勘定奉行にとどまって行った新貨幣鋳造は失敗しました。
1711年(正徳元年)、徳川家宣の将軍宣下を慶賀する
朝鮮通信使が来訪しました。その際、新井白石は日本の将軍を「日本国大君」と著した外交文書を「日本国王」へ改めさせ、使節の待遇を簡素化しました。これは幕府権威を高めるために行ったことでした。
徳川家宣が1712年(正徳2年)に死去すると、子の
徳川家継(1709〜16)がわずか3歳で将軍となりました。幕政は間部詮房と新井白石への依存度を増し、幼児将軍の権威付けのため1715年(正徳5年)徳川家継と皇女八十宮の婚約を発表しました。新井白石は、幕府財政を握っていた荻原重秀を罷免させ、1714年(正徳4年)に
正徳小判を発行しました。これは慶長小判と同じ金の含有率・量で、元禄小判や乾字金の発行により混乱した経済を回復させようとするものでした。
また、金・銀などの国外流出を減らすため、
長崎貿易の制限も行いました。新井白石は1715年(正徳5年)に
海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を出し、一年間の
清船を30隻・銀高6000貫匁、オランダ船を2隻・銀高3000貫匁に貿易額を制限しました。
新井白石の様々な新政策は、徳川家継が1716年(享保元年)に急逝したため、わずか8年あまりでおわりました。